2.猫の系譜-2
「親父、正直に答えてほしい。――母さんは〈天使〉だったんだろう?」
ルイフォンの問いかけの余韻が消えると、執務室はしんと静まり返った。
空調から流れる送風の音だけが、部屋の中を淡々と抜けていく。快適なはずの涼気はひやりと肌を刺し、皆の心から熱を奪う。
イーレオの美貌は、かすかに口を開いたまま凍りついていた。
父のこんな顔をルイフォンは初めて見た。
それだけで、答えは充分だった。
「ぁあ……」
身を乗り出すようにして構えていた姿勢から、ふっと力が抜けた。彼の上半身は、そのままソファーに投げ出された。
母は〈天使〉だったのではないだろうか――。
ルイフォンは、その疑念をまず初めにメイシアに打ち明けた。
誰にも聞かれないよう、わざわざ昔、住んでいた家――〈ケル〉の置いてある家にまで足を運んだ。そこまでしなくとも屋敷の住人たちは、立ち聞きなどという悪趣味な真似はしないのは分かっていたが、完全にふたりきりになりたかったのだ。
「……メイシア、俺の母さんは〈天使〉だったんじゃないかな」
ルイフォンは、静かにそう言った。
ふたりきり――声をひそめる必要はない。けれど、彼のテノールは密やかで、なのに普段よりも低く響いた。
メイシアは黒曜石の瞳を見開いた。その表情で、どうしてそんなことを考えたのかと問うていた。
「ええとな……」
ルイフォンは前髪を掻き上げ、少し考える。
「別に隠していたわけじゃないんだが、筋道立てて説明するためには、お前に言ってないことが多すぎるな」
呆れるくらい、あっという間に、彼女は彼のもとに飛び込んできてくれた。だから、彼女は彼の背景をほとんど知らない。
彼女の人生は本当にこれでよかったのか、今更ながら疑問に思ってしまう。けれど、彼女を手放すつもりもなければ後悔させるつもりもないので、それは訊かないことにする。
ルイフォンはメイシアを見つめ、ためらいがちに口を開いた。
「……俺の母さんは、もと娼婦だった」
「え?」
「母さんが〈七つの大罪〉にいた、ってのは知っているよな。でも、その前の話だ」
「……っ」
メイシアの喉がこくりと動き、唾を呑み込んだのが分かった。
彼女自身、父と異母弟を救うため、一度は娼婦となることを決意した身だ。偏見の意味合いはないだろう。しかし、それでも動揺するのは仕方ない。
「母さんの母親も娼婦で、つまり母さんは娼婦と客の間に生まれた子供だった。――だから、生まれたときから生粋の娼館育ち。物心ついたときには既に実の母親は病死していて、同じ店の娼婦たちに育てられたと言っていた」
「……」
言葉なく、メイシアの瞳がルイフォンを映す。
「ごめんな。俺は、お前みたいに綺麗な
「何を言うの!」
彼女は叫んだ。
唇をわななかせ、距離を縮めようとでもするかのように、彼にしがみつく。
「ああ、分かっている。お前は差別の目で見るような奴じゃない」
けれど、改めて口に出すと、天と地ほども違う相手だったのだと再認識せざるを得ない。いつもの彼なら、そんな彼女とこうして一緒に居られることに喜びと幸せを覚えるのだが、今は引け目が双肩にのしかかっていた。
陰りの出たルイフォンの顔を、メイシアが眉を曇らせ、覗き込む。
「ええと、あの……。あのね、ごめんなさい」
いったい何に対して謝っているのか。おそらく彼女自身もよく分かっていないだろう。
「お前は何も悪くないだろ?」
ルイフォンは努めて明るい声でそう言うが、メイシアは大きく首を振る。
「私、ルイフォンのことを知りたい。……周りの人のほうが、ずっとずっと、ルイフォンのことに詳しいの。それって凄く……悔しい……」
彼女は、ぎゅっと彼の服を握りしめる。言葉の最後のほうは、消え入りそうになっていた。
きついことは言わないので、それと分かりにくいが、これでいて実は結構、彼女は嫉妬深い。そう思ったとき、憑き物が落ちたかのように、すっと肩のあたりから楽になった。
ルイフォンは、メイシアの背に腕を回し、彼女の肩に顔をうずめる。
「お前は可愛いなぁ」
「ル、ルイフォン!?」
「うん。そうだな。細かいことは気にしない」
狐につままれたような顔をする彼女に笑いかける。
そして彼は、ゆっくりと話を再開した。
「……母さんが働いていたのは、斑目の傘下の娼館だった」
メイシアが、きょとんとした。てっきり鷹刀一族の系列の店だと思ったのだろう。
敵対する
「その店は、シャオリエのところみたいな高級娼館じゃない。場末も場末、客が娼婦を嬲り殺しても、金さえ払えば、店主は笑って『また、どうぞ』と言うような店だった」
身を震わせるメイシアを、ルイフォンは強く抱きしめる。
「あるとき、母さんは身請けされた。相手は〈
鷹刀一族が〈七つの大罪〉と手を切ったあとの話だ。
〈七つの大罪〉が、次の取り引き相手として斑目一族が選んだことから、その傘下の娼館に〈悪魔〉が出入りしていた、というわけなのだろう。
――身請けの際、逃げられないように片足首を斬り落とされたことは、メイシアにあえて言う必要はない。
「〈
当時の鷹刀一族のコンピュータセキュリティはお粗末なもので、母は簡単に
「こうして母さんは鷹刀にやってきた。――俺は、そう聞かされてきた。けど、ずっと違和感があったんだ」
