三眠蚕の貴公子-2
「申し訳ございません、藤咲様」
「いえ、ご丁寧なお断りのお手紙をいただいているのに、私のほうが無理を申し上げているのです」
……それは、とても奇妙な光景だった。
父上とハオリュウは、挨拶も早々に頭を下げ合っていた。どうやら、手紙やら電話やらで、既に何度もやり取りをしていたらしい。
母上は、祖母上を呼びに行っている。祖母上は雇われデザイナーということになっているので、取り引きのお客さんが来る場には基本的に顔を出さない。でも、ハオリュウが是非、会いたいと言ったのだ。
私はといえば、何故かハオリュウに乞われて、この応接室にいる。
彼は小振りのスーツケースを持ってきていて、杖をつきながら運ぶのは大変そうだったから、私が手伝った。そして、そのまま一緒にいることになったのである。
ちなみに、あの目付きの悪い運転手は
「実に見事なものですね」
部屋の奥の壁を見上げ、ハオリュウは溜め息をついた。彼の視線の先にある藍色の衣装は、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものだ。
「こうして間近で拝見いたしますと、ますますユイランさんの腕が欲しくなりました」
「……藤咲様。お話は大変ありがたいのですが、私どもでは、あなたのご期待にお応えできるとは、とても思えません」
楽しげなハオリュウに、いつも穏やかな父上が渋面を作る。ふたりがなんの話をしているのか、私にはまったく見えてこない。
ハオリュウが何かを依頼した。けど、父上は断った――ってのは、分かる。
でも、
私はたぶん、不満顔をしていたんだと思う。ふと私のほうを見たハオリュウが「ああ、すみません」と軽く頭を下げた。
「あなたに同席をお願いしておきながら、説明もなしというのは失礼でしたね」
急に顔を覗き込んできたハオリュウに私はびっくりして、反射的に激しく首を横に振った。左右に結い上げた髪がぺちぺちとほっぺに当たって、ちょっと間抜けだったと思う。……恥ずかしい。
「我が藤咲家が、女王陛下の婚礼衣装担当家であることはご存知でしょうか?」
「あ、うん」
声が上ずる。『はい』と言うべきなのに、私の口はすっかり礼儀作法を忘れていた。
「陛下の婚礼衣装のデザインをユイランさんに、縫製などの作業全般をあなたのお父様の会社に依頼しようと思っています」
「……え? えぇっ!?」
思わず、大声が出てしまった。
だって、女王陛下の衣装、しかも婚礼衣装なんていったら、我が国で最高の衣装ってことだ。
それを、
凄い、凄い、凄い! 信じられない! 夢みたい!
「クーティエ」
父上の低く魅惑的な声が割り込んだ。決して荒らげたりしてないけど、いつもの穏やかな甘さがない。
怒っているわけじゃないけど、その一歩手前――。
私が押し黙ったのを確認すると、父上は険しい顔をハオリュウに向けた。
「藤咲様、何ごとにも、分相応というものがございます。うちは設立十年程度の新参者。しかも、
「私が、あなたに価値を見出したからですよ」
ハオリュウは、さも当然とばかりに、まったく説明になっていない答えを返してきた。
「確かに、私の領地には、長い歴史を持つ老舗の仕立て屋が数多くあります。古い、古い……悪い因習に捕らわれた者たちがね」
彼の瞳に、闇が広がる。ハスキーボイスが、魔性の響きをまとった。
「無意味なしきたりに
ぞくっとした。
改めて、感じる。彼は違う世界で生きる人なんだ。
私の心臓が、ちくりと痛む……。
「レイウェンさん」
ハオリュウは、妙に明るい声で父上に呼び掛けた。
「さっき、クーティエさんに教えていただいたんですよ」
私!?
いきなり名前を出されて私はうろたえ、父上が眉を寄せる。
「クーティエが、何を……?」
「偉ぶった子供はよくない、と」
あ――!
