5.幽明の狭間に落つる慟哭-3
メイシアが〈
リュイセンは割り当てられた自室でひとり、思索にふけっていた。
『この手の話の定石だとは思いますが、もしも私が死ぬようなことがあれば、〈ベラドンナ〉のもとに彼女の『秘密』がもたらされるよう、仕掛けをしてあります』
だから私を害そうなどと、ゆめゆめ考えることのなきよう……。
耳に蘇る、聞き慣れた低音は、あからさまな牽制。
一族特有の声質でありながら誰のものとも違う、ねっとりとした響きがリュイセンに絡みつき、彼の自由を奪った。
リュイセンとて、〈
〈
しかし、半々では身動きを取れない。
だから昨晩、リュイセンは〈
『そんなに『死』が怖いのかよ? 死んだら何もかもなくなると、恐れているのか?』
対して、〈
『死んだあとのことなど、どうでもよいことですよ。考える価値もありません。大切なのは、生きていることなのですから』
聞いた瞬間、リュイセンは天啓を得た。
『死んだあとのことなど、どうでもよい』――すなわち〈
リュイセンの脳裏で、確率の天秤が、ぐらりと音を立てて傾いた。
――ハッタリだ……。
無論、常人であれば、この程度の台詞から確信に至るのは早急であろう。しかしリュイセンには天性の直感がある。細かな理屈などは一足飛びに捨て置き、彼は本質を見抜き、真理へとたどり着く。
〈
決意を胸に虚空を仰げば、黄金比の美貌から表情が消えた。無慈悲な機械人形が如き瞳には、冷徹な光が浮かぶ。
〈
ミンウェイの幸せを守るために。
〈
それからタオロンに頼んで、メイシアをルイフォンのもとに帰す。
そして――。
ミンウェイの『秘密』をなかったことにするために、それを知るリュイセンは姿を消す……。
リュイセンは壁にもたれ、思考を巡らせる。
「ミンウェイ……」
その名を呟いた途端、無機質な氷と化していたはずのリュイセンの面差しが、ふわりと解けた。口元に柔らかな微笑が浮かび、双眸に切なげな光が灯る。
心の一部をどこかに置き去りにしてきてしまったミンウェイ。
無防備で、不安定で、危うい、大切な
彼女の欠けた心を埋めてあげるのだと、幼き日に誓った。
守ってあげるのだ――と。
「俺は、ミンウェイを守る」
どんなことをしてでも。
たとえ、二度と逢うことは叶わなくとも……。
「…………」
雑念を振り払うように首を振ると、肩の上で
昼が近づき、リュイセンは地下へと向かう。朝、〈
地下研究室で何が行われているのか、詳しいことをリュイセンは知らない。初めは、メイシアの身に何か危険があるのではないかと、ひやひやしていたのだが、一週間は問題ないのだと彼女から聞いた。
――だから、その間に〈
今日か、明日か……。
刀は取り上げられてしまっているが、管理しているのは〈
そんなことをつらつらと考えながら、リュイセンは廊下を歩く。
生真面目な性格上、彼は時間に余裕を持って行動する。だからいつも、かなり早くに到着して、扉の前で待っているのだ。
研究室と廊下は丈夫な扉で隔てられており、中の様子は、ほとんど読み取れない。ただ、メイシアが出てくる少し前になると、決まって〈
しかし、今日は違った。
リュイセンが地下に降り立った瞬間、肌を刺すような予感がした。気のせいであってほしいと願いながら、彼は足早に通路を駆け抜ける。
そして、扉の前に着いたとき、それは現実に変わった。
漏れ聞こえる、〈
『つまり、あなたは……、……私を、ずっと影で
言葉の端々までは、正確には聞き取れない。しかし、ただならぬ様子は明らか――。
刹那、椅子が倒れるような音が響き、間髪を
「――!」
メイシアが危ない――!
止めなければ――と、リュイセンの体は瞬時に動いた。
扉には鍵が掛かっている。秘密の地下研究室なのだから、当然だ。
だから彼は、蹴破ろうと身を翻した。
助走をつけ……、そこではっと、我に返る。
彼が
そのとき、リュイセンの脳裏にルイフォンの言葉が蘇った。
それは、ハオリュウの車に隠れ、初めてこの館に侵入したときのもの。
ルイフォンは、敵地に乗り込むハオリュウを案じ、万一のときには
『お前は非常ベルを押してくれ。混乱に乗じて助けに行く』
――非常ベルだ!
