第13話 ガールズトーク

「通勤通学前に運勢をチェック! 星園キララ先生監修の十四星座占いだよ! まずは鷲のくちばし座のアナタ、今日は何をやっても絶好調。新しいことを始めるのに良いタイミングかも。ちょうちょ結び座の方は鳥のフンに注意! ラッキーアイテムはヘルメットです。夜露座のキミは気になるあの人と急接近のチャンス!? 真っ赤なアクセサリーを取り入れればアイツもゾッコンラブ!! 猫目座の人は……」


 最近、イバラギさんに会っていない。たしか彼は夜露座のはずだ。片思いに進展はあったのかなあ、などと思いながら先生のところへ向かっていると、イバラギさん本人が向かいから歩いてきた。白黒映画のスクリーンから抜け出してきたかのように色味が無い、ひょろひょろの吸血鬼。人差し指でちょっと押せば倒れそうな細さだな、と眺めていたら、押された訳でもないのにばたっと倒れてしまった。


 急いで駆け寄り、声をかける。すでに私の声はすかすかになっていて、声帯の錆びを感じた。


 イバラギさんはうつぶせに倒れたまま、肩で呼吸をしている。こめかみを下にして横たわる彼の顔は、これでもかというぐらいに真っ青だ。呼びかけるたびに私の声は濁った響きになり、咳払いをするとじりじりと喉が痛んだ。通行人は見て見ぬフリで通り過ぎていく。


 気道の確保とやらをするべきでは、でも変なとこ打ってたりしたら素人判断で身体を動かすのって危ないんじゃ、あっなんか吸血鬼外来専門の救急コールがあるって習った気がする、なんだっけなんだっけ。


 腹の底から、肺の全細胞から、息をひねり出して助けを求めた。つもりだった。ちゃんと声になったのかも怪しい、砂嵐が重なったような、周波数の合わない音。ざらりと声帯を撫で上げ、焼け焦げるような痛みに襲われる。吸っても吸っても胸に空気がつかえて、涙がにじんだ。


 咳が止まらなくなって嫌な予感に口をおさえると、気管の奥から血がせり上がってきた。鉄の味が口の中に充満する。血液は指と指の隙間から手の甲を伝い、ぼたぼたとイバラギさんの蒼白の肌に滴り落ちた。


 私もさっさと医者のところに行かないとやばい。イバラギさんを置いてでも先生のところに向かうのが先決かもしれないと思いはじめたその時、彼女が現れた。


「ちょっと、どうしたんですか!? もしもし急病人です!」


 ガツガツとヒールを鳴らしながら助けに来てくれたのは、ぐるんぐるんに巻かれた金髪に濃いメイク、セクシーなギャルファッションに身を包んだ女性だった。夜露座のキミは気になるあの人と急接近のチャンス、真っ赤なアクセサリーを取り入れればアイツもゾッコンラブ……。


 救急車は2台来て、私とイバラギさんは別々の車両で同じ総合病院へ運ばれた。車内では肺に血が降りて窒息するのを防ぐ姿勢をとらされて、体調についていろいろと訊かれたけれど、自分の喉が普通の構造ではないことがバレるのを恐れて適当な嘘をついた。


 総合病院の人間の医者は、平たくて冷たい金属の棒を私の舌に押し付けると、懐中電灯で喉を照らして「赤くなってますね」とだけ言った。炎症を抑えるスプレー薬をひと吹きしてもらうと、喉の痛みはだいぶマシになった。私が思っているよりも、私の身体はちゃんとした人間の身体なのかもしれない。


 しばらく安静にして下さいと、緊急処置室の隅にあるベッドに寝かされた。頭の位置を低くして横向きに寝そべり、白いシーツを足で撫でる。人工的なものに触れていると、気持ちが落ち着いた。消毒液のにおいも嫌いじゃない。


