2.静かなる狂犬の牙-1

「屋敷は、まだか……!」

 車の中で、リュイセンはいらいらと膝を揺らしていた。

「すみません、リュイセン様」

 運転手が恐縮した声を上げた。彼は先ほどから事故すれすれの運転を繰り返しており、メイシアなどは生きた心地がしなかったのであるが、リュイセンは空港で奪取したバイクを飛ばしたほうが早かったかと後悔していた。

「もうすぐですので、今しばらく……」

「ああ……。すまん。お前を責めているわけではない」

 リュイセンは運転手に詫びた。どうにも自分は周りへの配慮が足りないようだと、軽く自己嫌悪する。

 祖父イーレオのもとに一個小隊ほどの警察隊員が向かっている。護衛はチャオラウ、ただひとり。彼がいくら一族最強の男でも多勢に無勢だ。戦闘になったら敵うべくもない。

 ――ミンウェイの付けている盗聴器から、それだけの戦力が押しかけてくることは分かっていた。

 それなのに、だ。

 イーレオのしたことといえば、部下たちを呼んで応接用のソファーセットを片付けさせ、代わりに医療用ベッドを運ばせたのだ。更に、ミンウェイが調合した謎の薬瓶の中身を部屋中に撒き散らした。――音声のみの情報だが、間違いようもない。病人を演じるつもりなのだ。

「何を考えているんだ! 祖父上は!」

 リュイセンが吠える。その声は祖父には届かない。こちらの声が警察隊に聞こえないようにと、先ほど回線を閉じたのだ。

 かといって、屋敷の様子が分からなくなるのは望ましくないわけで……現在ルイフォンが、リュイセンの文句を聞きながら、代わりの情報収集手段を構築しているところであった。

「親父は高齢で、面会は体に障るっていう設定になっているから、老人っぽくしてみたんだろ」

「ご自分でベッドを運んでくるような、元気な老人がいてたまるか! だいたい、六十五歳のどこが高齢だ!?」

 ソファーの片付けとベッドの設置に人手が足りなかったため、自ら働いたイーレオである。

「お、繋がったぞ」

 ルイフォンの携帯端末に、執務室の映像が映し出された。

 イーレオは、ぱりっとした上衣から部屋着に着替えており、柔らかな材質の上着を羽織っていた。袖を通さずに肩に掛けているだけのところが、洒落者のこだわりなのだろう。ご丁寧にも、普段、背中で緩く結っている長髪は解いて、適度に乱してある。寝ていたところを起き上がったばかり、という演出らしい。

『こちらから出向くべきところを、ご足労痛み入ります』

 イーレオの口から低く魅惑的な声が出た。穏やかな挨拶と、人の良さそうな笑顔、それに加えて、自身の体を支えるのにやや苦労しているかのような微妙に曲げた姿勢。加齢によって角の取れた老総帥のつもりだろう。なかなか芸が細かい。

「貸せ」

 リュイセンが横から、携帯端末を取り上げた。

「執務室は〈ベロ〉のガードが厳しいから苦労したんだぜ」

 ルイフォンは奪われた携帯端末を目で追いながら得意気に言うが、食い入るように画面を見ているリュイセンは聞いていなかった。代わりに、反対側の隣りにいたメイシアが、きょとんとルイフォンを見上げた。その反応を待っていたかのように、彼はにやりとした。

「屋敷を守っているコンピュータだよ。執務室の虹彩認証も〈ベロ〉がやっている」

 いまひとつ、よく分からないなりに、何やら凄い仕組みであると解釈したメイシアは目を丸くした。

「俺の母が設計したんで、少々性格が悪い。癖の強い奴で、内部からなら俺のことをすんなり通してくれるんだが、外部からだと俺のことも疑ってかかってくる。まぁ、『地獄の番犬』だから仕方ないんだが」

「『地獄の番犬』……?」

「〈ベロ〉には他に二台の兄弟機がいる。名前は〈ケル〉と〈スー〉」

「あ! 三台合わせて『ケルベロス』……」

 冥府の入り口を守護する三つの頭を持つ番犬になぞらえて、屋敷を守護する三台のコンピュータを名付けたというわけだ。ルイフォンの母という人は言葉遊びの好きな人だったらしい。

