十月桜編〈リンス〉

 ――ガチャ、……バタン!。


 父親を手にかけ、泣きじゃくってからどれくらい経ったのか、体中が鉄臭い匂いに包まれはじめ、動くと肌がパリパリと音を立てそうなほど、乾いて硬くなった頃、玄関のカギが開けられ、ドアが荒々しく開閉する音が聞こえた。

「だっ誰!?」

 その音で現実に引き戻され、緋織はしゃくりを上げながらあたりを見回す。

 だが、元がクロークルームなので、ポールに掛けられた服と自分の三段カラーボックス、粗末な折りたたみ机以外ない部屋では、隠れられるスペースなどなかった。

「どっどうしよう……」

 全裸に血しぶきを浴びたまま身をすくめ、正体のわからない訪問者におののく。

 そのうち土足で荒々しく部屋を歩き回る音が聞こえ、ついにクロークルームにまでその主が来て、乱暴にドアが開けられた。

「ひいっ!!」

「こっこれは……!」

 野太い声が、部屋の入り口で立ち尽くし、呆然としたように声を詰まらせた。

 声の主は若く、白いスーツを着た堂々とした雰囲気の長身の大男で、目鼻立ちがしっかりしていて、人を寄せ付けない切り立った谷山のような、孤高のオーラをまとった二十歳くらいの青年だった。

 明らかに細川と同じ同業者の登場に、緋織は先ほどの父親のように、腰を落としたまま壁まで後ずさりした。

「いっ、いやっ……!」

 緋織は同僚の報復を恐れ、遺棄された子猫のような目でその男を見つめた。

「おいっ!」

 男はそう言いながら緋織に手を伸ばしてきた。

「ごめんなさい! 助けて!」

 痛む手を上げて、殴られる予感を感じて、顔を庇うように全身を小さくする。

「大丈夫か?」

 だが青年は予想に反した言葉をかけてきた。

「――え!?」

 それから、青年は優しく緋織の体を気遣ってケガをした左手にハンカチを巻くと、放置された細川のスマホからSDカードを取り出して、自分のスマホに挿して操作を始めた。

「電池が弱くて俺の方へは断線信号しか送れないようになっててな。このGPSの集音ログはこいつスマホにしか残されていないんだ。虐待の証拠集めのつもりの放置が裏目に出た。本当にすまない」

 青年は操作しながら悔しそうに謝った。

 緋織はその本心からの声に安堵して、さらに何かを察して、カラーボックスの上段を指差した。

「あっ……あそこに、以前友達からもらった、しっ……白ロムのスマホが……ろっ録画状態で置いてあります。……ぜっ全部ではないけど、この…………こっ…………この部屋で起こった事は、……だいたい録画されて…………います」

 震えの収まらないまま、たどたどしく説明する。

「……驚いた。本当か?」

「はっ、はい」

「小さいのに今まで頑張ってきたんだな。よくやった。だがもう大丈夫だ。これからは俺達がついている」

 青年はそう言うと、白いスーツが汚れるのもかまわず、血を浴びて冷えてきた緋織の小さな体を抱きしめてくれた。

「どう……して?」

 青年の感嘆と思いやりを感じ、緋織はようやく聞く事が出来た。

「それはおいおい分かる。そしてもうじき警察も来て大騒ぎになるが、気をしっかり持っていろ。……忘れないでくれ。俺達はお前の味方だ」

 初めての慈愛のこもった抱擁に、そのまま体を預けると、裸の背中に青年の暖かい滴を感じた。

「うっ……うっ、あっありが……とう……ううっ!」

 緋織は再び涙を流して抱き返すと、安堵から意識が遠のき始めた。


 „~  ,~ „~„~  ,~


 ――気がついた時は、事件直後に飛び込んできてくれた青年は見当たらず、警察病院のベッドの上で目が覚めてていて、傍には女性刑務官が付き添っていてくれた。

「本来はこの程度のケガなら、留置場か鑑別所のほうに送られるんだけど、あなたの置かれていた状況と年齢と性別、それと心的外傷後ストレス障害PTSDを引き起こしている可能性があるから、こっちに置かれることになったのよ」

