十月桜編〈ためらい〉

 翌朝。涼香の部屋。

 少し疲れた顔の涼香が、パジャマ姿でベッドの上で、一葉と向き合って座っていた。

「……だそうよ涼香」

「ウイちゃんが協力……」

「まあ、今回力及ばずプロテクトを破られて、涼香がハッキングされたのは謝るわ」

 姿勢を正して一葉が謝る。

「ううん、そっそんな事はい……いの。ウイちゃんな……なら聞かれればなんでもこっ答えるし、お教えてもあげたんだけど、あっあまりいい、いお……思い出がな……い……かっ、から、一葉……も、きっ気にしないで」

「……まったくもう。無理やり思い出されて怖くなって、アタシ相手にそんな口調に戻ってるくせに……それにのぞき見した人間に気を遣うなんて、アンタはどこまでお人好しなのよ」

 一葉が涼香の膝に手を置き、嬉しそうに見上げる。

「そっそれより、うっ、ウイちゃん、だっ大丈夫だった……かな? 思い出し、してる間、なんか……すすごくショック……受けてたみっ、みたい、だ、だったけど……」

「雛菊のおバカが、未だにリンク切っていないから“見える”けど、一晩中のたうち回って、唇切って、泣き通して、さらにフラッシュバック起こして、現在進行形で苦しんでいるわ」

「そっ!! そそそれっ、じゃ! じゃ! すっすぐに行ってウイち――」

「いいのよ涼香、放っておきなさい」

 慌てふためく涼香を一葉が手を上げて制する。

「でっでも……」

「しょうがないの。今の雨糸は相手が無防備な状態なら、意識を向けただけで、心を読んでしまう事が出来るんだもの」

「ええっ!?」

「まあ、正確には雛菊がその意を受けて、相手のツインを雨糸のスキルでハッキングして、さらに相手が親しくて寝ているとかの無意識状態でなければ。――って言うステップと条件があるみたいだけどね」

「そっ、そうなの?」

「そう。だから下手にどぎついトラウマを持った人間の精神を覗こうものなら、雨糸の精神も変調をきたすから、涼香の記憶で痛い目を見せて、今の内に心理的に防衛意識を付けさせたかった。……というのが雛菊の狙いだったのよ」

