2.伏流にひそむ蛇-4

 癖の強い前髪の隙間から、切れ上がった目が鋭く光る。猫背が強調される特徴的な歩き方で、大股で部屋に乗り込んでくる。

 険しい表情のルイフォンを前に、メイシアは、どんな顔をすればいいのか分からなかった。

 本心を言えば嬉しい。

 どうしようもないくらいに嬉しくてたまらない。彼が来た理由は分からないけれど、自分を追ってきてくれたのだから。――『勝手にしろ』と突き放したのに。

 ……怒っているのだとしても、それでもよかった。正面から憤りをぶつけられることと、黙って背中を向けられることでは、天と地ほども違う。彼女はそれを、ここ数日で思い知った。

 ルイフォンは、鍵を開けたスーリンを扉で放置したまま、まっすぐにメイシアを目指していた。

 彼の怒りの矛先は自分に向けられるはずだ、と信じていたスーリンは焦り、蒼白になった。

 仕掛け人はシャオリエだが、スーリンはこの乱痴気騒ぎに一役買っている。やはり、責任を感じざるを得ない。けれど、「ルイフォ……ン」と、呼び止めようとするも、かすれた声は彼の耳には届かなかった。

 ルイフォンが、メイシアのいるテーブルまでたどり着いた。

 強い意思を感じる彼の眼差しを、メイシアは全身で受け止めた。その瞬間、涙がこぼれ落ちた。自分でも驚き、慌ててそれを拭う。

 ルイフォンもわずかに表情を変える。だが、彼女の性格を考えれば当然ともいえることで、動揺は一瞬だけだった。

「メイシア、立ってくれ」

 よく通るテノールが響き、メイシアの目の前に、ルイフォンの手が差し伸べられる。

 彼女は、椅子から彼を見上げた。その拍子に、新たなひとしずくが頬の曲線を伝って流れ落ちる。

 彼の意図が分からない。だが、問い返すこともできずに、迫力に押されるままに彼の言葉に従い、立ち上がる。

 ――けれど、彼の手に触れることはできない。その資格はないと思った。

「……っ」

 ルイフォンの、声を詰まらせた息遣い。そして、傷ついたような顔。

 それらを感じた瞬間、メイシアの心臓が、どきりと跳ねた。気持ちが激しく振動する。しかし、身がすくんで動けない。

 彼の手が、力なく降ろされた。そして、深い溜め息が落とされる。髪を掻き上げ、「スーリン」と、相手に背を向けたまま、彼は声を掛けた。

「初めに確認しておくが、お前がメイシアを呼び出した理由――厳月家に関する情報提供の礼がどうの、ってのは、口実だよな?」

「ええ、そうよ」

 ルイフォンがメイシアに何かするわけではないと分かり、スーリンは内心で胸を撫で下ろしつつ、いつもの調子で強気に答えた。

「なら、俺が原因で間違いないな」

「まぁ……、そう、ね」

「じゃあ、もうひとつ教えてくれ。今回の件に関して、主導権を握っていたのは、シャオリエだな?」

「え?」

「違和感があった。お前は、こんなふうに誰かを呼び出したりしない。お前は優しすぎる奴だから、他人を傷つけるくらいなら、自分を傷つける」

「……」

「メイシアと喧嘩したあと、頭を冷やした。メイシアから見れば、俺はお前のことをうやむやにしたまま……にしか見えないんだと分かった。――お前が、そういう関係を許してくれていたことに気づいた」

 スーリンが短く息を呑んだ。本人の動きはそれだけだったが、巻き毛のポニーテールが大きく揺れた。

「俺は、純粋に客ってだけじゃなかった。かといって恋人でもない。お前は、俺が弱っていたときに支えてくれて……そのまま曖昧な優しい関係でいてくれた。そんなお前に――俺はずっと、甘えていた。……感謝している」

「や、やだ、ルイフォン。私は……」

「でも、いつまでもそうしているわけにはいかない。だから、ケジメをつけに来た」

 ルイフォンはそう言って、メイシアと目線を合わせるように屈んだ。そして、彼女の前に、手を差し出す。

「メイシア、俺の手を取ってくれ」

 鋭く、まっすぐな彼の視線が、強く彼女を求めていた。

 喧嘩もする、意見も食い違う、常に仲良くいられるわけではない。それでも共にあろうと、彼の手が願う。

 メイシアは、瞳を瞬かせた。今度はためらわない。

 ルイフォンの手の上に、そっと自分の手を重ねた。その手は、あっという間に、彼の掌に包み込まれ、引き寄せられ、彼女の体はふわりと抱き上げられた。

「!?」

 床から離れた足が、くうを掻く。心もとなさに、思わず彼のシャツを握りしめる。布地越しに彼の温かさを感じて、胸が高鳴る。

 ルイフォンは、とても大切そうに、メイシアをぎゅっと抱きしめた。そして、そのまま、くるりと身を翻す。一本に編まれた髪が宙を舞い、青い飾り紐の中央で金の鈴が輝きを放った。

