第14話 タイトルロール

「王女さまのドレスは、誰がつくってるの?」


 オペラグラスを覗き込みながら、妹が言った。

関係者しか立ち入ることができない、特別なバルコニー席。僕たちは一般のお客さんの席でおしとやかに観賞するのも好きだったけど、こういう特等席でぺちゃくちゃ喋りながら観るのも好きだった。


 上演演目はおなじみの『ルメルシエ』。僕も妹も、ほとんどの台詞と歌を覚えている。そのせいか、僕たちは俳優の演技が上手いとか下手とか、今日はあの演出のタイミングがずれてたとか、ずいぶん生意気な感想を言い合っていた。妹なんか舞台が近い席で観劇すると、衣装のほつれや汚れまで発見する。

 王女さまは最後の15分ちょっとのシーンにしか登場しない。でも、この舞台のどの登場人物よりも華やかで煌びやかな衣装を纏って現れる。両親の知り合い(つまるところお金持ち)の結婚パーティーには飽きるほど参加してきたけど、どんなお嫁さんよりも王女さまのドレスはきれいだった。


 僕は男だし衣装にはあまり興味がないから、上手く説明はできない。とにかくたくさんの生地が複雑な線を描いて、レースとかリボンとか宝石とか、女の子の好きなものがたくさん散りばめられている。そんなドレスを着た美人な女優さんがスポットライトに照らされ、こうこうと輝いているさまは、格好いい。


「さあ? 王女さまお抱えのお針子がいるんじゃあないの。きっとたくさんお金をもらって、贅沢なくらしをしてるよ」

「そういうことじゃなくて。きよ兄、わたし子供じゃないんだよ」

「いや、まだ子供だよ。めるこは僕と違って声変わりしてないし」

「女子に声変わりはないもん」


 ミュージカルはクライマックス。ぱあん、と音がして、無数の金銀のテープが舞台から客席に向かって放たれる。天井からはきらきらと紙吹雪が舞い落ちて、劇場は歓声に包まれた。そんな光景に見向きもせず、妹はむすっとした顔で僕をにらむ。

 ちょっと前までピンクやレモン色のフリフリした服ばかり着ていたのに、妹のさいきんのお気に入りときたらチョコレート色とか黒のギンガムチェックとかの、しぶいワンピースらしい。今日なんか、灰色のセーラー衿のワンピースを着ている。おねえさんになったつもりだろうか。地味だと思う。


「お話の中のことじゃなくて、現実のはなしだよ。あの女優さんが着てるドレスは、どんなお仕事をしてる人がつくってるの?」

「衣装づくりを専門にしてる裏方さんがいるんだよ。僕よりもお父さんのほうが詳しいよ」

「ふうん」


 出演者全員が舞台に整列し、両隣の役者と手と手を繋ぎ合わせ深々とお辞儀する。客席はスタンディングオベーション、拍手の音が響き渡っていた。僕も立ち上がり、手摺りからすこし身を乗り出して拍手をおくる。

 妹も席を立ったけれど、舞台に背を向けてその場にしゃがみこんだ。気まずそうに僕を見上げてから、膝に顔をうずめる。なにか声をかけようとして、ああ、そうか、と思ってやめた。


 いちど舞台袖にはけた役者たちは、鳴り止まない拍手に応えて再び姿を見せる。先ほどと同じように頭を下げ、満面の笑みを浮かべて客席に手を振った。

 僕がすこし大袈裟に手を振ると、ルメルシエ役とセドリック役のふたりが気付き、しっかりとこちらを見て手を振り返してくれる。ふたりとも僕たちよりもひと回り年上で、僕たちの憧れだった。劇場主である父のはからいによって(悪く言えば職権を乱用して)、彼らとは顔見知りになった。


 ルメルシエが目ざとく贔屓のファンを見つけて投げキッスを飛ばしている隣で、セドリックはこちらを向いたまま人差し指を立てて首をかしげた。「ひとり?」と訊ねているのだと思い、首を横に振る。


「めるこ、やっぱり顔だけでも見せなきゃ。こっち見てるよ」

 妹の腕を持ち上げようとしたけれど、強い力で拒絶された。カーテンコールはそう長くはない。拍手はまだ続いているけれど、もう一度役者たちが挨拶をしたら、来場に感謝する旨のアナウンスが流れて強制的に拍手を終了させるだろう。

「ほら、めるこ、早く」


 そうこうしているうちに、役者たちはばたばたと舞台袖に駆けて行った。挨拶は次で最後だ。


「いいよ、わたし、嘘吐きだもん」


 ルメルシエとセドリックのような子になってほしいと、両親は僕たちによく言っていた。僕も妹も、ほんとうにルメルシエとセドリックになりたいと思った。現役のふたりにそういう話をして、僕たちは指切りをした。


 僕と同じだけの稽古を受けても、僕と同じだけの評価を妹に与える大人はいなかった。僕への賞賛と同じだけの言葉をくちびるに乗せられても、ほんとうは同じじゃないことを妹も僕も分かっていた。妹は僕の所為で、そういうことには人一倍敏感だった。誰も彼女を貶さず、傷つけず、やさしく懐柔した。やめる、と言った妹に大人が理由をたずねると、わたしはきよ兄みたいに出来ないから、と答えた。

 僕が妹をせき立てるのもおかしいような気がしてきて、彼女の隣に腰をおろす。劇場内は一際大きな拍手の音で満たされ、誰かの口笛や俳優の名前を叫ぶ声が吹き抜けていく。


「嘘は吐いてないだろ」

「いいよ、そういうのは」


 妹の声音はきわめて冷静そのもので、僕のほうが宥められているような気持ちになった。大人たちが無理矢理にでも持たせようとする、黄金色でファンタジックな、うさんくさい魔法の欠片をばらばらに握りつぶしていた。それらは彼女のやわらかい皮膚を突き刺すことすらできず、脆く崩れ去っていった。

