5.幽明の狭間に落つる慟哭-4
研究室の扉を開くと、真っ暗な地下通路が広がった。
闇に沈むような空間に向かって、メイシアは、ふらつく足で転げるように身を躍らせる。
背後で、重い音を立てながら扉が閉まった。その音が石造りの壁に反響し、振動が空気を伝って彼女の肌を撫でた。
「……っ」
かくっ、と。足の力が抜けた。
メイシアは、へなへなとその場に崩れ落ちる。
部屋からの光は完全に遮断され、一面の漆黒の世界。だがそれは〈
「大丈夫か?」
頭上から、リュイセンの声が降りてきた。夜目が効く彼には、彼女がへたり込んでいる姿が見えているのだろう。
人の動く気配がして、やがて、あたりが明るくなる。リュイセンが電灯を点けてくれたのだ。
メイシアは立ち上がろうとして、しかし、動けなかった。今ごろになって、全身が激しく震えていた。
「メイシア?」
「リュイセン……、ありがとう……」
もう少しで、〈
二度と再び、ルイフォンに逢えないところだった……。
「――っ」
ルイフォンを心に想い描いた瞬間、黒曜石の瞳から、はらりとひと筋、涙がこぼれた。
彼がここに居たら、きっと強く抱きしめてくれたに違いない。彼女の髪をくしゃりと撫で、優しいテノールで『怖かったな』と包み込んでくれたことだろう。――そう、思ってしまった。
胸が苦しい。喉が熱い。
涙は、堰を切ったように次から次へとあふれてきた。止めたいのに止まらない。メイシアは、嗚咽を殺して泣きじゃくる。
「お、おい……、メイシア……」
リュイセンがうろたえ、彼の影が戸惑いに揺れ動いた。
「ご、ごめんなさい」
メイシアは慌てて顔を拭う。
そうだ、泣いている場合ではない。
危機は去ったのだ。経緯は最悪だったかもしれないが、狙い通りに、〈
だから、まずは立ち上がり、携帯端末のある展望室に戻る――。
気持ちを入れ替えると、意外なほどに滑らかに体が動いた。リュイセンがほっと息をつき、「行くぞ」と歩き始める。
リュイセンの広い背中を追いながら、メイシアは徐々に冷静になってきた。
今までは、一週間が過ぎるまで、メイシアの身に危険はないと考えていた。だから、その間に、リュイセンを〈
しかし、状況が変わった以上、今は一刻も早く〈
おそらくは、今夜――。
「……っ」
リュイセンの後ろ姿を見つめるメイシアの目が、悲痛に歪んだ。
タオロンに暗殺を依頼すれば、リュイセンが再び鷹刀一族を名乗る道は閉ざされる。
〈
――嫌だ。
メイシアは奥歯を噛み、潤みそうになった黒曜石の瞳に力を込めた。
目の前には、リュイセンのすらりと伸びた背と、迷わずに前へと突き進む手足。あたかも、彼の性格を表しているかのような――。
そう。
彼はただ、ミンウェイのためを想ってまっすぐに行動しただけだ。
彼の気持ちを利用する〈
リュイセンを見捨てるような真似はしたくない……。
ふと。
メイシアは思った。
リュイセンに、すべてを打ち明けては駄目だろうか。
ルイフォンは、ミンウェイが母親のクローンだという確たる証拠を示した上で、リュイセンに〈
だが寸刻を争う事態なら、何はともあれ、リュイセンと腹を割って話すべきではないだろうか。もしかしたら証拠などなくとも、リュイセンは、こちらの手を取ってくれるかもしれない。その可能性に賭けたい。
今までのルイフォンの苦労を無にするようで申し訳ないが、リュイセンを失いたくないのだ。
それに、ルイフォンだって、現状を知れば同意してくれるのではないかと思う。何故なら、彼は『リュイセンを取り戻したい』と明言しているのだから。
ルイフォンに提案してみよう。
メイシアは、前を歩くリュイセンの背中をじっと見つめる。まるで、視線で彼を取り戻そうとでもするかのように。
ともかく、まずは展望室に戻り、昼食を終える。そして、ひとりきりになったら、ルイフォンと連絡を取る。リュイセンと話すのは夕食のときだ。
諦めるのはまだ早い。
メイシアは頭の中で段取りを決め、気を引き締めるべく体の芯にぐっと力を入れた。
展望室に着くと、リュイセンの後ろ姿がひらりと翻った。勢いよく黒髪がなびき、メイシアと正面から向き合う。
双刀の煌めきを宿したかのような双眸が、しかとメイシアを捕らえた。今までずっと、彼女の目を避けるようにしていたのが嘘のようだった。
「リュイセン……?」
急激な変化に彼女は戸惑う。
黄金比の美貌は相変わらずだが、そこには温かみの欠片もなかった。眼差しは冷たく冴え渡る氷のようで、
凄みのある美の根底にあるのは――深い憤り。
「メイシア」
「は、はい」
彼女は思わず、びくりと肩を上げた。
「お前が危険な目に遭ったのは、お前をさらってきた俺のせいだ。すまなかった」
「リュイセン!?」
頭を下げる彼に、メイシアは驚き、声を跳ね上げる。
どうやら、彼女が殺されかけたことに責任を感じ、〈
だが、それは正解ではなかった。
確かに、リュイセンの内部にはメイシアへの罪悪感が存在する。けれど彼の激情は、死んだ妻のことしか頭にない〈
詳しいことを知らないリュイセンでも、先ほどの研究室では〈
『娘』のミンウェイを不幸に陥れておきながら、よくもぬけぬけと……と、リュイセンの心には嵐が吹き荒れていた。
『娘』を無理やりに妻の代わりにしておきながら、結局のところ、彼は死んだ妻を求め続ける。
『娘』には、自分だけを望むよう、支配して育てたくせに。
歪んだ世界に閉じ込められた『娘』は、服毒自殺を試みるまでに追い詰められたというのに……。
リュイセンは〈
――故に。彼は抜き身の刀と化していたのだ。
