7.万華鏡の星の巡りに-2

 かつては、王妃が着飾るために使われていた麗しの部屋は、いまや殺伐とした空気で満たされていた。華やかさの象徴であるはずの鏡が映し出すのは、美装した貴人ではなく、離れ離れになった双子の刀と、その所持者たちである。

「タオロン。エルファンの小倅こせがれは、あなたに任せました。殺しても構いません」

ムスカ〉はそう言って、すっとタオロンの後ろに下がった。

「念のために忠告しておきますが、あなたの敗北は、すなわち、あなたの娘の死です。彼らに協力するために、わざと負けたりしたら、娘の命はないということですよ」

 低い声が冷酷に告げる。彫像めいた〈ムスカ〉の顔は、眉ひとつ動くことはない。

「畜生……!」

 タオロンの唇が、わなわなと震え、小さな呟きが漏れた。

「〈ムスカ〉っ……! ……糞おぉっ――!」

ムスカ〉は、怨嗟の声を咎めたりはしなかった。ファンルゥの命を握っている以上、タオロンは逆らえない。分かりきっているから、無意味なことはしない。そういうことだろう。

 しかし――。

「では、頼みましたよ」

 鷹刀一族特有の、有無を言わせぬ魔性の響きが、静かに圧力を掛けながらタオロンを急かせる。

 床から半身を起こしたルイフォンは、自分がまんまとしてやられたのだと気づいた。〈ムスカ〉は初めから、彼の心の隙を狙っていた。弱いところを的確に突いてきた。

 ――メイシアは……。

 本当に〈ムスカ〉の言う通り、操られてルイフォンに好意を寄せてくれたのかもしれない。

 自信過剰な彼であるが、メイシアに対してだけは自信を持てない。

「……っ」

 彼は、迷いを振り切るように前髪を掻き上げた。

 今すべきことは悩むことではない。

 窮地に陥っているのはルイフォンのせいだ。責任を持って、この状況を打破しなければならない。

 自分のミスも挽回できないような、そんな情けない男は、そもそもメイシアにふさわしくない――!

 ルイフォンは、そっと右腕を動かした。そして、服の中に隠し持っていた小さな刃を袖口へと移す。

 やや潰れたような菱形の刃で、暗器と呼ばれる類のルイフォン愛用の投擲武器である。それ自体の殺傷能力は低いが、先端にはミンウェイ特製の毒物が塗ってあり、刺されば大の男でも数分で昏倒するという代物だ。

 鳩尾みぞおちに受けた打撃の痛みは、まだ残っている。けれど、動くことは可能だ。顔を上げれば、額にじわりと冷や汗を浮かべるタオロンの姿が目に入った。

 タオロンは、リュイセンの双刀の片割れを握りしめ、奥歯を噛み締めていた。固く厚い手には不似合いな、優美で繊細な刀が、震えるタオロンの腕に合わせて小刻みに揺れる。その振動によって、細やかな銀光がちらちらと散り乱れていた。

