1.忍び寄る魔の手-3

「料理長、この花瓶をテーブルに飾ってもいいかしら?」

 波打つ髪を豪奢に揺らし、ミンウェイが食堂に現れた。彼女の手には、高さのある白磁の花瓶――そこから紫の花房が優美に垂れ下がっている。

「どうぞ、どうぞ」

 立派な太鼓腹に掛かったエプロンで手を拭きながら、料理長が厨房から顔を出した。

「ほほぅ、藤ですか。綺麗ですねぇ」

 感嘆の声が、広い食堂に響く。

 了承を得たミンウェイは、テーブルの中央に花瓶を据えた。どの方向からでも美しく見えるよう、房の形を整えていると、料理長が「はて?」と首を傾げた。

「庭の藤は、もう咲いていましたっけ?」

「これは温室に紛れ込んでいたものよ。外のは、まだちょっと早いわね」

 ミンウェイはそこで一度、言葉を切り、記憶をたどってから続けた。

「――そう言えば、料理長は知らなかったわね。メイシアの家の名は『藤咲』というの。そして、藤には『歓迎』という花言葉があるのよ」

「なるほど!」

 料理長が、ぽんと手を打つ。

 藤はアルコールで水揚げをしないと、すぐに萎びてしまう花である。やや面倒であるのだが、この花言葉はミンウェイの願いであった。

 彼女は小さく溜め息を漏らした。

 先程ミンウェイは、倭国に出掛けていた血族のふたり――エルファンとリュイセン父子から、もうすぐ帰宅するとの連絡を受けた。

 彼らは総帥イーレオの息子と孫であり、その血統を示すかのような美丈夫である。しかし、彼らはイーレオの特徴的な気質は、まるで受け継いでいなかった――どちらかといえば、良い意味で。すなわち、イーレオが『鷹刀の非常識』と呼ばれるのに対し、彼らは『鷹刀の常識』とうたわれていた。

『一体、何を考えているんだ、祖父上は!?』

 電話口の向こうで、リュイセンが大音声を上げた。低く魅惑的な声質は、イーレオに酷似しているが、張りのある若々しさから別人と知れる。

貴族シャトーアの娘が尋ねてきた? しかも斑目と関係がある? その状況下で、どうして屋敷に招き入れる!? だいたいミンウェイがいて、何故……』

 激昂しているリュイセンの言葉が途中で遠ざかり、低い遣り取りが雑音混じりに入ってくる。聞き取ることはできないものの、隣りにいる彼の父が何かを言っているのが、ミンウェイには手に取るように分かった。

 しばらくして、今度は明瞭な音声が届いた。

『詳しいことは、あとで聞く』

 用件のみが簡潔に伝えられ、通話は切られた。リュイセンの父親にして、イーレオの長子、次期総帥のエルファンである。こちらもイーレオによく似た、渋く蠱惑的な声であったが、感情に乏しい。しかし、その裏に、ミンウェイは青白い炎の揺らめきを見た。

「ミンウェイ様、眉間に皺が寄っていますよ」

「え!?」

 料理長の呼びかけに、ミンウェイは、はっと我に返った。

「駄目ですよ。せっかくの美人が台無しです」

 太い腕を組み、料理長が物々しく首を横に振る。その大仰なしかめっ面ぶりに、ミンウェイは思わずぷっと吹き出した。彼女は、心の中で自分の頭をこつんと叩き、俯きがちの気持ちから背筋を伸ばす。

「あら、美人だなんて! 嬉しいわ」

「事実を言ったまでですよ。――して、憂い顔の原因は、なんですかね?」

「――当然の帰結というか、どうしようもないことよ。……分かっていたことだし、大丈夫よ、気にしないで」

 ミンウェイは、料理長に向かって華やかに笑いかけた。綺麗にすっと描かれた眉尻が下がる。この屋敷の雑務を切り盛りしている、実質的な最高責任者の完璧な笑顔であった。

 だが、料理長は渋い顔をした。

「そういうのは吐き出すべきですよ。抱え込めば深刻な悩みでも、言ってしまえば、ただの愚痴ですからね」

 人柄が体型に現れているかのような彼が、任せなさい、とばかりに、どーんと胸を叩く。それから、外見に似合わぬ優雅な物腰で、さっと椅子を引き、ミンウェイを座らせた。いったいどこに持っていたのか、小さな包みをテーブルに置き、彼女の目の前でそっと開く。色とりどりのマカロンが、ころんと転がった。

