2.猫の系譜-1

 それは、数日前のこと――。

 執務室の窓はぴしゃりと閉められ、先ほどまで風に揺れていたカーテンも動きを止めた。熱を含んだ陽光だけが桜の枝葉をすり抜け、カーテンのレースをくぐり抜けて外から入ってくる。

 むっとする室温にイーレオが顔をしかめると、ミンウェイが素早く立ち上がり、まだ春の範疇と言える時期でありながらも空調の電源を入れた。

 鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、屋敷の血族とメイシア、および護衛のチャオラウをこの部屋に呼んでいた。

 いつもの応接用のソファーセットだけでは手狭なので、予備のソファーも運び入れ、ローテーブルを囲むように配置されている。用意されたお茶は、涼し気な硝子のグラスに入れられており、ゆらゆらと氷が浮かんでいた。

 皆が揃うと、扉は施錠の音で封じられた。

 物々しい雰囲気に、ルイフォンの隣りでメイシアの瞳が揺れ動く。だがすぐに、かしこまったようにうつむいた。彼女のことだから、落ち着きなくあちらこちらを窺うことを非礼と考えたのだろう。

 ルイフォンは周りに気づかれないよう、彼女の背中にそっと手を回し、長い髪の先を指に絡めてくしゃりとした。

「……ぁ」

 小さく呟く彼女に、彼は口の端を上げる。

 部屋の様子からして、それなりの話がなされるであろうことは予測できる。けれど、怖がることはないのだ。むしろ、父の口から何か明かされることがあるのなら望むところだと、ルイフォンは期待していた。

 そう。――たとえば、〈七つの大罪〉の話とか……。

「ミンウェイ、トンツァイからの報告書を皆に読み上げてくれ」

 イーレオが、年齢を感じさせない魅惑の低音を響かせた。

 彼は自分だけ一人掛けのソファーに座り、広々と足を組んでいた。両腕は左右の肘掛けの上で、相変わらずの父らしい様子に、ルイフォンは苦笑する。

 父の背後に控えた護衛のチャオラウは、いつも通りの不精髭面で、向かいのソファーの異母兄エルファンは無表情。年上の甥リュイセンは、場の雰囲気を感じとってか神妙な顔をしていた。

 そして――。

 報告書を片手にした、ミンウェイ。

「……斑目は、ルイフォンの活躍により壊滅状態と言ってよいでしょう。もはや、我々に何かを仕掛けるような余力はないとのことです」

 感情を揺らすことなく、つやのある声が事務的に響く。

「食客であった〈ムスカ〉は、斑目の別荘から出たそうです。ただ、そのあとの足取りは掴めず――申し訳ないと、情報屋のトンツァイから言づかっています」

 彼女の冷静な美貌に、ルイフォンは顔を曇らせる。

 今まさにミンウェイが口にした『〈ムスカ〉』は、死んだはずの彼女の父親だ。

 不可解な状況に、不安で胸が押しつぶされそうであろうに、そんな素振りも見せない年上の姪。周りが気遣わなくてすむようにと、彼女は微笑み続ける。

 見ていて、辛い。

「〈ムスカ〉は地下に潜った、ってことか」

 吐き出すように、リュイセンが言った。

 彼は〈ムスカ〉には散々、虚仮こけにされたとの思いがあり、心穏やかでない。歪んだ口元から奥歯を噛んでいるのが分かる。

「親父――」

 ルイフォンは軽く手を挙げた。

「〈ムスカ〉は〈七つの大罪〉の技術者、〈悪魔〉だ。〈七つの大罪〉に匿われている可能性が高いと思う。親父は何か――何処か心当たりはないのか? 昔の鷹刀は〈七つの大罪〉と組んでいたんだろう?」

 しかしイーレオは、ゆっくりと首を振った。

「昔ならともかく、今はどうなっているのか、まったく分からん。――お前の情報網にも引っかからないんだろう?」

 その切り返しに、ルイフォンは不快げに眉を寄せた。

 情報屋クラッカーフェレース〉ともあろう者が、〈七つの大罪〉に関しては、まるきり尻尾を掴むことができないのだ。

 異常としか言えない。

 押し黙ったルイフォンに、憐憫とも慈愛とも――あるいはただ眠たいだけの穏やかな眼差しを送り、イーレオは頬杖をついた。

「奴の狙いが俺なら、そのうちまた出てくるだろう。行方が分からぬ以上、こちらから仕掛けることもできない。そういうわけで〈ムスカ〉に関しては、いったん保留だ」

「祖父上! そんな悠長な!」

 楽観的な祖父に、リュイセンが食って掛かった。

「〈ムスカ〉は危険人物です! あの〈影〉ってのを、また送り込まれたらたまりません!」

「では、どうする?」

 口元に笑みをたたえ、挑発するかのようにイーレオが問う。

 リュイセンは唇を噛んだ。彼に意見はあっても、提案はない。それでも黙っていることはできずに……彼は、ちらりとメイシアを見て、それから強い口調で続けた。

「知っている人間を奪われることが分かっていて、指を咥えているのは愚かなことです。繰り返すべきではありません。……そうでなきゃ、メイシアの父親とか、捕虜にした警察隊員とか――犠牲になった人たちが報われません」