「スーリン」

 まっすぐに相手を見据え、ルイフォンは、すっと背筋を伸ばす。いつもの砕けた表情は鳴りを潜め、本来の端正な顔立ちが現れた。

「俺は、こいつと一生、一緒に生きていくと決めた」

 誇るように、宣言する。

「そのことを、お前にはきちんと伝えるべきだった。遅くなって、すまない」

 そっと、メイシアを床に下ろし、ルイフォンは頭を下げる。スーリンの肩がびくりと上がり、高く結い上げられた髪が、くるくると踊った。

 やがて、彼がゆっくりと顔を上げると、スーリンは静かに尋ねる。

「謝るのは、遅くなったことだけよね?」

 問いかけの形に見えて、けれど、それは肯定の強要だった。

 ルイフォンは一瞬だけ声を詰まらせ、それから、「ああ」と、空に溶けていくようなテノールを響かせる。

「それで、いいと思うわ」

 スーリンの口元が緩んだ。花がほころぶような、可憐な笑顔が広がった。

「私もルイフォンも、ひとことも『愛している』なんて、言ったことがないもの。もし、『お前のことを振って、ごめん』とか言われたら、逆に困っちゃったわ。――それにね。曖昧な関係が心地よかったのは、私のほうよ」

「え……」

 どことなく強気なスーリンの口調に、ルイフォンは戸惑う。

「私の夢を忘れたの?」

「あれ、本気だったのか……?」

 思わず口走った言葉は失言だったようで、目つきの変わったスーリンに、ルイフォンは素早く「――っ、すまん」と付け足す。

 スーリンは、ぷくっと頬を膨らませ、「もうっ、失礼なんだから!」と言うが、怒っているわけではないのは、彼女の表情から明白だった。

「私は、貴族シャトーアのパトロンを捕まえて、大女優になるの! この野望の前には、恋愛はご法度なのよ」

 きっぱりと言い切り、胸を張る。それから、つぶらな瞳に少しだけ切なさを混ぜて、ルイフォンとメイシアを見つめた。

「だからね、ルイフォンとの恋人ごっこは楽しかったわ。恋心じゃないけど、でもルイフォンのことは大好きだった。いい『夢』を見せてもらったわ。……ありがとう」

「……スーリン……」

 ルイフォンが彼女の名を呼び、しかし、先が続かずに口ごもる。

 空白の時間が気まずさを招く――その手前の、絶妙な間隔で、スーリンが急に弾かれたように笑いだした。

「なっ!? なんだよ?」

「あなたたち、本当にお似合いだと思うわ」

 困惑するルイフォンに、スーリンが明るい声を出す。

 額面通りに受け取れば、祝福の言葉に違いないのだが、そこはかとなく含まれる微妙な響きに、ルイフォンは「どういう意味だよ?」ととがった声で訊き返した。

「だって、ふたりして同じように、私に向かって『恋人宣言』――ううん、『結婚宣言』? するんだもん」

「!? メイシアは、なんて――?」

 ルイフォンの目が輝き、スーリンを促す。

 メイシアは焦った。だが、『話を合わせるように』と釘を刺されている以上、余計な口出しはできず……はらはらしながら見守るしかない。その気持ちを見透かしたかのように、スーリンが人の悪い笑いを漏らした。

「メイシアったら、部屋に入ってくるなり、凄かったのよ。『事実を宣告に来ました。ルイフォンは私の男です』だって。これをもう、泣きそうな顔をしながら言うんだもん。参ったわ」

「ス、スーリンさん!」

 反射的に叫ぶ。

 ……それは言った。細かいところが省略されている気がするが、そのようなことは確かに口にした。――けれど、ルイフォンに伝えるのは……。

 真っ赤になって隣を見やれば、案の定、彼が嬉しそうに顔をにやつかせていた。もっと聞きたそうな猫の目が、うずうずと期待の眼差しをスーリンに送っている。

「そのあとの話は、ルイフォンには内緒。女の子同士の秘密よ」

「ええぇ! なんでだよ!?」

 不満顔のルイフォンを無視して、スーリンは思わせぶりに、メイシアに向けて片目をつぶった。メイシアが、ほっと安堵の顔を見せると、スーリンは「あっ」と思い出したように、ぽんと手を打つ。