「あらっ!」

 ミンウェイから、無防備な子供の表情がこぼれた。

「自信作です」

「いいの?」

「勿論ですよ」

 絶妙なプロポーションを誇る大人の美女が、実は大の甘党であることを、厨房の主は熟知していた。

 嬉しそうにマカロンを口に運ぶミンウェイに、料理長は、ささっと手際よく紅茶も用意する。

「……さっきね、エルファン伯父様とリュイセンから帰国の連絡があったのよ。それでメイシアのことを話したらね……」

 ひとつ目を食べ終えたミンウェイが、ぼそぼそと口を開いた。その口元は駄々っ子のように尖っている。

「ははぁ……、なるほど。あのおふたりは、お堅いですからね」

「ちょっと融通が効かないわよね。元はといえば、お祖父様が突拍子もないんだけど……」

「イーレオ様が、あのお嬢さんに肩入れするのも分かりますよ。凄くいい子ですよねぇ。見た目も綺麗ですが、心が綺麗なんですよ。ルイフォン様がご執心になるのも、無理ないですね」

 昨晩のルイフォンとメイシアの遣り取りを、それとなく聞いていた料理長である。

「あ、やっぱり、ルイフォンが面白いことになっていると思う?」

「イーレオ様のご子息ですし、一過性のものかもしれませんがね」

 料理長が少しだけ意地悪く、口の端を上げる。

「あら、辛辣ね」

「食事と同じですよ。たまの珍味は悪くありませんが、毎日、食べても飽きないのは、その方にとって無理のない味です」

「……含蓄のある言葉だわ」

 料理長の意外な一面を見つけたような気がして、ミンウェイは大きく目を見開いた。

「いえいえ、私は料理人として、ひとつの真理にたどり着いただけです」

 彼はミンウェイの視線からすっと逃げるようにして紅茶のおかわりを注ぐ。ミンウェイの胸中に、少なからぬ好奇心がもたげたが、追求するのも野暮だと思い、彼女は当面の問題に思考を戻した。

 再び難しい顔になった彼女に、料理長は朗らかに笑いかけた。

「ミンウェイ様は、エルファン様とリュイセン様が、あのお嬢さんを苛めないか、心配なのでしょう? ミンウェイ様もまた、あの子を気に入ってらっしゃるということです」

「そうね、メイシアは本当に純粋で、いい子だわ」

「なら、ミンウェイ様とルイフォン様とで、庇ってあげればよいだけです。もっとも、イーレオ様の手前、誰も何もできやしませんがね。……まぁ、ミンウェイ様の本心としては、命令でいやいや従うのではなく、好意的に動いてほしいということなんでしょうけどね」

「……参ったわ。料理長は、すべてお見通しね」

 ミンウェイは軽く両肩をすくめた。

「お優しいんですよ、ミンウェイ様は。でも、そんな、どうしようもないことを、くよくよなさるミンウェイ様が、私は好きですよ」

 料理長が、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって笑う。それにつられ、ミンウェイからも晴れやかな笑顔がこぼれた。

「ありがとう。気が楽になったわ」

「いえいえ、どういたしまして。……さて、帰国されたということは、おふたりの分のお昼食の用意もしなくてはいけませんね」

 その言葉に、ミンウェイは「あっ!」と口元に手を当てる。

「ごめんなさい。元はといえば、料理長にそれを言うために来たんだったわ……」

 藤の花は、食堂に行くついでに用意したものであり、これでは本末転倒である。

 らしくもない失態に、ミンウェイがうなだれた。自慢の波打つ黒髪が、精彩を欠いたように、力なく背から流れ落ちる。

「エルファン様のお声に、気が動転されたのでしょう?」

 料理長の優しげな声に、ミンウェイは、はっと顔を上げた。

 一体この人は、どこまで知っているのだろう。彼女は、疑問に思わずにはいられなかったが、相変わらずの人の良さそうな笑顔が、それを口に出すのを阻んだ。

「さて、私はこれで厨房に戻りますが、ミンウェイ様はごゆっくり。ああ、ピスタチオのマカロンは、是非、食べていってくださいね。自慢の出来ですから」

 そう言いながら、彼は腕まくりを始めた。心持ち、うきうきとしているように見えるのは、帰国したふたりに、久し振りに腕を振るえるからだろう。倭国の料理は美味しいと聞いているので、対抗意識があるのかもしれない。もっとも、彼の持論からすれば、自国の料理が一番であるのだが。

 料理長が一礼をして、軽やかに厨房に戻っていく。その揺れる背中を見ながら、ミンウェイは緑色のマカロンをつまんだ。ナッツの独特な甘い味わいが口いっぱいに広がり、ミンウェイはうっとりと目を細めた。