 遠巻きに医師や看護師の声を聞きながら、ぼんやりとイバラギさんのことを考える。彼はとても素直で謙虚だ。ココアさんのことを話している時は、そのへんの女の子よりもよっぽど乙女チックなオーラをかもし出している。私もイバラギさんも、煩わしいあれこれを放り投げてここまで逃げてきた。彼が私をどう思ってるか分からないけれど、私は彼に親近感を覚えている。だから幸せになってほしいと思う。


 願うということは無責任なことだし、自分の心が美しいような気分になれるからお得で楽ちんだ。誰かを想うのは苦しくてしんどい。私は私のことで手一杯だ。フラン先生はそれでいいと言った。


 人間の医者に胸部のレントゲン撮影を勧められたけど、断固拒否した。訝しげな顔をされつつも、まあ喀血量も少量ですし様子を見てまた来てください、と言われた。もう来ません。


 看護師に教えてもらって、イバラギさんが運ばれた病室へ向かった。扉にはめ込まれた小窓から室内を覗くと、窓際のパイプ椅子に座っていたココアさんと目が合った。一応ノックしてから入室する。


「先程は、ありがとうございました」


 ひどい風邪を引いているかのような声が出た。お気になさらずと笑ってみせるも、ココアさんはぽかんとした顔で私を見上げている。


「大丈夫なんですか」

「はい、とりあえずは」


 挨拶だけして病院を出るつもりでいたのに、ココアさんは隣の椅子を引き寄せて、座ってくださいと勧めてきた。いろんな意味でここにいて良いのか不安になりながらも腰をおろす。


 イバラギさんは真っ白なシーツに細い体躯をうずめるようにして眠っていた。掛け布団の上にすらりと横たわる彼の片腕には、点滴の針が刺さっていて、細いチューブは赤黒い輸血パックに繋がれている。


 ココアさんの膝の上には、看護師から渡されたらしい『みんなで知ろう吸血鬼のヘルスケア~血の通う絆~』なる小冊子が乗せられていた。


「貧血だって。人間の血を摂らなすぎるとダメらしいです」


 ココアさんは窓にもたれかかり、ばさばさのつけまつげで囲われた瞳をイバラギさんに向けていた。星屑金木犀の香りなんてしないし(むしろほんのり煙草臭い)、想像上のココアさんとの差異はあったけれど、おとぎ話の登場人物に会ったような心地だ。


「あなたは、イバラギさんのお友達ですか? あ、ごめんなさい、無理して喋らないで」

「イバラギさんとは主治医が同じなんです。診察日がたまに重なるので、それで知り合いに」

「そうなんですね。吸血鬼も人間も診れるお医者さんって、めずらしくないですか」

「いや、まあ、どうなんでしょう」

「このへんの医者だったら、顔面花畑の先生は花粉症以外なんでも治せるって聞くけどね」


 冗談で場を和ませようとしてくれたのだろうけど、図星すぎて笑顔が引き攣った。


「輸血すれば調子が良くなるから、すぐ目を覚ますって。心配だから、一緒に帰ろうと思って」


 ココアさんは目を細めて笑った。まぶたを彩るむらさきのアイシャドウが、蛍光灯の光を受けて輝く。夜の化粧があまり似合っていないと思った。彼女のことなんて、何ひとつ知らないのに。


「あの、私、お邪魔ではないでしょうか。ちょっとイバラギさんの様子を見に来ただけですので」

「そんなことないですよ。ご迷惑でなければ、すこしお話させて下さい。あ、でも」

「ウィスパーボイスで喋るので大丈夫です」

「ありがとう。私って性格悪くて。周りにいる人たちの秘密を覗くのが好きなんです。いや、本人が隠しているつもりもないし、後ろめたくもない情報でも、私が知らない一面を手中に収めたくなるの」

