5.魂の片割れの棲まう部屋-2
ひとまず、面倒な仕事は終わった。
〈
先ほどは、この神聖な研究室に、俗人が土足で踏み込んできた。許しがたい蛮行であった。
白衣の長い裾を翻し、〈
それは、自分の
窓のない地下室に、硬い床を打ち鳴らす靴音だけが響いていた。
「……っ」
〈
本来、彼には摂政カイウォルに従う義務はない。
摂政とは、王宮で政務を執る人間である。それに対して、〈
勿論、王宮にしろ、神殿にしろ、頂点に立つのは王である。だからカイウォルとしては、摂政という王の代理の職にある自分には、〈
〈悪魔〉とは、『真の王から創世神話の真実を告げられ、それをもとに研究を行う者』だ。
〈悪魔〉たちは、打ち明けられた
だが『契約』は、王との主従関係の契りではない。あくまでも取り引きであり、『秘密』の流布を恐れる用心深い王が保険をかけているだけだ。
では、何ゆえに研究者たちが、命を預けるような『契約』を受け入れてまで〈悪魔〉となるのかといえば、見返りに魅力があるからだ。
王が提供する、潤沢な資金。どんなに人の道を外れた研究をしても許される、絶対の加護。蓄積された門外不出の技術に触れられる、唯一の手段……。
天秤の皿の左右に、命と見返りを載せたとき、そのままで見返りに傾く者はまずいない。けれど、命の皿から『良心』という分銅を取り除くことができたなら……。命の皿は、あっけないほど簡単に軽くなる。
すなわち、〈悪魔〉とは、『研究のために、魂を捧げた者』。
〈七つの大罪〉の研究者が、『悪魔』と呼ばれる
しかし、あの摂政は禁秘の技術の崇高さも、研究への高潔なる情熱も、まるで理解していない。カイウォルの頭にあるのは、権力にまつわる利害関係だけだ。
奴は、我欲の塊だ。
〈
それでも〈
恒久的な関係を持つつもりなど毛頭ないが、彼は、ある意味で『まだ、生まれたばかり』だ。現状について、知らないことが多すぎる。『独り立ち』するまで、もう少し時間がほしい。
だから、手を組む。
〈
カイウォルは、〈
対等な関係であるはずだ。――それが、高慢な
そして、上流階級の人間を相手にする場合、適当に機嫌をとっておいたほうが扱いやすいことなど、〈
彼は、がりがりと掻きむしるように頭を掻いた。そして何気なく、抜けて指に絡まった髪を見やる。
黒い毛に混じり、白髪が一本、きらりと光った。
「……」
三十代の記憶を持つ彼にとって、五十路手前のこの体は、肉体的にも精神的にも苦痛だった。研究日誌を付ける際に、老眼が混じっていることに気づいた日には、おぞましさに吐き気すらもよおした。
こんな『自分』という存在を作ったホンシュアを恨んだ。
何もかもが宙ぶらりんなまま、勝手に死んだ彼女が憎かった。
そして、姿を見たこともないホンシュアの本体、鷹刀セレイエを呪った。
すべての元凶は、『デヴァイン・シンフォニア
彼女は今どこにいて、何をしているのか。
彼女は間違いなく、
〈
経過は順調だった。あと少しで凍結保存できるだろう。
ここで初めて、〈
『ライシェン』は、摂政カイウォルへの切り札という『駒』ではあるが、同時に〈
〈
斑目タオロンが来たのだろう。
〈悪魔〉でも
そして、机に向かって書き物をしているふりをしていると、ほどなくしてタオロンが研究室の扉を叩く。
「待っていましたよ」
〈
「まだ館の中に客がいるようだが、今でいいのか?」
「構いません。もう摂政殿下は、研究室の視察を終えられましたからね」
淡々と、そう答える。
タオロンのことは、先ほど〈
あんな埃っぽい部屋に、いつまでも彼女を置いておけるわけがない。一刻も早く、この清浄な研究室に戻すべきだった。
――〈
そして、ここに移り住んだばかりのころに見つけた、王妃の支度部屋に彼女を連れて行くことを思いついた。豪華な衣装や、立派な化粧台のある、彼女にふさわしい美しい部屋だった。
それが今朝、数カ月ぶりに訪れて驚いた。
すっかり埃にまみれていた。かといって、今更、場所を変える余裕もなく、そのまま彼女を置いてきてしまったのだ……。
『ライシェン』には、布を掛けてタオロンの目を誤魔化すにとどめ、『ミンウェイ』のことは手間を掛けて、丁重に別室に移す。ここに、ふたつの硝子ケースに対する、〈
「それでは行きましょうか」
〈
狭く暗い地下通路に、ふたつの足音が
しばらく行くと、階段にたどり着く。上階に繋がる、唯一の手段だ。
地上の階にはエレベーターが完備されているが、地下には通っていない。地下の研究室は〈
そして、この階段こそが、『ミンウェイ』の移動に、タオロンが必要となる理由だった。
『ミンウェイ』の大型の硝子ケースには、相応の重量がある。運搬にはストレッチャーが不可欠なのだが、車輪は階段を越えられない。
故に、ここだけは、ふたりがかりで人の手で、となるわけだ。
今まで、〈
しかし、今日だけは別だった。
〈
小生意気な
あの子供は、藤咲メイシアの異母弟だ。〈
そう――。
あの子供は、『藤咲メイシア』の異母弟なのだ。
摂政カイウォルが、あの餓鬼を囲い込もうとするのには政治的な意図もあろうが、『デヴァイン・シンフォニア
摂政は、藤咲メイシアが生きていることを知っていた。
もしや奴も『藤咲メイシアの正体』を知っているのだろうか……?
