3.幽鬼からの使者-1
スーリンに追い立てられるようにして、ルイフォンとメイシアは店の外に出された。その際、メイシアがシャオリエに挨拶をしていきたいと言ったのだが、あいにく来客中だとかで叶わなかった。
来客というのは嘘だろう。――ルイフォンは、そう疑う。
今回のことはシャオリエが引っ掻き回していたのは明らかで、だから、文句を言われたくなくて隠れているのだ。
とはいえ、初めはシャオリエに激怒したものの、今ではこれでよかったのだと、ルイフォンも思っている。掌の上で踊らされたようでむかつくが、シャオリエは妙手を打った。
感謝すべきなのかもしれない。――礼など言いたくはないが。だから、顔を合わせずにすんでほっとしているのは、彼のほうかもしれなかった。
そして。それよりも。
ルイフォンの心を占めるのは、スーリンからもたらされた、新たなる衝撃。
――異父姉セレイエが、〈天使〉だった。
しかも、抜け殻のようだった時期のルイフォンに会いに来て、〈天使〉の羽で彼に何かをしたという。
頭の中が、そのことでいっぱいになる……。
メイシアは、心ここにあらずのルイフォンの後ろを遠慮がちに歩いていた。煉瓦の敷石にして、数枚分ほど遅れた距離である。
蔦を這わせたアーチをくぐり抜け、シャオリエご自慢のアンティーク調の建物が見えなくなったあたりで、彼女は思い切ったように駆け寄り、ルイフォンの袖を引いた。
「ん? なんだ?」
そう応じたものの、彼は
「あの、ごめんなさい。……ルイフォンがショックを受けているのは分かるけど、気をつけないと……」
このあたりは治安が悪いから。そういうことだろう。
「……ああ」
頭を切り替えるべきだなと、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。
「あ、あの、ね」
うつむき加減だったメイシアが、唐突に、ぐっとルイフォンを見上げた。長い黒絹の髪がさらさらと後ろに流れ、久しく直視できなかった顔があらわになる。
眉の下がった弱り顔からは、話しかけることをためらい、けれども懸命に声を掛けた――そんな心の葛藤がありありと読み取れた。彼女は、彼の袖を必死に握りしめる。どこにも行かないで、と言うように。
その表情に、どきりとした。
「ルイフォンが来てくれて、嬉しかった。ありがとう。……喧嘩して、ごめんなさい。……それから、あのっ。屋敷に戻ったら、一緒にいろいろ考えさせてほしいの。私で役に立つか分からないけど……」
ひと息に言って、じっとルイフォンを見つめる。黒曜石の瞳が自信なさげに揺れていた。彼が怒っていないかと、不安なのだ。
次の瞬間、ルイフォンの腕は、彼が意識するよりも先に、勝手に彼女を抱きしめていた。「きゃっ」という、小さな悲鳴など、耳に入らない。
――何をひとりで考え込んでいたのだろう。
彼には、彼女が居る。何よりも大切な、最愛のメイシアが。
「俺のほうこそ、悪かった」
「ううん。私がルイフォンのことを分かっていなかったの」
腕の中で、メイシアがふるふると首を振る。申し訳なさそうに萎縮して。
そんな顔は不要だ。それより、彼女には笑顔が似合う。
「お互い様、ってことで、喧嘩は終わりにしようぜ」
頭上に広がる青空のように、ルイフォンの声が朗らかに突き抜けた。メイシアが、こくりと頷き、「はい」と微笑む。
まったく違う世界から飛び込んできてくれた彼女。すれ違うこともあるけれど、こうやって分かり合っていけばいい。
ルイフォンは満ち足りた気持ちで息をつくと、腕の中の彼女を解放した。
――と、そのとき。メイシアの手が、ルイフォンの首へと伸びてきた。
えっ? と思ったときには、背伸びした彼女が、彼の耳たぶに唇を寄せていた。
「好き、なの。ルイフォンが。……だから、喧嘩して、ルイフォンのそばにいられなかったのが、凄く辛かったの……」
そう囁き、真っ赤になって彼から離れる。
「メイシア!?」
いったい、どうした?