 妹は無邪気で素直な女の子だけれど、こういうことにはひどくくたびれていて、いやに老成している。兄である僕も怖気づいてしまうほど、説得力と真実味をもって気休めの優しさを焼き尽くす。しかしそんな攻撃性をむき出しにすることもなく、周りの空気を読んで上手く飼い慣らしていた。大袈裟かもしれないけれど、僕にはそう見えた。僕は、僕と彼女が天秤にかけられる一対の兄妹でなければ良かったのではないか、という意識を少なからず持ち合わせている。すごく傲慢だと思う。


 妹の頭に手のひらを乗せようとして、はっと息をのんだ。自分の手指が無骨なせいか、妹の身体が未発達なせいか、僕たちの差は目に見えて明確になっていることに気付いた。華奢な妹を捻り潰してしまうような気がして、取っ組み合いの喧嘩をしなくなったのはいつの頃だったろう。妹の幼い声に重なる、オクターブが低くなった自分の声の不協和音に首を傾げたのはいつの頃だったろう。どっちだってそう昔のことではない、こんなことにセンチメンタルを感じるような柄でもない。


 振り払われる覚悟で、そっと妹の頭を撫でた。細くしなやかな彼女の髪の毛は、手のひらに心地よかった。妹は僕の手を除けることもなければ、悪態のひとつも零さなかった。ただ静かに自分を守っていた。呼吸のたびに僅かに上下する妹の背中を、僕はじっと見つめていた。


 カーテンコールは終わった。アナウンスが流れ、劇場を後にする観客たちのざわめきを感じる。舞台がもぬけの殻になれば、お話は息をとめる。逆にお話の登場人物ではない観客たちは、幕引きと同時に息を吹き返し、綴じられない日常に帰っていく。僕はきちんと息継ぎをして、上手なお芝居ができる大人になれるのだろうか。

呑みこまれてはいけないよ、と父は言った。分かるようで分からなかった。


「めるこ」


 呼びかけると素直に顔を上げた。薄い睫毛がぱちぱちと緩慢なまばたきをして、僕を捉える。


「たしかに君はお芝居も歌もずば抜けて下手くそだ。学芸会に出ても浮く」

「さすがにそこまで言われるとむかつく」


 笑ったらおでこ靴の踵で思いっきり足の甲を踏まれた。痛い。


「嫌だったらやってても仕方ないだろ。めるこは正しい。誰も君に失望したりしない。褒

められたって良いぐらいだ」

「褒められるのはあなたの仕事でしょう。わたしは褒められなくても死なないもん」

「僕だって死にやしないよ」

「嘘だ」

「案外そうかも」


 含み笑う。芝居がかっている。妹は怪訝そうに僕をじっと見る。観客が消えた劇場の照明はぱっと明るくなり、どこからともなく大勢のスタッフがやってきて、早くも次の公演に向けて場内整備をはじめる。バルコニー席の入り口を振り向くと、劇場従業員の制服であるえんじ色のスーツを着たスタッフが何食わぬ顔で突っ立っていた。さっさと帰ってほしいのだろう。


「まあいいや、嘘吐きでもともとだし」


 言いながら妹は立ち上がり、ワンピースの裾を適当にはたいた。窮屈そうなほど綿密に寄せられたギャザーから広がる、女の子らしいシルエットのそれには、小さな皺のひとつも、些細な綻びのひとつも見当たらない。

 裾から伸びる足の両の踵が、えんじ色の絨毯からふわっと浮き上がった。爪先立ちの彼女の身体を追いかけるかのごとく、灰色の裾がわずかに揺れて、細い指が手摺りを握りしめる。僕には、それが何か象徴的なものに見えた。


「私たちは共犯者だから、みんなが上手に嘘を吐かないと駄目だよ。ルメルシエの冒険が成功したのは、彼女が勇気と希望を大切にしたからじゃなくて、機転が効いてずる賢かったからだと思うの。私には女優が似合わなかったから、他の方法で嘘をつけばいいんでしょう」


 僕はとても頭の悪そうな顔をして妹を見上げているに違いない。僕が妹を見くびりすぎているのか、それとも妹が持ち合わせている器が異質なのか、そのどちらもなのか、彼女の身の丈に収めるには不釣合いな台詞だと思った。何が妹にそんなことを言わせるのだろう。驚くほどに流暢で、作意無く聞こえた。息がとまりそうだった。


 ふたたび、何かの合図かのようにぱちぱちと緩慢なまばたきをして、妹は不意に僕を振り返った。中途半端に口を開いたままの表情で、僕も二度まばたきを返す。すると妹の表情は照れくさそうにゆるんで、少女相応の笑顔を見せた。


「ね、やっぱり、ちゃんとふたりと話したいな。こんど会いに行くときは、となりにいてね」

「いいよ、もちろん」


 手を引けば、妹は従順に握り返し、僕について歩く。うまくは言えないけれど、すごく安心して、気持ちが落ち着いた。


 ときどき妹がこわくなる。彼女が何を抱えているのか、洗いざらいすべて引きずり出してしまいたくなる。すべては自意識過剰な僕の思い込みで、ほんとうはそのへんにいるちんちくりんな子供なのかもしれない。どうであれ、僕は彼女の兄でありたかった。兄妹だからと全部を半分こにすることはできないし、しなくたっていい。都合のいいときだけ、当たり散らして、踏み倒して、手を握りしめて。ただ要らなくなるまで、僕の役目を使い果たしてほしい。


「私、お城のお針子さんになりたいな。王女さまのドレスを仕立てて、うさぎの人形に綿を詰めるの」


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