1.月影を屠る朝の始まりを-1

 天頂に昇り詰めた月が、菖蒲の庭園を見下ろしていた。

 白く清涼な月影は、地表に降り立った瞬間に深い闇に呑まれる。草原を渡る南風が黒い波濤はとうを作り出し、ただ音だけが光の届かぬ波間を潮騒のようにざわめく……。

 そんな光景を、〈ムスカ〉は寝室として使っている、かつての王の居室から眺めていた。

 いつもよりも早くとこに就いたものの、眠ることができなかったのだ。だから、波音に誘われるように、明かりを消した部屋の中をのろのろと、疲労しきった体を窓辺まで引きずってきた。

 生ぬるい風が頬を撫で、髪を揺らす。錯覚だと分かりきっているのに、しおの匂いを感じる。

 この庭園の夜は、ミンウェイの墓のある、あの海辺の別荘の夜を彷彿させる。

 だからだろう。

 強い郷愁の念に駆られる。

 そう思い、〈ムスカ〉は自嘲した。

 この肉体は、あの海を知らない。この感情は、オリジナルの記憶が見せる幻だ。

『〈ムスカ〉』が還るところなど、どこにもない。

 彼は『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』のためだけに作られた、駒に過ぎないのだから……。

 ――それでも。

「ミンウェイ……」

 彼女のもとに還りたいと、切に願う。

 けれど、彼のミンウェイは、どこにいるというのだろう?

 彼の『ペア』として作られたのであろう、硝子ケースの『ミンウェイ』は、ただのれ物だ。彼女には魂がない。

 目覚める前の彼ならば、彼女の『ペア』にふさわしかった。しかし、ふたりは培養液の中と外という、別の世界に分かたれてしまった。ちょうど、オリジナルのヘイシャオとミンウェイが、幽明境ゆうめいさかいことにしたように。


『私が〈天使〉になれば、奥様の記憶を手に入れることができます』


 あの貴族シャトーアの小娘は、そう言った。

 それは可能であると。

 長年、〈悪魔〉として研鑽を積んできたオリジナルの記憶から、彼も認める。

 それは真実だと。

 けれど、二十歳にもならないミンウェイの記憶を手にしたところで、彼には何もできない。

 その記憶を、不惑を迎えた『ミンウェイ』の肉体に入れるのは可哀想だろう。かといって、記憶の年齢に見合った、新たな肉体を作ったところで、若い『彼女』が、老いた彼のそばに居るのは不幸だ。

 漆黒の夜を映す彼の瞳が、切なげに歪む。

「何より、ミンウェイ本人が望まなかったんだ……」

 不自然な『生』は嫌だと。

 彼には『死』を禁じたのに。


『ヘイシャオ、――生きて』

『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』


 彼女の声が耳に――記憶に、残っている。

 体は痩せこけ、腕は無残な点滴の跡でいっぱいになってしまったというのに、変わらぬつややかな美声。少女のころよりも大人びて、色香の漂うようになった響きが彼を叱咤した。

 その言葉に抗うことなど、誰ができようか……。

「……」

 黒い草原から目線を上げ、人工の光で淡く彩られた展望塔を見やる。

 先ほどまで、煌々と輝いていた最上階の展望室が、常夜灯に切り替わっていた。

 藤咲メイシアも、眠れぬ夜を過ごしているに違いない。けれど明日に備え、無理にでも明かりを落とした。そんなところだろう。

『続きは、明日』

 そう言ったのは彼のほうだ。

 なのに、この夜が明けたとき、あの小娘と何を話せばよいのか分からない。

 鷹刀セレイエに――『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』を企てた張本人に会えば、この先の道が見えてくるような気がしていた。

 けれど、セレイエは既に死んでいるという。

 メイシアの嘘の可能性もあるが、おそらく事実だろう。セレイエの〈影〉であったホンシュアが、死の間際にこぼした言葉を思い出したのだ。


『あなたは、信頼できる人間に……自分の娘を託しただけ。その気持ち……分かるわ』


 自分は死ぬ。だから、遺される子供を信頼できる相手に託す。

 その気持ちが分かると言ったからには、ホンシュア――セレイエもまた死んだのだ。

 だから、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は、異父弟ルイフォンと『最強の〈天使〉』となり得るメイシアを引き合わせるように仕組まれた。このふたりに『ライシェン』を委ねるために、天と地ほども違う運命を強引に巡り合わせた。