「〈ケル〉は俺と母が住んでいた家にいて、〈スー〉はまだ開発中だと言っていたから、揃っちゃいないんだけどな」

 自慢気に話すルイフォンに、メイシアはまだまだ知らない彼の顔を感じた。それは心が躍る新鮮な発見であると同時に、彼女と彼の間に横たわる深淵だった。

「ルイフォン、ミンウェイはどうなった? 執務室にいないぞ!」

 不意に、リュイセンが、ぴりぴりとした声を上げた。

 警察隊が執務室に到着する前に回線を切ったため、彼らはイーレオがミンウェイに下がるように言ったことを知らなかった。ミンウェイも当然、執務室にいるものと考えていたのである。

 大騒ぎするリュイセンに、ルイフォンは小さく溜め息をついた。

 ミンウェイのことだ。執務室にいないのなら、屋敷にいる者たちの様子を見に回っているのだろう。

「端末を貸せ。〈ベロ〉に支配下のカメラをチェックさせる」

 心配するほどのことでもないだろうに、と思いながら、ルイフォンはリュイセンから携帯端末を取り返した。

「ミンウェイ……」

 リュイセンは拳を握りしめる。――このどうしようもない焦燥感はどうしたらいいのだろう。

 心臓が、早鐘のように鳴っていた。

 ミンウェイは厄介な相手にも上手く立ち回れる、明晰な頭脳の持ち主だ。身体能力も高い。必要とあらば、敵にとどめを刺すことも厭わないという心の強さもある。一族の全幅の信頼があるといっても過言ではない。

 ――だからこそ、無理をする。

 リュイセンは、ミンウェイの気取らない微笑みを思い出す。この年上の従姉は何があっても平気なのだと、子供の頃は無邪気に信じていた。笑顔の裏で泣いているなんて、微塵にも思わなかった。

「……どういうことだ!?」

「ルイフォン!? 何があったんですか?」

 メイシアの叫びに近い声を聞いた瞬間、リュイセンがルイフォンから携帯端末を奪った。

 映し出されていたのは、応接室。メイシアが、初めにミンウェイに通されたのと同じ部屋である。

 彼女はひとりではなかった。

 テーブルを挟んで向かい合う、ゆったりとした二脚のソファー。その一方にミンウェイ、他方には――。

「緋扇シュアン!」

 リュイセンが叫ぶ。

「『狂犬』め、ミンウェイに何を……」

 殺気を放つリュイセンに、車内の温度が一気に下がる。だが、彼が取り乱したお陰で、ルイフォンはかえって冷静さを取り戻した。

「落ち着け、リュイセン。応接室で話をしているということは、ミンウェイが緋扇シュアンをこの部屋に連れてきた、と考えるのが妥当だろう? ミンウェイに何か考えがあるはずだ」

 彼女は、この部屋にカメラが仕掛けてあることを知っている。モニタ監視室からも、この映像は見えているはずだ。万一のときは、誰かが駆けつける。

 ルイフォンは癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。

 大丈夫なはずだ。鷹刀一族の屋敷は〈ベロ〉が守っているのだから――。



 応接室に通されたシュアンは、まず天井の四隅に目をやった。

 警察隊の応接室などは蜘蛛の巣が張っていたりするのだが、この部屋は文字通り隅々まで掃除の行き届いた小綺麗な部屋であった。特に異常は見当たらない。

 だが見えないというだけで、どうせ盗聴器と隠しカメラの巣窟なのだろう。そう思って、シュアンは鼻をならした。

「今、お茶をお出ししますね」

 波打つ髪を翻したミンウェイに、シュアンは「結構だ」と言い放ち、遠慮なくソファーに座った。そのあまりの座り心地の良さに、さてどんな商売で儲けているのやらと、邪推してみたくなる。