ルイフォンは激しく動揺するが、すぐに気づく。
スーリンだ。彼女に何か、吹き込まれたのだ……。
――しかし、こういうことなら大歓迎である。
ルイフォンは、半歩下がったところにいるメイシアに手を伸ばし、引き寄せた。
「俺も、お前がそばにいないのは辛かった。……だから、さ――」
彼女の肩を抱き、横に並ばせる。
「――お前の居場所はここだろ?」
彼のテノールの響きにあわせ、彼女が極上の笑顔をこぼした。
シャオリエの店の付近は、
だが、ルイフォンが向かっているのは繁華街の中心部だ。少々、雰囲気の悪い道を通過せねばならないが、彼ひとりなら、まず狙われることはない。
だから、つい、いつもの習慣で歩いてきてしまった。しかし、メイシアを連れているなら、店から車を使うべきだったのだ。
今更、後悔しても遅い。
ひと目でこのあたりの
「小僧。いい女、連れてんなぁ」
ねとつく目線が、メイシアを舐める。脅えた彼女から、血の気が引いていくのが分かった。
話の通じるような相手ではない。メイシアの前で荒事をしたくはないが、先手必勝だ。
ルイフォンは無言のまま、しなやかに体をかがめて一歩踏み込み、低い位置から一気に相手の喉元に掌底を喰らわせる。
「うぐっ!?」
喉仏を正確に狙った一撃に、相手の男はひとたまりもなかった。その場にしゃがみこみ、砂まみれの地面に手をつき、激しく咳き込む。
ルイフォンは、すかさず相手の腹に蹴りを入れた――というところで、彼は、はっと気づく。
数人の男たちが、行く手を阻んでいた。そして、背後にも幾人か……。その全員が、刃の欠けたナイフやら鉄パイプやらで武装している。
「気をつけろ! あいつ、餓鬼のくせにやるぞ!」
「だが、あの上玉を見逃す手はねぇ」
「全員で行けば大丈夫だ!」
「女を狙え!」
ぎらぎらとした獣の目が、メイシアを襲う。
ルイフォンは戦慄した。彼女の細い腰を引き寄せ、緊張の面持ちで敵を見据える。
ふたりは完全に囲まれていた。そして、
突破できないことはない。
だが、多勢に無勢のこの状況で、メイシアに指一本、触れさせずに切り抜けることは……。
ルイフォンが、ごくりと唾を呑んだ。――そのときだった。
「お前ら!」
野太い声が響いた。
続いて、圧倒的な存在感を持った巨躯が、路地からぬっと現れる。
「誰だ、おま……」
男たちのひとりが
それは、彼らの『狩り』に水を差す、無粋な乱入者の顔を見知っていたためではない。――『知る必要がない』ことを、瞬時に悟ったからであった。
乱入者は、腰に
見るからに重量のある幅広の刃を軽々と振り上げる。緩やかに頭上に掲げたかと思ったら、それを竜巻のように回転させ、鋭い風切り音をうならせた。
「
強さを誇示し、余計な争いごとを避けるための刀技だということを、
腰の引けた男たちが後ずさる。大男の歩みと共に一定の距離を保って下がっていく
ルイフォンとメイシアを囲んでいた輪はいつの間にか消え去り、大男が悠然と近づいてきた。
よく陽に焼けた浅黒い肌。意思の強そうな太い眉。刈り上げた短髪と額の間に、赤いバンダナがきつく巻かれている。
大刀がひときわ激しくうなりを上げ、ルイフォンの前でぴたりと止まった。勢いに乗っていたはずの刃が微動だにしない。筋骨隆々とした太い腕の
「前も、こんなふうに出会ったな。――斑目タオロン」
ルイフォンが口にした『斑目』の名に、男たちがどよめく。それを受け、タオロンが男たちを威圧するように瞳を巡らせた。
「お前らが狙っていた獲物は、鷹刀ルイフォンだ。知っていたか?」
「な……、何っ!? ――『鷹刀』……?」
今まで、ルイフォンを餓鬼と侮っていた男たちが一気に蒼白になった。