〈
そうであれば、摂政がなんらかの行動に移る前に、藤咲メイシアを手に入れる必要がある――!
「……っ」
知らずのうちに肩に力が入っていたことに気づき、〈
冷静さを取り戻し、後ろにいるタオロンに不審に思われなかったかを、少しだけ気に掛ける。イノシシ坊やになんと思われようとも構わないのだが、余裕のないところを他人に見せるのは、彼の美学に反するからだ。
背後の様子を探り……〈
タオロンの気配が揺れていた。
口数の多い男ではないので、黙々とついてくるだけなのは不思議ではない。しかし、妙な緊張感を身にまとっている。無理に心を落ち着けようとして、かえって気を乱しているのが明らかだった。
「どうかされましたか?」
「……っ! いや……何も!」
振り返った〈
それは、ルイフォンたちが来ていることを聞いた彼が、平常心でいられなかったためなのだが、当然のことながら〈
脅えたようにも見えるその仕草に、だから〈
今朝、『ミンウェイ』を王妃の部屋に連れて行くとき、彼女を初めて見たタオロンは、〈
おそらく、彼女を人体実験の被験者か何かだと思ったのだろう。だから、視察に来るという摂政の目から、彼女を隠そうとしている。そう解釈したのだ。
タオロンは、〈七つの大罪〉の技術を『人として許されない』と言って嫌悪している。いつだったか、彼の怪我の治癒に〈七つの大罪〉の技術を用いたと教えたら、自分の傷跡を穢らわしいものを見る目で睨みつけていた。
それでも『ミンウェイ』を運んでいる間、口ではひとこともなかった。
自分の立場をわきまえていて、余計なことを言ってはならぬと分かっているのだ。
典型的な『非捕食者』だ。これでは斑目一族にいいように利用されていたのも、仕方ないといえよう。
〈
娘さえ人質に取っていれば、非常に従順な部下であることを〈
条件つきであるのは承知していたが、〈
「『彼女』は、私の妻ですよ」
わずかに笑みをこぼしながら、〈
わざわざ、タオロンに教えてやる必要はないのは分かっている。ただ、得体の知れない不気味な『もの』を見る目を、彼女に向けてほしくなかったのだ。
「二十歳になる前に亡くなりましたけどね」
「――!」
「禁忌に触れたと、私を責めますか?」
「……っ、俺は――」
〈
もとより、どんな返答も期待していない。だが、これでタオロンは、彼女のことを『人』として見るようになる。そういう男だ。
実のところ、あの『ミンウェイ』が何者なのかは、〈
彼女は、彼がホンシュアによって蘇らされたときから、彼のそばに居た。彼が目覚めた手術台の近くに、彼女の硝子ケースが置かれていたのだ。
彼が知っていることは、それだけだ。けれども、彼女がミンウェイである以上、彼の愛する者だった。
押し黙ったままのタオロンを残し、〈
「死んだ〈天使〉ホンシュアが、俺に尋ねたことがある」
「〈
タオロンの口から出るにしては、意外な名前だった。〈
「『もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったら、生き返らせたいか』――と」
「……!」
それは、〈
心を撃ち砕かれたかのように、〈
そしてタオロンもまた、次の句を詰まらせていた。猪突猛進の彼にしては珍しいことだった。
「……つまり、『彼女』は……。いや、なんでもねぇ……」
何かを振り切るように頭を振り、タオロンは太い眉に力を込めて言葉を打ち切る。
沈黙が流れた。
ホンシュアは何故、そんなことをタオロンに問うたのだろう。〈
「ああ……、そうでした。あなたも妻を亡くされていましたね」
その呟きは、特にタオロンに向けたものではなかったのだが、そばにいた彼は当然、自分に向けられたものだと解釈した。
「『妻』じゃねぇよ。俺は、籍も入れてやれなかった。――糞が……」
毒づいて、そっぽを向く。地下通路の薄暗さに隠されているが、おそらく最愛の人を想う顔をしているのだろう。
妻に尽くせなかったことを後悔しているのだ。……彼も。
でも――。
「あなたは『生き返らせたいとは思わない』と、答えたのでしょう?」
〈
「ああ。……何故、分かった?」
「簡単なことです――」
不器用で直情的な彼が、禁忌の技術を受け入れるわけがない。
「――あなたが『悪魔』ではないからですよ」
それだけ告げると、〈
上階から漏れてきた光が〈
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