「随分と余裕だな」

 シュアンは柔らかな背もたれに体を預け、足を組んだ。だらけた姿勢によって目線は低くなるが、挑発的に顎を上げ、腫れ上がったような瞼も三白眼で押し上げる。

「鷹刀イーレオの部屋に、あれだけの人数の警察隊を入れてよかったのか? ご自慢のセキュリティとやらも、あれじゃ形無しだな」

 そんなシュアンの言葉に、ミンウェイは赤い紅の引かれた口の端を上げて微笑んだだけだった。

 少しは緊張感を見せるかと思っていたシュアンは、肩透かしを食らった。と同時に、執務室には大勢の伏兵が隠れていたのだと確信する。護衛がひとりだけなど、おかしいと思ったのだ。ひと口に凶賊ダリジィンといっても、派手好きで強欲な斑目一族などとは違い、鷹刀一族は用心深く、抜け目ない。

 シュアンは、ソファーに寄りかかっていた背を起こした。落ち窪んだ眼球が、飛び出さんばかりにぎょろりと見開き、ミンウェイの美貌を捕らえる。彼は、見えないものを手探りで掴もうとでもするように、ゆっくりと切り出した。

「あの警察隊……偽者だぜ?」

 ミンウェイは表情を変えなかった。相変わらずの微笑を口元に載せたまま、小さく首肯する。

「そうでしょうね」

 その返答にシュアンは鼻息を漏らし、再びソファーに背を投げ出した。肘を背もたれに載せ、鷹揚に顎を上げる。

「やはり気付いていたか」

「ええ」

 何を言っても、ミンウェイは柔らかに躱していく。シュアンとしては、彼や警察隊に少しは恐れをなしてほしいのだが、そうもいかないらしい。

 こんなやりとりに時間を食っていても無駄だ――シュアンは、ぼさぼさに絡み合った毛髪を制帽で押さえつけているような頭を振るった。ひとつ、息を吐いて、三白眼でミンウェイをめ上げる。

 そして、口火を切った――。

「あんた、俺の目的は何かと聞いたな? ――教えてやるよ」

 シュアンは、赤い舌で口元を舐める。彼の唇が濡れたように光った。

「俺は、鷹刀と手を組みたい」

 果たして――ミンウェイは動じなかった。

「そんなことだろうと思っていました。お祖父様と直接、お話できそうにないから、私に接触を図った――違いますか?」

 僅かに傾けたミンウェイの首筋から、波打つ髪が一筋、転げ落ちる。

 まったくこの女は聡い。――シュアンの心がざわつく。穏やかな顔で苦笑といった笑みを漏らす綺麗な顔を、ずたずたに斬り裂いてやりたいような衝動さえ浮かぶ。

「……その通りだ。あんたは総帥に近いところにいる人間だ。あんたの口添えがあれば、鷹刀イーレオも協力してくれるだろう」

「申し訳ありませんが、お断りします」

「ほぅ? 何故、断る?」

 シュアンはわざとらしいくらいの甲高い声を上げ、腫れぼったい瞼を吊り上げた。予想外とばかりに驚いてみせる悪相。だが、それは見せかけで、初めからこの女から色良い返事がもらえるなどとは思ってはいない。

「警察隊の俺とパイプを持ちたくはないのか?」

 わざとらしいほどに嫌らしく、誘い込むようにミンウェイの顔を覗き込む。対して、ミンウェイは小さく息を吐いた。

「……やっと理解できました。あなたの過剰なまでの挑発行為は、警察隊としての権力の誇示だったんですね」

 まるで、子供の自己顕示欲のような物言いに、シュアンは鼻に皺を寄せる。

「なんとでも言うがいいさ。だが、まさか、あんな行動を取った俺が鷹刀と繋がっているなんて、誰も疑いはしないだろう」

「そうですね。……けれど、あなたの真意が見えない以上、私はあなたに協力する気になれませんね」

 話にならないとばかりに首を振るミンウェイに、シュアンはにやりと嗤いかけた。狂犬の牙がちらりと覗く。

「理由は単純だ。――情報が欲しい」

 強い語気だった。彼はそのまま口調を弱めずに続ける。

「勿論、鷹刀の情報を寄越せとは言わない。他の凶賊ダリジィンのものでいい。他所の情報を警察隊の俺に漏らすことは、あんたらにとって損にはならないはずだ」

「ですが……」

「警察隊が入手できる情報なんて、たかが知れているのさ」

 ミンウェイが言いかけたところを遮り、シュアンは畳み掛けた。彼はゆっくりと体を起こし、諭すように言う。

「――ギブ・アンド・テイクだ。俺も、警察隊の内部情報を教える」

 嗤った口の中で白い歯が光るが、血走った三白眼には嘘はない。彼は真実、鷹刀一族の助力を必要としていたし、自分の属する組織に対しての裏切り行為に、なんのためらいもなかった。

