1.桜花の告白-2

 豪奢な邸宅にふさわしい、春の息吹に満ち満ちた美しく広大な庭園――。

 桜の巨木が柔らかく枝を伸ばし、ありとあらゆる芽生えを見守るかのように優美に咲き誇っていた。いっぱいに開かれた小さな花びらは、やがて花芯からほどけ、ひらひらと流れ落ちては大きな華やぎの舞台を作る。

 緑あふれる客席では、警察隊の濃紺の制服と、凶賊ダリジィンたちの暗色の衣服とが、押し合いへし合い、うねりを上げていた。

 その混乱の渦の中心に、神々しさすら感じられる妙なる少女が降り立った。

 色白の顔は緊張に彩られ、やや硬い面持ちをしている。だが、取り囲む者たちに臆することなく、凛と胸を張っていた。

「メイシア嬢! よくぞ、ご無事で!」

 人の波をかき分けながら、ひとりの警察隊員が中央に躍り出た。

 制帽の徽章は、鷹刀一族と手を組んだ警察隊員、緋扇シュアンよりも、ふたつばかり上のもの。庭にいた隊員たちを指揮していた者である。地面の下から貴族シャトーア令嬢を発見せずにすんだ彼は、ほっと胸をなで下ろす素振りを見せた。

 そのまま彼がメイシアのそばへと近づこうとしたとき、彼女に続いて、ふたりの男が車から降りてきた。まだ少年といってよいほどの若者――ルイフォンとリュイセンである。

「お前ら! 人質を取っているつもりかっ……!」

 先ほどの警察隊員が怒号を発し、その場にいた警察隊員全員の顔が一斉に緊張に染まる。

 やっと見つかった令嬢である。無事に救出せねばならない。隊員たちは、ごくりと唾を呑み込んだ。

「メイシア嬢を解放しろ! お前らは完全に包囲されている!」

 その声に呼応し、警察隊員たちはそろそろと歩み出て、最前列の配置についた。

 警察隊の有無を言わせぬ行動に、メイシアは顔色を変えた。

「ま、待ってください。私の話を……」

「おとなしく投降しろ!」

 メイシアの細い声は、怒鳴り声に掻き消された。

 まるで聞く耳を持たない警察隊に、メイシアの頭の中は真っ白になった。彼女の作戦に乗る形になっていたルイフォンとリュイセンは、彼女の指示がない以上、立ち尽くすしかない。

 それを投降拒否と見なしたのか、指揮を取っている警察隊員は背後を振り返り、部下たちに檄を飛ばした。

「発砲を許可する! あいつらを始末しろ!」

 その言葉に初めに色めき立ったのは、当然のことながら凶賊ダリジィンたちだった。

 一族の若者、しかも敬愛する総帥イーレオの血族の危機に、思わず体が動きそうになる。警察隊に手を出さぬように、とのイーレオの厳命がなければ、とっくに乱闘になっていただろう。

 ぐっと様子を窺う凶賊ダリジィンたち。――その代わりに叫んだのは、警察隊員たちだった。

「で、ですが、先輩!」

「メイシア嬢が人質になっています!」

 悲鳴に近い声が飛び交う。

 だがしかし、動きの鈍い部下たちに、彼らの先輩である隊員は蔑みの眼差しを送った。

「仕方がありませんね」

 感情の欠如した声。がらりと変わった声色と口調に、隊員たちは耳を疑った。

「先輩……?」

「それでは、私がやりましょう」

 彼は懐に右手を潜り込ませた。

 悪相としかいえない形相で、口の端を上げる。そして、黒光りする拳銃を持った手を取り出し、まっすぐに伸ばした。

「メイシア嬢をこちらに寄越しなさい。従わなければ撃ちますよ」

 冷酷な物言いに、隊員たちは顔色を失った。そこにいるのは確かに彼らが先輩と慕っている上官のはずなのに、まるで別人に見えた。

 メイシアは生まれて初めて、拳銃というものを間近で目にした。

 見ているだけで足がすくむ――怖い。けれど、その奥に潜む凶弾が狙っているのは、彼女ではないのだ。

「は、話を聞いてくださ……」

 声が、かすれた。

 ――これでは、駄目。無視される。

 メイシアは、胸に手を当て、ぎゅっと掌を握りしめた。

 なんとしても、守らなければ――!