確か、地下に降りる階段の脇にあった。
リュイセンは、全力で通路を戻る。
けたたましい警報音が響き渡った。
私兵たちが次々に廊下に飛び出し、何ごとかと右往左往する。その気配を尻目に、リュイセンは再び地下通路を走り抜け、研究室の前に戻ってきた。
「〈
どんどんどんどん……。
リュイセンは力いっぱい、扉を叩く。
非常ベルの音は、研究室の中にまで届いていたのだろう。リュイセンが叫ぶまでもなく、〈
暗い地下通路に、部屋の明かりが差し込んだ。
逆光に沈んだ〈
「メイシア!」
硬質な白い床に、長い黒絹の髪が広がっていた。
リュイセンは、取っ手を掴んだままの〈
「メイシア! 大丈夫か!」
膝を付き、そっと体を起こす。彼女は小さく咳き込んで、やがて薄目を開けた。
「リュイセン……?」
「メイシア! よかった……」
苦しげではあるが、ちゃんと意識がある。リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろす。
と同時に、ゆっくりと近づいてくる白衣の影が、彼らのそばまで伸びてきた。黒い陰りに呑まれるよりも先に、リュイセンはメイシアを庇うように立ち上がる。
〈
――この男は『悪』だ。滅ぼすべき相手だ。
ミンウェイを不幸に陥れ、メイシアにも危害を及ぼす。
愛刀を取り戻してから〈
敵の本拠地ともいえる、この研究室では、どんな不測の事態が起こるか分からない。得体のしれない薬物でも持ち出されたら、一瞬にして不利になるだろう。
しかし、ここで見過ごすなどあり得ない。
素手でいい。〈
リュイセンの殺気が膨れ上がった。
重心を移し、まさに飛びかかろうとした――その瞬間だった。
「ほう……」
よく通る〈
揶揄するような、尻上がりの軽い響き。――しかし、研ぎ澄まされすぎたリュイセンの神経には、充分すぎるほどの
「――っ!」
リュイセンは、たたらを踏む。
「なるほど。非常ベルを鳴らしたのは、あなたというわけですね」
リュイセンから発せられる、魂が凍りつきそうなほどの殺気を浴びながらも、〈
「〈
リュイセンが慌てて振り返ると、〈
白衣の背中が、無防備に晒されている。
しかし、リュイセンは拳を握りしめ、その手を力なく下ろした。
今ここでやりあえば、確実にメイシアを巻き込む。〈
「特に異常はありません。――私としたことが、つい話に夢中になってしまいましたね」
〈
反射的に身構えたリュイセンに、〈
……だがそれは、実のところ、〈
扉を開けた瞬間に、〈
すなわち。
倒れているメイシアを見れば、リュイセンは激昂する。そして、〈
メイシアに危害が加えられただけなら、殺意に至るまでの憎悪にはならないだろう。しかし、〈ベラドンナ〉に愛を注いでいるリュイセンは、もともと〈
リュイセンが本気で歯向かえば、〈
だから〈
――しかし。
リュイセンに対しては冷静に対処できる〈
内心では、必死に動揺を隠していた。
正直なところ、彼は非常ベルの音に救われたと思っていたのだ。
『鷹刀セレイエ』の記憶を持つメイシアは、絶対に手放してはならない切り札。もしも怒りに身を任せ、衝動で殺していたら、彼は大事な手札を失うところだった。自分の落ち度で取り返しのつかない事態となれば、悔やんでも悔やみきれない。
リュイセンの邪魔が、結果として役に立ったからだろう。いつもなら楯突くような真似をした相手を決して許さない〈
「もう昼ですか」
まるで世間話のような調子で発した言葉の裏に、〈
勿論、そんなことはリュイセンには分からない。
ただ、ともかくメイシアを安全なところに連れて行くべきだと、彼は思った。〈
「小娘。あなたが話したことについて、私は冷静に考える必要がありそうです。……続きは明日にしましょう」
視線を下げ、まだ床に座り込んだままのメイシアへと〈
その際、向き合って立っていたリュイセンには、〈
しかし、そんな疑問は、〈
「……ミンウェイの記憶を手に入れたとしても、それは彼女が亡くなったときの年齢のもの――また二十歳にもならない少女のものなのですよ。その記憶を、そこの硝子ケースの『ミンウェイ』に入れるなど、酷いことです」
「……っ!」
メイシアが鋭く息を呑んだ。細い指が口元を押さえるが、体は小刻みに震え、黒曜石の瞳が罪悪感に染まる。
「――だからといって、その記憶のために新しく若い肉体を作ったとして……、二十歳にもならない娘に、この老いた肉体の私のそばにいてくれ、と言うのですか……?」
静かに吐き出された言葉は、慟哭の裏返し……。
「続きは明日です。――出ていってください」
念を押すように繰り返し、〈
そして、そのとき。
リュイセンは……苛立ちを――怒りを覚えていた。
〈
しかし、今の〈
『娘』のミンウェイを、さんざん妻の代わりにしておきながら、それでも〈
――許せねぇ……。
「リュイセン……?」
ぎこちなく立ち上がったメイシアが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ……、いや……」
リュイセンは奥歯を噛み、ぐっとこらえる。
今はまだ、動くべきときではない。夜だ。
今宵――。
就寝のために、この研究室を出たときが奴の最期だ。
「メイシア、行こう」
ここに長居をする理由はない。彼はメイシアを伴い、部屋を出た。
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