十月桜編〈カモフラージュ〉

 ――緋織は嬉しさのあまり、風呂場で護にしがみついていた。


(……え?)

 ひとしきり泣いて落ち着いた頃、護の背中に回した手の平に違和感を感じた。

「……これか」

 緋織の怪訝そうな顔を見て護が答える。

「あの、背中……」

「隠す事でもないから話そう」

 そう言うと護は背を向けた。

「――ひっ!!」

 護の背中は横一線にトラ模様のように、隙間がないくらいのきずが背中を覆い尽くし、ケロイド状に起伏を作っていた。

「こっこれは……」

 緋織は護のその、いまだ痛々しい痕跡を残す背中に手を伸ばし、そっと触れる。

「施設に居た君なら、この疵痕の理由は分かるだろう」

「虐待……ですか?」

「そう。私は幼い頃、アル中の母親から酷い折檻を受けていた」

「…………」

「母親は私に愛情がなかったわけではないが、アルコールが入ると人が変わってしまって、ことあるごとに裸にされて、棒やハンガーで背中を叩かれた。……そしてある時その折檻から逃れるため、酔ってふらついた母親を階段から突き落として…………殺したんだ」

「!!」

「当時私は五才くらいだったが、君と同じように一旦は警察病院に収監されて、その後、幼すぎた事と虐待の事実、酒に溺れていた母親という事で、君と同じように不起訴処分になって、施設へと送られた」

「それで警察病院の浴室の事を知ってたんですね」

「ああ、君と同じように親を手に掛けた事実が、私が君を救いたいと思った理由の一つでもある。そんな私をどう思うかね?」

「よく……わかりません。でも……」

「でも?」

「胸が痛いです。とても……」

 緋織はその痛々しい、大きい背中にそっと手を当てて、いたわるように頬を寄せた。

「私も君に対してそう思ったよ」

 そう言って護が振り返り、緋織の小さい体の膝下へ手を入れ、お姫様抱っこの形で膝の上に乗せる。

「きゃ!」

 自分の体を軽々と抱えられ、恐怖から一瞬体が強張ってしまう。

「だが、それも昨日までの話だ」

 護を見上げると、優しい笑顔を緋織に向けてそう答え、緋織はすくんでしまった事が恥ずかしくなり、誤魔化すように下を向いて護の首に手を回した。

「私が怖くないようで何よりだ。君は遅ればせながら私という家族を得た」

 奥さんを含めない言い方に違和感を覚えたが、彼女の印象から何か事情があるのだと思う事にした。

「……はい」

 小さく返事をすると、護が緋織の頬に手を当てて顔を上げさせる。

「少しくらい小さい子のように扱っても、それは辛い思いをしてきた君にとって必要な経験だ。だからこれからは遠慮なく私に甘え、わがままを言い、怒り、泣きわめいて、ケンカをして、また仲直りをしよう。そうして私と本当の家族になってはくれないかな?」

 護の熱い想いをストレートにぶつけられ、緋織の胸が痛くなるほど締め付けられる。

「はい……はい……パ…………」

 パパと言おうとしたが、その言葉は血で染まってしまっている事に気付く。


「……………………お父さま」


 少しの迷いと、いくらかの照れを含んで呼んでみる。

「ようこそ緋織、私の娘……」

 護がそう応えて、力強く、しっかりと抱き返してくれた。


 „~  ,~ „~„~  ,~


 ――それから二週間ほど過ぎて、新しい学校にも慣れ、開放的ではないにしろ、対人関係はそこそこソツなくこなしながら、残り少ない二学期半分と三学期を卒業まで消化するだけとなったある日。


 護は社長という多忙な事情を押して、日曜は必ず家に居てくれた。

 それを支える為、緋織は護がどうしてもと言っていたヘルパーを断り、以前のように家事手伝いを率先して行い、時折にしか一緒に摂れない朝食と夕飯を作り、護との時間を作る為に努力した。