「……大変なんだね」

「ふん。涼香を利用してって言うのが気に入らないけどね」

「でっでも、どっどうして裕ちゃんとか、けっ圭ちゃんとか、姫ちゃ……んじゃなくて、わっ私だったんだろう?」

「それはね、雛菊と雨糸のコンビは、裕貴の黒姫姉さんに敵わないし、姫香はまだ親しくない、圭一は裕貴との付き合いが浅いからってのが理由よ」

「そっか。私、ウイちゃんに親しいって思われてたんだね……えへへ」

「喜ぶところじゃないわよばか。……私はショックを与えたいなら、圭一のヘンタイっぷりを、雨糸に覗かせればよかったのにって思ったわよ」

「そっそれは! べっ別な意味でショックが、おお、大きい……かも」

「ふっ、それが狙いだもの」

「ひど……ふふふ……」

「「あーーっはっはっは」」

 二人でひとしきり笑いあう。

「…………はあ。で、どうするの?」

「どっ、どうって?」

「雨糸の協力を仰ぐの?」

「う……ん……やって貰えれば……だっ……けど」

「けど?」

「できれば、……まっ、ママを怒らせてほっ、欲しいな」

「……確かに。その役はアンタ一人じゃ難しいから雨糸が適任かも」

「うん」

「でもいいの?」

「何が?」

「雨糸がそれ以上の結果を出しても」

「いいわ。それでウイちゃんが幸せになるなら」

「…………ホント。お人好しなんだから」

「あの二人の娘だもん」


 „~  ,~ „~„~  ,~


「おっはよーーゆーき。どーん!」

「ぐへっ!」

 寝ていると陽気な掛け声とともに、突然何かがのしかかってきた。

「なっなっ…………」

 衝撃に驚いて目を開けると、視界いっぱいにピンクの髪を広げて、さくらがウルフアイのグレイの瞳と、赤い瞳のオッドアイを輝かせ、イタズラな顔で覗き込んでいた。

「……おはよー、さくらおねえちゃん」

 今の騒ぎで一緒に起動した黒姫が、視界の外で答える。

「おはよう黒姫、さあゆーき、学校行こ!」

 さくらが覆いかぶさったまま上機嫌で声をかけてくる。

「……う、……あ、あれ? もうそんな時間?」

「もう! まだ寝ぼけてる? おはようのキスする?」

 そう言うと、さくらが目をつぶってゆっくりと顔を近づけてきた。

「お、お、おお……う」

 防ごうにも毛布ごと上半身を押さえられていて、腕が抜けられず身動きが取れない。

「ごめーん。ゆうお兄ちゃん。黒姫目覚ましセットするの忘れてた」

「うえっ!?」

「……そっか。そう言う事だったのか~~。まあいいわ。……ちぇっ」

 可愛く舌打ちすると、さくらが残念そうにベッドから降りた。

 ベッドから降りたさくらを見ると、清楚な白いワンピース姿で、袖もスカートも短めで、以前のような傷を隠すデザインではなかった。

 ……そっか。ポジティブに考えるようにしたのか。

 そう思って安堵する。

「おはよう裕貴」

「げ、フローラ」

 上半身を起こして見回すと、無抵抗に見えたのを見とがめたようで、フローラが眉間にシワを寄せて、怒りの表情も露わに腕を組んで立っていた。

「……気持ちのいいモーニングコールを邪魔したようで悪かったかな?」

 いやそれ半分黒姫のせい……

 と、反論しようと思ったが、こういう時のフローラは下手に刺激してはまずいと知っているので、言葉を飲み込んで素直に謝る。

「そっ、そんな事……ごめんなさい」

「ふふふ、じゃあ明日はフローラがドーンしてあげたら?」

 男の自分より、頭半分高いうえに、高スペックフルバディなフローラに飛び乗られた事を想像する。

「え!? って、それはかんべぶへっっ!!」

 今度は飲み込めずに漏らした途端、フローラの右ストレートが飛んできた。

「重いって言うな」

「理不尽だ……」



 いそいそと朝食を済ませ、学校に行く為にさくらの車に乗って、ついでに涼香を迎えに行く。

「――え? じゃあ今日は雨糸は来ないの?」

 昨日の疲れが出たのか、涼香も寝坊していて、涼香を居間で待つ間に、俺がコーヒーを入れて出す。

「うん。なんか具合悪いって雛菊から連絡があって、よければ今日一日部屋で休ませてくれって言ってたよ~~」

 さくらが答える。

「そうか、なんだろ?」

「シーツを汚しちゃってゴメンねって言ってたから、あまり触れちゃいけない日みたいだよ」

「おお、なるほど」

「まあ、夏休み中だから問題あるまい。それとも班活の方で何かやる事があったのか?」