「これだけは、ルイフォンに言っておかなくちゃ。――私、メイシアに『スーリンさんが好きです』って、告白されたの。すっごく真面目な顔で」

 ルイフォンは……口を半分ほど開けたまま、ひとこともなかった。メイシアは慌てて「それは……!」と言うが、スーリンにぎろりと睨まれる。

「言ったわよね?」

「……はい」

 スーリンは、ひとことも嘘は言っていない。ただ、言い方が妙に引っかかるだけで。

「そんなわけで、私とメイシアの仲が深まりまして。私は、世間知らずのメイシアに『いろいろ』教えてあげることにしたの」

「――へぇ?」

 ルイフォンは一瞬、呆けた。

 ふたりの様子から、一触即発の事態を免れたのは理解できたが、まさかそこまで仲良くなっているとは思わなかったのだろう。感嘆の思いで、メイシアの髪をくしゃりと撫で……はたと彼は気づく。

「お、おい、スーリン! お前、メイシアに何を吹き込む気だ!?」

「お嬢様育ちのメイシアの役に立つ、人生の極意。主に、男の扱い方について」

「そんなもん、教えなくていいっ!」

 メイシアは、どう話を合わせればいいのか分からず、ただ、にこにこしていた。その顔が、ルイフォンの焦りをあおっていたことは知るよしもない。

 スーリンが、笑いながら言う。

「でもね、本当に甘いお嬢様だと思ったわ。――傷つけて、地に堕とすのは簡単。でも、そんな馬鹿でもできることをするなんて、私のプライドが許さないの。それより、メイシアをいい女に育てることのほうが、よっぽど難しくて面白そうでしょ?」

 軽い口調の中に隠された、優しさ。メイシアの目が、思わず潤む。しかし、それを見たスーリンが、『そういう純粋ピュアすぎて恥ずかしい反応は却下』とばかりに、両手をぱんぱんと打ち鳴らした。