「私の事はかまわないでいてくれて結構よ。運動不足にならないように、適当に自分で動くから気を使わないで」

 護の妻の静香はそう言って、食事を共には摂ろうとはしなかった。

 静香には好かれてはいない上、言葉の端々から護ともども、そこはかとなく嫌われているのは感じ取れたが、全く無害だったので緋織は静観する事に専念した。

悪阻つわりが落ち着いたら、会社のフィットネスジムを使いたいから、一応パスを用意しておいてくれるよう伝えてちょうだい」

 ある時静香はそう言って、二人とは距離を置くような態度を最後まで取り続けた。

 その一方で護とは。

「お帰りなさい! お父さま!」

 どんなに夜遅くなっても、必ず護が帰るまで起きていて、子犬のように出迎え、一緒に風呂に入って髪を洗ってもらうようになった。

「……このあいだ洗い方を教えただろう?」

 護がため息混じりに、だが嬉しそうに緋織の髪を洗いながら呟く。

「お嫌……ですか?」

 緋織は洗われながら困ったように聞く。

「ふふふ、私が嬉しくて緋織を夜更かしさせてしまうから困ってしまうんだよ」

「ごめんなさい。でも本当に嬉しいんです」

 髪が泡だらけのまま、護に抱き付く。

「それは何よりだ。そういう事ならもっと甘えていいからね」

「……はい」

 緋織が護の大きな胸に、泡と共に涙を擦り付ける。


 そうして洗い終わると、湯船に一緒に入って、護の膝に乗ってその日の出来事を話すのが、最近の日課になってきた。

「それでその子が言うには――」

 護に色々話す緋織は、それまでの暗い人生を明るく上書きするように、普段より幼く素直に振る舞い続けた。

「で、こう言うんですよ――」

 だが、最初に定着したお父様という呼び方のせいか、敬語口調だけは崩れなかった。

 そんな緋織の話を、護も本当の父親のように、嬉しそうに聞き入っていた週末。

「こんばんわ!」

 浴室の引き戸が開き、全裸の美女が入ってきた。

 驚いて緋織が振り向くと、それは以前に世話になった女性検察官の駿河台薫するがだいかおるだった。

「かっ薫お姉さん!?」

「緋織ちゃーーん!」

 スーツでスレンダーに見えた体型が、じつはそれなりに充実したボディーだったという事実を見せて、駆け込んできて掛け湯もせずに湯船に飛び込み、護から引きはがすように緋織を奪うと、その胸に緋織を力いっぱい抱きしめた。

「会いたかったよー」

「おっ……お、お姉さん、くっ苦しい……です」

 たまらず緋織が悲鳴を上げる。

「あっはは、ごめんごめん」

 そう言いながら放すも、名残惜しそうに緋織の頭に頬ずりをする。

「……こんな夜更けにどうしたんだ}

 護が少し憮然と聞く。

「護兄さんったらヒドイなあ、あんなに無理を通した私への第一声がそれ?」

「む、そうだったな。その節はありがとう。感謝してるよ」

「あっ!! そうでした。本当にありがとうございました!」

 緋織も慌ててお礼を言う。

「二人とも大変よろしい」

 薫が胸を隠そうともせず、大威張りで胸を張る。

「それはそうと静香君はどうした? 居なかったのか?」

(そういえば……)

