1.忍び寄る魔の手-1

 メイシアの膝に頭を預けたルイフォンは、子猫が母猫に甘えるかのように、彼女の服の端をぎゅっと握っていた。小さな寝息に合わせ、彼の胸がゆっくりと上下する。

 そんな彼の寝顔を、メイシアは飽きることなく見守っていた。

 そこだけ空間が切り離されたかのような、穏やかな時間が流れていた……。

 ――ふと、ルイフォンの胸の動きが止まった。

 メイシアが、あれ? と思うと同時に、階段の方向から勢いのある足音が響く――。

 ドアノブが動いた刹那、ルイフォンが一瞬のうちに身を起こし、メイシアを引き寄せた。

「え? ル、ルイフォ……」

 ルイフォンは、素早くメイシアを抱きかかえ、ベッドの影に身を隠す。小さく身をよじる彼女を胸元に置き、彼は息を潜めた。

「ルイフォン!」

 ノックもなしに大きく扉が開き、スーリンが転がり込んできた。

「え……?」

 もぬけの殻のベッドを前に、スーリンが絶句する。

 立ちすくむ彼女の姿を認め、不意の襲撃ではなかったことに安堵の溜め息をついてから、ルイフォンは立ち上がった。

「何があった?」

「ごめんなさい! 緊急事態なの! トンツァイさんが至急、知らせたいことがある、って」

 ルイフォンの表情が一変する。彼は「分かった」と短く答えると、すぐに階下へと走りだした。



 ルイフォンは自身の耳を疑った。

 ――メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウが、藤咲家に戻された……。

「馬鹿な!? メイシアの異母弟は、斑目にとって大事な人質だったはずだ。それを手放すメリットがどこにある!?」

 予想外の情報に、ルイフォンは思わずトンツァイに詰め寄った。いつもなら眇めた調子の瞳が、大きく、かっと見開かれている。

「俺も、さっき報告を受けただけだ。詳しいことは何も……」

 トンツァイもまた、苛立たしげに首を振った。部下からの続報を待っているのだが、まだなんの連絡もなかった。

 相手の思惑がまるで読めないことに焦燥感を覚え、ルイフォンは乱暴に前髪を掻き上げた。

「ちょっと、お前たち。少しは冷静になりなさいよ」

「なんだよ、シャオリエ!」

 呑気にすら聞こえる高飛車な声に、ルイフォンが噛み付いた。掴みかからんばかりの剣幕を、しかしシャオリエは軽く掌で押し止める。

「対価よ」

 シャオリエはアーモンド型の瞳に好戦的な色合いを載せ、唇を妖艶に動かす。

「人質が、人質としての役目を果たしたのよ」

 その言葉に、ルイフォンが、はっと表情を変えた。

「つまり、藤咲家は斑目の要求を飲んだ……?」

「そういうことね」

「じゃあ、藤咲家は婚礼担当家を辞退したのか?」

 そんなことはあるまい、と思いながら、ルイフォンが口にすると、シャオリエが嘲笑を浮かべながら、かぶりを振った。襟元まで垂らした後れ毛が軽やかに揺れる。

「斑目は、藤咲家に別の要求を出したのよ」

 そう言ってシャオリエは、ルイフォンの背後で遠慮がちに控えていたメイシアに視線を向けた。彼女は、鷹刀一族の屋敷に舞い込んできた小鳥だった。

「メイシアか! メイシアを送り込むことに協力したから……!」

 ルイフォンは舌打ちを鳴らした。

 後手に回っている。

 改めてそう思わざるを得なかった。

「屋敷に戻る」

 言いながら、ルイフォンは携帯端末を操り、暗号化された報告文を父に送っていた。盗聴や改竄を避けるため、重要な報告は直接行うのが常であるが、今回は一刻も早く情報を共有しておきたかった。

