1.失跡の顛末-2
「まず、父上がまるで触れなかった鷹刀の外での動きだが……、メイシアがさらわれたということで、彼女の身内に――異母弟であるハオリュウに、父上自らが電話で報告した」
「……っ」
ルイフォンの顔が凍りついた。その表情は、暗がりでもはっきりと分かったのだろう。エルファンが眉間に皺を寄せる。
「黙っているわけにはいかないだろう? 連絡が遅くなるほどに、信頼関係は失われていくのだからな」
「……ああ」
ルイフォンを信じて、大切な異母姉を託してくれたハオリュウ……。
心臓が、ずきりと痛む。
「そんな顔をするな。お前はメイシアを守ろうとして重傷を負い、生死の境をさまよっていると父上が説明した。お前に対しては、感謝の言葉まで貰っている」
「……!?」
ハオリュウの怒りの矛先がルイフォンに向かわないよう、イーレオは怪我の具合いを大げさに伝えたのだ。
しかし――。
「『俺に対しては』?」
それはつまり……と、おそるおそる目線で尋ねると、エルファンが溜め息混じりに肩を落とした。
「鷹刀に対しては、怒り狂っている」
「……」
無理もない。ハオリュウは、メイシアのためになら命すら
「父上と、だいぶ険悪な状態だ。いや、ハオリュウのほうが一方的に、だな」
先ほどのイーレオの精彩のなさは、ここにも原因があったようだ。
押し黙ったルイフォンを見やり、エルファンが続ける。
「ハオリュウは『夜であるから人目につかないはずだ』と言い張って、鷹刀に乗り込んでこようとしたのだが、今、彼が来てもどうにもならない。『それでも』と問答しているところに、先に手を回しておいた緋扇が藤咲家に到着した」
「え? シュアン?」
「ああ。奴が間に入って、とりあえずハオリュウには引いてもらった。明日、ハオリュウの代理として、緋扇が鷹刀に詳細を聞きに来ることを条件にな」
「……そんなことになっていたのか」
使い走りのようにされているシュアンには悪いが、彼がいてくれて助かったようだ。しかし、本業の警察隊の仕事は大丈夫なのだろうか。少しだけ心配になる。
「それから、リュイセンについてだが……」
エルファンは間を置かず、顔色も変えずに、その名を挙げた。まるで不意打ちのような所業に、ルイフォンの胸が波打つ。
「あいつがメイシアをさらったのは、〈
「……ああ。〈
ルイフォンの言葉に、エルファンは頷く。
「実は、鍵の掛かっていたリュイセンの部屋をマスターキーで開けさせたのだ。そしたら、机の上に……」
「書き置きがあったのか!?」
飛びつくように叫ぶと、腹の傷が引きつるように傷んだ。悶絶するルイフォンを横目に、エルファンは淡々と告げる。
「『子供の描いた絵』が残されていた」
「はぁ?」
予想外の答えに、ルイフォンは、ぽかんと口を開けた。
「スケッチブックを切り離したと思しき画用紙が、不格好に折りたたまれていた。広げてみると、一面、水色のクレヨンで塗りつぶした上に、無数の紫の円が描かれていた」
『ファンルゥ。……絵を、預かってやる』
ルイフォンの脳裏に、リュイセンの低音が蘇る。
〈
それはファンルゥの思い込みに過ぎなかったのだが、彼女の優しさに応えてやりたいと、リュイセンは『あの子に届ける』と言って、絵を預かったのである。あのあと激しい戦闘となったが、絵は先に脱いだ上着のポケットに入れていたから無事だったのだろう。
「確かに、書き置きもあった。『身勝手なお願いだと思いますが、この絵をハオリュウに届けてください』――という、な」
「……」
「お前の報告書に、その絵についての記載があったから事情は理解できた。――あいつは律儀だからな。その子供との約束を、きちんと果たしておきたかったのだろう」
もう二度と、戻るつもりはないから――。
この機会を逃したら、次はないから。だから、ここに託す――。
ふっと雲が途切れ、エルファンの顔を明るく照らした。月を映した瞳は、穏やかにルイフォンを見つめていた。
「〈
エルファンの低い声が、リュイセンの呟きと重なる。
『……俺は、凄くも、正しくもなくて……。ただ、やるべきだと思ったことを、やるだけだ……』
リュイセンが帰ってきてすぐ、半ば強引に押しかけていって話をしたときに、兄貴分はそう言った。あのとき既に、今の事態を決意していたのだ。
「だからな、ルイフォン……。あいつは『裏切った』のではない。『
リュイセンの決断を認めてやれ。――エルファンの氷の瞳が、無言でそう告げる。
すべてと引き替えにしてでもそうすべきだと、リュイセンは覚悟を決めて行動したのだから、と。
ルイフォンは、拳を握りしめた。
「リュイセン……!」
ぐっと歯を食いしばり、喉元の熱さをこらえる。
胸の中を渦巻く感情を、どう表現したらいいのか分からない。――ただ、苦しい……。
黒い雲が、月を隠しては流れ……、また流れては隠していく。瞬きをするような月明かりがルイフォンを包み込む。そして、闇の中にあらゆる音を吸い込み、静かな夜が更けていく――。
どのくらい、時が過ぎただろうか。
再び、雲が途切れた。
月を宿したエルファンの瞳は、変わらずにルイフォンを見守っていた。そのときになってやっと、ルイフォンは気づいた。
エルファンは、ルイフォンを慰めに来たのだ――おそらく。
不器用な温かさが心にしみる。