 その刑務官は、今まで出会ったどんな大人や教職員よりも、緋織に優しく接してくれた。

「あーあー、それとこれは私の独り言なんだけど、『本案件は、幼い少女が、暴力団組員である実父からの、非人道的な性的虐待と陰惨な暴力の末、生命の危機の恐怖に駆られた結果の、極めて自然な自己保身による正当防衛である』って方向に偉い人たちが動いてくれるみたい。証拠も山ほどあるしね。……ぶつぶつ」

 と刑務官は去り際にソッポを向いて、大きな声で喋りながら部屋から出て行った。

 そして、そんな事情があったとはいえ殺人を犯した事実から、当然検察官と刑事の取り調べがあった。

 取り調べは女性二人で、一人が駿河台薫するがだいかおると名乗り、薄い紺のスーツでばっちり決めた、インテリ風のきつそうな二十代後半くらいの女性検察官で、もう一人が大村小枝おおむらさえと言い、淡いアイボリー色の縁が丸みを帯びたスーツを着た、保険の外交員のお姉さんといった雰囲気の、二十代前半くらいの生活安全課の刑事だった。

 緋織はてっきり、殺人などはドラマであるような、捜査一課の仕事だと思っていたが、少年(少女)犯罪は、生活安全課の仕事なのだとその時に聞いた。

 理由は少年法にあると言う事だったが、詳しくは今は必要のない事だからと、話してくれなかった。

 緋織は刑務官が打ち明けてくれたような甘い期待は持てず、最初は大人たちに囲まれ、狭くてモノクロな取調室で、厳しい聴取が行われるのかと思って覚悟をしていた。


 だが、現実は緋織の予想の斜め上を遥かに超えていた。

 取調室は同じ建物内で、寝泊りする拘置所を兼ねていて、部屋の窓には鉄格子があり、八畳ほどの広さに、パイプベッドとサイドテーブル、簡素なテーブルと椅子が三つ置かれただけの無骨な部屋だった。

 だがインテリアは白を基調に清潔感があり、ベッドの羽毛布団に加え、おそらくはアルミかスズでできた、デザイナーズブランドらしい軽量金属製の花瓶が置かれていて、そこには様々な色の百合が活けられ、テーブルには銅製の高そうな茶器セットが、かぐわしい紅茶の湯気を上げていた。

 部屋の造りと凶器に転用できないであろう小物以外、まるでVIPでももてなすかのような扱いに、緋織は戸惑いを隠せなかった。

 そして検察官は、最初はインテリできつそうな印象の女性検事だったが、人権団体の代表のような正義感の持ち主で、緋織への取り調べの時も、細川の行動に対し激しい怒りを見せ、かつ緋織の受けた恥辱に涙すら見せて同情してくれた。

 聴取は主に女性検察官が行った。

「普通は刑事さんが取り調べるんじゃないんですか?」

 という疑問には。

「そうね。刑事が事件の調査と調書を取って、検察官がそれを見て、そこに罪があるかどうか、そしてどんな刑罰が必要かを判断するのよ」

 と、駿河台薫が答えてくれた。

「だから、私が調書を取るより薫姉が聴取ちょうしゅした方が罪を無かっ――じゃない。いい解釈を下せるからその方が都合がいいの。もし私が調書を取ってややこしくしたら、緋織ちゃんの勾留期間が延びちゃうから、私は薫姉の調書もはんかいとうを写させてもら――」

「こら小枝さえ! しいっ!」

「ふふ、テヘペロ♪」

 という説明とやり取りがあり、二人が友人同士なのだと伺い知れた。

 他に名ばかりの弁護士はいるようだが、傍に居ないのも同じ理由で、見解を統一させる為と、駿河台薫に処遇を一任しているからだと聞かされた。


 そんな本来あり得ない環境で、さらには。

「――さ、時間よ。問題は解き終わった? お姉さんに見せて」

 最初はきつそうに見えた検事が優しく聞いてくる。

「はい……」

「ふんふん……呑み込みも良いし、頭の回転も速いわ。成績は良かったそうだけど、もっとレベルを上げられそうね」

 と、毎日取り調べもそこそこに、二人して交代で勉強を教えてくれたのだった。

「あの……私、パパを……人を殺したのに、どうして親切にしてくれて、勉強まで教えてくれるんですか?」

 おずおずと聞いてみる。

「うっ、おほん! こっ子供を守るのが大人の役目! 後手に回っちゃったけど、傷ついた女の子にはこの扱いでも不十分だわ! ……あっ、あと、べっ勉強は、……ああ、あなたの精神状態……と、きっ記憶力の調査よ! そっそれによる供述内容に齟齬そごがないかの、けっ検証なのっ!」