タオロンは大刀をくるりと旋回させ、鞘に収める。その視線は、まっすぐにルイフォンに向けられていた。
何故、突然タオロンが現れたのか――。
理由は分からぬが、この登場の仕方は、偶然などではない。タオロンは、ルイフォンとの接触の機会を待っていたのだ。
情報屋によると、タオロンは〈
――つまり、〈
ルイフォンの猫の目がすっと細まり、緊張と興奮がないまぜになる。
彼にとって、
ルイフォンは男たちを睥睨し、挑発するように嗤った。
「お前たちの中に、鷹刀と斑目の争いにくちばしを突っ込む、勇気のある奴はいるか?」
タオロンとの因縁は『鷹刀と斑目の争い』ではないのだが、この際、そうしておいたほうが脅しの効果が高いだろう。彼の意図を読み取ったのか、タオロンも深々と頷いた。
「お前らの獲物を横取りするようで悪いが、こいつを俺に譲ってほしい」
そう言って、一歩前に出る。言葉の上では
「ど、どうぞ、ご自由に!」
「すまんな。では、お前らは外してくれ」
「はっ、はいぃ!」
男たちは散り散りになって逃げ出した。初めにルイフォンに倒された男も、仲間に引きずられながら、なんとか退散していく。
すっかり男たちの姿が見えなくなったのを確認すると、ルイフォンは改めてタオロンと向き合った。
「お前のおかげで助かったようなもんだな。とりあえず、礼を言っておく」
それで、なんの用件だ、と切り出そうとしたときだった。
ざっと音を立て、空気が動いた。
「!?」
気づいたら――。
……タオロンが、足元で土下座していた。
「タ、タオロン!?」
ルイフォンは仰天した。
タオロンの巨躯が、力いっぱい地面に伏している。勢いよく地べたに頭をこすりつけたためか、刈り上げた短髪が土埃と砂をかぶっていた。
……理解できない。
むしろ、不意に襲いかかられたほうが、よほど納得できた。
タオロンは、無言で頭を下げ続けた。風に巻かれた土埃になぶられても、微動だにしない。
「おい、なんの真似だよ?」
不可解な状況に焦れて、ルイフォンが尋ねる。
「俺が、何をどう謝罪しても、それは言い訳にしかならない」
「謝罪?」
更なる疑問に、ルイフォンは眉を寄せる。
「自己満足でしかないのは分かっている。だが、頭を下げさせてくれ」
いったい、なんだと言うのだろう?
最後にタオロンと会ったのは、メイシアの父コウレンを救出するために、斑目一族の別荘に潜入したときだ。
あのとき既に、コウレンは厳月家の当主の〈影〉にされてしまっていた。そのことを知っていたタオロンは、いわば『偽者』であるコウレンを連れ帰らせまいと、殺害しようとした。――
「もしかして、メイシアの親父さんが〈影〉にされたことを、斑目の一員として責任を感じているのか……?」
「ああ。あの技術は、人として許されねぇ。……〈七つの大罪〉と関わるのは、人間をやめるのと同じだ」
タオロンは、そう言い捨てた。
「タオロンさんが悪いわけではないでしょう……?」
一歩下がったところで、遠慮がちに見守っていたメイシアが口を開く。
「俺は、お前にそんなふうに言ってもらえる資格なんてねぇ……。どうしようもねぇ、最低野郎なんだ……」
タオロンは、拳を地面に打ち付けた。ただならぬ様子に、メイシアが「タオロンさん?」と、不審の声を上げるも、彼はそれを聞き流す。
「お前らに会いに来た用件を言おう……」
歯切れ悪くそう言い、タオロンはゆっくりと立ち上がった。
「まず、はじめに。死んだホンシュアという〈天使〉からの伝言だ。――あの女は、お前らに謝りたいと言っていた」
「――!?」
予想外のことに、ルイフォンとメイシアは顔を見合わせた。
「本来の計画では、藤咲メイシアの父親が〈影〉にされることはなかったそうだ。それが、自分の考えの甘さから〈
太い声が、淡々と告げる。
「〈