 緋織は薫は恩人とはいえ、ここが既婚者の家で、薫は赤の他人だという事を思い出し、軽々しく浴室に乱入していいはずがないと思った。

「そこはちゃんと電話で聞いて家に上げてもらって、二人がお風呂にいる事を確認してから入る許可をもらってきたわよ」

「ええっ!?」

「公認か……静香君にも困ったものだな」

「って事で、改めて護兄さん」

「なんだね?」

「彼女との約束が果たされたら私と再婚するってどう?」

「お前の主義に反するのじゃないのか?」

「護兄さんだけは別よ。なんなら私の体を好きにしてもいいわよ?」

 上機嫌で半分からかう様に聞いてくる。

「えっ? えっ?」

 二人を見比べて緋織がおろおろする。

「見ろ。緋織が困っているじゃないか」

「あーー……えへへ」

 薫がまとめた髪の後ろを掻く。

 護には珍しく、歯切れ悪く困ったように答える。

「緋織、薫はな、……その……いわゆる百合レズビアンだ」

「ええっ!?」

「ついでに言えば緋織くらいの年の子が……な」

「おほほほ!!」

 薫が誤魔化すように大げさに笑う。

「「「……………………」」」

 そうして三人が押し黙る。

「……でもよかったわ」

 薫が前を隠しもせず湯船に腰掛けると、おもむろに口を開く。

「何がだ?」

 護も平然と聞き返す。

「緋織ちゃんが私みたいに男の人が苦手にならなくて」

(――あっ……)

 施設出身、少女嗜好のレズビアン、それだけの言葉ワードでもう薫の生い立ちが伺い知れた。

「護兄さんの洗髪は最高でしょ?」

 薫が嬉しそうに聞いてくる。

「えっ! ……ええ……はい」

 緋織が照れながら答える。

「ふふ、護兄さんの指は女の子を喜ばせる為に鍛えられたようなものだからね」

「はい。気持ちいいです」

「おい、薫……」

 その言い方に護が何か言いかけるが、緋織の笑顔を見て苦笑交じりの顔をして黙る。

「「ふふふ」」

 女子二人は含み笑いで護を見つめる。

「――て事で護兄さん。ついでだから久しぶりに髪を洗ってくれる?」

「いい歳した百合女が何を言う」

「いい歳になっちゃったのよ、ちぃママがあんなことになったから……うっ……」

 そう言うと、薫が顔を覆って泣きはじめる。

「……そうだったな。分かった」

 そうして泣き止んだ後、薫は少女に戻ったように護に嬉しそうに髪を洗ってもらい、脱衣所で緋織と薫が髪を乾かし合い、何もしないから……と言うので薫が緋織と寝る事になった。

 護の男物のパジャマを借り、薫とベッドに入ると、密やかに薫が話し始めた。

「護兄さんから、緋織ちゃんを引き取った詳しい事情は聞いている?」

「いいえ、お姉さん達から聞いた以上の事はあまり……」

「ふう、男の人ってしょうがないわね。護兄さんはマシな方だけど、それでも口数が多くはないから、時々女を不安にさせちゃうのよね」

「そう……なんですか?」

「ええ。実は静香さんとの結婚は、緋織ちゃんを引き取る為にした事なのよ」

「ええっ!!」

 緋織ががばっと跳ね起きる。

「……落ち着いて」

「……はい」

「最初緋織ちゃんの存在が確認されて、親から引き離す計画が持ち上がった時、すでに養子に迎える事は決まっていたの」

「……はい」

「でも、護兄さんは独身だったから、養子を受け入れる事が出来なかったの」

「どうして?」

「養子親の資格は通例として、両親が健全で健康、そのほか世間一般的な経済力とかモラルを持っていて、どちらかが常に家事、育児に参加でき、婚姻から三年以上が経過している事が条件って言う大きな制約があったのよ」

「それじゃ薫お姉さんの場合は……」

「そうね。私じゃダメだった。けど静香さんは以前護兄さんと婚約していた事実があったから、その要件を何とかクリアーする事ができたの」

「でもあの二人は結局……」

 自分の為に人生を変えさせてしまったと思い、緋織は言葉を濁す。

「勘違いしないでね? あの二人の間に愛情は存在しないけど、護兄さんは緋織ちゃんを引き取る事が出来たし、静香さんは経済的な心配がなく、子供を産める環境が得られたのよ」