勢いで言っちゃったあれを、ハオリュウは真に受けている!?
「藤咲様! 娘がとんだ、ご無礼を!」
父上が平身低頭しながら、横目で私を睨んだ。私も弁解しようと、慌てて「ハオリュ……」と呼びかけ、はっと口元を押さえる。
ハオリュウは
「おふたりとも、どうか落ち着いてください」
身振り手振りでなだめるようにして、ハオリュウが柔らかに言う。
「クーティエさんは、私に必要なことを言ってくださったんです。――私は藤咲家の当主として、あなたに認められようと虚勢を張ってきた。でも、そんな大人ぶった子供は、可愛げがないだけだったんですよ」
ざらついたハスキーボイスが、自嘲するようにかすれている。けれど彼は、語気を強めた。
「私は――いいえ、『僕』は、もっとあなたに自分をさらけ出すべきでした。あなたの信頼を得たいなら、ありのままの自分を示し、『藤咲家の当主』ではなく『僕自身』を見てもらう必要がありました」
そして、ハオリュウは…………。
――無邪気に、『嗤った』。
それは、無垢な幼子の顔じゃない。
あどけなさを残した、大人にはできない無鉄砲な輝き。
凄く楽しそうで、いたずらでも仕掛けているみた……い?
え? と、思ったときには、彼の顔は、にやりと歪んでいた。絶対に何か裏がある。これは、そう、腹黒いやつだ!
「藤咲様……?」
豹変したハオリュウに、父上も戸惑っている。
ハオリュウは、ぎゅっと手を握りしめた。その指の隙間から、当主の指輪が金色の光を放つ。それは、とても寂しい色をしていた。
「白状しますよ。僕は藤咲家の当主ですが、先代の嫡子だからこの地位にあるのであって、親族から認められているわけではない。周りは敵だらけ。いつ足元をすくわれても、おかしくない状態です」
上品で余裕たっぷりだったハオリュウは、矜持をかなぐり捨てた。
「陛下の婚礼衣装の件。親族の意向に反し、僕が独断であなたを推していることを、あなたはとうにお見通しですよね。もし親族の同意を得ていれば、この場には後見人の大叔父が一緒にいるはずですから」
彼の目が、父上を捕らえた。
その眼光は母上の直刀よりもまっすぐで、父上の双刀よりも鋭い。
「僕は、あなたのお人柄をイーレオさんから聞いている。――あなたは優しい人だ」
「……」
「当主の権限で無理やりあなたを採用すれば、不利益をこうむる者たちに僕が害される可能性がある。そう思ってあなたはこの話を蹴っている。――相違、ありませんね?」
父上は肩を落とし、深い溜め息をついた。
そして、ハオリュウを見つめ返す。
一族に共通する美貌からは、いっさいの表情が消えていた。穏やかで優しい父上の顔ではなく、冷酷といわれる祖父上そっくりになっている。
「分かってらっしゃるのなら、これ以上、何もおっしゃらずにお引き取りください。……それが、あなたのためです」
魅惑の低音は硬質で、鋭くハオリュウを跳ね返していた。
母上が前に言っていた。父上は、斬るべきときには斬ることのできる男だ――人も、
けど、ハオリュウは引き下がったりしなかった。
彼は瞳を闇色に染め、くっと口の端を上げる。
「レイウェンさん、このままでは僕はお飾りの当主にされるだけなんですよ」
「そうでしょうね」
父上は肯定する。同意しているわけじゃなくて、事実だからそう言っている。
祖父上だったら意地悪で冷たく言うだろうけれど、父上は機械のように無感情だから冷たい。父上の言葉は、冷静な分析だ。
めったに目にすることのない父上のもうひとつの顔を、私はただ、はらはらしながら見守るしかなかった。
「藤咲様。正面から楯突くには、今のあなたは弱すぎます。待つことです。我が祖父、鷹刀イーレオは何十年も辛酸を