 インテリお姉さんが胸を張って、だが後半は赤くなりながら説明する。

「あっ……ありが……とう……ございます……」

 そのお茶目だが真摯な態度に裏など感じるはずもなく、緋織は感動して涙を流す。

「ふふふ、よしよし……大丈夫よ。くー……じゃない。ヤクザの彼が言う通り、あなたが心配する事は何もないから、安心してお姉さんたちに任せて、退院までここで大事をとっていてね」

 女性刑事が膝を付いて緋織の手を取って見上げ、腰のあたりを優しく抱きしめてくれた。

「あーー! 小枝ずるいー! 規則で被疑者との接触は禁止されてるから、ずーーっと我慢してたのにーー! 私もチーママ……緋織ちゃんハグしたいーー!!」

 そう可愛く叫んだインテリお姉さんは、横へ来て優しく頭を抱きしめてきた。


 そうして暑苦しくも嬉しい軟禁生活と、優しい責め苦が退院まで続いた。


 „~  ,~ „~„~  ,~


 ――事件から二か月後。

 表向きには事件は一切報道されず、関係者のみでの結審となり、条件付きの不起訴処分となった。

 不起訴の理由は、刑務官のお姉さんが呟いた通りと、何より緋織の初撃が相手を見ていなかった事で、検事である駿河台薫が、それを細川を振り払う動作であったと判断し、不慮の事故とその流れの結果であったと強引な報告をした事が大きかったようだ。

 そもそもその無理な報告が通ったのは、関係者に緋織を擁護する人間が多かったのと、被害者が幼い少女であった事、細川が暴力団員だった事も大きな理由だった。

 ただし、だからと言って、やはり殺人罪が消える訳でもなく、それが無罪放免になる事はないので、最終的には条件付き保護観察処分と言う事に落ち着いた。

 その条件と言うのは、指定された里親との養子縁組と、その里親の元での更生と精神治療と言う事だった。

 治療は細川から受けた水責めがトラウマとなり、ジャグジーはもちろん、シャワーなどの流水音などを起点とした体硬直と瞳孔拡大、脈拍異常、つまり原体験のフラッシュバックと言う、典型的なPTSDが確認されたためであった。


「あの……新しい両親について教えてもらえますか?」

 緋織が大村小枝に聞く。

「ふふ、そうね。立派な人よ。なにせ私達の恩人だからね」

「私達? 恩人?」

「あなたはその人の養子と言う事になって、名前も大島と言う姓になるわ。残念ながら元のお母さんの姓は名乗れなくなるけど、これは仕方がない事だから許してちょうだいね?」

「大島……ですか?」

「ええ。以前会ってると思うのだけれど、ブルーフィーナスの社長の大島護と言う人よ」

「ええっ!?」

「まあ、警察病院ここでは話しにくい事もあるから、詳しい事は引き合わせた時に教えるわね」

「……はい」

 売られそうになった先の、芸能事務所の社長が里親になるという事実に、緋織は漠然とした不安を感じた。


 そうして新しい両親の元へ行く事が決まり、はじめて顔を合わせるその日を迎え、女性刑事の大村小枝が、退院後そのまま車で里親の元へ送ってくれる事になり、とある豪邸に着いた。

 そこは都心だと言うのに、門や塀から建物が見えないほどの、背の高い木々に覆われたそこそこ広い邸宅で、門をくぐって二十メートルほど進むと、レンガ造りの洋館が見えてきた。