 シュアンの調べたところ、鷹刀一族というのは凶賊ダリジィンとしては異質だった。より正確にいえば、鷹刀という一族が、ではなく、現総帥の鷹刀イーレオという男が、である。

 先代の三男であり、父親を殺害して総帥位を奪った男であるが、実のところ悪事と言うほどの悪事は働いていない。加えて、よほど規律を厳しくしているのか、一般の人々には手を出さないことが、末端の者たちにまで徹底されている。

 総帥の代替わりは三十年以上前のことであり、シュアンが生まれるよりも前だ。その頃の話を引退間近の老齢の警察隊員たちに聞くと、彼らは皆、一様に震え上がる。先代が大層、非道な行いを繰り返していたのは、まず間違いない。けれど、イーレオのことも逆らう者を皆殺しにした悪鬼だという。

 情報の欠片を掻き集めた結果、鷹刀イーレオという男は、任侠の徒というやつなのではないかと、シュアンは推測する。決して善人などではあり得ない。しかし、筋さえ通っていれば善悪を問わずに受容をし、懐に入った者には仁義を尽くす。

 シュアンは、利を得るためになら彼の上官のような男と懇意にするのも厭わない。しかし、彼が真に協力関係を築きたいのは、鷹刀イーレオのような男なのである。

「――それでも、お断りします」

「何が不満だ?」

 ミンウェイの芳しくない反応に、シュアンは今度こそ本気で詰め寄った。

「あなたから教えられた情報が罠でない保証など、どこにもありませんから」

「臆病だな、あんた。俺も、あんたらに垂れ込まれるリスクを負っているんだぜ?」

「あなたこそ、どうして危険を犯してまで凶賊ダリジィンの情報にこだわるのですか?」

 ミンウェイの疑問は当然だった。だが、彼女は訊くべきではなかった。

「俺の家族は、凶賊ダリジィンに殺されたのさ」

 低く告げたシュアンに、ミンウェイは、はっと顔色を変えた。

「すみません。噂を聞いたことがありました……」

 遠慮がちに落とされた声には、今までの彼女とは違った柔らかさが込められていた。その意外な温かさに、シュアンは彼女の本質を悟る。

 刹那、シュアンの血走った目が狂気を帯びた。飢えた狂犬が、食らいつくべきものを見つけ、だらだらと涎を垂らし始めた。

「俺が餓鬼のころ、凶賊ダリジィン同士のくだらない抗争に巻き込まれたのさ」

 彼は、にこやかに嗤うと、おもむろに立ち上がった。

 先の読めない行動にミンウェイは困惑するが、殺気を感じない相手に何をすればよいのか分からず、ただ瞬きだけをする。

 シュアンは緩やかにテーブルを回り、ミンウェイの座るソファーの背後に回った。そっと屈み込み、彼女の耳元に口を寄せる。

「ああ、そうさ。俺は凶賊ダリジィンを恨んでいる」

 優しく囁くように、シュアンは言った。

 ミンウェイの波打つ髪が、シュアンの鼻先に掛かり、炭化した人毛の悪臭が彼の鼻腔をつく。先ほど彼の放った弾丸が、焼き縮れさせた名残りだ。

凶賊ダリジィンは俺の人生の仇だ」

 シュアンはミンウェイの髪の中に顔を埋め、低く嗤う。その口元に、狂犬の牙がぎらりと光る。

「俺は、この国から凶賊ダリジィンを殲滅してやる」

 この凶賊ダリジィンの女は、向かってくる者には恐ろしく強いが、傷を持つ者には限りなく優しい。――愚かに、優しすぎる。

 冷静な狂犬は、彼女の心に牙を穿うがとうとしていた。

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