 彼は、この対戦を望んでなどいない。けれど背後では、〈ムスカ〉が殺気に近い、鋭い視線を放っている。

「……」

 タオロンはごくりと唾を呑み、全身の筋肉をぐっと引き締めた。

「すまん」

 太い声がひとこと、そう告げた。

 銀光の揺らぎが、ぴたりと止まる。その後ろで、〈ムスカ〉が底意地の悪い笑みを浮かべる。

「リュイセン」

 ルイフォンは、自分を守るように立っている兄貴分の名を呼んだ。

「なんだ?」

 緊張に強張った返答には、焦りが混じっている。

 リュイセンは、この状況に窮している。負ければ当然、命の保証はない。だが勝ったところで、ファンルゥが殺される。どちらも選べないのだ。

「俺たちとタオロンは決別した」

「なっ……!? ルイフォン、お前……!」

ムスカ〉への警戒のため、リュイセンが振り返ることはなかったが、明確な動揺が伝わってきた。批難めいた口調に、しかしルイフォンは構わず、続けてタオロンに声を掛ける。

「タオロンもだ。俺たちは、もともと敵同士だ。お前がこちらについてくれれば助かると思ったが、お前にも事情がある。別に悪くは思わない」

「ルイフォン……。すまない」

 言葉を噛みしめるように、タオロンが頭を下げる。そこへ〈ムスカ〉が割って入ってきた。

「いったい、どういう心境の変化ですか?」

 そう言って、訝しげに目を細める。

ムスカ〉の弁は、もっともである。ルイフォンは先ほど、タオロンに仲間になれと言ったばかりだ。未練も見せずに、あっさりと掌を返せば、不審に思うのは当然だろう。

 ルイフォンは左手で鳩尾みぞおちを押さえ、不覚だったとばかりに不敵に嗤う。低い位置からでありながら、好戦的に〈ムスカ〉をめつけた。

「お前が『殺し合い』を求めているのなら、俺たちは腹をくくらなきゃ死ぬ、ってだけだ」

「ふむ」

「やろうぜ? お前の言う『殺し合い』を――」

 癖の強い前髪の間から、ルイフォンの猫の目が光る。彼は、右袖に暗器の刃を隠したまま、上着の内側からナイフを出した。

 リュイセンの影に潜みながら間合いを測り、ルイフォンは一気に駆け出す。一本に編んだ髪が、彼を追うように真後ろになびき、先端で金の鈴を踊らせた。

「!?」

 息を呑んだのは、タオロンだった。

 彼は自分の懐に飛び込んできたルイフォンを、信じられないものを見る目で見つめ、慌てて借り物の刀で応戦する。だが、そのときにはルイフォンはさっと身をかがめ、床を転がりながら下がっていた。

「リュイセン、頼む! お前が動いてくれなきゃ、俺たちは死ぬ!」

「! ルイフォン!」

 刹那、リュイセンの足が床を蹴った。

 彼自身は、タオロンと戦うことにまだ納得していない。けれど直感が、弟分の指示に従えと命じた。

 神速の煌めきが、タオロンを襲う。

 タオロンもまた、愛用の大刀より遥かに軽い刀をしならせ、高速で迎え討つ。

 ――!

 火花が散った。

 双子の刀が切なげな悲鳴を上げる。味方であるはずの相方を傷つけたくないのだと、嘆きの声を響かせる。

 しかし、所持者たちは流れを止めることなく、続けて一合、二合と斬り結ぶ。少しでも遅れれば斬られると、彼らの肉体は互いに知っているのだ。

 ルイフォンは、激しく剣戟を交わすふたりの向こう側の〈ムスカ〉を盗み見た。奴は満足げに口の端を上げていた。そのことに、ひとまずほっとする。

 タオロンは正義馬鹿だが、愛娘のためになら、いくらでも非情になれる。

 おそらくは、今までに何度も、意に沿わぬ殺生を行ってきたはずだ。親しみのある粗野な口調に童顔が相まって、明るく気のいい若造に見られがちだが、本当は辛酸をめながら、たった独りでファンルゥを守り育ててきたのだ。

 だから、タオロンは割り切ることができる。

 けれど、リュイセンには無理だ。

 ファンルゥに対して子供は苦手だと尻込みしたのに、彼女の気持ちを汲んでやり、存在しない病弱な『あの子』に届けるからと、絵まで預かってやっていた。

 縁のない他人には冷たいくせに、一度、認めると途端に情に厚くなる。そんなリュイセンが、ファンルゥを切り捨てられるわけがない。

 けれど。

 それは、ルイフォンだって同じだ。

 タオロンのことも、ファンルゥのことも、諦める気はない。

 だからこそ、〈ムスカ〉に悟られてはならないのだ。

『ルイフォンとリュイセンにとっても、ファンルゥは人質となり得る』ことを――。

 激しい斬撃の応酬は、苛烈さを増していく。

 リュイセンが旋風を巻き起こし、タオロンへと襲いかかる。無駄のない軌道は、芸術的なまでに美しく。そして鋭く、大気を斬り裂く。

 神速の一撃を、しかしタオロンは正面から、しかと捕らえた。

 慣れない刀に、愛用の大刀ほどの強度を期待してはいけない、との思いからだろうか。彼は力ずくでは押し返さない。すぐに横に流しつつ、体幹の安定の良さを活かし、間髪をれずに踏み込む。

 鍛え上げられたタオロンの太い腕が、更に膨れ上がったかのように見えた。

 鈍いうなりを上げ、タオロンの猛撃がリュイセンへと叩きつけられる。細身の刀身が、勢いに呑まれたかのようにたわんだ。

 けれどリュイセンは、タオロンの豪腕から繰り広げられる圧倒的な力を、そのまま受け止めるような愚は犯さない。猪突猛進の剛力を受け流すべく、わずかに構えの角度をずらす。

 光が弾けた。

 輝きを伸ばしながら滑っていく刀に、タオロンは息を呑む。

 もしも、手にしているのが彼の愛刀であれば、力のままに押し斬ることができただろう。けれど、いつもよりも軽い一刀は払いのけられ、タオロンの上体が、ほんの一瞬、均衡を崩す。