「……私には、理解できない。――何も」

 吐き出すような呟きを落とす。

 それに、〈ベラドンナ〉は『娘』などではない。

 彼女は――……。

 そこで、彼の思考が止まる。

 無意識に呼吸も止まり……、しばらくして胸が苦しくなり、思い出したように深い息を吐き出した。

「私にとって、〈ベラドンナ〉は……」

 そう言いかけて、彼はかぶりを振った。

「『ヘイシャオ』にとって、あの子は何者だったのだろうな……」

 月影が気まぐれに揺らめき、ほんの一瞬だけ、彼の顔に寂しげな微笑を描き出した。しかし、それも光の流れと共にすぐに地上へと吸い込まれ、黒い波間に解けていく。

 ……そして、彼は気づく。

 この部屋の扉の向こう側。緋毛氈ひもうせんの廊下に、何者かの気配があるのを。

 彼の眉が、ぴくりと上がる。

 偽薬と虚言の恐怖で支配されている私兵たちは、彼の寝室には近寄らない。だから、こんなところをうろつくのは、リュイセンか、タオロンのどちらかだ。

「リュイセンだな……」

 タイミングからして、反省房に入れられたリュイセンが脱走してきた、と考えるのが妥当だろう。

「私を殺しに来ましたか」

 彼の口調が変わる。鷹刀一族特有の美貌に、人を喰ったような冷笑を浮かべる。

 昼間、リュイセンが見せた殺意は本物だった。ならば、拘留などという生ぬるい処罰ではなく、殺しておくべきだったかと彼は軽く後悔する。

 エルファンにそっくりな彼の息子を、手に掛けるのは忍びないと思ったのだ。だから、反省房で頭を冷やし、〈ベラドンナ〉の『秘密』を握る彼には逆らうべきではないと、思いとどまってほしかった。

 反省房には、それなりの数の見張りをつけたが、それはあくまでも様式美というものだ。リュイセンがその気になれば、簡単に脱走できることなど分かりきっていた。

 彼の眉間に、深い皺が寄る。

 実のところ、彼はリュイセンをもてあましていた。メイシアをさらわせるまでは重要な駒であったが、それ以降は危険の芽でしかない。まっすぐな気性のリュイセンが、いずれ牙をむくことは、火を見るよりも明らかだった。

 さて、どうするか。

 廊下の気配は息を潜めたまま、じっと動かない。このまま、ひと晩、待機するつもりなのだろう。そして朝になって、部屋から出てきた彼に襲いかかるはらか。

 私兵では役に立たない。リュイセンを抑え込めるのはタオロンしかいないだろう。夜中ではあるが、携帯端末でタオロンを呼び出すか――。

 彼は窓を離れ、テーブルの上の端末に手を伸ばし、……途中で、その手を止めた。

 リュイセンとタオロンの技倆は拮抗している。どちらが勝ちを収めるかは予測できない。そんな不確実な手段を取るのは彼らしくない。

 それに――。

「リュイセンに手を下すのは、私であるべきでしょう……?」

 彼は再び窓辺へと足を運び、半分ほど開けていた外開きの硝子戸を、いっぱいまで押しやった。夜風が勢いよく部屋に流れ込み、外気をはらんだカーテンが大きくなびく。

 それから戸棚に向かい、緻密な透かし彫りが美しい、白磁の香炉を取り出した。かつての王が安眠の香を焚くために使ったものである。

 香炉を部屋の扉の手前の床に置くと、彼はまた別の戸棚から小瓶を出してきた。その中身を香炉に入れ、火を落とす。

 じんわりとした赤い熱が灯り、やがて薄い煙が昇り始めた。

 それを確認すると、彼はまるで黙祷を捧げるかのように目を伏せてから窓際に移動した。



 そして、扉を挟んだ向こう側では――。



 緋毛氈ひもうせんの廊下には、ふたつの人影があった。

 言わずもがな、〈ムスカ〉を捕らえるべく、展望塔から館へと舞い戻ってきた、リュイセンとタオロンである。

 ここに来る途中で、タオロンはリュイセンが草むらに隠しておいた大刀を手に入れた。だから、ふたりとも完全武装。リュイセンの背中の怪我は気になるものの、これ以上はないといった気迫に満ちている。勿論、これから〈ムスカ〉の寝込みを急襲するのであるから、気配は消してある。