 メイシアを鷹刀一族の屋敷に置くことが、斑目一族にとって、どんな利益に繋がるのか。

 用意しておくべきものは何か。警戒しておくべきことは何か。

 胸騒ぎがルイフォンの体を突き動かす。

「スーリン! タクシーを呼んでくれ」

 成り行きで居合わせてしまい、居心地悪そうにグラスを拭いていたスーリンに声を掛ける。彼女は、「はい!」と答えると、電話に向かった。

 それからルイフォンは、後ろにいるメイシアに言う。

「メイシア、帰るぞ!」

「……」

「…………メイシア?」

 反応を返さないメイシアに疑問を覚え、ルイフォンは振り返った。

 彼女は胸の前で両手を合わせ、何かに耐えるように、ぎゅっと目を瞑っていた。

「メイシア? どうした?」

「ハオリュウ……。無事、だった……」

 安堵と虚脱が入り混じったような呟きを聞いた瞬間、ルイフォンは冷水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。

「よかった……。本当に……よかった……」

 彼女は俯き、肩を震わせた。声に出して言ったことで、思いが溢れ出したのだろう。その顔が涙で彩られていることは、長い髪で隠していても分かった。

「あぁ……」

 ルイフォンの口から、深い息が漏れた。

 ――彼女の心を置き去りにしていた。

 小刻みに揺れる黒髪を見ながら、ルイフォンは恥じるより先に、後悔をした。

 彼女の大切な異母弟が帰ってきたのだ――。

 なのに、想定外の事態に直面して、彼の頭の中で藤咲ハオリュウは駒のひとつになってしまっていた。

「……メイシア」

 気づいたら、彼は彼女の名を呼んでいた。

 そして、まったく考えてもいなかった言葉が、思わず口からこぼれ落ちていた。

「異母弟に、逢いたいか?」

「……っ!」

 メイシアが、ぱっと顔を上げた。わずかに口を開き、信じられないものを見るかのような大きな瞳で、じっとルイフォンを見詰める。

 しかし、彼女は視線を落とすと、口をきゅっと一文字に結んだ。

 ゆっくりとかぶりを振る。

「お気遣い、ありがとうございます。けれど、私はハオリュウが無事と知れただけで充分です」

 そう言って、彼女は再び顔を上げた。

 小さな桜の蕾が精一杯、綻ぶように、メイシアが笑う。薄桃色の花びらは淡く透き通るようで、脆く儚い。

 彼女は「屋敷に戻りましょう」と言いながら、ルイフォンの視線を避けるようにして目尻を拭った。

 その仕草が彼の感情に火を点けた。

「違うだろ!」

 ルイフォンは、メイシアの濡れた指先を捕まえるかのように、彼女の手首を掴んだ。

「きゃっ」

 突然のことにメイシアは悲鳴を上げ、捕らえられていないほうの手で、無意識にルイフォンの胸を突き飛ばす。

 しかし、そんな可愛らしい反撃は、ルイフォンにとっては小鳥の羽ばたきがかすった程度のものでしかなかった。掴んだ手首に更に力を込め、メイシアの心を覗きこむように、彼女の顔に自分の顔を近づけた。

