1.失跡の顛末-1

 不吉な雷光が、暗い天空を紫に染めた。

 悪鬼の形相をした、リュイセンの美貌が浮かび上がる。

 神速の――無言の一刀。

 容赦ない太刀筋が、ルイフォンの腹を裂く。けれど、それよりも……。


「メイシア――!」


 右手を虚空に伸ばした状態で、ルイフォンは、はっと目を覚ました。

「ルイフォン!」

 草の香が揺れる。波打つ髪をひとつにまとめた白衣姿のミンウェイが、青ざめた表情で彼の顔を覗き込んでいた。

「ミンウェイ……?」

 ルイフォンは力なく右手を下ろす。その手の中には、当然のことながら何もない。

 状況が掴めない。

 今、自分が自室のベッドに寝かされていることは分かる。だが、さっきまで、彼は廊下にいた。気を失ったメイシアをリュイセンが抱きかかえていて、駆け寄ろうとしたらリュイセンが……。

「あなたは、自分の部屋の前で血まみれになって倒れていたのよ」

 眉を曇らせたミンウェイが、静かに告げる。

「メイシアは!? メイシアはどこにいる!?」

 あの状況――。

 なんらかの理由で意識を失ったメイシアをリュイセンが運んでいた……などではない。あれは間違いなくリュイセンがメイシアを襲ったのだ。

 ルイフォンの腹の底から憤怒が湧き上がる。

「リュイセン……! あの野郎!」

 叫ぶと同時に、彼はベッドから飛び起きた。

 刹那、腹に激痛が走る。反射的に腹部を押さえれば、半裸の体に包帯を巻かれていた。

「ルイフォン、落ち着いて。あなたは重傷なの。何針も縫ったのよ!」

「落ち着いていられるか! メイシアがさらわれたんだぞ!」

「分かっているわ! どうして、リュイセンは……!」

 ミンウェイが唇を噛んだ。落ちかけのべにが苦しげに歪む。

「ともかく、あなたには安静が必要なの。――今、お祖父さまがこの部屋にいらっしゃるわ。現状を説明してくださるから……」

「ふざけんな! そんな悠長なことを言っている場合じゃねぇだろ! リュイセンはどこだ!? 屋敷を出たのか!? すぐにでも追わねぇと! 地の果てまで追いかけてやる!」

 ミンウェイの言葉が終わるより前に、ルイフォンがいきり立つ。

「だから、ルイフォン。落ち着いて! もう真夜中なの。リュイセンが出ていってから、だいぶ時間が経ってしまっている。私たちは遅れを取ってしまった。リュイセンは――」

 ミンウェイは一瞬、声を詰まらせ、ごくりと唾を呑み込んだ。

「リュイセンは……、おそらく〈ムスカ〉の庭園にいる。メイシアを連れて……」

「!」

 考えたくはない。

 けれど、それしかあり得ないということは、ルイフォンにも理解できた。



 数時間前――。

 夕食の時間になっても、ルイフォン、メイシア、リュイセンの三人は食堂に現れなかった。いつもなら、調理の手伝いをしているメイシアが頃合いを見てルイフォンを迎えに行き、律儀なリュイセンは呼ばれなくとも時間通りに来て着席しているはずだった。

 だが今日は、〈ムスカ〉に囚われていたリュイセンが帰ってきたばかりであり、しかも彼の様子はおかしかった。そのことから察するに、リュイセンを心配したルイフォンとメイシアが声を掛けに行き、話し込んでいるに違いない。あるいは、口論になっているのかもしれない。

 ともかく、三人は一緒だろう。ここは若い連中同士に任せて、しばらく待つのがよかろう。――イーレオは、そう考えた。

 しかし、三十分が過ぎても、三人は来なかった。料理長の心づくしも、すっかり冷めてしまっている。いくらなんでも遅すぎる。

 さすがにイーレオもしびれを切らし、ルイフォンとリュイセンの部屋へと、それぞれメイドを向かわせた。

「リュイセンの部屋には鍵が掛かっており、中には入れなかった。そして、お前の部屋の前で、血まみれのお前が見つかった。そのときになって初めて、ただならぬ事態になっていることに気づいた。……すまない。俺は、判断を誤った」