「その程度の好奇心なら、誰にでもあるんじゃないですか」

「卑しいと思いませんか。噂好きのおばさんみたいで」

「まあ、否定はしないです」


 ベッドの鉄筋の塗装、シーツ、枕、病室の壁、床、蛍光灯、カーテン、ナースコールのボタン、吸血鬼。白色ばかりが私たちの目を刺す。すこやかな身体を蝕む全てのものを洗い流す、またはすこやかな身体からふるい落とされた悪いものの正体を浮き彫りにするための色だった。攻撃的だ。


「つまり、イバラギさんのことをよく知らなくて。知り合ってから結構経ってると思うし、お話もするんですけど」


 ココアさんはイバラギさんをちらちらと気にしながら、すこし声のトーンを下げる。私もイバラギさんが本当は目を覚ましていて、女子ふたりが自分の話をしていて起きるに起きれず寝たフリをしていたらどうしよう、と思った。彼は身じろぎもしない。


「私もそこまで親密なわけでもないので、詳しい個人情報とかはあまり……」

「そうですか……」


 お互い息がかすれるような小声で話しているので、いよいよやましい気持ちになってきた。


「お家を売ったとは聞いてるんですけど、こう、お仕事とかされてるのかなあと」

「あ、それなら色紙を切って紙ふぶきを作る内職をしてるって言ってました」

「何それカワイイ!」


 ボリュームを上げてココアさんが言った。私はあわてて口に人差し指を立て、ココアさんも手で口をふさぎ、ふたりでおそるおそるイバラギさんを見やる。彼が目を覚ます気配はない。


 私たちは顔を見合わせて笑った。クラスメイトの噂をする女子高生みたいでこそばゆい。


「イバラギさん、優しい人ですよ。かんたんに誰かを嫌ったりすることは無いんじゃないかな」

「それは私も思います」

「じゃあ、私なんかより本人ともっとお話していろいろ聞いたらいいじゃないですか。よほど失礼な質問しない限り大丈夫ですって」

「そうですかあ?」

「ココアさんなら絶対大丈夫です。保障します。ご飯でも食べに行ったらいいですよ。ほら、今、水玉町にめっちゃ話題のパスタ屋さんのチェーン店があるんでしょ? 夕映市初上陸! つって」


 調子に乗って押しすぎたかもしれない。これではただのお節介ババアである。喉がイガイガする。


「あの、お姉さん」

「なんですか」

「どうして私の源氏名を?」


 やばい。押しすぎたとかそういう問題じゃなかった。無意識に呼んでた。どう弁明すべきであろうか、イバラギさんの信用に関わる。一瞬で全身が変な汗でべたべたになった。フラン先生に鼻で笑われている気がする。鼻あるのか?


「えっと、その、実は以前イバラギさんと雑談してた時に、ココアさんの名前を聞いたんです。金髪の女性だと仰っていたので、そうじゃないかなと思って、すみません。あの、イバラギさんには」

「うん。内緒にしておくから、気にしないで」


 気の利いた嘘をつけなかったので、正直にそのまま言った。ごめん。イバラギさんごめん。気にしないで、と言いつつも、ココアさんはきょとんとしている。


「悪口とか言ってたわけじゃないですよ、むしろ褒めてました」

「えー、余計気になるじゃないですか」

「だから、それは本人の口から聞いてくださいよ」

「じゃあ、内緒にできないですね」


 ココアさんは笑いながら病室の窓を細く開くと、おもむろに煙草を取り出して火をつけた。ラインストーンが散りばめられた青いネイルが映える彼女の指は、しなやかに艶めいている。赤い唇をすぼめてひょうひょうと煙を吐く横顔は堂に入っていた。