「――さて」

 表情を改め、スーリンは切り出す。ひととおり、ルイフォンとメイシアをからかった満足感のためか、すっきりとした顔をしていた。

「メイシアにはもう言ったけど、いい加減、ルイフォンにも、私がメイシアを呼び出した『本当の用件』を教えないとね」

「『本当の用件』!? ……じゃあ、今までのことは?」

 ルイフォンの目つきが鋭くなる。しかし、スーリンは眉を吊り上げ、彼以上に表情を変えた。

「ちょっと! いくら姐さんの頼みでも、嫌がらせが目的で、私がメイシアを呼び出すわけないでしょ? 見下さないでよ!」



「セレイエが、生粋の〈天使〉……? 俺に会いにきて、俺に何かをした……」

 ルイフォンは、呆然と虚空を見上げた。

「私はそろそろ仕事の支度をしなきゃ。それじゃ、またね」

 スーリンは、ぱっと立ち上がり、半ば追い出すように、ふたりを促す。

 あまりにそっけない別れの挨拶に、メイシアが戸惑っていると、スーリンが寄ってきて耳打ちをした。

「――いい女は、それとなく男の面目を立ててあげるものなの」

「え?」

「ルイフォンは、私に弱った顔を見せたら駄目なのよ? それが許されるのは、メイシアの前でだけだから。分かる?」

「!」

 はっとするメイシアに、スーリンは肩をすくめて溜め息をついた。それから、真顔になって囁く。

「覚えておいて。彼を支えるのは、あなたなの。――それと、彼が喜ぶことを、ちゃんと言ってあげてね」

 まるで、祈りのような響きだった。

 スーリンは、一瞬のうちにメイシアから離れた。思わず視線であとを追いかけると、彼女はまっすぐに立てた人差し指を唇に当て、優しく微笑んだ。

 異父姉の話に衝撃を受けていたルイフォンは、まったく気づいていない。ほんのわずかな間の出来ごとであった。



 ルイフォンとメイシアを見送ると、スーリンはシャオリエのいる奥の部屋に入った。

 中では、部屋のあるじと、あるじとは旧知という『客人』が談笑していた。客人は、スーリンの顔を見ると「それでは、私はこれで」と立ち上がる。

「あらぁ、もう帰っちゃうの? もっとゆっくりしていけばいいのに」

 シャオリエが名残惜しそうに引き止めると、客人は懐から携帯端末を出しながら苦笑した。

「今日の私は、メイシアの護衛ですから」

「でも、ルイフォンが迎えに来たし、あのふたりを邪魔するのは野暮よ」

「ええ。だから、隠れてついていくだけですよ。……どうやら車を使わずに、歩いて帰るようですからね」

 端末を確認した客人が、渋面を作る。タクシーを呼んであげればよかったかと、スーリンは少し後悔した。

「ルイフォンも一応、鷹刀の男なんだし、このへんのガラの悪い連中くらいなら、軽くあしらうわよ」

「そうおっしゃられても、私は彼の実力を知らないんですよ」

「チャオラウが鍛えたから大丈夫よ。むしろ、ちょっとくらい危険な目に遭って、お姫様を守る騎士ナイトの役をさせてあげるくらいが、ちょうどいいんじゃない?」

 シャオリエが無責任に、からからと笑う。

 如何いかにもシャオリエらしい言動に、スーリンが呆れたような溜め息をつくと、そっくり同じ顔をした客人と目が合った。

「スーリン、だったね?」

 唐突に声を掛けられ、スーリンのポニーテールが、ぴょこんと跳ねる。

「私から礼を言うのも、何か違うかもしれないが――ありがとう」

「え?」

 どうしてそんなことを? と、疑問もあらわに客人を見やるが、相手はただ目元を緩ませるだけで、何も言わなかった。

 客人は壁に立てかけてあった刀を腰にき、シャオリエに一礼する。

「シャオリエ様、失礼いたします。相変わらずのお美しいお姿を拝見できてよかったです」

「あらぁ、本当のことを言っても、褒め言葉にならないわよ」

 シャオリエがそう答えると、ふたり同時にくすりと笑った。

「私も、久々にお前に会えてよかったわ」

 シャオリエの言葉を背に、客人は部屋を出ていく。店の外まで見送るべきかと、スーリンは迷ったが、店の客ではないのと、シャオリエの雰囲気からそのまま留まった。

「さて、スーリン」

 シャオリエは、煙草盆から螺鈿細工の煙管キセルを手に取った。刻み煙草をひとつまみ詰めて、火を移し、咥える。

「誰が、『妖艶なお姉さん』だってぇ?」

 吐き出された白煙と共に、シャオリエの口から哄笑が広がった。

「姐さん! どうせ、そうだろうと分かっていましたけど、やっぱり隠しカメラで見ていたんですね!」

「あらぁ、だって、ねぇ? 面白そうな修羅場を見逃す手はない……じゃなくて、刃傷沙汰になったら面倒……、止めないといけないじゃない?」

「私が、そんな馬鹿なことするわけないでしょ! あの子をいじめても、なんの得にもならないじゃないですか! 本当に、もうっ、落としどころに苦労したんですからね!」

「そうねぇ、確かに見事だったわ。……やっぱり、お前は、大女優の器なんだわ、って思ったわ」

 シャオリエにしては珍しく、手放しの称賛だった。むずがゆさに、スーリンはそっぽを向いてうそぶく。

「別に私は、ひとことも嘘は言ってないもの。ルイフォンより歳上なのは本当だし」

 ――メイシアが、スーリンを幾つだと思ったのかは知らないが。

 それが一番、丸く収まる形だと思ったのだ。

 はなから、ルイフォンと同じ道を歩むことはないのは分かっていた。生きる世界も、望むものも、何もかもが違うから。

 だから、『運命のひと』が現れるまでの、泡沫うたかたの幻。夢の恋人でいようと思った。彼にとっても、自分にとっても――。

「……姐さん、私のために、メイシアを店に呼んだんでしょ?」

 ひたすら純粋に、ルイフォンを求めたメイシア。

 彼女にとって、生きる世界の違いなんて関係なかった。すべてを捨てて、彼のもとに飛び込んできた。

 そんな彼女を、彼が選んだ女を、スーリンが認められるように。

 そして、彼女を追いかけてくるであろう彼に、夢の終わりを告げてもらうために……。

「さて、ね?」

 シャオリエが煙管キセルをひと口吸い、旨そうに煙を吐き出した。

 煙が薄くたなびき、視界をほんのり霞ませる。いつもはくさいと、鼻に皺を寄せるだけの白煙からは、優しい夢の国の残り香がした。

 青貝の螺鈿細工を煌めかせ、シャオリエが煙管キセルをくゆらせる。

 白く漂う煙が目に染みて、スーリンはそっとまぶたを押さえた。

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