 呼び鈴を鳴らして返事があると、アンティークな大扉を開けられて、二人で中に入る。

「お疲れさま緋織君、久しぶりだね。それから無事退院出来て何よりだ。今日から君は私の養女で、名前も大島緋織となった。これからよろしく」

 大島護氏は嬉しそうに両手を広げて、歓迎の意を示した。

「こんにちは、護兄さん」

「え!?」

 小枝のその言葉に緋織が驚く。

「どうしたの?」

「え……いえ、今、護兄さんって……」

「ああ、そういえばあとで話すって言ったわね。私と薫、ヤクザの彼、それとこの人は同じ施設出身なのよ」

 小枝が立ち止まって話し始める。

「ええっ!?」

「本当は言っちゃいけないんだけど――」

「小枝、それは後で私から説明しておこう。それより中へ」

 大島護が遮って二人を促す。

「そうね。その方がいいわね」

 そうして本物の暖炉のあるリビングに通され、ソファに座る。

「小枝、ご苦労様だったね。本当にありがとう」

 護が直々にお茶を出して大村をねぎらう。

「どういたしまして。……って言いたいけど、欲を言えばもっと早くに助けてあげたかったわ」

 そう言って緋織の肩に手を置く。

「仕方がないさ。日本の法律はどんな人間であれ、実親の権利を守る方に傾いているからな」

 護のくだけた口調が、小枝との仲を雄弁に語っていた。

「ホント。私達みたいな子を救いたくて今の部署を希望したけど、現実の厳しさに挫けそうになるわ」

「それでも行動しないよりいい。ところで今日は薫は?」

「残務処理があるから来られないって」

「相変わらず仕事第一主義だな」

「でも、緋織ちゃんの様子を見に来たいとも言ってたわ」

「そうか。その時は連絡をくれ。都合がついたらみんなを呼んで、久しぶりに飲もうじゃないか」

「ふふ、護兄さん、私も薫姉ももうクーとは酒の席で同席出来ないわ。……会いたいけどね」

「そうか。そうだったな」

「ところで肝心の奥さんは?」

「ああ、ちょっと悪阻つわりがひどくてね。さっき病院から帰って来てから、そのまま部屋で伏せっている」

「そうなの、妊婦さんは大変ね。でも薫姉が残念がってたわ。『結婚歴が汚れてもいいから、護兄さんと結婚して緋織ちゃんを引き取って、一緒に住みたかった!』ってね」

「まったく。あいかわらずのシスコンっぷりだな。だがそんな事してたらこの件の担当になれなかったろう?」

「もちろん。だからその矛盾が余計に悔しいのよ」

「確かにな」

「さて、そろそろおいとまするわ」

 そう言うと小枝が立ち上がる。

「もう行くか」

「ええ。一応まだ勤務中だしね」

「そうか。また困った事があったら言ってくれ。力になる」

「ありがとう護兄さん。じゃあね緋織ちゃん、また会いに来るわ」

 そう言って再び入り口に向かって歩き出す。

 護も立ち上がり、玄関に向かう小枝を見送ると、緋織も立ち上がって小枝を追う。

「不安そうな顔してどうしたの? 緋織ちゃん」

「あっ! ……いえ。なんでもないです」

「そう。じゃあ明日から新しい学校ね、頑張ってね」

「はい。色々ありがとうございました。駿河台さんにもよろしくお伝えください」

「分かったわ。でも今度は薫お姉ちゃんって呼んであげてね。その方が喜ぶから」

「小枝もそうだろう?」

 大島護がにこやかに言う。

「ふふ、そうね」

「はっ、はい。ありがとうございました。小枝お姉さん」

 緋織は深々と頭を下げる。

「……どういたしまして」

 大村小枝が涙ぐむ。

 そうして小枝を見送ると、護は家の中を案内してくれた。

 途中、妻である女性の部屋へ行くと、ノックして呼び出す。

「……なあに。具合が悪いって言っ――!!」

 その女性は少しおなかの目立ち始めた妊婦で、淡い栗色のウェーブの掛かった髪をした、二十代半ばくらいのなかなかの美人だった。だが不機嫌そうにドアを開けて緋織を見ると、驚いた声をあげた。

