6.一条の輝き-1
遮光カーテンから漏れた陽射しが、壁の姿見に弾かれ、化粧台の三面鏡で乱反射する。
そうして、鏡で彩られた空間は、淡く幻想的な光景を描き出す。
そう――。
硝子ケースの中で優雅に眠る、裸体の美女の姿を……。
浮き立つように照らされた美貌は、ミンウェイに酷似していた。けれど、彼女よりもずっと年上で、ちょうど彼女の母親くらいの年齢に見える。
『彼女』は、いったい何者なのか?
『彼女』を王妃の部屋に連れてきた〈
切ない憶測が胸をよぎり、ルイフォンは『彼女』から目を離せなくなる。
「――……」
唐突に、部屋が陰った。しかし、次の瞬間には、何ごともなかったかのように、もとに戻る。
不自然な光の揺らめきに、ルイフォンの思考は遮られ、そこで『彼女』への意識が途切れた。なんのことはない。窓の外を鴉が横切っただけだ。しゃがれた不吉な鳴き声が聞こえてくる。
「……余計なことを考えている場合じゃなかったな」
ルイフォンは、自らの頬をペしんと叩いた。よりによって鴉とは……などと思う心も振り払い、頭を切り替える。
ここは危険だ。いずれ、〈
彼の指先が、携帯端末の上を滑り出した。
そのときだった。
「ルイフォン」
緊張を帯びた声で、リュイセンが彼の名を呼んだ。ただならぬ様子に、ルイフォンの心臓が跳ね上がる。
「どうした?」
「今、かすかに機械音が聞こえた。エレベーターが動いている」
「!」
嫌な予感に、ルイフォンは瞬時に端末の映像をエレベーターのカメラに切り替えた。……そこに映ったのは、斜め上のアングルからのふたりの人物だった。
「リュイセン、これ!」
「――っ!」
画面を押し付けられたリュイセンの両目が見開かれ、口から短い息が漏れる。
〈
この階には〈
――否。
「奴は、『彼女』を迎えに来た。タオロンは手伝い、ってところだろう」
ルイフォンの断言に、リュイセンも頷く。
移動先をゆっくり検討している余裕はない。ともかく、一刻も早くこの部屋を出よう。――ルイフォンが、そう続けようと思ったときだった。
「ルイフォン。ここで奴を迎え討つぞ」
「――え?」
ルイフォンが驚きの声を上げている間にも、リュイセンは上着を脱ぎ捨て、身軽になる。入口のほうへと向き直った横顔は、風を斬り裂くように研ぎ澄まされており、野生の獣の気配を身にまとっていた。
臨戦態勢に入ったのだ。びりびりとした空気の震えに、ルイフォンは圧倒される。
「今から部屋を出ても、廊下で鉢合わせするだけだ。それなら、ここで待ち構えているほうがいい」
「リュイセン……」
今やるべきことを見極めたときの兄貴分は、恐ろしく決断が早い。
「……そうだな……」
相槌を打ちながら、ルイフォンは思案する。
予定とはだいぶ違うが、この状況は決して悪くはない。
映像から、相手はふたりとも丸腰だ。懐にナイフくらいは持っていたとしても、完全武装のこちらに分がある。
「……あ。つまり、そうか……!」
ルイフォンは気づいた。
「そういうことに……なるのか!」
ぶつぶつと呟く弟分に、リュイセンが、はっとしたように振り返る。
「すまん。ひょっとして、昼間から行動を起こすと、ハオリュウに迷惑が掛かるのか?」
会議のときに、さんざん配慮が足りないと言われたのを思い出したらしい。兄貴分が気まずそうに眉を曇らせる。
「いや、その点は大丈夫だ」
ルイフォンは即答した。それよりも、自分の気づいた事実に興奮していた。
早くその話をしたかったのだが、リュイセンの狐につままれたような顔が、『何故、大丈夫と言い切れるのだ?』と問うている。生真面目な兄貴分は、納得しないことには落ち着かないだろう。
ルイフォンは、まずはリュイセンの疑問に答えることに決め、ちらりと『彼女』を見やった。
「ここに、『彼女』がいるからだ」
「え?」
「〈
「ええと、つまり……。他の場所ならともかく、この部屋での出来ごとだけは、他でもない〈
「そうだ。――で、ハオリュウに迷惑が掛かるのは、摂政に俺たちの侵入がばれ、ハオリュウの手引きを疑われたときだけだ。ほら、問題ないだろ?」
「なるほど……」
突然の鉢合わせには慌てたが、冷静に考えると現状は願ってもいない好機だった。
「今なら、最高の布陣が敷けるんだ」
「最高の布陣?」
「ああ、実はな……」
ルイフォンは、先ほど気づいたことを兄貴分に告げ、にやりと不敵に嗤う。リュイセンは驚きの表情を見せ、そして彼もまた、ふっと口元を緩めた。
廊下に人の気配を感じた。〈
ルイフォンは息を潜めた。
けれど、〈
だから、逃げも隠れもしない。
王妃の部屋の作りは、扉を開けてすぐが、まるで高級ブティックのような衣装部屋。そして、カーテンで仕切られた奥が、化粧台や姿見の置かれた、身支度を整えるための場所になっている。大振りのテーブルとソファーまで用意されているので、控え室のような使われ方をしていたのだろう。だからこそ、〈
〈
激しい戦闘になる前に片をつけるつもりだが、万一、リュイセンが刀を振るうことになれば、広い空間のほうが望ましい。それに、『彼女』の存在が牽制になるかもしれないと考えた。