 リュイセンは、双刀を宿したような鋭い双眸で、豪奢な扉を見つめた。

 ひと目でそれと分かる、翼を広げた天空神フェイレンの意匠。北側の廊下であるので月明かりは届かないが、ほの明るい足元灯に照らされ、繊細な彫刻の陰影がくっきりと浮かび上がっている。

 扉の鍵は、すでにルイフォンによって開けられていた。この階に上がる前に、連絡を入れたのだ。

 いよいよ、突入――!

 部屋の間取りは頭に叩き込んである。ベッドまで、何歩でたどり着くかも分かっている。

 しかし。

「!」

 リュイセンは目を見開いた。

 その様子に、タオロンが不審げに眉を寄せる。それから遅れて気づいたのだろう。彼はごくりと唾を呑んだ。

 ふたりは目配せをし合い、渋面を作る。

 ――〈ムスカ〉が起きている。

 既に夜半過ぎであるので、そろそろよいだろうと思ったのだが、〈ムスカ〉にとっても今宵は眠れぬ夜であったらしい。

 出直すべきだろうか?

 だが、決着は今夜のうちにつけるべきだ。そして、負傷しているリュイセンの体力にも限界がある。

 不測の事態のときは、現場のリュイセンに任せるとルイフォンには言われている。だから、ここで素早く決断せねばならない。

 そのとき。

 不意に、室内の〈ムスカ〉の呼吸の気配が乱れた。

 ――気づかれたか!?

 リュイセンの心臓が跳ねる。

 額にじんわりと汗が浮かぶ。

 美貌を緊張に強張らせ、リュイセンは詳しい状況を探ろうと、神経を研ぎ澄ませる。

ムスカ〉は、部屋の中をうろついているようだった。

 もし〈ムスカ〉が扉の外の不審者に気づいたなら、それは反省房を脱走したリュイセンであると考えるのが必然だ。その場合、〈ムスカ〉が身を守るためにすべきことは、リュイセンに匹敵する猛者を呼び出すこと。

 すなわち、タオロン。

 しかし、彼は今や、リュイセンの味方である。


 突入だ!


 リュイセンの心は決まった。

ムスカ〉が起きていても構わない。

 奴が頼みにしているタオロンは、ここにいるのだから。

 リュイセンがタオロンを振り返り、突入の合図をしようとした矢先、タオロンが顔色を変えた。太い眉に強い意思を載せ、まるで引き止めるかのように、ぐいとリュイセンの肩を引く。

「!?」

 丸太のような腕からの力に、背中の傷がずきりと痛んだ。リュイセンの負傷を承知しているはずのタオロンにしては、随分と乱暴だ。

 反射的にまなじりを吊り上げたリュイセンに、しかしタオロンは、険しい表情で『もと来た道を戻るぞ』と、身振り手振りで告げてきた。

 剛の者のタオロンが、臆病風に吹かれるわけもない。何かに気づいたのだ。

 リュイセンは、理屈ではなく、天性の勘で状況を察する。出鼻をくじかれた形となったが、タオロンに怒りを感じることはない。すぐに了解の意を伝えると、ふたりは素早く扉をあとにした。

 廊下を戻り、念のため更に一階分、階段を降りる。

ムスカ〉の部屋から充分に離れたところで、タオロンが小声で囁いた。

「嫌な臭いがした。……たぶん、毒だ」

「……なっ!?」

 気配に関してはリュイセンほど鋭くはないタオロンだが、どうやら嗅覚はリュイセンよりも優れているらしい。彼は、扉の下のわずかな隙間から漏れ出た臭いに、敏感に気づいたのだ。

ムスカ〉は、毒物によって守りを固めた。

 予想外の展開だった。

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