1.桜花の告白-3

 蒼天から、はらり、はらりと桜の花びらが舞い降りた。

 舞台は、よりいっそう華やかに彩られ、青芝生の客席の者たちは、貴族シャトーア令嬢の話が始まるのを固唾を呑んで見守っている。

 メイシアは、傍らのルイフォンを見上げた。

「ルイフォン……」

 薄紅色の唇が彼を呼んだ。

 じっと見つめてくる黒曜石の瞳には、不安の色が見え隠れしている。彼女の手は、彼の手に触れそうで触れないところをうろついていた。

 ルイフォンは、その指先を絡め取ろうとして、思いとどまる。

 彼女が貴族シャトーアの娘として警察隊に対峙した以上、凶賊ダリジィンの彼と馴れ合うのはまずかろう。彼女の聡明な頭脳から生み出された策が、どのようなものかは分からぬが、邪魔するような行動は慎むべきだ。

 すぐそばにいて、触れてはならないもどかしさ。本当は、彼女の華奢な手を片手で捕まえて抱き寄せ、もう一方の手で彼女の黒髪をくしゃりと撫でたい……。

 そんな彼の代わりに、春風が彼女の髪をふわりと揺らしていった。

 ――不意に、メイシアが体ごと、ルイフォンに向き直った。

「……?」

 疑問に眉を寄せた彼をよそに、彼女の両手が彼の顔へと伸ばされた。

 彼女の手は彼の頬をかすめ、彼の癖のある前髪に指先が触れる。更に、彼女は爪先立ちになりながら、彼の頭の上に白い手を載せた。

 髪に落ちてきた花びらでも、払おうとしているのだろうか……?

 ルイフォンはそう思ったが、すぐに否定した。

 彼は今まで、幾度となく彼女に触れてきた。しかし、彼女のほうから彼に触れたことなど一度もない。いや、あったかもしれないが、記憶にない。

 ――という、問題ではなくて、今は警察隊に囲まれている状況だ。この行為になんの意味が……?

 困惑するルイフォンの頭を、メイシアの両手が、ぐいっと引き下げた。

「え……?」

 目前に、彼女の顔があった。

 瞬きする間すら与えられないうちに、彼女の薄紅色の唇が近づいてきて、彼のそれと重ね合わされる。

 ふわりとした柔らかな感触。

 ――その清楚さと同時に、唇のわずかな隙間から漏れ出した吐息が、しっとりした艶めかしさを伝えてきた。

 ルイフォンの心臓が大きく高鳴る。

 いつもは細い猫の目が、彼女でいっぱいになっていた。

 頭上にあったメイシアの手が、そろそろと降りてきて、ルイフォンの背中を捕まえた。ぎゅっと力の入った指先が、彼のシャツに無数の皺を刻んでいく。その温かく湿った感触が、小刻みに震えていた。