「えっ!? ……ってお腹の子はお父さまの子じゃないんですか?」

「違うみたいね。詳しくは聞いてないけど、経済的な援助と、護兄さんの認知が条件で結婚を承諾したようね」

「そう……ですか……」

 緋織は複雑な気持ちになる。

「そういう事だから、時期が来れば静香さんとは離婚、――籍を抜く事になるけど、緋織ちゃんが気に病むことは何にもないから安心してね」

「はい。ありがとうございます」

「それともう一つ」

「はい?」

「怖い夢を見るようなら、遠慮なく護兄さんの部屋に行きなさい。そしておもいっきり甘えなさい」

「どっどうして!?」

「この家に来てからの事情もだいたい聞いてるわ。それに病院にも監視カメラはあったから緋織ちゃんの事は全部把握してたのよ」

「そっ……!」

「眠りが浅いと、あの時の事を色々思い出して悪い夢を見るから、護兄さんが帰ってくるまで、眠いのをがまんして起きてたんでしょう?」

「……はい」

 緋織は薫が言う通り、一人で寝ていると細川に凌辱された事や、恨み言を言われながら返り血を浴びた事を夢に見て跳ね起きてしまっていた。

 そこでしてきた対策が、夢を見ないほど深い眠りにつけば大丈夫なのだと気付き、寝落ちするまで色々と工夫してきたのだった。

「病院では一枝ひとえも私も立場上何もしてあげられなかったけど、護兄さんはそういう子の事は対処はできるし、何より親になるなら護兄さんが緋織ちゃんを癒してあげる方がいいと考えていたの」

「薫お姉さん、ありがとう……」

 緋織はその心配りに感謝して、薫に抱き付いて泣きはじめる。

「いい子ね、もう何も心配はいらないからね」

 薫はそう言うと、涙で濡れた緋織の顔を、唇で優しく拭ってくれた。

 薫の優しい愛撫に緋織の体の奥がじーんと熱くなる。

「じゃあ、こっちは薫お姉さんが癒してくれますか?」

 緋織はそう言うと、もう一つのトラウマを思い出して、薫の手を取って自分の胸に触れさせた。

「それじゃあ逆よ、私の方が癒されちゃうわ。それに何もしないって約束したでしょ?」

 薫が笑いながら、大人らしくやんわりと断って手を押し返す。

「それでもいいんです。私だってみんなに何か返したいんです」

 緋織が離れようとする薫の首に両手を回し、ぶら下がるように強く引き寄せて、強引に唇を重ねる。

「……やっぱりあなたはさくらの妹なのね」

 唇を離すと薫が呟く。

「姉とはこうなった事が……?」

「いいえ、あの子はスキンシップは好きだったけど、護兄さん一筋だったから純潔は守っていたわね」

「!!……そう、だったんですか。……じゃあ気にしなくていいです。私はもう綺麗な体じゃないから……」

 その言葉に軽く衝撃を感じ、半ばヤケ気味に言うと、再び泣きはじめる。

「ごめんなさい、思い出させてしまって」

「お願いします、薫お姉さん! あのみじめな記憶を消してください!」

 緋織が泣きながら訴える。

「……分かったわ」

 そう答えると、緋織のパジャマをはだけさせて、緋織の幼い胸に唇を、下半身に右手を滑らせて、それぞれ敏感な部分に触れる。

「―――ああ、お姉さん…………」

 それまで嫌悪と不快感しかなかった人との性的接触が、初めて喜びと快感に転化するのを感じた。


 „~  ,~ „~„~  ,~



 ――それから四年が経ち、緋織がとある女子校に進学した最初の休日。


「入学おめでとう緋織」

 薫が大きな包みを持って家にやってきた。

「ありがとう薫姉さん」

「ふああ、花の女子高生の制服! 良く似合ってるじゃない。……若いっていいわねえ」

「もう! からかわないで! ……さ、あがって。お茶を入れるわ」

 玄関で照れながら出迎えた緋織は、今はもう薫と同じくらいの背丈になり、有名私立女学校の制服を着ていた。

「それはそうとDOLLから知らせてもらってたけど、薫姉さんも改めて検事長昇格おめでとう。私の方もお祝いしたいから、時間があったらあとで一緒にプレゼント買いに行かない?」