 リュイセンにとって、またとない好機。

 しかし、彼の次の手は、お世辞にも神速とはいえなかった。本来、二の太刀を繰り出すはずの双刀の片割れが、タオロンの手にあるからだ。

 勝手が違うがための惑いのうちに、タオロンは体勢を整えている。

 ルイフォンの見たところ、両者の実力は互角だった。

 以前、勝負したときにはリュイセンが勝ちを収めたが、あのときはタオロンが負傷していた。リュイセン本人も、運が良かっただけであると、いつか改めてタオロンと戦ってみたいと、微笑みながら言っていた。タオロンだって、リュイセンを好敵手と認めていたような節がある。

 そんな両雄が、再び相まみえた夢の舞台――。

 けれど、ふたり共、こんな形では叶えたくなかっただろう。

 双子の刀が悲痛の声を上げるたびに、きらり、きらりと銀光が飛び散り、部屋を彩る鏡によって輝きが乱反射する。時々刻々と形を変えていく光の紋様は、まるで万華鏡を覗いているかのよう……。

 ルイフォンは、ふたりの後ろへと視線を移した。そこに、憮然とした顔の〈ムスカ〉がいる。思ったよりもタオロンが苦戦している、ということなのだろう。

 ルイフォンは、すっと息を吸い、腹に力を入れた。

「〈ムスカ〉」

 よく通るテノールを響かせると、〈ムスカ〉の眉が上がる。

「お前の相手は、俺がしてやるよ」

 そう言って、ルイフォンは好戦的に嗤う。対して〈ムスカ〉は、面白い冗談を聞いた、とばかりに鼻を鳴らした。

「ほう。あなたが私の相手を?」

「ああ。リュイセンだけに戦わせるわけにはいかないからな」

「あなたは、貧民街で私と対峙したときのことを忘れたのですか? 私にまったく歯が立たず、駆けつけたエルファンの小倅こせがれによって、命からがら助けられていたではないですか」

「さて?」

 ルイフォンは余裕の笑みを浮かべ、挑発するように言い放つ。

「俺は細かいことは気にしねぇんだ」

 ――勿論、ルイフォンは覚えている。

 まともにぶつかれば、あっさり返り討ちに遭うのは目に見えている。貧民街での出来ごとは、忘れ得ない屈辱であり、教訓だ。

 それでも――。

「今度は、俺が勝つさ」

 ルイフォンは口角を上げる。

 何故なら、タオロンとファンルゥを光の中へと救い出すには、それしかないからだ。

『リュイセンとタオロンの力は、拮抗している』

 つまり、簡単には決着がつかない。

 すなわち、しばらくの間は、『どちらも負けることがない』。

 だから、勝敗が決まる前に、ルイフォンが〈ムスカ〉を倒す。

『タオロンの敗北が決定するまで』は、ファンルゥの無事が保証されているのだから。

 ルイフォンはナイフを構えたまま、間合いを取るように後ろに下がった。

「得意のナイフ投げですか?」

 威勢のよい啖呵を切りながら遠距離からの攻撃とは腰抜けだと、〈ムスカ〉が揶揄するように嗤う。力の差を誇示するためにか、奴から積極的に動く気はないらしい。

 ルイフォンは何も答えない。答えてやる義理もない。

 腰を落とし、〈ムスカ〉を警戒するように睨みを効かせながら、それでも彼は、ゆっくりと離れていく。

 ルイフォンは、愛用の投擲武器を隠し持っている。狙いの正確さには自信がある。しかし、投げたとしても、リュイセンの神速を見きれる〈ムスカ〉には避けられてしまうだろう。

 だから使えない。かわされたら最後、丸腰の〈ムスカ〉に拾われる。結果として、奴に武器を与えたも同然となる。

 かといって、ナイフでの接近戦も賢い手ではない。体格の差は歴然としている。

 ルイフォンは更に下がる。

 激しいつばり合いを繰り広げるリュイセンとタオロンを挟み、〈ムスカ〉からは死角になるように位置を測る。途中、横目に化粧台の存在を把握し、椅子の配置を確認する。

 ――!