「いや、特には。バトル用のDOLLを、雛菊が緋織さんにおねだりして手に入れたらしくて、その素体ボディのセッティングとチューニングがある程度かな?」

「ふうん。……ところでゆーきは女の子のこういう話は平気なの?」

 さくらが聞いてくる。

「……あ、まあ……ね」

 口ごもりながらフローラを見る。

「さくら……いいのか?」

 フローラが真顔になり、さくらに聞く。

「いいわ。隠す事じゃないし、乗り越えていかなきゃ……」

「何の事?」

「うんとねえ、さくらトシだからセーリが枯れちゃったの」

「は? ……って、マジ!?」

 一瞬考え込んでから、さくらの体年齢でそれはあるのか? と疑問が浮かぶ。

「さくら……」

 笑いながら言うさくらを見て、フローラが頭を抱える。

「ふふふ、ウソウソ。怪我のせいでもう子供ができない体になっちゃったって話」

「なっ――!!」

 驚いていると、さくらが近づいてきて膝の上に座ってきた。

「だ・か・ら、ゆーきはさくらにあんなことやこんな事しても、ぜんぜん大じょーぶ!! なんだよ~~」

 首に手を回し、からかう様に言うさくら。

 だがそのノリには乗らず、そっとお腹を触れてみる。

「……そういう問題じゃないだろ?」

 女子の心理は判らないが、少なくとも自分が知っている“さくら”は、自分の子供が欲しいと望むような女の子だと思い、気丈に振る舞うのがかえって居たたまれなかった。

「…………ゆーきは優しいなあ」

 さくらが俯いて黙り込み、それから右手を重ねる。

「気遣ってくれてありがと――」

 顔を上げて嬉しそうな瞳を向けてそう言って、左手で俺の顔を引き寄せた。

「さく……んむっ!」「さくら!!」

 ちゅ。

 驚く俺の声とフローラの叫びが重なる。

「んふ。ゆーきがあんまり嬉しいリアクションくれるからごほーび!」

「ちっ」

「……さくら」

「んしょ。……そう言えばさっき、どうしてゆーきはフローラを見たの?」

 さくらが膝から降り、隣に座り直して何事もなかったように聞いてくる。

「そっそれは……」

 キスの余韻に照れて口を押えながら、思い出したくない過去を聞かれて口ごもる。

「……ふん、入院中、病院の売店に生理用品を買いに行かせてやったんだ」

 フローラがふて腐れたように言う。

「……看護師さんに言えば済むのにね」

 その時の恥辱を思い出してフローラを睨む。

「へええ……そっかあ。フローラの為にがんばったんだねえゆーき」

「……つっ、使い切るはずないのに二回もね」

 さくらが下げた空気とフローラの機嫌を同時に上げる気配りを見せたので、照れつつもそこは乗る事にした。

「使用期限があったんだからしょうがないだろ?」

 フローラも笑いながら乗ってきた。

「うそだ!!」

「じゃあお前が止めればよかったろ?」

「ぐ……」

 どうやってさ! とはさすがにツッコめずに黙り込むと、乱暴で不機嫌な声が入り口から聞こえてきた。

「朝っぱらからずいぶんサカった話をしているじゃないか」

 その声に全員居間のドアの方を振り返ると、不機嫌そうな静香が、薄い生地のフリルの多い、ブルーのキャミソールのネグリジェを着て立っていた。

「「お邪魔してます」」

 さくらとフローラが姿勢を正して、この家の家主に挨拶をする。

「起きたのかよ……」

 静香の店の事から始まり、ママの話までを思い出して、修羅場の予感が脳裏をよぎる。

「小鳥がピーチクパーチクうるさくってね。……まずはコーヒ―、それからメシ」

「……酔いつぶれたからぐっすり寝てると思ってたのに」

 だが、かといって騒ぎ立てて悪化させるのもマズイ気がして、とりあえず様子を見る事にした。

「あれぐらいの量で引きずってたらホステスは務まらないわ」

「ウワバミめ。……分かったよ、もうじき出るからメシはあるものでいいか?」

 そう聞くと手をひらひらさせて答えた。

「……声ぐらい出しやがれ」

 ボソリと毒づきながら、まずはコーヒーを入れる為にキッチンに立つと、入れ替わりに静香がさくらの隣に腰を下ろした。

「はっ、初めまして、霞さくらです」

 さくらが静香に向き直って、ぎこちなく挨拶をする。

「……ふうん。やっぱり覚えてないか」

 静香は肘をつき、怪訝な顔でさくらを見つめる。

「あっっ! そう言えば同じ事務所ブルーフィーナスの先輩? だったんですね、すいません」