 緋織が視線を向けた先の制服の胸ポケットに入っているのは、二年前の2020年の東京オリンピックで発表され、諸外国からは“SAKURADOLL”と呼ばれた、最新式のマルチデバイスが収まっていた。

 そのフォルムは、ひと昔前のデフォルメされたアニメ玩具系のようなボーダーレスなデザインで、可愛いが表情は変わらないタイプだった。

 そしてこの時代のDOLLは、所持に年齢制限がなく、大手開発メーカーのクラウドシステム上に存在したAIをOSオペレーションシステムとした、単一人格のインターフェイスで、機種やAIの違いはまだどれも大差はなかった。


「いいの? 私は休日だからかまわないわ」

 そうして薫を招き入れ、廊下を歩きながら薫が答える。

「良かった」

 笑いながらソファーを勧め、キッチンに用意してあったお茶セットを運んでくる。

「まったくもう相変わらずマメねえ。けっこうなお金持ちなんだからメイドさんでも雇えばいいじゃない」

「人がいるのは落ち着かないわ。それに今は家電類はAIが搭載されてるし不便はないわ。それに他人が居たら薫姉さんの相手もできないじゃない?」

「――ってそれよ! 女子高に進学したけど、まさか私の轍を踏んでレズビアンに目覚めちゃったんじゃないでしょうね?」

「違うわ。私の周りがレベルの高い人ばかりだから、興味の持てる男性がいないだけ」

「まあ……そりゃあその年で大手芸能プロダクションの中枢に出入りして、エリート見てたらそうなるでしょけども……」

「ふふ、心配してくれてありがとう。薫姉さんには感謝してる。お父様でも癒せない性的トラウマPTSDを、私がのめり込まない程度に相手して癒してくれたから」

「……くっ! わ、分かっていたならさっさとイイ男見付けなさいよ! 緋織みたいな理系インテリ女、自分から動かないと今時の草食男子は見向きもしないわよっ!」

 図星を指され、照れて赤くなって反論する。

「くすっ そういうところ薫姉さんは変わらないわね。……それより薫姉さんはどうなの?」

「どうっ……て、変わりませんとも。どうせアラサーだもんね。……ぷんぷん」

 外では才気あふれるキャリアウーマンの薫も、同じ施設出身の人や緋織の前では、甘えてお腹を見せるネコ科の野生動物のようだった。

「それそれ。お父様はもう二年も前に静香さんと離婚したのに、いまだにお父様と結婚しようとしないじゃない? 以前はお父様と結婚するって言ってたのにどうしたの?」

「それねえ……なんか緋織と“してる”うちに、私の方もいつの間にか癒されちゃって、どうでもよくなっちゃった」

「それは……喜んでいいのかしら?」

「喜んどいてよ。護兄さんだっていい歳した百合女のカモフラージュに使われたら可哀想だわ。それにまだまだ若いんだからいい出会いがあるかもしれないでしょ?」

「そう……ですね」

 緋織は思いがけず護の身上を再確認して、胸がチクリと痛んだ。

「緋織、あなたもしかして…………」

 その様子を見て、薫が何か言いかけて口ごもる。

「どうしたの?」

「……いいえ、なんでもないわ。それじゃあこのお茶を頂いたら出掛けましょ? その間に支度してきなさいな」

「はーい」


 „~  ,~ „~„~  ,~


 ――さらに五年後、緋織が成人式を迎えた大学二年の冬。

 成人式が終わり、友人たちとの写真撮影やお茶もそこそこに、ブルーフィーナスのビルにやってきた。

 タクシーを降りた緋織は、晴れやかな振り袖姿でビルの前に立ち、頬を赤らめて入り口に向かう。

 