「僕だって、条件が揃わなければ動きませんでしたよ」
ハオリュウは、間髪おかずに返した。
「どんなに軽んじられていても、僕は当主という肩書を手にしました。女王陛下の婚礼衣装担当家という、国中が注目する役職を担いました。そして――」
彼は、ぐっと顎を上げる。
「あなたという最高のビジネスパートナーを見つけた」
ハオリュウは笑う。無邪気に、腹黒く。
「僕は、あなたとあなたの会社を使って、藤咲家を立て直します」
「なっ……!?」
無表情だった父上の顔に、感情の色が走った。
ハオリュウは、瞳に闇を
闇は、彼の孤独の象徴。
けど闇は、彼の行動の
――強い。
「僕はずっと、このままでは藤咲家は潰れると、危惧していたんですよ」
彼は「どうか、聞いてください」と、ハスキーボイスを踊らせる。
「父は、秘書に仕事を任せきりで、正直なところ当主としては失格でした。その秘書も、他家の
彼は、あざけ笑うように口元をほころばせる。
母親が
「無能な特権階級が、我が物顔でいる。この国は、そういう国です。でも、それでは世界から取り残される。――この国で本当に力があるのは、
父上は表情を変えずに、けれどハオリュウの話に、じっと耳をかたむけていた。
「藤咲の主産業である絹は、
なんか、凄い話になってきた。私はどきどきしながら、父上の返事に期待する。
けど父上は……緩やかに首を横に振った。
「あなたのおっしゃることは理想に過ぎません。現実的ではありません」
静かな声が、応接室に響く。
壁一面の賞状と感謝状は、父上の業績の証。それだけのものを積み上げてきた父上が、冷静に『ノー』と判断した。
「商品は、作れば売れるというものではありません。ましてや、今まで馴染みのなかった高価な絹製品です。受け入れられるのは難しいでしょう」
その瞬間、ハオリュウはとても嬉しそうに、無邪気な笑顔をこぼした。――それは、まさにその言葉を待っていた、と言わんばかりだった。
「だから、あなたに女王陛下の婚礼衣装の件を引き受けていただきたいのです」
「どういうことですか?」
「陛下の婚礼衣装を手掛けた会社が、陛下の衣装と同じ藤咲の絹を使って、庶民向けの商品を作る。多少、高価だとしても、陛下にあやかりたい者には魅力的に映るでしょう。――別にすべての素材を絹にしなくても、一部に使うのでもいい。服でなくても小物でもいい。まずは絹を身近に感じてもらえれば、それでいいんです」
「……!」
父上は息を呑んだ。
ハオリュウはただ、無邪気に笑っている。
「……藤咲様。それでは、陛下の衣装のほうが『ついで』のように聞こえます」
「そうですよ? 僕は利用できるものは、なんでも利用する主義です」
父上は絶句した。
ううん。私だって、同じだ。
「今まで藤咲と縁のなかったあなたを抜擢すれば、妨害があるかもしれません。けれど、もと
ハオリュウはとても楽しげに、歌うように続ける。
「それから、もうひとつ。新素材繊維を開発したあなたに、お見せしたいものがあります」
そう言って、彼は私が運んできた小振りのスーツケースを開けた。中には蚕の繭や糸、そして色とりどりの布が入っていた。
「すみません、クーティエさん。僕は足が悪いので、こちらに来ていただけませんか?」
「え?」
私は首を傾げながら、ハオリュウのそばに行った。すると、彼が「失礼します」と言って、たくさんの布の中から緑の一枚を取り出し、ふわりと私の肩に掛けた。
「……!?」
風が、肩に載ったのかと思った。
かすかに首筋に触れる、柔らかな気配。確かにそこにあるのに、まるで重さを感じない。腕に掛かる滑らかな風合いには
これは、なんて言えばいいんだろう? 天女の羽衣……?
――あ!