「この子がかねてから話していた緋織君だ。今日から私達の娘と言う事になる」

 護は驚いた女性にはかまわず話を続ける。

「はっ、初めまして」

「九重――、いえ、籍を入れたんだったわね。大島静香よ」

 驚きつつ、眉間にシワを寄せたまま、不機嫌そうに自己紹介をする。

 その一言で、大島護との婚姻が彼女にとって幸せなものでないのだと知れ、緋織はその女性の言動に、ある確信を抱いた。

「もうじき夕飯だ。食べられそうかね?」

 護が軽く気遣うように聞く。

「……いいえ、いらないわ。落ち着いたら自分で何とかするから……」

「そうか。大事にしたまえ」

「……」

 女性は返事もせず、俯いたまま扉を閉めた。

「まあ、妊娠中であんな状態だから、彼女の事はなるべくそっとしておいてやってくれ」

「はい。わかりました」

 そして最後に緋織の部屋へ案内する。

 そこは二十畳以上はありそうな広い部屋で、薄いブルーやグリーンのモダンな色調で統一された、高価そうな家具類一式がしつらえられた豪華な部屋だった。

 そして中央に置かれたソファーに腰を下ろし、向かいに緋織を座らせると、テーブルの上に、スマホとクレジットカードを出して緋織に渡してくれた。

「スマホには私の関係のアドレスが入力してある。それとカードは私には言い辛い買い物もあるだろうし、まだまだ揃えたい品物もあるだろうから、そこのパソコンで通販とかも利用して好きなだけ揃えなさい」

 至れり尽くせりの待遇に、緋織はかえって不安が大きくなり、これではまるで愛人だという考えが脳裏によぎる。

「ありがとうございます。……では、私はどうすればいいですか?」

「うん? どうすれば、とは?」

「……う、その……」

 緋織は言いよどむと覚悟を決めて大島護の方へ行き、言葉のかわりにブラウスのボタンを外してスカートを下ろし、下着を脱いで全裸になる。

「……何の真似だね?」

 大島護が押さえた声音で聞いてくる。

「細か――パパは最初あなたに私を託すと言っていました。だからこうすることが、あなたの望みなんだと思いました。それと色々と良くしていただいたお礼です」

 そう答えると緋織はその場に跪いた。

 奥さんとも仲が良いようには見えない。緋織が霞さくらとうり二つ。もう芸能人としては表に出せない。しかし、それでもなおコネを駆使して自分の罪を軽減したたり、待遇の便宜を図り、さらには自分を養女に迎えてくれた。

 霞さくらに似ているとはいえ、人を殺した子供を大変なリスクを負ってまで引き取ったのは、やはり自分の体が目的なのだろうと緋織は考えたのだ。

「ふう……なら、とりあえず風呂に入ろうか」

「!!――」

 それから数分後。

「…………来ました」

 洋館だというのに、風呂は黒丸タイルで床が覆われ、壁はアイボリーの四角タイルで、目線の高さから上は白のモルタル仕上げ。浴槽は純和風の大きな四角い、真新しい材で作られたヒノキ風呂で、シャワーは温泉旅館のような無骨なものが二つしつらえらていて、内装はヒノキ風呂以外、特にデザインにこだわった物ではなかった。