「いらっ……ああ、お嬢様でしたか。お綺麗ですね、ご成人おめでとうございます。お式の方はもうお済みですか?」

 眩しそうに眼を細めて出迎えたのは、最初に細川に連れてこられた時に応対した受付嬢だった。

「休日出勤お疲れ様です。お褒めの言葉ありがとうございます。それで式が終わったのだけれど、お父様に見てもらいたくてそのまま来ちゃった」

「そうでしたか。社長は今、地下の新サーバー改装現場の下見に行かれてたと思います」

「ありがとうございます、でも大丈夫です。DOLLのナビゲーションで分かりますから、探す事はありませんのでご心配なく」


 その肩には、ポケットを必要とした数年前とは違い、振り袖の襟首を器用に掴み、さらには手の平や足裏、お尻には実用化されたばかりの、分子間吸引力ファンデルワールス力”を応用した技術で肩から落ちないでいる、擬似人格まで有した人工知能AIを実装したDOLLをちょこんと乗せていた。


「はい。大島護様の位置情報を追跡トレースするようプリセットされております」

 二人の会話を捉え、DOLLが答える。

「そうでしたか。あと、つかぬことをお聞きしますが、卒業なさったらやはり社長のお側にお付きになられますか?」

「ええ。その節はよろしくお願いいたしますね? 先輩!」

「はい。楽しみにしてますよ、緋織ちゃん♪」

「「ふふふ」」

 そうして細川に連れてこられた時には新人だった受付嬢も、今は総務の課長となり、受付の新人を休ませるために休日出勤するほどのベテラン社員になって、立場の違う緋織とは明確な線引きの上の、堅い友情を育んでいて、お互いに屈託のない笑みを浮かべた。

 会釈をしてその場を離れて、少し色褪せ始めた内装を横目に、エレベーターに乗りこむ。

「ただいま大島護様は地下三階に居られます」

「分かったわ」

 その後はDOLLが自動車のナビゲーションのように、前後左右を示す音声案内で緋織を誘導した。

 そして工事中を示す黄色と黒のカラーコーンを過ぎると、DOLLが反応した。

「この先に居られるようですが、建物の新情報がないうえに通信も不能のようですので、ここから先はご案内できません」

「そっか。工事中だものね。了解、ナビゲーションモードオフ」

 音声コントロールでDOLLの案内を解除する。

「承知しました。通常モードに移行後、通信不能場所では待機モードなります」

 そうしてリノリウムや壁紙などがまだ張られていない、コンクリートの下地がむき出しになった地下フロアを奥に進む。

 新設大型サーバーと言う事だが、床や壁からは太い配線や配管がいくつも出ていて、資材や重機が置かれただけで、全容がまだ不明な状態だった。

 祝日と言う事もあってか、工事関係者の姿は見えず、工事用の仮設照明があたりを照らすだけで、フロアはひっそりと静まり返っていた。

 すると二フロア分を使った天井の高い空間に入ると、真ん中に『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた看板が掲げられた、四角い無機質なコンクリートの建物があった。

「……あの中かしら?」

 そこだけはすでに厳重そうな電子錠付きの扉がつけられていたが、電源がまだつながっていないのか、ボタンを押しても無反応だった。

 仕方がないので試しに引いてみたら、すっと動いたので扉を開けて中に入る。

「……お父様?」

 何か明滅するだけで明かりのない空間に入り、恐る恐る声をかける。

 すると、その声に反応したのか、照明が点灯した。

「なにかしら、ここ……」

 そう広くない十畳ほどの空間には、何かのボンベや微かなポンプ音を響かせる大型の衣装ダンスほどの機械、それと上面が透明なガラスで被われた、自動車くらいの装置が置かれていた。