勿論、メイシアは、そんなリュイセンの心情など知る
「リュイセン……、あのっ、ごめんなさい」
「なんで、お前が謝るんだ?」
「私が不用意に〈
リュイセンは自分のために怒っているのだと勘違いしているメイシアは、恐縮に身を縮こめる。
「〈
〈
しかし、リュイセンは、
「礼儀だと? 本気で言っているのか? あいつは、ミンウェイを追い詰め、死に追いやろうとした奴だぞ!」
「……え?」
突然、叫びだしたリュイセンに、メイシアは混乱した。
にわかには彼の言葉の意味を理解できず、声を失う。その間にリュイセンは、はっと我に返り、余計なことを言ったと気まずげな顔になった。
だが――。
メイシアの聡明な頭脳は、聞き流してはいけないと警告を発した。
「ミンウェイさんが殺されそうになった……? ……それはあり得ないはずです……。〈
「忘れてくれ」
リュイセンは吐き捨てたが、メイシアは思考を巡らせる。
激しい違和感があった。
『生を
「『追い詰められて』の『死』ということは……、ミンウェイさんは過去に自殺しようとした――ということですか……?」
「昼食を運んでくる!」
唐突にリュイセンが言い放ち、神速で
彼の荒い声が、苦しげな響きが、そして何よりも彼の態度が――メイシアの言葉は正しいと、雄弁に語っていた。それと同時に、もうこの話題に触れるなという、強い拒絶もまた。
「ご、ごめんなさい……」
リュイセンが消えたあとの扉に向かって、メイシアは謝る。
しかし――。
胸騒ぎがした。
『看過してはならない』という、奇妙な――焦燥のような、ざわついた気持ちが拭えない。
かつて、ミンウェイが自殺――自殺未遂をした。
よく考えれば、それはちっとも不思議なことではない。
少女時代のミンウェイは、『父親』に溺愛という名の虐待を受けていた。そのころの彼女なら、『死』を望んでもおかしくないだろう。
「あ……、『〈
先ほどの会話では、メイシアもリュイセンも混同していたが、『〈
現在の『〈
ミンウェイは、生前の『ヘイシャオ』との生活で追い詰められ、自ら『死』を求めたのだ。
「――っ!」
メイシアの心臓が激しく跳ね上がった。
鋭く息を呑み、無意識に体を掻き
『ミンウェイ』と呼ばれる存在が、ヘイシャオの前で、『死』を望んだ……。
たとえクローンであっても、『娘』のミンウェイは、妻のミンウェイとは違う人間だ。
しかし、頭では分かっていても、ヘイシャオの心は、ふたりを区別できていなかった節がある。
ヘイシャオの世界は、壊れる――……。
「――だから、なの……?」
誰もいない部屋で、メイシアは虚空に向かって尋ねる。
「『ミンウェイ』さんが『死』を求めたから、ヘイシャオさんを『生』に繋ぎ留めていた約束が消えてしまった――ということなの……?」
メイシアの耳に、〈
『鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!』
『ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ』
『私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、彼が心変わりするような事件があった、ということでしょう』
『生』を望む〈
ふたりの狭間に横たわる、記憶の時差。
『生』から『死』へと心変わりした理由は――。
ミンウェイの自殺未遂だ……。
ぴたりと合った符丁に、メイシアの顔から血の気が引いていく。知らず、握りしめていた掌は、うっすらと汗で湿っていた。
〈
しかし本当は、『自分』が自殺した理由を知りたがっていたように思える。
それを知ったところで何にもならないが、純粋に知りたいのだろう。――最愛の妻を裏切るほどの理由とは、なんであったのかを。
メイシアは、ごくりと唾を呑んだ。
これは『情報』だ。
相手の知りたい情報は、武器になる。
だから、これは〈
彼女はそう思い、しかし、首を振った。
〈
……それに。
憎き仇ではあるけれども、〈
メイシアは高ぶる感情を落ち着けようと、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、気づいた。
「……違う。逆かもしれない……」
駒として作り出され、何も知らされず、嘘に翻弄されるがままであった〈
「救いに――なるのかもしれない……?」
小さく呟き、彼女は慌てて口元を押さえた。
〈
情のような気持ちを
彼の『生』は、できるならリュイセンに――それが無理な場合にはタオロンに、幕を下ろしてもらう。
それで、終わり。今晩、決着をつける。
だからメイシアは、二度と彼に会うことはない……。
彼女はそう結論づけ、この情報を心の奥に封印した。
けれど、口の中には、なんともいえない苦さが残り続けた。
リュイセンが運んできてくれた昼食は、腕の良い料理人の作であるにも関わらず、砂を噛むような味しかしなかった。
会話のない、事務的な食事は短時間で終わり、再び、リュイセンが部屋を出ていく。
メイシアは、エレベーターが地上まで降りたのを確認すると、部屋を移動し、ベッドの隙間から携帯端末を取り出した。滑らかに動かぬ指先をもどかしく思いながら、ルイフォンへと電話を掛ける。
一刻も早く、彼の声を聞きたかった。
あの優しいテノールに、身を委ねたかった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます