2.静かなる狂犬の牙-2

 ルイフォンたちを乗せた車は、屋敷への家路を急ぐ。

 車内では、リュイセンがルイフォンの携帯端末を握りしめ、さして大きくもない画面を食い入るように見詰めていた。

 映っているのは、言わずもがな応接室の様子。警察隊員である緋扇シュアンが、「鷹刀と手を組みたい」と言ってきたところだった。

「ミンウェイ! そんな胡散臭い奴、即刻追い出せ!」

「おい、リュイセン。ここで叫んでも、ミンウェイには聞こえないぞ」

 ルイフォンの呆れ声に、リュイセンは「分かっている」と、奥歯をきしませながら不機嫌に返す。

 そんな彼らのことなど、まったく知らぬ画面の中のミンウェイは、シュアンの申し出にいい顔こそしないが、無下に打ち切ることもしなかった。

『――ギブ・アンド・テイクだ。俺も、警察隊の内部情報を教える』

 不意に耳に入ってきたシュアンの言葉に、ルイフォンは猫のような目をすうっと細めた。彼は、クラッカーであり、コンピュータネットワーク世界の情報屋。『情報』は彼の管轄だ。

 シュアンのいう『情報』がオンライン上のものなら、ルイフォンは自分で盗ってこられる自信がある。だが、それが極秘の、デジタル化されていないものなら……?

 ルイフォンが腕を組み、あらゆる可能性を模索しようとしたとき、シュアンの声が響いた。

『俺の家族は、凶賊ダリジィンに殺されたのさ』

 画面の中のミンウェイが、はっと顔色を変える。それに続く、沈んだ「すみません」。

「駄目だ、ミンウェイ! ほだされるな!」

 フロントパネルがひび割れそうなほどの力で携帯端末を握りしめ、リュイセンが唾を飛ばす。そのとき、端末が震え始めた。

「あ? 電話だ」

 ルイフォンが、リュイセンに断りもなく携帯端末を取り上げる。

「あ、おいっ! ミンウェイが!」

「お前が今ここで、やきもきしていても、事態は変わらないだろ? それより少しはミンウェイを信じたらどうだ?」

「ぐ……」

 正論を言うルイフォンに、リュイセンは思わず罵声を浴びせそうになる。だが、ルイフォンに食って掛かるのも道理に合わないと、不承不承、口をつぐむ。

 ……このあとの応接室の様子をリュイセンが見ずに済んだのは、すべての人にとって幸運なことであったに違いない。



 不穏な色をした風が、応接室のカーテンを大きく翻した。

 大気を孕んだレースは、毛足の長い絨毯の上に光と影の円舞を描き出す。それは時に輝き、時に翳る。そしてまた、ミンウェイの美貌の上にも、めまぐるしく明暗を作り出していた。

「……あなたは……」

 そう呟いて、ミンウェイは絶句した。そんな彼女を見て、シュアンは口の端を上げて嗤った。彼の湿った息が耳朶に掛かり、彼女は身を震わせる。

「何をそんなに驚いているのさ? 凶賊ダリジィンなら散々、恨みくらい買ってきただろう? 人を殺せば憎しみが返ってくる。当然のことだ」

 ミンウェイが息を呑み、凍りついた。

 勿論シュアンは、彼女がかつて〈ベラドンナ〉と呼ばれる毒使いの暗殺者であったことなど知らない。更に言えば、長いこと封じてきたその名前を、たった数時間前に彼女が聞いたばかりであったことなど、まったくもって彼のあずかり知らぬことであった。

 ただ彼は、予想を超えて、遥かに無防備になった彼女の背中に扇情された。儚く落とされた肩に、溢れんばかりの嗜虐を覚えた。

 興奮にき動かされて両手が伸び、彼はソファー越しに彼女を後ろから抱きしめた。狂犬が牙を立てるように、波打つ髪の中から白い首筋を見つけ出して唇で触れる。

「俺と、親父とお袋と妹と――家族四人で街を歩いていた……」

 シュアンの静かな声が響く。

「いきなり、気の狂ったような集団が、斬り合いをしながら向こうの角からやってきた。そばを歩いていた奴が『凶賊ダリジィンの抗争だ!』と叫ぶと、通りにいた人間が一斉に逃げ出した。勿論、俺たち家族もだ」