「いないわ」

 あたりを見回して落胆する。

 そしてどうしようかと思いながら、真ん中に置かれた装置に近寄る。

 外に人の気配を感じなかったが、DOLLは確かにここに居ると言ったので、分かりにくい空間でもあるのかと考えながら、ふと視線をガラスに向ける。

「――!!!!」

 緋織が息を飲むほど驚いて数歩下がる。

「な……ぜ? ……ここに姉……霞さくらが!?」

 ガラスの下、淡いピンクの液体の中、その中に横たわっていたシルエットを認識した瞬間、緋織は大きく叫んでいた。

「見られちまったか」

 ドスの聞いた声が聞こえたかと思うと、背後から忍び寄った影が、緋織の手首を掴んで腕を激しくねじり上げる。

「痛いっ!! だっ誰?」

「困った子だ。こんな所まで来るとはな。こんな事なら会社の出入りを禁止しておけばよかった」

 緋織の誰何すいかに応えたのは、この八年間慣れ親しんだ声。

 ――大島護だった。


「お父様!!」


「どうします?」

 腕を掴んでいた声が護に問う。

「どうもこうも、計画を前倒しにして例の場所へ送るしかないだろう」

「けい……かく?」

 痛みに顔をしかめながら緋織が聞き返す。

「そう。霞さくらはこうして意識のないまま、植物状態で生きている。だが事故のケガで損傷して遺棄された臓器や器官の為、例え目覚めても生命維持装置のついたベッドの上から降りられず、“喋る事も出来ない”んだ」

「じゃっ……じゃあ私は、……私が引き取られたのは……」

「おめえはさくらの体のスペアパーツだったのさ」

 後ろの人物が嘲笑気味に答える。

「そ……んな」

 緋織は絶望と共にその場に崩れ落ちる。

「……私はさくらを愛していた。そしてさくらもまた私に好意を寄せていてくれた。だが君と同じように、私の手は血で汚れていた。だからさくらの告白を受け入れられなくて、その結果さくらは絶望して事故にあった」

「やっぱりお父様も姉を……」

「気付いていたか。そう。さくらを目覚めさせるための布石として君を、……君の体を必要としたんだ」

「では私に今までかけていてくれた、見せてくれていた愛情は……」

 緋織がうつむいたまま力なく聞いてみる。

「そうだ。私は君を娘としてなど見ていなかった。さくらと重ねて君を愛していたにすぎない」

「!!」

 緋織の体が大きく震える。

「ははは! そういう事だ。諦めて生体パーツになれや」

 後ろの声があざ笑う。

「……では、一つだけ聞かせてください」

「なんだね?」

「今のわたしを見てどう思われますか?」

 緋織が護を見上げ、すがる様な目で問いかける。

「……けっ、今更同情を引こうとしても兄貴の決心はかわらねえ! ……だがまあさらに絶望するなら聞かせてやろうじゃねえか、それ」

 男が手を離し、緋織を立たせる。

「綺麗になったな緋織、さくらが二十歳になったら君のように美しく成長していただろうと思う」

「ありがとうございます。ここまで育てて頂き感謝しております」

「……おいおい。やけにあきらめがいいな。気でも触れたか?」

「そうかもしれません。だってとても嬉しく思えるんですもの」

「どういう事だね?」

 緋織は護の前に進み出ると、三つ指をついてひざまずく。


「お慕いしておりますお父様。……いいえ護さん、最初に出会った時からずっと、ずっと愛していました。だから、あなたの愛する女性の一部になれるなら、こんなうれしい事はありません。だから私でよければ……私の体でよければどうぞお好きになさってください」


「――くっ! ……緋織っ!!」

 護は拳を堅く握りしめ、苦悩の表情を浮かべて俯く。


「あーっ!! くっそー!! ダメだ兄ちゃん、これ以上演技できねえ、悪いっ!!」

 そう言った後ろの人物は、緋織を強引に振り向かせると、力いっぱい抱きしめてくれた。その顔を見て、声と共に電撃のように記憶が蘇った。

「久しぶりねクー兄ちゃん。……いいえ、九頭流くずるお兄ちゃん。あの時は私を助けてくれて本当にありがとう」


「ああ、……綺麗になったな、緋織」

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