「妖精の
端をつまんで手首を回せば、薄い布が優雅に広がる。普段は刀を握る手が、風を掴んで
腕を伸ばして高く舞えば、空の上まで飛んでいけそう!
「素敵! とっても軽くて、しなやか!」
たった一枚の布が、私に魔法をかけた。
私の胸は高鳴り、自然に体が動き出す。くるりと身を翻せば、私のあとを追って布がなびく。透き通った
「ああ、思ったとおりだ。クーティエさんによく似合う」
背後から聞こえる、安堵に緩んだようなハオリュウの声。それは今までより一段、低くて、自信に満ちた響きをしていた。
布に夢中になっていた私はどきりとして、彼を振り返る。大きく風をはらんだ布が、彼の前髪をふわりと巻き上げた。
彼は目を細め、極上の笑みをこぼした。
「綺麗な布でしょう?
「これ、絹なの!? 絹って、もっとシャリシャリじゃない?」
私の率直な言葉に、ハオリュウは嬉しそうな顔をした。
「一般の蚕は、四回の脱皮のあとに繭を作ります。けれど
そして彼は、父上を見る。少し得意げで、腹黒く無邪気な顔をして。
「レイウェンさん。服飾会社から見て、この布は魅力的だと思いませんか? 少なくともクーティエさんのお気に召したと思いますが」
「
父上が静かに反論する。けれど、ハオリュウは負けていなかった。
「だから――ですよ。あなたの手で量産方法を研究してみたいと思いませんか?
「……っ! 祖父上……」
「一般的な絹のイメージは、クーティエさんのおっしゃる通りシャリシャリとした感じで、かしこまった場で身につける高級品です。それを安価で柔らかな
「確かにそうかも知れませんが、そんな簡単な話ではないでしょう?」
慎重に答える父上に、ハオリュウが畳み掛ける。
「でも、あなたは、不可能と言われた新素材繊維を開発なさったのでしょう? 周りには夢物語だと笑われながら……」
「――! あれは……」
「それでも、あなたは貫いたのでしょう? そんなあなたが、何故、
「お言葉ですが、夢を見さえすれば、すべてが叶うわけではありません。あなたのおっしゃることは暴言です」
「けれど、夢を見る前から諦めていたら、人は何も
「……」
「僕に賭けてみませんか? 僕は、あなたに『僕』を売り込みに来たんです。あなたから見て『僕』は魅力的でしょう?」
ハオリュウは告げる。
すべての闇を従えた、比類なき王者の眼差しで――。
「……!」
それが、決定打だった。
ハオリュウが無邪気に笑い、父上が穏やかに微笑みながら溜め息をつく。
「参りました。……あなたは本当に、祖父上の紹介状通りの方でした」
「え? イーレオさんは僕のことを、なんと?」
「祖父上が『この世で唯一、
「……!?」
ハオリュウは驚きに声を失い……やがて、じわりと喜びを表に出しながら「光栄です」と言った。
「藤咲様。あなたのお話、お受けいたします」
父上の心地よい低音が、
ちょうどそのとき、応接室の扉が開き、祖母上と母上が部屋に入ってきた。
――あ、違う。『ちょうどそのとき』じゃない。
ふたりの気配はいきなり現れた。父上とハオリュウの話がまとまるまで、ふたりは気配を消して、扉の外で待っていたんだ。
祖母上は深々とハオリュウに頭を下げ、母上もそれに倣った。彼もまた、応じるように会釈を返し、無邪気に笑いかける。
「はじめまして、ユイランさんですね。――僕は、レイウェンさんを説得しましたよ」
「聞いておりました。……お約束通り、あなたのお手伝いをさせてください」
祖母上は涼やかに答え、上品に
「どういうこと!?」
ハオリュウと祖母上の謎のやり取りに、私は思わず叫んだ。
「僕とユイランさんは、イーレオさんを通してお話していたんですよ」
彼はそう言って、祖母上と目線を交わし合ったのだった。
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