仕切りのカーテンの向こうから、扉を開ける音が聞こえてきた。
ルイフォンとリュイセンは、目線を交わし合う。
いよいよだ。
廊下から、ひやりとした空気が流れ込む。それと同時に、ふたつの狼狽の息遣いを感じた。
「誰かいますね」
低い声が響いた。
神経質に
〈
期待通りの展開だ。
ルイフォンが猫の目を細めたときのことだった。
ばさりと。
仕切りのカーテンが薙ぎ払われた。
「……なっ! ……き、貴様ら……!?」
白髪交じりの髪がカーテンの起こした風に巻き上げられ、青白い血管の浮き出た額があらわになる。顔は驚愕に彩られ、唇はわなわなと震えていた。
〈
だからといって、あとに引く気などさらさらない。上の世代には思うところがあるようだが、奴に与えるものは『死』のみだと、総帥イーレオが一族の方針として宣言している。
聞き出したい情報が山ほどあるから、今はまだ殺さない。
だが――。
ここで、
『彼女』の硝子ケースを背に、ルイフォンとリュイセンは、まっすぐに前を見据えた。
「〈
ルイフォンのテノールが、静かに〈
不意を
実際、予定通りに夜中に仕掛けるのであったら、無言の一刀で斬りつけるつもりだった。
けれど――。
ルイフォンは、〈
「タオロン。今すぐ、ここで――〈
「!?」
タオロンの太い眉がぴくりと上がり、眼球が迷子になったかのように落ち着きなく動き回った。同時に、〈
どちらも等しく、『強い当惑』と呼ぶべきものであったが、ふたりの感情はまったく異なる色彩をはらみ、不協和音を奏でた。
「タオロン、俺たちに協力してくれ。俺たちは〈
ルイフォンは重ねて呼びかける。
〈
〈
だから、タオロンがこちらにつけば、〈
〈
けれど、無駄に傷を負わせることを喜ぶような、性根の腐った人間に、ルイフォンはなりたくなかった。
憎いからこそ。
報復が、甘美な香りを放つからこそ。
自分を律するためにも。自分の矜持にかけても。
『〈
それこそが、武を避け、策を弄する人間である〈
鍵となるのは、タオロン。
本来の作戦であれば、四六時中、見張られているタオロンに、あらかじめ接触することは不可能だった。だから、事後承諾で味方にして脱出をはかる予定だった。
けれど今なら、きちんと筋を通して、タオロンと手を組める。仲間として手を取り合って、〈
今回の作戦の目的は、勿論〈
けれど、もうひとつある。
それは、タオロンをこちらへと――光の中へと救い出すこと。
この布陣は、ふたつの目的を同時に果たす、最高の布陣だ――!
「――っ」
何か言おうと、タオロンが口を開きかけた。しかし、それを遮るように〈
「鷹刀の子猫。何をふざけたことを言っているのですか?」
「〈
「タオロンは、彼の意思で、私のもとにいるのです。何しろ私は、彼と娘を斑目一族の追手から擁護しているのですから。彼は、その恩を忘れるような男ではないでしょう?」
明らかに圧力をかけるような物言いに、タオロンは顔を歪め、ぐっと唇を噛む。
「勝手を言いやがるな! 斑目から守っているってのは、嘘じゃねぇかもしれないが、ファンルゥを人質にタオロンをいいように使っている、ってのが実情だろ! そんな関係に、恩義を感じる必要はねぇ!」
〈
「タオロン! シャンリーが――警備会社の『草薙』が、お前を雇いたいと言っている」
「……っ!?」
タオロンの体が、びくりと動いた。浅黒い肌の色合いに変化はないが、その表情には確かに明るい色味が差した。
「ファンルゥと一緒に、住み込みでだ。お前の仕事中はファンルゥの面倒をみてくれるし、ファンルゥが独り立ちできるよう武術も仕込んでくれるそうだ」
「……!」
小ぶりなタオロンの目が、太い眉を押しのけるかのように極限まで見開かれた。大きく息を吸い込んだまま半開きで動きを止めた口が、無言で『信じられない』と告げている。
「タオロン、俺たちの手を取れ!」
――やっと、言うことができた。
初めて会ったとき、タオロンはメイシアを狙う敵であった。けれど、正義馬鹿の言動に圧倒された。憎むどころか、好感を持った。
敵対する立場であるにも関わらず、彼は何度も助けてくれた。正しくあろうとする彼の魂は、いつだってルイフォンたちに近いところにあった。
ずっと、ずっと。
すれ違いながら、響き合っていた。敵であるのに、敵ではなかった。
ルイフォンは、ずいと一歩、前に迫る。
その拍子に、背中で編まれた髪が跳ねた。先を留める金の鈴が、鏡の光をぎらりと反射させる。その輝きは、ルイフォンの強い眼差しにそっくりだった。
「タオロン、俺たちのところに来い!」
〈
闇に捕らわれているタオロンとファンルゥの父娘を、光の側へと引き上げるように……。
タオロンは、くしゃりと破顔した。
「お前らは、本当にいい奴だなぁ……」
決して大きくはなく、むしろ囁くような呟きであった。けれど太い声は、まるで鏡に乱反射したかのように、部屋中に響き渡る。
そして、今までに、ひとつも見たことのなかったタオロンの極上の笑顔もまた、合わせ鏡によって無数に、無限に広がっていった。
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