「エルファン……」
名を呼びかけ、けれど、そこで言葉に詰まった。
だが、心配は杞憂だった。エルファンのほうから口を開いたのだ。
「ルイフォン。どうせ、お前は眠れないことだし、できることをしてみるか」
「!?」
唐突な言葉に、ルイフォンはきょとんとする。
「私を〈ベロ〉に会わせろ」
「は? 〈ベロ〉!?」
あまりにも意外すぎる発言に、今までの湿った気持ちが一気に吹き飛んだ。
「〈ベロ〉って、張りぼてのほうじゃなくて、人工知能のほうの〈ベロ〉のことだよな?」
シャオリエをモデルにしたという、高飛車な『真の〈ベロ〉』。警察隊が執務室に押し寄せたときに一度だけ現れ、それ以来、だんまりを決め込んでいる自分勝手な人工知能。
『彼女』に会いたいとは、いったいどういうことだと、ルイフォンは盛大に目を見開く。
「あの人工知能は、この屋敷を守っているはずだろう? なのに、メイシアの危機に警報のひとつも鳴らさなかった。是非とも、その理由を釈明してもらいたい」
エルファンの瞳がすっと細まり、冷徹な光を放つ。
「〈ベロ〉への強制アクセス。ルイフォン、お前ならば可能だな?」
凍てつくような低い声に
「ああ。――できる」
母キリファと住んでいた家にある、〈ケル〉への強制アクセスは成功した。ならば、同じシステムである〈ベロ〉へのアクセスも同様に可能なはずだ。
「――けど、『強制アクセス』といっても、『呼び出すことができる』だけで、俺の支配下に入るわけじゃない。おとなしい〈ケル〉ですら、言いたくないことは言わなかったんだ。シャオリエの性格をした〈ベロ〉が素直に話すとは思えない」
「会ってみなければ分からないだろう?」
「だって、目的が『理由を釈明しろ』だろ? それで、あいつが答えるわけがない」
「お前は、この私に〈ベロ〉の口を割らせることはできない――と言うのか?」
くっ、と好戦的に口角を上げる
「それに……、〈ベロ〉は、あのキリファが遺したものだ。それでも、邂逅は無意味だと、お前は思うのか?」
「――!?」
心の隙を
「そうだな、〈ベロ〉に会いに……」
そう言いかけたところで、彼は、はたと気づいた。
「無理だ。強制アクセスをするには、〈ベロ〉のそばの
張りぼての〈ベロ〉は地下にある。〈ケル〉と同じ作りであるなら、真の〈ベロ〉は、その隣の小部屋にあるはずだ。
「? 行けばいいだろう?」
何を言っているのだと、エルファンが首をかしげる。
「そりゃ、いつもの俺なら行っているさ。けど、今の俺は、絶対安静の怪我人だ」
「夜のうちなら、誰かに見つかることもないだろう。人の気配を感じたら、私が教えるから大丈夫だ」
「そうじゃなくて……。少し動いただけでも、物凄く腹が痛むんだよ」
おとなしく寝ていたいとは思わない。だが、この傷で地下まで行くことを考えると、気が遠くなりそうだった。ミンウェイが、口を酸っぱくして安静を命じただけのことはある。
しかし、エルファンは眉ひとつ動かすことなく、平然とした口調で言ってのけた。
「お前も鷹刀の男なら、そのくらいの傷、どうということはないだろう」
「おいっ、ちょっと待て!」
無茶苦茶だ。
ルイフォンは頭脳派なのだ。日々、鍛錬に精進しているような、勤勉な武闘派ではないのだ。いや、そもそも、これだけの傷を負えば、どんな剛の者だって動けないのではないだろうか。
「仕方ない」
エルファンが大きく溜め息をついた。日を改めることにしたのだろう。
その様子に、ルイフォンは、ほっと胸を撫で下ろす。〈ベロ〉との対面を先延ばしにするのは残念だが、さすがに今は体が言うことを聞かないのだから勘弁だ。
「すまない。一日でいいから休ませてくれ」
ともかく、体を回復させるべきだ。このままでは、メイシアを助けるために庭園に乗り込むどころか、ベッドから出ることすらできない。
今晩は、お開きということだろう。エルファンが椅子から立ち上がった。
そして――。
「なっ……!」
いきなり毛布を跳ねのけられ、ルイフォンは仰天した。反射的に声を上げるも、問答無用でエルファンの手が伸びてきて、ルイフォンの体をすくい上げる。
「な、何するんだよ!?」
「このまま、お前を運んでいく。地下でいいんだな?」
「うわっ、やめろ!」
いい歳をした男が、男に抱き上げられるなど、言語道断。自分はあくまでも、抱き上げる側であって、その相手はメイシアに限る!
ルイフォンは全力で抵抗しようとするが、下手に動けば傷口に激痛が走る。
「ちょっと、待てよ! エルファン、落ち着け!」
「静かにしろ。周りに気づかれる」
「だから、あり得ねぇだろ!
そのとき、エルファンの動きが一瞬だけ止まった。
明滅する月明かりの中で、かろうじてルイフォンが目にしたのは、氷が溶けたように目を細めたエルファンの微笑だった。
「ああ、そうだな。お前を抱えてやったことはなかったから、ちょうどいい」
「は?」
「いや、なんでもない」
エルファンはそう言って、ベッドの上の枕から、片手で器用に枕カバーをはぎ取った。そして素早くルイフォンに猿ぐつわを噛ませ、彼を抱き上げたまま、悠然と部屋を出ていったのであった。
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