 ルイフォンの部屋を訪れたイーレオは、深々と頭を下げた。つややかな黒髪がさらさらと流れ、大華王国一の凶賊ダリジィン、鷹刀一族の総帥が惜しげもなく首筋を晒す。

「親父……」

 喉まで出かかっていた罵倒をルイフォンは飲み込んだ。イーレオにまったく非がないとはいえないかもしれない。だが、ここで声を荒らげたら八つ当たりだ。

 何より、ルイフォンはあの現場にいた。彼がリュイセンよりも強ければ、メイシアがさらわれることはなかったのだ。

「……俺が寝ていた間のことを話してくれ」

 まずは情報である。ルイフォンは努めて冷静を保つ。

 ゆっくりと顔を上げたイーレオの額には、深い皺が寄っていた。

「すぐに屋敷中を探させたが、そのとき既に、リュイセンは車で屋敷を発っていた。極秘任務だと偽り、布で包んだ大きな荷物を持っていたそうだ」

「……っ!」

 ルイフォンの握りしめた拳の中で、爪が皮膚に食い込んだ。

「リュイセンの車は、人気ひとけのない場所に乗り捨てられていた。GPSがついていたから簡単に見つかった。――すぐに足がつくのが分かっていたから、別の車に乗り換えたのだろう」

 イーレオは小さく溜め息をつき、続ける。

「〈ムスカ〉の潜伏場所である、あの庭園を見張っている部下と連絡を取って、確証を得た。リュイセンが屋敷を発ったのと同じころに車が出ていき、しばらくして戻ってきたそうだ。夜である上に、スモークガラスで中は分からなかったということだが……」

「〈ムスカ〉の私兵が、リュイセンとメイシアを迎えに行き、乗せて帰ってきたんだろ」

 吐き捨てるようにルイフォンが言うと、「そういうことだろう」とイーレオが頷く。

「ルイフォン、本当にすまない。俺は、リュイセンが〈ムスカ〉の手に落ちていたことを見抜けなかった」

「それは俺も同じだ」

 ルイフォンは、ぎりりと奥歯を噛みしめる。

 まさか……であった。

 もしも、これが他の奴だったら――例えば、タオロンが〈ムスカ〉の庭園から逃げ出してきて、保護を求めたなどであったなら、多少なりとも疑いの眼差しを向けただろう。

 しかし、リュイセンだった。長い時間を共に過ごしてきた、大切な兄貴分だった。

 様子がおかしいことを承知していても、それでも疑うことなどあり得なかった。

 はらわたが煮えくり返る。全身が憎悪に震える。かっと見開いた瞳に、すべてを斬り裂くような鋭い光を宿す。

 リュイセンは敵だ。

 何故、〈ムスカ〉にくみしたのかは分からない。何かしらの理由はあるのだろう。

 しかし、メイシアに害をなしたからには、敵以外の何者でもない――!

 ルイフォンの思いを読み取ったかのように、イーレオが宣告する。

「リュイセンは追放処分だ」

 冷淡に放たれた美声。しかし、そこには、いつものような魅惑の響きはなかった。 

「あいつは、一族の総帥である俺に何も告げずに、鷹刀と敵対する〈ムスカ〉の指示に従った。事情があったのなら、幾らでも説明する機会はあったはずだ」

 静かな低音が、光の差さぬ、深い海の底へと沈んでいく。

 イーレオは、何よりも『人』に価値を見出し、誰よりも『人』を愛してやまない。そんな慈愛の王者の美貌からは、リュイセンの裏切りに対する悲哀がにじみ出ていた。

 そのとき、ルイフォンは、イーレオの背後に控えていた次期総帥、エルファンの視線を感じた。相変わらずの氷のように無色透明な表情。しかし、その瞳が無言でルイフォンを包み込む。