 昨日の涼香とのやり取りを思い出したのか、さくらが謝る。

「全くね。しかも大事な想い人のフィアンセでもあったのにね」

「えっっ!?」「なにっ!?」

 フローラとさくらの声が重なる。

 ちっ! やっぱりか。

 悪い予感の的中に舌打ちする。

「忘れちゃうなんてひどい子。アナタが電車に飛び込む直前、護のマンションで会ってたの忘れちゃった?」

「あっ――!!」

「おい止めろ!! さくらはずっと眠っていたんだからしょうがないだろ!!」

「関係ないわ、さくらの時間では三月みつきも経ってないでしょ?」

「くっ!……」

「…………」

 俺のフォローを逆手に取って正論を突くと、さくらも黙ってしまう。

「……まあアナタは護しか見てなかったからしょうがないか」

「……コーヒーだ。少し黙れよ」

 乱暴に目の前に置き、威嚇するように睨み付ける。

「ふふふ、なかなかいっぱしな目をするようになったじゃない」

「ああ、おかげさまでな」

「感謝の気持ちがあるならとっとと朝食をちょうだいな」

 怯んだ様子もなく、シャシャアと言う。

「クソババア……」

 捨てぜりふっぽい事を自覚しつつ、毒づきながらキッチンに戻る。

 そうして不機嫌を隠さず料理をする。

 ……涼香が居なくてよかった。

 そう思いつつベーコンエッグを焼きながら、トースターにパンを放り込み、レタスを手でブチブチと破る。

「それにしても本当、よく生きてたわねえ」

 静香がさくらの顔をマジマジと見ながら呟く。

「ええ、みんなのおかげ……です」

「まったくね。あの時昇平が居なかったら、アナタはここにこうしていないわよ?」

「え? 昇平さんが? ってそれはどういう……?」

 やはり知らなかったらしいさくらが聞き返し、それを見て静香が薄く笑う。

 マズイ! “あの事”はさくらは知らない!

「おい!! 止め――

「現場で応急処置をして、隣の病院に運ぶよう先導したのは彼よ」

「えっ!?」

 IHを切って、止めようと叫びながら戻るが、静香が言い切ってしまった。

「そんな……昇平さんが……」

 止められなかった罪悪感を感じながら、おそるおそるさくらの顔を覗き込むと、呆然として光が消えたような瞳をしていた。

「すごかったわ。アナタを見てすぐに電車の下に潜り込んで、躊躇なくちぎれた足をパーカーの紐で縛って止血して、ねじれた首を戻したかと思うと、すぐさま人工呼吸をして息を吹き返させて、下から出てきたと思ったら護と車掌に指示を出して、電車の中から長椅子を外して、アンタを乗せて隣の病院に運び込んだのよ」

 さくらとは反対に、静香は嬉々として勝ち誇ったように言う。

「……首を? ……止血?」

 呆然と力なくオウム返しに聞くさくら。

「そう。両手をアナタの血で染めて鬼気迫るものがあったわよ?」

 静香はとどめを刺すかのように、今度は本当に笑いながら言う。

「止めろ!!」

 さすがに聞き流せず、静香の肩を掴もうとした瞬間、それまで黙っていたフローラが声をあげた。

「フローラ?」

 声をかけると静香の前に来て、口を開く。

「いい加減にしてください。例え当事者とはいえ、さくらが知らない過去の事をこんな形で持ち出して、さくらの良心を傷つけていい事にはならない」

 フローラが拳に力を込めながらも、それでも毅然として静香を見つめて話す。

「ふふ、そう言うあなたはどうなの?」

 フローラの正論にも臆することなく、静香が聞き返す。

「――!! ……どう、とは?」

「アナタだって自分の我儘から裕貴を巻き込んでケガをして、さらには裕貴の良心につけ込んで世話をさせていたんでしょ?」

「そっ、それは……」

 フローラが怯む。

 あなたには関係がないと反論してしまえば、今自分がさくらを庇った事も同じように言われてしまう。

「そんな事はあんたに関係ない!! 俺が好きでフローラの為に世話を焼いたんだ。口を出すな!!」

 さすがにそこまで傍観できないので、自分が声をあげる。

「裕貴……」

 フローラがうれしそうに俺の名を呼ぶ。

「さくらの事だってそうだ! 話を聞けばアンタは現地で何もしなかったんだろ? ていうか、さくらを追いかける護さんを、フィアンセであるあんたがほんの少しでも引き留めてれば、お父の方が先にさくらに合流して、あんな事にはならなかったはずなんだ! それに今お父が居たら、お父だって今の俺と同じ事を言ったはずだ!」