険しい声を出すルイフォンに、メイシアが不思議そうに小首をかしげた。
「おかしいところはないと思うのだけど……?」
「ええと、な。母さんは、なんというか……、いちいち偉そうだったんだ」
「え?」
困惑をあらわにした、鈴を振るような声。
頭の中で母の高圧的な声色を思い出していたルイフォンは、耳から清められていくような気分になる。
「こう……ひとことごとに、鼻で笑うような喋り方で。――自信過剰で、自分が一番だと思っている、というか……」
メイシアの目が、じっとルイフォンを見つめた。
口に出さなくても、彼女の思っていることはしっかり顔に出ていた。
ルイフォンとそっくりに思えるのだけど……――と。
彼は苦笑して、言葉を続ける。
「根拠なき自信、というわけじゃない。実際、母さんは凄かった。何しろ、〈七つの大罪〉から〈
「うん……」
どう反応したらいいのか分からないのだろう。メイシアが曖昧に頷く。
「でもさ。それって、おかしくないか? 母さんは身請けされた、もと娼婦だ。相手の男がたまたま〈七つの大罪〉の〈悪魔〉だったというだけで、母さんの立場はあくまでもその男の情婦。〈七つの大罪〉とは関係ないはずだ。なのに、どうして母さんは、あんなに偉そうだったんだ?」
「それは、お母様が〈
「そうだな。そのことに間違いはないだろう。……けどさ。じゃあ〈
言いながら、ルイフォンは歯噛みする。
『ただのクラッカー』――それは自虐の言葉だ。自分というクラッカーを軽んじている。
けれど、悔しいが〈七つの大罪〉の技術は、彼の遠く及ばぬところにある。その証拠が母の作った人工知能〈ベロ〉だ。人間と変わらぬ、柔軟な思考を持ったそれは、彼には到底、作れない代物だった。
「〈
「ルイフォン……」
「母さんは、自分は『特別』だったと言っていた。――〈
ルイフォンは、メイシアを見つめる。彼女には、あまり残酷なことは言いたくない。わずかに、ためらう。……けれど、言わざるを得なかった。
「じゃあ、〈
ルイフォンの雰囲気を察し、メイシアが顔色を変える。
彼はごくりと唾を呑み、そして告げた。
「人体実験だ。――〈
それが、ルイフォンの出した結論だった。
「ほとんどの女たちは、命を落としたんだろう。だから、次々に補充されたんだ。そんな中で、母さんは『特別』な成功例。優遇され、教育も施された。――そして、〈
メイシアの瞳が一度だけ瞬き、見開いたまま固まった。
「母さんは、異常な暑がりだった。俺が仕事部屋の室温を低く保つのは機械類のためだが、もとはと言えば母さんの習慣を引き継いだだけだ」
「……」
「母さんが〈天使〉なら、〈七つの大罪〉で権力を持っていてもおかしくないだろ?」
母にとって、〈七つの大罪〉は決して恐れるものではなかった。彼女自身がそう言っていたのだから、間違いない。――そのことも、〈天使〉なら納得できる。〈天使〉は他人を支配する能力を有するのだから。
無論、これは推測であって、事実とは限らない。
けれど、胸の中がもやもやしてたまらない。足元の地面が、がらがらと崩れていくような感覚がする。
――そして、母が〈天使〉だったとしたら、それが現状とどう繋がるのか。関係があるのか、ないのか。……おそらく、あるはずだ。そんな気がする。
推測に推測を重ねても、真実に近づくとは限らない。けれど彼は、考えずにはいられない。
「……ルイフォン」
鈴の音の声と共に、ふわりと頬が温かくなった。
「え?」
驚いて目を丸くする。――ルイフォンの顔を、メイシアの両手が優しく包み込んでいた。
彼女の皮膚の感触が、彼の頬の筋肉を柔らかにほぐす。知らずに繰り返していた歯ぎしりが、頬骨と顎を酷使していたことに初めて気づいた。
「……メイシア?」
「話してくれてありがとう」
「ああ……いや。俺が言いたかっただけだ」
ひとりで抱えていたくなかったから――。
今までだったら、誰にも言わなかったのかもしれない。けれど、今はメイシアがそばに居る。
「イーレオ様に、聞いてみるの?」
「あ……」
言われて初めて気がついた。
あの父だったら知っているのかもしれない。
彼は漠然と、母は正体を隠していたと思い込んでいた。羽の生えた母の姿など、見たことがなかったからだ。
だから、〈ケル〉や〈ベロ〉や、母が生前、使っていた部屋などを調べるつもりでいた。
「ああ、そうか。親父は〈七つの大罪〉を知っているんだもんな」
そう考えれば、母が本当に〈天使〉なのであれば、正体を明かしているほうが自然だろう。
盲点だった。
こんな近くに、情報が落ちている可能性に気づけなかった。
「やっぱり、俺のそばにはお前が必要だな」
「え?」
首をかしげる彼女に、彼は「ありがとな」と微笑む。
「親父に聞いてみよう」
「うん」
いつ聞くのか、どう切り出すのか。メイシアは、そんなことは尋ねない。ただ、『うん』とだけ。
――そのときは、そばに居るから。
だから、あとはルイフォンの思う通りに。
言葉に出さなくとも、彼を守る戦乙女の声が聞こえていた。
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