『お前は決して、最愛の者を理不尽に奪われたりするなよ』


 夕方、珍しくエルファンとふたりで話をした。あのときと同じ色合いの眼差しだった。

「!」

 リュイセンへの怒りをたかぶらせている場合ではない。優先すべきことを間違えるな。――エルファンは、無言でそう告げていた。

「親父……、確かにリュイセンには頭にきているが、今はそこじゃねぇ」

 ルイフォンは大きく息を吸い込んだ。

「俺は、メイシアを取り戻す――!」

 あの庭園に向け、ルイフォンは鋭い猫の目を光らせた。



『まずは、怪我の回復に努めるように』と言い残し、イーレオを始めとする皆は、ルイフォンの部屋をあとにした。

 時刻は深夜。怪我人でなくとも、体を休める時間である。部屋の照明はミンウェイによって落とされ、足元の常夜灯がぼんやりと淡い光を放つのみだった。

 ルイフォンは傷を庇うようにして手を伸ばし、ベッドのそばにある窓のカーテンを開け放つ。

 あの酷い雷雨はんでいた。しかし、月明かりは途切れ途切れ――黒い雲が、上空を矢のように走り抜けている。天上は目まぐるしく明暗を変え、不気味にのたうち回る不吉な影を地上に落としていた。

 ルイフォンは、ベッドに体を横たえた。けれど、眠れるわけがない。ぎしぎしとスプリングをきしませて寝返りを打つと、腹の傷が引きつれ、声にならない悲鳴を上げた。

「メイシア……」

 あと少しで、指先が触れるところだった。

 ルイフォンは寝転がったまま掌をかざし、虚しくくうを掴む。

 メイシアは、あの庭園にいる。近衛隊に守られた、あの門の内側に。

 庭園を出入りする〈ムスカ〉の私兵の車を奪えないだろうか。いや、近衛隊のチェックがあるから、奪うのではなく、私兵の買収か脅迫だ。問題は、そのあと。彼女がどこにいて、どうしたら無事に助け出せるのか。監視カメラは電源が落とされたままだ……。

 ルイフォンは虚空を見つめ、思考を巡らせる。

 ふとそのとき、部屋の扉が叩かれた。

「誰だ?」

「私だ」

 低く魅惑的な声と共に、長身の影がするりと忍び込む。ルイフォンの部屋は、いつだって鍵が掛かっていないのだ。

「エルファン!?」

「眠れないのだろう?」

 エルファンは窓辺のベッドにたどり着く途中で、テーブルから椅子を拝借してきた。どう見ても話し込む姿勢である。医者のミンウェイが、去り際に口を酸っぱくして『たとえ眠れなくても、目を閉じて安静にしているのよ』と言っており、その場にエルファンもいたのだが、聞こえなかったことにするらしい。

 とはいえ、部屋の照明を点けないのは、明かりが外に漏れるのを恐れてのことだろう。

「エルファン……。お前に忠告されたばかりだったのにな……」

 なのに、この手からメイシアを奪われた――。

 目を覚ましてから初めての、弱気な発言だった。

 声に出してしまうと、心がぐらりと不安に傾く。慌てて腹に力を入れ、気を引き締めようとすると、今度は傷口が言いようもないほどに痛んだ。

「仕方ない。ヘイシャオの〈影〉のほうが一枚、上手うわてだっただけだ。――だが、まだ失ったわけではない」

 素っ気ない言葉が、そっとルイフォンを支える。

「ああ、そうだな……」

 ――メイシアを取り戻す。

 猫の目が、夜闇に光る。この強い想いだけは、揺らぐことはない。

「ルイフォン」

 まだら模様の月明かりがエルファンを照らし、氷の美貌をさまざまな角度から浮き立たせた。薄い闇に身を溶かしながら、じっと光を見守る。一族の影の部分を司る彼らしい姿が、視覚的に映し出された。

「リュイセンの裏切りと、お前の怪我と――。父上は、すべての責任は自分にあると思ってらっしゃる。……その思いから、お前がおとなしく安静にしていられるよう、お前に余計なことを言うなと皆に通告した」

「……なっ!」

 ルイフォンは、思わず唾を飛ばす。

「ふざけんな、親父の奴! メイシアがさらわれたんだぞ!」

「だから、私が来た」

「え?」

 悪役然としたエルファンの微笑が、闇に浮かぶ。

「お前は、じっとしているような奴ではないだろう?」

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