 シュアンが言葉を発するたびに、ミンウェイのうなじに息が掛かり、彼女の産毛を犯していく。

「途中で妹が転んで、手を繋いでいたお袋も引きずられた。そこに凶賊ダリジィンがやってきた。そいつは蹲っていたふたりにつまずき、あとを追ってきた別の凶賊ダリジィンに斬りかかられた」

 ミンウェイの体が強張り、冷や汗でしっとりと湿ってくるのを、シュアンは頬に触れている彼女の首筋から感じ取る。

「つまずいた奴は強かったんだろう。不安定な姿勢からでも、斬り掛かってきた敵を一刀で返り討ちにした。そしてそのあと、危険な目にあった腹いせにか、無抵抗に震えている妹とお袋を斬りつけた。それから、止めに入ろうとした親父を――」

 シュアンは、ミンウェイの肩をまるで恋人のようにふわりと抱く。そして、耳元で甘く囁く。

「……俺は、動けなかったよ」

 触れ合った皮膚の振動から、ミンウェイが唾を飲み込むのを明確に感じ取れ、シュアンは内心でほくそ笑んだ。

 身の上話は、ミンウェイを心理的に支配するための手段に過ぎない。

 嘘偽りない真実ではあるが、彼の声色と行動には多大な演出が施されている――彼の凶賊ダリジィンへの恨みの深さを分かりやすく示すための。彼女を都合よく誤解させ、同情を買うための……。

 シュアンだって、いい大人なのだ。感情で喚き散らすような少年時代は、とうの昔に終えている。ただ、目的のためには、なんでも利用するというだけだ。

 勿論、彼は彼女のことを、どんな不幸話にも涙するような、甘い女と思っているわけではない。自分の一族のためなら、赤子や老人だって無慈悲に殺せるだろう。屋敷を囲んだ警察隊への気迫から、それは明白に分かる。

 だが、彼女の本質は情が深いのだ。だから彼女はされるがままで、彼の手を振りほどくことはできない。辛い過去を背負った男が、自分に縋るように恨みつらみを告白していると思っている証拠だ。

 ためらいがちに、ミンウェイが口を開いた。

「子供のあなたが助けに入ったとしても、死体がひとつ増えただけでしょう。それは……正しかったんです」

「俺を気遣っているつもりか? お人好しだな」

 シュアンは嗤った。差し伸べられた手は取らない。拒絶するほどに、彼女は彼に近づこうとするはずだから――。

「……気遣いではありません。本当に、そう思うだけです」

「ほぅ。じゃあ、そういうことにしておこう」

 そう言って、シュアンは何ごともなかったかのようにミンウェイから体を離した。

「え……?」

 ミンウェイが虚をかれたように小さく声を漏らす。彼女にとって、彼の抱擁は決して心地よいものではなかった。しかし、頼られるほどに応えようとする彼女は、その美貌に寂寥の色を混ぜたのだ。

「まぁ、そんなわけで、俺は凶賊ダリジィンを恨んでいるわけだ」

 シュアンは机を回り込み、当然のことのようにもとのソファーに戻って言った。くつろいだ姿勢で座り、三白眼でミンウェイを見る。

「……鷹刀もまた凶賊ダリジィンです。なのに、何故、あなたは我々と手を組もうとするのですか? あなたは高い志を持って警察隊になったのではないのですか?」

 わずかに苛立ちを含んだミンウェイに対し、シュアンは薄ら笑いを浮かべた。

「あんた、何を可愛らしいことを言ってんの? 今どうして、鷹刀イーレオは警察隊の振りをした凶賊ダリジィンに囲まれている? 俺の上官が手引したからだろう?」

「え、ええ……、そうですけど……?」

「確かに、俺はかつて、正義感に燃えて警察隊に入ったさ。だが、すぐに『世の中の現実』ってヤツを知ったよ。青臭い餓鬼が、社会を呪うようになるまでなんて、一瞬のことだった」

「……」

「今回の事件だって、そうさ。本当は斑目が藤咲家の息子を誘拐した。指示したのは藤咲家と敵対している貴族シャトーア、厳月家。そいつらが俺の糞上官とつるんだ」

 凶賊ダリジィン貴族シャトーア、それぞれの世界で競争相手の弱体化を図りたい斑目一族と厳月家が手を結んだ。そして、彼らのむき出しの敵愾心から漂う腐臭に、警察隊であるはずの男が金袋を片手に蓋をする。