タオロンは、そこで言葉を切った。
そして、太い眉を寄せ、突き刺さらんばかりの真剣な眼差しをルイフォンに向ける。
「『ルイフォン、あなたが幸せになる道を選んで』――それが、あの女の……遺言だった」
「…………っ」
何を言えばいいのか。何を感じればいいのか。まるで分からない。
ホンシュアは、セレイエの〈影〉だ。またしても、セレイエだ。
支離滅裂な情報が乱雑に押し込まれ、思考が飽和状態だ。耳鳴りがして、ルイフォンは頭を抱え込む。
「ルイフォン……」
メイシアが彼の顔を覗き込み、ぎゅっと彼の手を握った。
「……ああ、大丈夫だ」
ルイフォンもまた、手を握り返す。
見栄かもしれない。だが、彼女がそばにいれば、平気だと答えられる。彼女がそばにいることが、彼を強くする……。
タオロンは、その場を動かぬまま、そっと背を向けた。
薄汚いこの道を囲う灰色の塀を見るともなしに見やり、彼は息をつく。そして、ふと思い立ったように頭の赤いバンダナに触れ、結び目をきつく結び直した。
それから彼は、意を決したように太い眉に力を入れると、体を半回転させて再びルイフォンたちと向き合う。ざりっと、砂を踏む音を大きく響かせたのは、彼らの注意を自分に促すためだった。
「そして、次の――本来の用件だ。……俺は、〈
苦しげに呻くように、タオロンは吐き捨てた。
ルイフォンの心臓が跳ね上がり、メイシアを背中に庇う。
以前、タオロンと対峙したときは、シャオリエから貰った筋弛緩剤があった。だから、かろうじてタオロンを倒せた。けれど、純粋な戦闘では、万にひとつも勝ち目はない……。
ルイフォンの額を冷や汗が流れる。
「すまん……、本当に……。俺は〈
悲痛な声が響いた。
単純明快なタオロンが、自分の意に沿わない行動をする理由は、ただひとつ。愛娘ファンルゥのため。人質になっているのだろう。
だから、絶対に引くことができない。
タオロンは腰の大刀を抜き、構える。
「鷹刀ルイフォン。俺は、お前にも藤咲メイシアにも、怪我をさせたくない。だから、本当は『黙って従ってくれ』と言いたい。……だが、お前相手に、それは無意味だと分かっている」
「タオロン……」
「……本気で行くぞ!」
刹那、タオロンの闘気が膨れ上がった。近くにいるだけで、背筋を悪寒が突き抜ける。
「メイシア、下がれ! お前は逃げろ!」
足のすくんでいる彼女を、半ば押し出すようにして、後ろに追いやった。
敵う相手ではない。だから、真っ向から勝負してはならない。
ルイフォンは懐から、いつも携帯しているナイフを取り出した。
接近戦用の武器だ。しかし、
だから今度は、素直に相手に向かって投げる。ただし、正面からはぶつからない。
身の軽さを活かし、塀を蹴って高く跳ねる。できれば、奴の背後に回り込み、奇襲をかけるように、死角をついて……。
――一撃必殺だ。弾かれたら次の手はない……。
ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。
「ル、ルイフォン、待って!」
背後からメイシアが叫んだ。
「早く、逃げろ!」
「ううん。〈
「駄目だ!」
ルイフォンが、そう叫び返したときだった。
「そろそろ、私の出番ということで、いいか?」
笑いを含んだ声が、灰色の塀の裏側から聞こえてきた。男であるなら高めだが、女声のアルトにしては、やや低い。
声の主は、長い足を綺麗に揃え、ひらりと塀を乗り越えた。音も立てずに地面に降り立つ
「シャンリー様!」
メイシアが叫んだ。
それは、繁華街を訪れるにあたり、彼女が依頼した護衛の名前だった。
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