「お前は、異母弟に逢いたいはずだ」

 ルイフォンのテノールが断言する。険しい口調であるにも関わらず、その声はメイシアの耳に優しく響き、心を揺さぶった。

 メイシアは、ルイフォンから目を逸らすことができなかった。

 望んでもいいのだろうか。それは我儘というのではないだろうか――。

「イエスか、ノーかで答えてくれ。お前は異母弟に逢いたいか?」

 ややきつめの猫のような目が、メイシアをじっと捉えていた。

 見極めた獲物を逃すことのない、鋭い目線。

 けれど、その瞳の中には、優しい彼の心が入っていた。

 つぅっと、メイシアの頬を涙が伝った。

「……甘えてしまって、よいのでしょうか?」

 ルイフォンはメイシアを抱き寄せた。彼女の体はあっさりと彼の胸に落ちた。

「ああ」

 そのひとことに、蓋をしていたメイシアの心が決壊した。

「逢いたい、です。ハオリュウに……逢いたい!」

 感情が洪水のように溢れでて、彼女は泣き崩れた。

 ルイフォンが彼女の耳元で優しく囁く。

「よく言ってくれた。……それじゃあ、藤咲家に行くぞ」

 彼の胸の中で彼女は小さく頷き、「ありがとう」と呟いた。彼にはそれが妙に嬉しくて、そして愛しく思えた。

 突如、パンパンと手を叩く音が響く。

「はいはい。やっと、話がついたようね」

 シャオリエが呆れと冷やかしを含んだ声を上げた。

 メイシアが慌てたように、ルイフォンから体を離す。赤く染まった彼女の顔を、名残惜しげにルイフォンの目が追った。

「けど、藤咲家は斑目と繋がっていることを忘れていないかしら?」

 はっ、とメイシアが口元に手を当てる。

 彼女の心が再び閉ざされようとするのを感じ、ルイフォンがシャオリエに怒りの表情を向けたが、シャオリエは自身の胸元を覆うストールのように、ふわりと軽く受け流した。

「藤咲家は、いわば敵地よ。とても危険な場所」

「ルイフォン、やはり私……」

 それをルイフォンの鋭い声が遮る。

「黙れ」

 シャオリエの言葉に翻弄されるメイシアの肩を、ルイフォンはぎゅっと抱き寄せた。

「俺がお前を守る。そして、お前の願いを叶える」

「言い切ったわね」

 そう言って、シャオリエは満足そうにアーモンド型の瞳を細め、にっこりと笑った。

「なら、行ってらっしゃい。何が起きているのか、自分たちの目で確かめてくるといいわ」

「……は?」

 ルイフォンが間の抜けた声を出した。メイシアも狐につままれたかのように、きょとんとする。

 シャオリエは、唐突に「トンツァイ」と情報屋に声をかけた。いきなり水を向けられた彼は、ぎょっとしたような顔になる。このマイペースな女主人は何を言い出すか、分かったものではない。

「頼みたいことがふたつあるわ。藤咲家周辺の安全確認と、藤咲ハオリュウとの接触」

「……一応確認ですが、期限は?」

 トンツァイは苦虫を噛み潰したような顔をシャオリエに向けた。それに対し、シャオリエが不快げに眉を寄せる。

「今すぐに決まっているでしょう?」

「安全確認は承りましょう。ですが、接触は無理です。最低限の根回しをする時間をくだされば、やってみせるんですがね?」

 優秀な情報屋である彼は、無理難題は請け負わない。命あっての物種である。

「役に立たないわね、もう」

「いくらシャオリエさんの頼みでも、無理なものは無理です」

 シャオリエはふぅ、と溜め息をつきながら肩をすくめ、メイシアに顔を向けた。

「今回のところは、遠くからハオリュウの無事を確認する程度にしておいたほうが無難なようよ」

「いえ、それだけで充分です。……シャオリエさん、ありがとうございます」

「あらぁ? 私は、お礼を言われるようなことは何もしてないわ。まぁ、悪い気分じゃないから、感謝されておくけどね。こちらも、お前には感謝しているしね?」

「え?」

 シャオリエの含みのある言い方に、メイシアはどきりとする。

「お前のおかげで、ルイフォンが少しは見られる感じになってきたわ」

「な……っ!?」

 突然、引き出されたルイフォンが狼狽しながらも、反論する。

「なんだよ? 今まで見られなかったのかよ?」

「当たり前でしょう? ひよっ子が。自惚れてるんじゃないわよ」

「何ぃ!?」

 そういうルイフォンの抗議を無視して、シャオリエは緩く結い上げた髪を揺らしながらカンターに向かった。棚の奥から小瓶をひとつ手に取る。

「ルイフォン、餞別にこれを上げるわ」

「これは?」

「ミンウェイから貰った筋弛緩剤よ――ちょっと困ったお客様用の。優しく抱きついて背後からプスリ、ってね」

「怖いことしてやがるなぁ」

「綺麗な薔薇には棘があるのよ」

 シャオリエは嫋やかな外見に似合わぬ言葉を吐き、口角を上げた。

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