1.忍び寄る魔の手-2

 タクシー運転手には藤咲家の近くにある高級レストランの店名を告げた。

 寄り道ではあることには間違いないが、帰りに繁華街をぶらつくつもりであったのを考えれば、遅くなるというほどのことでもないだろう。運が良ければ、斑目一族の動向を何か得られるかもしれない。

 そんなことを考えながら、ルイフォンは携帯端末に指を走らせた。藤咲家に行くことを、屋敷に連絡しておく必要があった。運転手の手前、音声通話は使わない。会話の端から凶賊ダリジィンと悟られるのは、あまり得策ではないからだ。

 並んで後部座席に座っているメイシアが、真横から「あら……?」と、声を漏らした。

「運転手さん、失礼ですが、お店を勘違いしてらっしゃいませんか? 反対方向だと思うのですが……」

 ルイフォンは携帯端末から顔を上げ、自分の失態を悟った。

 タクシーは裏路地を抜け、人けのない通りを走っていた。そして、その先は貧民街であることを彼は知っていた。

「あぁ、近道なんですよ。私たちがよく使う、裏道というやつです」

「そうでしたか。過ぎたことを……申し訳ございません」

 そんなふたりの会話を聞きながら、ルイフォンは車内に貼られた運転手の顔写真とバックミラーに映る男の顔を見比べた。そして、今ハンドルを握っている男が、制帽を目深にかぶっている意味を解する。

 ――偽者……。

 ルイフォンは戦慄した。彼は、自分の注意力の欠如に憤りを覚えながら、「メイシア」と呼びかけた。

「はい」

 無邪気に応えるメイシアに、ルイフォンは体をにじり寄せた。そして躊躇なく、彼女の肩口へと手を伸ばす。

「きゃっ」

「シートベルトは締めておこうぜ?」

 ルイフォンはメイシアを抱きすくめるようにして、彼女の肩の上にあるバックルを掴み、ショルダーストラップを引き出した。

「え? あ、そうですよね。自分でやります」

 どこか、ほっとしたような彼女の首元に、彼はふっと吐息をかける。

「きゃあ!」

 真っ赤になって、メイシアが慌てふためく。

「な、何を……!」

 メイシアの可愛らしい抗議の声は、しかし、彼の真剣な表情を前に、尻窄みに消えていった。彼女にちょっかいを出すときに見せる、いたずら猫の顔は、そこにはなかった。

 ルイフォンは口元をきつく結び、額に薄っすらと汗を浮かべていた。シートベルトを締めると言ったくせ、バックルは手の中に握ったまま、固定しない。狭い車内で腰を浮かせ、目線はメイシアにありながらも、彼女のことは見ていなかった。

 彼の視線が横へ流れた。

 周りの様子を探っている――そう感じたメイシアは、黒曜石の瞳を一度だけ瞬かせて口をつぐんだ。

 路地を曲がるところで、運転手の注意が外へとそれた。

 その瞬間、ルイフォンは扉のロックに手を伸ばした。解除音に運転手が怪訝な表情を浮かべたのと同時に、その横顔を力一杯、殴りつける。

「っ……!?」

 突然の痛みに声を上げる運転手のこめかみを、今度は正確に裏拳で狙う。脳を揺さぶる衝撃に運転手は意識を失い、そのままハンドルに倒れこんだ。

 悲鳴を上げるメイシアを抱きかかえ、ルイフォンはドアノブに手を掛けた。開いたかと思った瞬間に、扉は大きく風に煽られる。そのまま振り落とされるようにして、ふたりは地面に投げ出された。