 背中が、目的のものに触れた。

『彼女』の硝子ケース――おそらく、〈ムスカ〉が最も大切にしているもの。

 だが、それこそが目的だとは悟らせない。

 彼は、硝子ケースとストレッチャーに退路を断たれ、後がないことを焦るかのような驚きの表情を作った。

ムスカ〉は、一瞬だけ、不快げに眉をひそめた。

 他人が『彼女』に触れたことを嫌悪しているのだろう。しかし、すぐにルイフォンを小馬鹿にしたように口元を歪ませる。

 ルイフォンは、自分をはばんだものの正体を確かめる仕草で後ろを向いた。

 ――その瞬間が、勝負だった。

 彼は、硝子ケースの操作パネルに手を触れ、高速で指を走らせた。

 ルイフォンと〈ムスカ〉の間では、リュイセンたちが刀を交えている。だから、手元は見えていないだろう。しかし、ルイフォンがパネルに触れたことは分かったはずだ。

「――!? 貴様ぁっ! 何をした!?」

 大音声だいおんじょうが響き渡った。

 地の底から轟くような威圧の怒りに、部屋を巡る鏡が震えた。激しく打ち合っていたリュイセンたちも、思わず手を止める。

 ルイフォンは、素早く振り返る。毛先を彩る金の鈴が、この場を一刀両断するように、綺麗な円弧を描きながら輝く。

「俺は、医学的なことは門外漢だ。けど、『酸素濃度』とか『液圧』とかいう設定値を、いい加減な値に変更することはできる。勿論、正しい値に戻すことはできねぇけどな!」

 ルイフォンは、高らかに宣告した。

 刹那、〈ムスカ〉の顔が恐怖と憤怒で、どす黒く染まった。

「『ミンウェイ』――!」

 まるで体重を感じさせない足の運びで、〈ムスカ〉が跳んだ。長い白衣の裾がはためき、邪魔だとばかりにリュイセンたちを押しのけ、一直線に向かってくる。

 ルイフォンは、横目に位置を確認しておいた椅子を蹴倒し、〈ムスカ〉の行く手に障害を作った。そして彼自身は窓に向かって逃げる。

ムスカ〉は、ルイフォンの姿など見ていない。まっすぐに『彼女』に向かう。椅子を飛び越え、ひた走る。

 怒りの矛先は間違いなくルイフォンであるが、〈ムスカ〉にとって、彼を追うことよりも『彼女』のパネルの値を適正値に戻すことのほうが、比較するまでもなく重要だった。

 実は……。

 ルイフォンは、設定など変えていなかった。

 さすがに、ミンウェイの母親かもしれない『彼女』を危険な目に遭わせるわけにはいかないだろう。

 だが〈ムスカ〉は、ルイフォンが手を下したと信じた。たとえ信じなかったとしても、自分の目で確認しなければ気が済まないはずだと、ルイフォンは読んでいた。――卑怯かもしれないが、〈ムスカ〉の気持ちを利用した。

ムスカ〉が『彼女』にたどり着く。操作パネルに手を伸ばす。

 その瞬間。

 窓際でタイミングを測っていたルイフォンは、遮光カーテンを一気に開いた。

 薄暗かった部屋に、まばゆい陽光が流れ込み、鏡に跳ね返って乱反射を繰り広げる――!

まぶし……!」

ムスカ〉の口から声が漏れた。

 ――と同時に、まぶしすぎる光量によって、操作パネルの表示が薄ぼんやりとしか見えないことに気づく。

「お、おのれ……!」

 屋外での携帯端末の使用の際に、画面の光度を調整しないと非常に見にくくなる。ルイフォンにとって身近な不自由を利用した、たわいのない奇策。

 しかし、一刻も早く『彼女』の安全を確保せねばと焦る〈ムスカ〉には、効果てきめんだった。

ムスカ〉は、完全に動転していた。窓辺から舞い戻ってきたルイフォンが、背後を取っても気づかぬほどに。

 室内になだれ込む、燦々さんさんと輝く太陽の光

 この光は、救いの光であり、導きの光だ。

 闇に囚われているタオロンとファンルゥを救い、ルイフォンを勝利に導くための――。

 ルイフォンは、袖に隠した刃を右手に滑らせ、無機質な顔で〈ムスカ〉の背中を見やる。

 暗器に塗られた毒は、ひとたび体内に入れば、丸一日は目覚めることがない。その間に、〈ムスカ〉を鷹刀一族の屋敷まで運び込む。

 タオロンは脱出に協力してくれる。

 ファンルゥの腕輪の毒針の仕掛けは、〈ムスカ〉の脳波がスイッチだ。奴が意識を失っていれば無効。そして館の外に出れば、リモコンの範囲外で無効になる。


 ――これで、終わりだ!


 ルイフォンは無慈悲な眼差しで、肘から先を鋭く振り下ろす。

 指先から飛び出した菱形の刃が、ぎらりと煌めき、彗星のように長い尾を伸ばした……。

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