「ゆーき……」

 肩で息をして言いきると、さくらの瞳に光が戻って、嬉しそうに涙を浮かべながら俺の名を呼んだ。

「……やれやれ、とんだ援護射撃が来たものね。……参ったわ」

「そう感じたらもう俺らの事に口を出すなよ!」

「そうね、じゃあすこしさくらが知らない事を話しましょうか」

 これ以上はこの話題で話をできないと思ったのか、話題を変えてきた。

「いい。どうせろくなことじゃないんだろ?」

「さあ、それはどうかしら? ……例えばそうね、護が私と結婚して涼香が生まれたって事とか?」

「「えっ!?」」

 さくらとフローラの驚きが重なる。

「あとはそうね……護ってば、涼香が生まれたのに緋織を養女にして、あまつさえ十二歳だったあの子と一緒にお風呂とか入ってたのよ。……ひどいと思わない?」

「…………」

 話しが護さんの事だけに、さくらも無視できず苦悶の表情を浮かべて聞き入ってしまっている。

 この場を強引に引き離す事も出来るだろうが、それではさくらの中で猜疑心が生まれてしまうので、仕方なく静香に言わせることにした。

 ……くっ、後で護さんにきちんと確認してさくらをフォローしよう。

 フローラも同じ考えなのか、見ると軽くうなずいてくれた。

「そうそう。護ってば背中にすごい傷跡があるの。知ってる?」

「…………」(コクン)

 さくらが無言でうなずく。

 静香はことさら体の関係があった事を強調して、さくらの嫉妬心を煽ろうとしているのが判った。

「そうなんだ。あれって母親に虐待されてできた傷で、今でも疼くそうなのよ。……かわいそうねえ」

 自分が涼香を放置ネグレクトしていた事は棚に上げ、オーバーリアクションで訴える。

「……もういいだろ。いい加減黙れよ」

 さすがに頭に来たので、横槍を入れる。

「ふふ、いいわ。でも一つ聞きたいんだけどさくら。アナタ少し声が変わった?」

「……うん」

「あんなキズを負ったんだ。当然だろ?」

「そうね、でもこう言っても信じてもらえるか分からないけど、私あなたのファンだったのよ」

「悪い冗談はやめろ」

 即答で否定する。

「ウソじゃないわ。元々は歌手でデビューするはずだったけど、マネージャーがさくらのデモテープ持ってきて聞かせてくれた時、私才能の差を感じて歌手の道を諦めちゃったのよ」

「マジか?」

 そう言われればありうる気がして思わず聞き返す。

「そう、だからさくらの声にはずうっと羨望も嫉妬もしてたのよ」

 そう言いながら、静香がさくらのツインにそっと触れると、いきなりツインを引きはがした。

「あっっ!!」

「おい!!」

「あらまあ、ほんとすごい傷――」

 さくらの悲鳴と、俺の叫びも聞こえないかのように、静香がむしり取ったツインを投げ捨てて、さくらの首の傷に触れようとした。

 シュッ!!

 すると、ずっとソファーの背もたれの上で大人しく見ていた青葉が、静香が右腕を伸ばした瞬間、くだんのネクタイを解いて静香の腕に絡めた。


「それ以上ママのキズに触れるのは許さないわ」


 絡めたカーボンナノチューブを編み込んだネクタイが、かすかに高周波音をうならせていて、青葉が本気である事を伝えた。

「……これはどういう事かしら?」

 絡められた腕をフリーズさせて静香が聞く。

「それ以上手を伸ばしたら、あなたの腕がらせん状になって、身長より伸ばせるようになるのよ」

「青葉、止めろ」「青葉、ダメよ」

 ずっと黙っていた黒姫も青葉を止めようとする

「マダム。青葉は三原則が設定されていない。だから大人しく手を引っ込めてくれ」

 フローラもとりなす。

「……噂には聞いてたけどやっぱり軍用AIを入れていたのね」

「知ってるなら危険度が分かるだろ? 加えて言えば青葉は人間ヒューマノイドAIで感情で動ける」

 だからこれ以上怒らせるな、と含めて言う。

「……そう。あなた、青葉って言うの?」

「ええ」

「さくらをママって呼んでるの?」

「そうよ」

「ママが好き?」

「大好き」

「ママを守ってるのね」

「守るわ」

 静香はまるで迷子の小さい子を道案内するように、言葉を区切って丁寧に聞く。


「――ならっっ!!」――バキッ!!