「話を聞きなさい!」

 凛とした声が響き渡った。

 メイシアが大きく一歩前に踏み出すと、髪を飾っていた花びらがひらりと舞い落ちた。

「あなたは自分の銃がどちらを向いているか、分かっていますか? 私の方角です! 私は貴族シャトーアの藤咲家の者です。警察隊が貴族シャトーアに銃を向けてよいとでも思っているのですか!? 腕を下ろしなさい!」

 大地を揺るがす、天の声。

 華奢な体躯にそぐわぬほどの、威風堂々たる麗姿に、場にいた者たちの心が平伏した。誰もが声ひとつ漏らすことなく、彼女の背後に後光すら幻視する。

 しかし、そんな中で唯一、彼だけは違った。

 銃口をメイシアに向けていたその男だけが、無表情のまま――。

 メイシアは皆を諭すように、はっきりと告げた。

「私は、誘拐などされていません」

「そう言うように、脅されているんでしょう?」

 にやり、と男が嗤った。そのおぞましさに、メイシアの背筋がぞくりとする。

「違います!」

「そうか。……つまり――」

 彼は拳銃を持つ手をわずかにずらし、照準を改めた。

「――あなたは、メイシア嬢の替え玉ですね?」

「え……?」

貴族シャトーアなら、警察隊の助けを喜ぶはずですからね」

「そんな……!」

 メイシアに向かって、銃口が光る――。



 鷹刀一族次期総帥、鷹刀エルファンは、桜とメイシアを囲む群衆に紛れ、事態を窺っていた。庭に集まるようにとのメイシアの館内放送を聞いたあと、他の凶賊ダリジィンたちと共に、何食わぬ顔で外に出ていたのである。

 彼は大きな溜め息をついた。

 それから、「おい」と傍らに立つ警察隊員、緋扇シュアンの脇腹を肘でつつく。彼らが手を組んだことは秘密であるため、周りに悟られぬよう、視線は中央に向けたままだ。

「すっかり、狂犬のお株を奪われているようだが――あれは、お前の仲間か?」

 ……返事がない。聞こえていなかったのかと、エルファンが眼球だけを動かして横を見ると、シュアンの口が震えながら動いていた。何かを言っているようだが、言葉が音声として形を成していない。小生意気な顔からは、余裕というものが、まるで抜け落ちていた。

「緋扇シュアン?」

 エルファンのやや強めの呼びかけに、シュアンは、びくりと肩を上げた。

「あの男は、お前の頭の中の隊員名簿とやらに載っていないのか?」

 偽者の警察隊員というのなら、納得がいく。だが、シュアンは首を横に振りながら目をそらした。――表情を隠すかのように。

「先輩は、腐った警察隊組織の中で、あの糞上官に面と向かって盾突く……奇特な阿呆ですよ」

「ふむ……?」

「……新人だったころの俺の憧れでした。糞上官に取り入り始めた俺を叱り飛ばし、殴り合いをして、たもとを分かって……それきりです」

 シュアンは口の中だけで、小さく何かを独り言ち、拳を強く握りしめた。

 エルファンは、中央にいる男に意識を戻し、冷静な目でじっと見つめた。

 薬物に侵されている様子はない。シュアンの口ぶりからすれば、あの男は金品では釣れまい。ならば、脅迫か。いずれにせよ、なんらかの事情がある。

 さて、どうしたものか――エルファンは額に皺を寄せた。

 そのとき、彼の視線の先で事態が動いた。



 血の気の引いた紫色の唇を震わせ、言葉を失っているメイシアの目の前に、癖のある猫っ毛が広がった。

「すまんな。警察隊相手ならお前には害が及ばない、と考えた俺の認識が甘かった」

 ルイフォンが口元を結び、いたずら猫の表情が消えた顔で、前を見据える。その先には、こちらを向いた銃口――。

「メイシア、車の中に戻れ」

 小声でルイフォンが囁く。

「話ならスピーカー越しでもできるだろ」

「え……、あ……」

 メイシアらしくなく、歯切れ悪く口籠る。違和感を覚えたルイフォンだが、今は彼女の身の安全が最優先だった。

「メイシア、早く!」

 急かせると同時に鋭く目を光らせ、これから凶弾が生まれいづる確率とタイミング、そのときの軌道を導き出しておく。

 警察隊員の指の動きと、筒先の角度。この場にふさわしくないほどに軽やかな春風の流れ。研ぎ澄まされた感覚でそれらを読み解き、時々刻々とした変化に合わせて補正を加える。