 いつもの彼女らしいところを見つけ、彼は安堵する。そして、彼もまた彼女の背に手を回し、力強く抱きしめた。

 どっ……と、その場が沸いた。

 貴族シャトーア令嬢のまさかの行動に、誰もが驚きを禁じ得なかった。

 この舞台を設けた立役者、先ほど命の危険を顧みずに、この両者を守り抜いた猛者リュイセンは、腰を抜かしかけた。

 動揺を隠しきれない警察隊の騒ぎ声に、ルイフォンの男前ぶりを囃し立てる凶賊ダリジィンの野次が混じる。

 メイシアがルイフォンの背に回した手を外した。

 彼女がすっと正面を向くと、ざわめきの波が徐々に引いていく。皆が彼女の次の言葉に注目していた。

 彼女は、長い黒髪が地面に付かんばかりに、深々と一礼をする。

 そして、玲々とした声を響かせた。

「私は、この方を――鷹刀ルイフォンを愛しています……!」

 あたりが、しん……と、静まり返った。

「けれど、私は貴族シャトーア、彼は凶賊ダリジィン。私たちの仲が許されるわけがありません。私の想いを知った父は、私に内緒で縁談をまとめてしまいました……」

 ルイフォンはメイシアの震える肩をそっと抱いた。

「私はたまらず、家を飛び出しました。そして、ルイフォンのもとへ……。これは、誘拐などではありません。私は、私の意志でここにいます!」



「いやぁ……。はっはっは……」

 桜の大木が枝を伸ばした先にある部屋のひとつ――執務室にて、イーレオが涙を浮かべながら腹を抱えていた。

 その隣では、警察隊の指揮官が、顔を歪めて唇を噛んだまま、拳を震わせている。

 これで警察隊は鷹刀一族に手を出せなくなった。メイシアに逆らうも同然だからだ。警察隊に有無を言わせぬだけの権力が、貴族シャトーアにはある。

「若いって、いいですねぇ」

 イーレオは指揮官の肩を、ぽんと叩いた。

「貴様……」

「ああ、あの果報者が、私の末の息子です」

 そう言って、イーレオは桜に祝福されたかのような、ふたりを見下ろす。

『価値』を試してほしいと言った少女が、いったい、どんな策を弄するのかと思えば……。

 思い切った見事な芝居に、イーレオは愉快でならなかった。

 矛盾はなく、鷹刀一族も、警察隊も、実家の藤咲家も、誰の顔をも立てて丸く収める妙案。――ただし、彼女の貴族シャトーアとしての名誉を引き換えに。

 いくら箝口令を敷いたところで、人の口に戸は立てられぬ。貴族シャトーアの娘が凶賊ダリジィンの男と恋仲だという醜聞は、尾ひれをつけて広まるだろう。

 その意味をルイフォンは分かっていないだろうが、メイシアは理解しているはずだ。

 ――あの娘は本当に俺を魅了してくれる。

 上機嫌で笑いながらも、イーレオは瞳に冷静な色を宿す。

 警察隊は『誘拐の容疑』という大義名分を失った。これで王手か、それとも……。

「イーレオ様!」

 傍に控えていたチャオラウが、小声ながらも鋭く口走った。

 その次の瞬間だった。指揮官が窓に駆け寄り、身を乗り出した。

「嘘だっ……!」

 指揮官は叫んだ。

 貴族シャトーアの娘は、騙されて、この屋敷にやってきた。斑目一族が、そう仕組んだことを指揮官は知っている。

「お前ら、騙されるな! メイシア嬢は脅されているだけだ!」

 汚らしく唾を飛ばし、肺の中の空気を全部使って、指揮官は大声でわめき散らす。

「そうでなければ、貴族シャトーアの令嬢が、そんな破廉恥な真似をするわけがない!」

 こめかみには青筋が立ち、全力で走ってきたかのように、ぜえぜえと肩で息をしていた。

 彼の頭の中は、恐怖で埋め尽くされていた。

 彼は言われた通りに行動していた。彼自身にはなんの落ち度もなかった。計画通りに進まないのは、斑目一族の目算が甘かったからだ。

 けれど――と、彼は思う。凶賊ダリジィンの斑目一族が非を認めるだろうか。

 答えは否、だ。

 お前のせいだ、と言ってくるに違いない――!

 彼は追い詰められていた。なんとしてでも、鷹刀一族を悪者に仕立て上げなければならぬと思った。さもなくば、どうなるか……。

「警察隊員に告げる! メイシア嬢を救え! 連中を確保しろ!」



 警察隊員たちにとって、その声は、突然、頭上から冷水を掛けられたようなものだった。

 彼らは驚き、声の方角を見上げる。

 そこに彼らの指揮官がいた。総帥鷹刀イーレオの元へ案内しろと怒鳴り散らし、姿を消したきりになっていた上官が、屋敷の上階の窓から身を乗り出していた。

 指揮官の言葉に、警察隊員たちは桜の舞台のふたりに厳しい目を向けた。

 穢れを知らぬ、可憐な桜の精のような美しい貴族シャトーアの少女と、大華王国一の凶賊ダリジィンに属する少年の組み合わせ。天と地とが手を繋ぎ合うようなことがありうるのだろうか――。

 彼らの指揮官は、決して人望のある人物ではなかった。しかし、今の叫び声には真実味があった。

 高貴な娘を救え、という言葉も、彼らの正義感を大いに刺激した。

 場の空気が一気に緊張に包まれたのを、ルイフォンは感じた。

 メイシアにここまでやらせておいて、元の木阿弥にするわけにはいかない。この場をどう切り抜けるか。

 彼は、彼女の肩に回した手に力を込めた。

 そのとき――。

「騒ぐな! 無礼者ども!」

 半音がかすれたような、ハスキーボイスが鋭く響き渡った。

 屋敷の窓のひとつが勢いよく開かれ、反動で壁に打ち付けられた窓硝子が悲鳴を上げた。

 バルコニーの上で、仕立ての良いスーツに身を包んだ少年が、荒い息を吐いていた。

「何者だ……?」

 あたりがざわめく。

 少年の後ろから緋色の衣服を纏った美女が慌てて飛び出してきて、彼を守るように前に出た。少年は、そんな美女に首を振った。彼女を押しのけて再び前に出ると、皆に向かって左手の甲を見せる。その指には、金色の指輪が嵌められていた。

 遠くから子細は分からなくても、その仕草から家紋の入った当主の指輪に違いなかった。まだ細い少年の指には不釣り合いだったが、それは陽光を跳ね返して、燦然と輝いていた。――その指輪は、彼らの父が密かに家を出たときに、自室に残していったものだった。