 静香は短く叫んだ途端、絡めたネクタイごと腕を振って青葉を振っ飛ばした。

「「あっ!」」「「青葉!」」

 さくらとフローラ、俺と黒姫の悲鳴が重なる。

 俺の隣、カウンター下の壁に飛ばされた青葉に駆け寄って、青葉をそっと掴みあげる。

「……だっ、大丈夫。裕貴お兄ちゃん」

 そう言いながらも、ボディが微振動していて、身体制御系が軽くエラーを起こしているのが判った。

「そうか、だがまあ振動が収まらなかったら再起動掛けろ」

「うん、分かった」

 そんなやり取りを見ていた静香が後ろで叫ぶ。

「この甘ちゃんのポンコツ人形がっ! ママを守りたいなら躊躇ためらってるんじゃないわよっ!」

 振り返ると静香は、絡まっていたネクタイに沿って、らせん状に切り傷を負っていた。

「しっ、静香っ……さん!」

 目の前で見ていたさくらが、傷を見て静香に手を出そうするが、緩やかに滴る血を見てオロオロする。

「……ふん。体裁だか常識を気にしてるような軍用AIなんてあるもんですか。とんだお笑い草だわ」

 絡まったままのネクタイをほどいてテーブルに投げ捨てながら、青葉にそう吐き捨てるように言って、さらにさくらに向き直る。

「アナタも一人前にこのAIの親を気取るならちゃんと躾なさい!」

「はっ、はっ、はい……」

 気圧されたさくらが頷く。

「じゃあこの責任を取りなさいよ」

「どっどうすれば……」

 聞いてくるさくらに、静香が血まみれの右手を伸ばす。

「そうね、こうしましょ……」

「ひっ! ……んんっ」

 そう言うと静香は、右手でおびえるさくらの後頭部を掴み、強引に引き寄せてキスをした。

「なっ!!」「ええっ!?」「えーー!」「きゃ!」

 俺、フローラ、青葉、黒姫が短い悲鳴を上げる。

「――痛っ!!」

 さくらが悲鳴を上げて突き飛ばすと、さくらは唇から血を流していた。

「おい!! 何したんだ!!」

 そう言いながらさくらの元へ行く。

「何って……返してもらっただけよ」

「訳のわかんねえ事を……大丈夫か? さくら」

「う……ん。唇……を、ちょっと……切った……だけ」

「なにっ!? ……ちょっと見せて」

「う……ん」

 さくらの手をどけて唇を見ると、確かに大きい傷ではなさそうだった。

「うん、そうひどくはないな。……良かった」

「これでチャラにしてあげるわ。感謝しなさい」

 静香が右手をプラプラさせて悪びれずに言う。

「自業自得だろ? 感謝なんかできるかよっ!!」

「……好きになさい。――涼香っ!!」

 そう答えてから静香がドアに向かって叫ぶ。

 どうやらドアの外で伺っていたらしい涼香に、静香が怒鳴って呼びつけると、おびえ切った顔の涼香が、おずおずとドアを開けて入ってきた

「はっ……はい……あっ!! ママっ!!」

 惨状を見て、涼香が叫ぶ。

「救急箱を持ってきて。あとさくらは唇を切っただけだから治療はいらないわ。それに小僧の邪魔になる」

「じゃっ、じゃあ……ママ、てっ手をあら、あらっわ……なきゃ」

 一瞬涼香を引き留めようかと思うが、後々静香に責められそうなので、その考えを振り払う。

「血で汚した服の替えはクローゼットから適当に持っていけばいいわ」

 静香が振り返ってさくらにそう言うが、隣の涼香はこっちを見ようとしない。

 …………涼香?

 本気で静香を心配しいている様子の涼香と、振り向かない事に違和感を覚える。

「そうそう。学校へ行くなら早生都わせみや先生に、教師を辞めたら店で雇ってあげますよって伝えて頂戴」

「――なにっ?」

 考えても始まらないのでさくらに向きなおると、背中から静香がそう言ってきた。

 どういうことだ? と聞こうとして振り向いたが、もう二人が洗面所に姿を消した後だった。

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