 警察隊の男がにやりと嗤った。

「替え玉に、用はありません」

「メイシア――!」

 血相を変え、ルイフォンが叫んだ瞬間だった。

 男の指がわずかに動いた。引き金に、命の重みを持った力が加えられる。

 ルイフォンは身を翻した。癖のある黒髪が、たてがみのように大きく波打つ――と、同時に、鳴り響く発砲音……。

 メイシアを抱きしめ、ルイフォンは地面に倒れ込んだ。そのすぐあとに、彼らの身代わりとなって車が被弾する――その着弾音が……聞こえなかった。

 その代わりに――。

 きん……と、澄み切った、甲高い音が響き渡った。

 桜の舞台から弾き飛ばされる小さな影――メイシアを狙っていた凶弾が跳ね返され、回転速度を緩めながら蒼天を目指す。

 舞台の上では、大気を震わす銀色の刃紋が、陽光を受けて立っていた。

「リュイセン!?」

 ルイフォンが、目を見開いて叫ぶ。

 肩までの髪がさらりと流れ、黄金比の美貌が現れた。両の手に光を宿した『神速の双刀使い』。

 枝から離れたばかりの薄紅色の花びらが一枚、神速の煌めきの余波で斬り裂かれていた。綺麗にふたつに分かれ、宙を舞っている。

「さ……さすが、リュイセン様!」

 凶賊ダリジィンのひとりから、感嘆の声が上がる。それを口切りに凶賊ダリジィンたちから拍手喝采が沸き起こった。

「ひゅー、最高だぜ!」

 警察隊の傲岸ぶりを腹に据えかねていた彼らにとって、一族の若者の妙技は、実に爽快だった。

 そんな一族の浮かれように対し、リュイセンは無言のまま、汗の滲む掌に力を込めて柄を握り直した。引き締めた筋肉、それと一体化した双刀が、ぴくりと動く。

 ――と、そのとき、銃声が鳴り響いた。

 リュイセンは即座に地を蹴った。土の付いた青芝生が跳ね上がる。

 ぴしり……と、車のドアガラスにひびが入った。

「公務執行妨害ですよ」

 高圧的な声に、その場の空気が一気に凪いだ。

 リュイセンは着地すると同時に、男に向かってはしり出す。

 にやりと嗤った男の手の中の銃身が火を吹く。一撃、二撃……。射出の反動を物ともせず、続けてリュイセンを狙い来る。

 ……きん……きぃん……。

 木霊する金属音。

 リュイセンの右手が風を薙ぎ、左手が光を放つ。

 あっという間に、両者は互いの瞳に、自分の姿を映せるほどにまで近づいた。

 リュイセンが双刀を大きく振りかぶり、光の筋を描く。だが、同時に、硝煙まみれの男の拳銃がリュイセンの額を捉えた――!

「……!」

 ほんの刹那の時。

 その場にいた誰もが、息を呑んだ。

 ふっ……と、リュイセンの体が沈んだ。

 男が、はっと顔色を変えたときには、リュイセンの鋭い膝蹴りが男の腹を貫いていた。

 胃液を吐きながら、青芝生を散らして転がる男に、リュイセンは虫けらでも見るような目を向ける。

「邪魔をするな。お偉い貴族シャトーアのお嬢ちゃんが、話があると言っているんだ。警察隊の分際で、貴族シャトーアに逆らうんじゃねぇ!」

 リュイセンのかかとが男のみぞおちに落とされ、男は白目をむいて動かなくなった。

 それから彼は、自分に注目している警察隊員たちを睥睨する。上官たる先輩隊員に暴行を加えた凶賊ダリジィンを、捕まえようとする者は誰もいなかった。

 リュイセンは彼らに、くるりと背を向けた。さらさらの髪をなびかせ、そのまま悠然と車のほうへ――ルイフォンたちのもとへと戻る。

 呆然としていたメイシアは、我に返って頭を下げた。

「あ、ありがとうございます!」

「俺は頼まれた役割を果たしただけだ」

 ややもすれば投げやりにすら聞こえる、ぶっきらぼうな声でリュイセンは応じる。

「役割……?」

「お前が話をできる状態を作れ、というのが、俺たちへの指示だろう? あとはせいぜい頑張ってくれ」

 命を賭して、神業ともいえる見事な刀技を披露した『神速の双刀使い』は、実に面倒くさそうに言ってのけた。

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