 先に入っていた大島護は、腰にタオルを巻いて風呂の縁に腰掛けていて、にこやかにしていた。

「ああ、ではこっちへ」

 護がシャワーの前のイスを指し示す。

 だが、緋織の方はこれからされる事を思うとすくんでしまい、入り口で立ち尽くしてしまった。

「そこに立っていないで、まずはシャワーで体を流しなさい」

 護が穏やかに言う。

「はっ、はい……」

 そのやんわりとした命令でようやく体が動き、言われた通りにイスに腰掛けてシャワーヘッドを掴む。

「あっ!」

 だが恐怖から手先が震え、シャワーヘッドを落としてしまう。

「そうか。……どれ」

 護が背後に回り、緋織に近づいて落ちたシャワーヘッドを拾う。

「ごっごめんなさい……」

「気にしなくていい。これも私の役目だ」

 そう言うと、膝立ちで緋織の背後からカランを回してお湯を出し、温度を調節して緋織の背中にかける。

「ひっ!」

 お湯をかけられると短い悲鳴を上げる。

「警察病院ではどうしていたんだね?」

 背中を流しながら護が聞いてくる。

「あっ、あの、桶にお湯をためてボディーシャンプーを溶かして、スポンジで洗ってました」

「……なるほど。でも警察病院あそこはたしか、普通の石鹸しかないはずだが?」

「えっええ、大村さんが差し入れてくれて……」

「それは良かった。小枝もなかなか気がまわるようになったな」

「そう……ですか」

「ああ、小さい頃は甘えん坊でね。もう一人の男の子と同じくらい、私達の手を焼かせていたね」

「はあ……」

 優しかったお姉さんの昔話をされて、緋織の口調から緊張が解けてきた。

「じゃあ次は頭を洗おうか」

「いっいえ、そっそれは自分で……」

「うん? こう言っては何だが、今まできちんと洗えていなかったのじゃないか?」

「あっ、……はい。そう……です」

 実は流水音がトラウマになっていてシャワーが使えず、小さな桶に貯めたお湯で長い髪を洗っていたが、頭皮の方までしっかり洗えず、フケが目立ち始めてしまっていたのだ。

 それを知られてしまい、緋織は恥ずかしさのあまり小さくなった。

「なら任せてくれたまえ。施設では小さい子の髪を洗うのは得意だったんだ」

「はい……」

 そう言うだけあって護の洗い方はうまかった。

 普通の姿勢でも流れないような硬めの泡をつくり、丁寧に頭皮を洗う。

 その男らしい指先は極上のマッサージのようで、緋織の小さな頭の隅々まで、丹念に揉みながら洗ってくれた。

 施設では、小さい頃は年長者の乱暴で事務的な洗髪しか経験のなかった緋織にとっては、まさしく父性を感じる指先だった。

 そして、流す時も良く絞ったタオルを顔に当てさせて、泡が顔に触れないようにしてから、桶に貯めた熱めのお湯で一気に流し、冷めないうちにリンスをようく髪にすり込んで、さらに熱めのお湯で絞ったタオルで、髪を真っ直ぐにして縦に包み、リンスの成分がじっくりと染み込むようにしてくれた。

「お上手ですね」

 緋織はいつの間にか、自分が成人男性の前に裸でいるのも忘れ、その手際に感心していた。

「こうすれば君のストレートの髪も、普段から真っ直ぐ綺麗に維持できる。覚えておくといい」

「はい。ありがとうございます」

「では体の前の方は自分でできるね?」

 そう言って護が緋織から離れようとした。

「……え!?」

 何かされると思っていた緋織は、意外そうな声をあげて振り向いた。

「私は君をどうこうするつもりはない。だから安心してくれたまえ」

 護がにっこり笑って答える。

「どっどうしてですか? 人を殺して芸能人としても使えない私に、どうして手を出さないんですか? 養女にしたのもそれが目的だったんじゃないですか?」

 緋織は護に本音をぶちまけた。

「悪いが君のDNAを調べさせてもらった。君は霞さくらの父親の違う妹で間違いない」

 必死な緋織に、護も真実を正直に答えた。

「!!――でっでも、それだけで良くしてくれる理由にはならないんじゃないですか? やっぱり私の体……が…………」

 緋織にとってそれは驚きだが、自分の容姿や生い立ちから予想外な事ではないし、なにより最初の疑問が頭から消えず、言葉の力を失って俯いてしまう。

「最初に九頭竜組から連絡を受け、紹介されて君が連れてこられた時から、君を父親から引き離す計画をみんなと相談しながら立てていた。あの時点で養女にしても、彼は君という存在を何らかの方法で手放さなかったろうし、縁を完全に断つのは難しかっただろう。そうして証拠集めのために改造GPSを渡して泳がせていたが、今回のような事態になってしまった」

「そう、ですね……」

 細川に対するその考えは正しいと緋織も思った。

「君を救い出そうとしたのはみんなの意思で願いだった。というのも、霞さくらも施設で育ち、今回の件で協力した人々とは、私も含め同じ施設出身だったからだ。さくらはデビュー後は自分のギャラの多くを使い、みんなに援助をしてくれた。だからみんな分不相応な学校にも通えたし、高い地位につくこともできた。そんな彼女の妹が困っていたら、救いたいと思うのは当然ではないかね?」

「でも……それだけで……」

 緋織は信じきれず、弱々しく食い下がる。

「霞さくらの為人ひととなり――いや、素顔は君が出会った人達からも感じたはずだ。……そう言う事だよ」

 大人びてはいるが、十二歳の少女にも分かるように、護が優しく言い聞かせる。


『大丈夫、私達はあなたの味方だから――』

 

 今まで出会った人達がかけてくれた、力強い言葉がいっぺんに蘇る。

「……私、幸せになってもいいんですか?」

 緋織が胸を押さえ、小さく、絞り出すように聞く。

「もちろんだ。みんな全力で応援するよ」

 護が力強く応える。


「うっ! うわああーーん」

 緋織が護にしがみついて、大声で泣きじゃくる。

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