「……!」

 メイシアの瞳が潤んだ。

 彼女が謝意を込めてリュイセンに頭を下げると、彼は照れ隠しのように目線をそらした。

 貴族シャトーア嫌いから始まり、ルイフォンへの遠慮もあってか、リュイセンはいまだにメイシアと打ち解けたとは言い難い。けれど彼は彼なりに、彼女を思いやっていた。

 そんなふたりに、ルイフォンが嬉しそうに微笑む。

 微笑ましい光景。――しかし次期総帥にして、リュイセンの父であるエルファンが、眉間に皺を寄せた。

「リュイセンの言うことはもっともだが、じつのないただの感情論だ」

「なっ……!」

 エルファンの氷の瞳は、実現可能なものしか映さない。噛み付こうにも、噛み付く言葉を出せぬリュイセンは歯噛みする。

「まぁ、怒るなリュイセン」

 イーレオが穏やかな微笑を浮かべ……、しかしその声はどこか冷たかった。

「お前の心意気は称賛すべきものだ。だが、死んだはずの〈ムスカ〉――ヘイシャオについては、詳しいことは分からずじまいだ。身動きがとれない。情報が少なすぎる」

「ですが……」

「〈影〉に関しては、敵が馬鹿じゃなければ、もはや無効だということに気づいたはずだ」

 イーレオは、分かるか? と目で問うた。けれど、リュイセンは不満顔で首を振る。

「結果的にだが、俺たちは〈影〉をすべて殺した。さぞ無慈悲な集団に見えたことだろう。――俺たちに情がないのなら、〈影〉を使うメリットはない。記憶と肉体がちぐはぐな〈影〉は、すぐに見破られ、殺されるだけだからだな」

「祖父上、それはただの希望的観測です! それに、ミンウェイが……」

「俺に動揺しろと?」

 リュイセンの言葉を遮るように、眼鏡の奥から有無を言わせぬ眼光が放たれた。酷薄にすら見える角度に口を上げ、リュイセンの動きを封じる。ただのひと睨みだけで、イーレオは完全にリュイセンを支配した。

「俺には一族を守る義務がある」

 リュイセンは息も出せない。ただ冷や汗だけが額に浮き立つ。

「俺が動揺すれば、皆も動揺する。古い奴らは〈七つの大罪〉という言葉に敏感だ。皆を不安にしてはならない」

 ルイフォンは、はっとした。

 執務室に鍵を掛け、窓まで閉めたのは、屋敷の者たちにこちらの声を聞かせないようにするためだ。

 イーレオは、総帥として〈ムスカ〉に対してはとりあえず保留。要するに放置、という結論を出していた。父の性格からして、おそらく本意ではないだろう。だが、対処のしようがないのは事実だ。

 そして、その方針を伝えたときの反発は目に見えていた。故に、部屋を閉ざした。

 彼は、改めて父の秀でた額を見やった。

「俺にできることは、余裕の顔をして偉そうにふんぞり返っていることだけだ。――どうせ〈七つの大罪〉か、〈七つの大罪〉絡みの人間が関わっているのは分かっている。今はそれで充分だろう?」

 イーレオはソファーに背を預け、長い足を優雅に組む。王者の顔で睥睨し、魅惑の声を響かせる。

「勿論、警戒はするさ。けれど、こちらから動くのは無理だ。……それから、ミンウェイ」

「は、はいっ!」

 不意に声を掛けられたミンウェイが、上ずった声を出した。

「〈ムスカ〉を名乗る輩が何をしようと、お前が負い目に感じてはならない。何故なら、お前は俺のものであり、お前に関するすべてのことは、全部、俺の権利かつ責任だからだ」

 不遜なまでの命令調で、イーレオは口角を上げる。細身の眼鏡の奥から、涼やかな瞳がミンウェイを捕らえていた。

 彼女がびくりと肩を上げると、豪奢な髪が波を打つ。空気が揺れ、ふわりと草の香が抜けた。

「お前は俺の大事な一族だ。絶対に、それを忘れるな」

「お祖父様……」

 柳眉を下げて呟くが、その先の言葉は続かない。

 広く暖かな海のように、不可侵の帝王が一族を深く包み込む。それが現在の鷹刀一族であり、〈七つの大罪〉を否定したイーレオが目指したものだった。

 話がひと段落したとみて、ルイフォンはおもむろに口を開いた。

「親父、質問なんだけど」

 今日こそは〈七つの大罪〉に関する、何か新しい情報が語られるのではないか――そう考えていた彼にとって、この話の流れは期待外れだった。故に、自分から切り出すことにしたのだ。

「俺は斑目の別荘で、〈ムスカ〉と〈天使〉のホンシュアの口論を聞いた。ホンシュアは『あなた自身が脳内介入できるようなふりをして、厚かましい』と言っていた。つまり、記憶に関与する手段を持っているのは、〈ムスカ〉じゃなくて〈天使〉だ。違うか?」

「そうだ」

 ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。もしや、とは思っていたが、やはり父は〈天使〉について知っていた。

 ずっと気になっていたことの答えを目前に感じ、彼の心臓が激しく高鳴り始める。

「〈天使〉とは、〈七つの大罪〉の人体実験によって、人間の脳内に介入する能力を身につけさせられた者。彼女たちは、もとは普通の人間である。――この解釈はあっているか?」

 ルイフォンの隣で、メイシアが顔色を変えた。白磁の肌が、更に白く青ざめる。

 彼女には、彼の考えを既に言ってあった。

「あっているが……どうした?」

 声色に不穏を感じたのだろう。イーレオが、わずかに狼狽する。

「……」

 ルイフォンは一度だけ、ためらった。

 だがすぐにイーレオに向かい、軽く顎を上げた。

 そして、喉元に喰らいつくように、視線で斬りつけた。


「親父、正直に答えてほしい。――母さんは〈天使〉だったんだろう?」


 幾つもの息を呑む音が重なり合い、多重奏が響き渡った――。

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