「ハオリュウさん、危険です。警察隊の中に、斑目の者が混じっている可能性があります」

 声を潜めたミンウェイの声は、当然のことながら庭には届かなかったが、それを聞き取れたはずのハオリュウは、彼女の弁を無視して叫んだ。

「僕は、藤咲ハオリュウ! 貴族シャトーアの藤咲家の者です。父の代理として、ここに来ました!」

 ルイフォンは、傍らに立つメイシアの口が「ハオリュウ……」と漏らすのを聞いた。

 やっとその目で直接、無事を確認できた異母弟。名前を呟くだけで精いっぱいで、それ以上の言葉はない。彼女の黒曜石の瞳に涙が浮かび上がり、煌めきに満ちる。

 そんな彼女の黒髪を、ルイフォンはくしゃりと撫でた。「よかったな」との思いだが、口に出してしまうと陳腐すぎるので、無言だ。

 ハオリュウの登場は力強い援軍だった。指輪の後ろ盾を持った貴族シャトーアは、警察隊に対して絶対の権力を持つ。彼がいれば、この場はうまく収まるだろう。

 安堵の溜め息をついたとき、ルイフォンは鋭い視線を感じた。はっと、その方向を見て肌が粟立つ。

 ハオリュウだった。

 射抜かんばかりの、強い憎悪の念が向けられていた。

 味方として現れたはずの彼が何故……と思った瞬間、ルイフォンは、はたと気づいてメイシアに回していた手を離した。

「全員、そのまま待機してください。凶賊ダリジィンの方も。――もし、凶賊ダリジィンの方々が動くようなら、警察隊の方は発砲して構いません」

 少年の声に似合わないような冷酷な指示が下される。

「しばらくお待ちください。そちらに参ります」

 彼はそう言って踵を返すと、バルコニーから姿を消した。

 ほどなくして玄関から現れたハオリュウに、警察隊員たちも凶賊ダリジィンたちも黙って道を開けた。まるで古くからの護衛のようにミンウェイを従えた彼は、再会の感動に打ち震える異母姉とは対照的に、険しい顔をしていた。

「姉様、ご無事で何よりです」

 その声は、あまりにも事務的で、電話越しの再会を果たしたときの彼とは別人のようであった。

 違和感を覚えたルイフォンは、ちらりとメイシアを見やる。しかし、彼女もまた異母弟の様子に戸惑っているようで、不思議なものでも見ているような顔をしている。

 そんな異母姉に、ハオリュウは硬い表情を変えぬまま一歩近づき、小声で囁いた。

「姉様。やっぱり姉様は、この凶賊ダリジィンに脅迫されていて、言いなりになっていただけ、ということにしていい?」

「え?」

 メイシアは、涙が盛り上がっていた目を見開いた。

「このままだと、姉様は凶賊ダリジィンと駆け落ち騒動を起こした、ふしだらな娘という汚名を背負って生きていくことになるんだよ?」

 そう言いながら、彼はルイフォンに穢らわしいものを見る目を向ける。

「な……!」

 反射的にルイフォンは何かを口走りそうになったが、ハオリュウの酷薄な視線がそれを押しとどめた。

「今なら、まだ取り返しが付くんだ……!」

 かすれた高い声が、訴える。

 まっすぐに異母姉を見て、ハオリュウは、ぐっと拳を握りしめた。その手の指には、無骨な指輪が光っている。家族を守る当主の指輪。子供の彼には重すぎる、それが――。

「姉様、お願い!」

 メイシアの息が一瞬、詰まった。

 しかし彼女は、自分を見つめる異母弟から目を逸らすようにうつむいた。メイシアの伏せた瞼の隙間から、ひと筋の涙があふれ、白い頬を伝う。

「ごめんなさい、ハオリュウ。私はルイフォンを、鷹刀の人たちを助けたい……」

「分かった……」

 ハオリュウは一瞬だけ、泣き笑いのように、くしゃりと顔を歪めた。少なくともルイフォンにはそう見えた。

 その次の瞬間、ハオリュウは勢いよくメイシアの手を取り、自分の方に引き寄せた。

「姉様! その男から離れなさい!」

「ハオリュウ!?」

「これ以上、我が藤咲家の家名に泥を塗るような真似は、僕が許しません!」

「えっ……?」

「一時の気の迷いで、このような者にうつつを抜かすとは……! 恥を知ってください!」

 ハオリュウは家紋の入った指輪をはめた手で、ルイフォンを鋭く指差す。

 その場にいた者たちはハオリュウの指先に操られたかのように、突き刺すような目線をルイフォンに向けた。

 当主代理の激しい憎悪は並ではない。ならば、そこにいる凶賊ダリジィンの若者は、貴族シャトーア令嬢をたぶらかした極悪人に間違いない。

 だが……その傍らには、涙を流す美しい少女がいる。

 つまり、貴族シャトーアの少女の言ったことは本当のことなのだ。――警察隊員たちは、暗示にかかったかのように、皆そう思った。

「皆様、お見苦しいところをお見せしました。どうか、このことはご内密に……」

 メイシアの手をきつく握ったまま、周りを取り囲む人の輪に向かって、ハオリュウは形ばかりの礼をとる。言葉だけは丁寧であるが、迂闊なことを外部に漏らせば、ただでは済まさぬと言っているのが見て取れた。

「異母姉は無事に保護しましたので、警察隊の方々はお引き取りを。あとのことは、僕と指揮官の方にお任せください」

 そう言ってハオリュウは、窓から顔を覗かせている指揮官を見上げた。

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