 ほぅ、と幸せな溜め息をついたとき、ミンウェイの携帯端末が鋭く鳴り響き、イーレオからの呼び出しを告げた。



 翼が刀と化した鷹――家紋の彫刻に虹彩を読み込ませる作業ももどかしく、ミンウェイはイーレオの執務室に入った。相変わらずの滑るような足の運びは無音であるが、隠し切れない荒々しさが滲み出ていた。

「お祖父様! 『斑目が動き出した』とは、具体的に何があったのでしょうか」

 繁華街の情報屋、トンツァイのところに出掛けたルイフォンから、イーレオに緊急連絡が入ったという。

 ルイフォンは重要な案件については、基本的に対面での口頭でのみ報告をする。自身が情報機器のスペシャリストであるため、電子化した情報は誰かに奪われて当然だという思想の持ち主なのだ。その彼が、わざわざ連絡してきたということは、ただならぬ事態といってよかった。

「斑目が、メイシアの異母弟を解放したらしい」

 執務机で頬杖をつきながら、イーレオは答えた。何かを思案しているのか、秀でた額にわずかに皺が寄っている。

「え?」

 人質の殺害という最悪の事態が頭を横切っていただけに、ミンウェイは拍子抜けした。

「メイシアの実家、藤咲家が斑目と手を組んだ可能性が高いそうだ。お嬢ちゃんを鷹刀に差し出すことによってな」

「な……っ!? 一体、どういうことでしょうか?」

「さぁてな? 俺が知るわけないだろう」

 イーレオは軽い声で肩をすくめた。てっきり策を練っているのだと信じていたミンウェイは、思わず声を荒らげる。

「お祖父様! そんな、他人事みたいに……!」

「そうは言ってもな、ミンウェイ。情報不足の状態で、推測だけで物を言っても仕方ないだろう?」

「それは……、そうですが……」

「だから、お前を呼んだんだろう?」

 椅子に背を預け、イーレオはじっとミンウェイを見上げる。細身の眼鏡の奥から、静かな瞳が彼女を捕らえる。

 彼は自分の携帯端末をミンウェイに指し示した。ルイフォンからの報告文を読むように、ということだ。

 一読して、ミンウェイの目もまた、すっと落ち着いた色を載せた。

「斑目の監視を増員、藤咲家へも偵察を手配します。それからトンツァイとの連絡係が必要です。――人を動かす許可を」

「許可する」

「それと、これは別件ですが――ルイフォンの依頼で、メイシアがずっと身に着けていたペンダントを解析させました。盗聴器の可能性があったためです。結果、ただのペンダントだと判明しました」

「ふむ。じゃあ、斑目がお嬢ちゃんを偵察に使おうとした、という線はないのか」

「ペンダント以外の手段もありうるので、なんともいえません」

 けれど、一番疑わしかったものがシロだった、ともいえる。

「ご苦労だったな。それじゃ、あとは人手を集めて、屋敷の周りの警戒を強化しておいてくれ」

「えっ……?」

 ミンウェイの背をぞくっと、冷たいものが走る。

「――来るぞ」

 一段、低く魅惑的な声でイーレオはそう言い、口の端を上げた。

 しかし、次の瞬間には、妙にご機嫌な様子で回転椅子を揺らしていた。

「でもまぁ、実家公認というのなら、俺は遠慮なく、お嬢ちゃんを貰っていいわけだな」

 そのとき、イーレオの携帯端末の通知音が鳴った。ルイフォンからのメッセージだった。

『メイシアの異母弟の顔を見に行ってくる』

 それを見たイーレオは、にたりと顔を歪ませながら呟いた。

「あいつ、俺の愛人を奪うつもりか?」

「……お祖父様がおっしゃると、冗談に聞こえないのが困ります」

 諦観を含んだ微妙な色合いの感想を、ミンウェイは漏らした。



 ルイフォンからの音声通話が来たのは、その直後のことだった。

 偽者のタクシー運転手に拉致されそうになったという、衝撃の報告――その会話の途中で、不自然にルイフォンの言葉が切れた。

 ミンウェイとイーレオが視線を交わし、頷き合う。

 ――敵の襲撃。

 彼らの見解を裏付けるかのように、動揺を隠し切れないようなルイフォンの声が聞こえてくる。

『――斑目タオロン……』

 ルイフォンが携帯端末を口元から離し、おそらくは尻ポケットにでも突っ込んだのであろう。その後の遣り取りはくぐもった音声になる。

 携帯端末の集音能力の限界から、得られる情報は途切れ途切れ。だが、ミンウェイは、野太い男の声をはっきりと聞いた。

『そこをどけ、鷹刀ルイフォン。……俺は、藤咲メイシアの死体が欲しいんだ』

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