「この社会は腐っているのさ」

 シュアンが詩を詠むかのような静けさで呟く。

 ともすれば、カーテンを翻す風に打ち消されそうな声は、しかしミンウェイの鼓膜をしかと震わせた。

「まるで腐りきった果実だ。発酵臭を求めて蛆どもが這い回る。ああ、虫酸が走るね……私欲に溺れる上官も、武に物言わせる凶賊ダリジィンも、金で支配する貴族シャトーアも、全部、不快だ」

 ミンウェイを上目遣いに見上げたシュアンの口元で、狂犬の牙が光った。

「――だから、蛆どもをすべて、狩ってやる。そのためには手段を問わない」

 シュアンは、乱暴に警察隊の制帽を脱ぎ捨てると、それを床に叩きつけた。豪奢な絨毯の上に描かれる光と影の円舞の中で、彼の年齢にしては高位を示す徽章が虚しく明滅する。

「鷹刀と組むのは、鷹刀が『強い』からだ。俺自身の力は大したことはなくても、鷹刀を味方につければ、俺は強くなれる」

 ふたりを隔てるローテーブルに彼が手をつき、ぼさぼさに絡み合った頭髪が彼女にぐいと近づく。血走った三白眼がミンウェイの美貌を舐め、すべてを喰らい尽くそうと、冷酷な闇を映していた。

「その先に何があるのですか?」

 ミンウェイは澄み切った湖面のような瞳で、じっとシュアンを見返した。その言葉の裏には、彼への憂慮が見え隠れしていた。凶賊ダリジィンのくせに、この女は本当にお人好しだ、と彼は思う。

「さて? 俺は不快なものを殲滅したいだけだ。その先のことなんて考えたことがなかったな」

 本当は分かっている。すべてを狩り尽くすことなんて、不可能であると。だから、その先など、存在しないのだ。けれど不可能だと思ってしまったら何ひとつできなくなってしまうから、強く自分を追い込む。

 そうやって、不安定な思いをくすぶらせていくうちに、彼は狂犬と呼ばれるようになったのだ。

「おっと、語りすぎたな」

 シュアンは席を立ち、床から制帽を拾い上げて頭の上に載せた。ぼさぼさ頭は納まりが悪いのか、両手で位置を直す。その神妙な顔つきは不健康な具合に青白く、ひとつひとつの顔の部位は整ってはいるにも関わらず、凶相にしか見えなかった。

 そして彼は、ふらふらとミンウェイに近づき、彼女の隣に座った。

 その意図を読めずに困惑する彼女に、彼は「あんた」と言いかけて、少しの間を置いて言い直した。

「確か、鷹刀ミンウェイ、だったな。……ミンウェイさんよ、ゆっくり考えている場合じゃないだろう?」

 名前で呼ぶことで親しみを込めたつもりなのか、シュアンは妙に馴れ馴れしくミンウェイの肩に手を掛けた。

「どういうことでしょうか?」

 不審な顔はしたものの、彼女は彼の手を振り払うことはしなかった。

「今、あんたらの総帥は一個小隊に囲まれている。奴らは警察隊の制服を着ているが、中身は斑目の奴らだ」

「ええ……」

「いいのか?」

 シュアンがミンウェイの言葉に被るように畳み掛け、隈の濃い目をぎょろりと動かした。

「鷹刀が用心深いってのは知っている。どうせ、伏兵でも用意しているんだろう? だが、乱闘になったら流血は避けられない。しかも中身がどうであれ、相手は表向きは『警察隊』だ。――あんたら、戦っていいのか?」

「……」

「俺なら、止められる」

 シュアンは力強く言う。

「俺は、あの指揮官の悪事を暴露できるだけの証拠を握っている。今すぐ、さっきの部屋に乗り込んでいって、奴とニセ警察隊員を逮捕することが可能だ」

 彼は、彼女の肩に掛けた手をぐいと引き寄せ、彼女を抱きしめた。そして、耳元で熱く囁く。

「俺の手を取れ。俺と手を組むんだ……!」

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