 メイシアだけは傷つけまいと、ルイフォンは彼女の華奢な体を腕の中に庇う。金色の鈴が、まるで彼女を守るかのように、大きく弧を描いた。

「くっ……」

 背中が叩きつけられる衝撃に、彼は声を漏らす。だが、それよりも離れていく車体に目を奪われた。

 制御を失った車は暴走する――。

 道路脇の外壁をこすり上げ、壮大なる不協和音を路地裏に響き渡らせる。

 古ぼけた街灯にぶつかり、軽やかに一回転――しかし、派手やかなる舞台を繰り広げるには道幅は狭く、すぐに閉じられたシャッターに激突した。

 フロントガラスの花火を打ち上げ、フィナーレを飾る……。

 倒れこんだ姿勢のまま、腕の中で言葉を失っているメイシアに、ルイフォンは声を掛けた。

「大丈夫か?」

 目を丸くしたまま、真っ青な顔でメイシアが頷く。黒髪が一筋、取り残されたかのように頬に貼り付いていた。

「ルイフォン、あの運転手は……?」

「敵だ」

 端的に、彼は答える。

「どういうこと、でしょうか……」

「分からない。だが、何者かが運転手に成り代わり、俺たちをどこかに連れ去ろうとしていた」

 メイシアの顔に怯えが走る。見えない魔の手が、ゆっくりと忍び寄ってきていた。

 ルイフォンは周囲に視線を走らせる。ともかく、彼女を守らなければならない。

「とりあえず、ここから離れよう。立てるか?」

「はい」

 走行中の車から飛び降りたにも関わらず、ふたりとも奇跡的にかすり傷であった。ルイフォンの上着の背が、擦り切れているのだけは仕方がない。

 せめてものと土埃をさっと払い、ふたりは足早に、この場を立ち去った。



 陽が中天に差し掛かっているにも関わらず、その街並みは薄暗く感じられた。

 砂埃の舞う道に続く建物は、壁の塗装が剥がれかけ、悪くすれば壁そのものが崩れ落ちていた。もとは店舗付きの住宅が軒を連ねていたと思しく、その名残として、錆びついたひさしの上に取れかけた看板を見ることができた。しかし、ひしゃげた窓枠には窓硝子の収まりようもなく、建物の内部は吹きさらしになっている。果たして人が住んでいるのか、いないのか。そんな、廃墟といってよいような建物が並んでいた。

 ルイフォンは細い脇道に身を潜めるようにして足を止め、携帯端末を取り出した。

 GPSによると、現在位置は貧民街の端に分類される場所だった。ルイフォンは小さな溜め息をひとつ漏らすと、いつもは鬱陶しくて使っていない、自身の位置を屋敷に知らせるGPS追跡機能を有効にした。

「屋敷から迎えを呼ぶ。その車で藤咲家へ向かおう」

「ルイフォン……」

 巣の中でうずくまる小鳥のような目で彼女は彼を見上げた。

「藤咲の家には寄らず、そのまま屋敷に戻りましょう」

「メイシア?」

「敵の思惑は分かりません。でも、事実として私は狙われています」

「大丈夫だ、俺が必ず守る。安心しろ」

 怯える小鳥の不安を取り除くように、ルイフォンは力強く言った。多少の虚勢が混じっていることを悟られないよう「俺が信じられないか?」と、にやりと笑ってみせる。

「勿論、信じています。ルイフォンは、必ず私をハオリュウに逢わせてくれるでしょう。……けれど、それはルイフォンが危険な目に遭うことと引き換えに、です」

 彼女は、ぎゅっと掌を握りしめた。そして、か弱い小鳥が懸命に羽ばたくように、言葉に精一杯の力を込めた。

「私は、浅はかでした。守られるということの、本当の意味を理解していませんでした……。私が守られると言うことは、私を守るルイフォンを危険に晒すということです。――私はそれを望みません」

「大丈夫だ!」

「ハオリュウには、また別の機会に逢いに行きます。……ルイフォン、そのときは連れて行ってくださいね」

 遠慮がちに付け加えられた、ふたこと目に、メイシアの気遣いが見え隠れしていた。彼女は力強く飛ぶことは出来なくても、もはや巣立つことの出来ない雛ではなかった。

「……ともかく、車を呼ぼう。話はそれからだ」

 そう言って、ルイフォンは携帯端末を操作する。普段なら決して使わない音声通話――先に送った報告文があるからか、ワンコールでイーレオは出た。

『何があった?』

 即座に異常を察知した父に、ルイフォンは手短に状況を報告する。

「――というわけで、迎えを頼……」

 その瞬間、ルイフォンは肌が粟立つのを感じた。無意識のうちに、メイシアの手を思い切り引き寄せる。

「えっ……!?」

 ルイフォンのただならぬ様子に、メイシアは彼の視線を追う。

 脇道の入口に複数の人影――鷹刀一族の門衛と、勝るとも劣らない屈強な男たちが、壁のように立ち塞がっていた。

 その中央に、ひときわ堂々たる体躯の若い男がいた。

 二十歳を幾つか越した程度に見えるが、おそらくはこの中の誰よりも強い。よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目。刈り上げた短髪と額の間にきつく巻かれた赤いバンダナが、彼の気性を表しているかのようであった。

「――斑目タオロン……」

 ルイフォンが呟いた。

 この男と直接会ったことはない。けれどルイフォンは、斑目一族に関する資料の中で、その顔を見たことがあった。 

「俺のことを知ってんのか」

「ああ」

 ルイフォンの首肯に、タオロンがゆっくりと前に進み出た。腰にいた大振りの刀が重たげに揺れる。

 太い眉の下の瞳が真っ直ぐにルイフォンを捕らえ、口元は一文字に結ばれていた。

 タオロンは無言で柄を握り、幅広の刀をすらりと抜いた。緩慢な動作から一気に頭上高く振り上げ、鋭い風切り音をうならせながら回転させる。

 刀術の型のひとつ――だが、大刀を手遊びでもするかのように片手で弄ぶのは、並大抵ではない。彼がその気になれば、腕くらい軽々と一刀両断だろう。

 思わず見惚れてしまいそうな刀技に、ルイフォンは身動きも取れなかった。

 一連の動作を終え、低いうなりが唐突に、ぴたりと止まる。

 それまでの力強い勢いに流されることなく、筋骨隆々とした腕は微動だにせず――そして、大刀はルイフォンに向けて、一直線に伸ばされていた。

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