「あ、ごめん。喉アレなのに。てか病院なんだから禁煙ですよね。つい気がゆるんで」


 私の視線に気付き、ココアさんは携帯灰皿で火を潰す。もうすこし眺めていたい気もした。


「ねえ、お姉さんは何をしてる人なんですか。髪の毛すごいですね」

「ラジオパーソナリティと、たまに読者モデルとかしてます」

「すごい、芸能人じゃないですか」

「そんな、有名でもないですし。私も昔はココアさんみたいに金髪だったんですよ。でも、そんなんじゃ生き残れないってケチつけられたのでピンクにしました」

「はあ、業界人はきびしいこと言うんだね」

「主治医に言われました」

「ますますどんな医者なの」


 私たちは声の大きさに遠慮が無くなってきた。ガラガラに掠れて、とてもじゃないけれど人には聞かせたくない声で喋った。でも、キャバ嬢のココアちゃんとラジオパーソナリティのベリーちゃんは、お互いの建前を、名前を飾り立てるあれこれを何も知らない、日常のバックヤードでたまたますれ違った他人だった。守るべきものは無かった。


「ね、私、夜と昼で別の人間なんじゃないかなって思うの。ココアちゃんはね、髪を盛ってまぶたをキラキラにして、サテンの安っぽいドレスを着た時にしか会えないの。スイッチが切れた途端にくたびれたパツキンのチャンネーになるからすっげえかっこわるい。まさに今ね。夜の蝶っていうか、暗いところでしか光らない電飾看板ってかんじ」

「やな喩えですね」

「そんな自分のことキライでもないし、その気だるさに愛着があるからそういう演出が好きなのかも。ときどき虚しくなるんだけどね。お姉さんはどうですか、そういうの」

「私は、どこからどう切り取られても私です。そうありたいと思ってます。全部売り捌きたいし全部消費されたいんです。もちろんプライベートだってあるけれど、常に完全武装です。いらない私は私がぶっ殺しました。だから、私はひとりしか居ません。でも、なかなかに荒療治だったんです。ひとつの身体に自分が何人いても正解なんじゃないんですか、うまく収まってたら誰も苦労しないですよ」


 こういう話を誰かにするのははじめてだった。気恥ずかしいような、ちょっと愉悦を感じるような、我ながらおしゃまな台詞だった。ココアさんは私の目を見て頷いたり相槌を打ったりする所作が丁寧で、上手だった。彼女は一対一の会話を生業としていて、私は不特定多数の顔が見えない人たちへ電波越しに語りかけることを生業としている。職業病と呼ぶには都合が良すぎるけど、いつだって私の言うことは自由奔放でちょっとバイオレンスだ。退屈している大衆のみなさんをデコピンするためのお喋りだった。だから、ちゃんとココアさんへのレスポンスになったのかは分からない。


「潔いね」


 ココアさんは伏し目がちにそう言った。投げやりな返答ではなかった。それ以上の言葉はなかった。一拍の静寂の後、ガッツリメイクを施されたココアさんの瞳が、ふたたびカラコンに被われた私の両目に焦点を合わせる。それとほぼ同時に、足元に置いた鞄の中から携帯電話のバイブレーションの音が響いてきた。


「お姉さん、ひとつ秘密を握らせてくれませんか」

「じゃあ、同じものをいっこずつ交換にしましょう」

「いいよ。芸能人に会ったら芸名を聞くのが礼儀、って言ったらおかしいかもしれないけど、私はあなたの切り売りされてない名前を知りたいの」


 ケータイの振動は止まらない。靴の踵で椅子の下に鞄を追いやると、喉の奥が痒くなって咳が出た。


「それって、芸名のほうを知ってないと秘密っぽさ無くないですか」

「そうかも。あ、もしかして名前もひとつだけ?」

「いえ、芸名とホンミョーとふたつあります。でも、どっちがホンモノかわからないし、強いて言えばどちらもニセモノです。戸籍上の私はもう誰にも呼ばれなくなりました。それはもう私のものでは無くなったから。私が殺したから。生きているのはニセモノの名前を冠した本物の私です」

「いいね。すごく秘密っぽいじゃないですか」


 足を組んで膝に頬杖をつき、いたずらっぽく笑ったココアさんの前歯には口紅の色が移っていた。


誰の名前にも価値なんて無いと思う。大事なのはそれにどんなエンターテイメントを付加するかってことだ。そうじゃなきゃ、すくなくとも私の名前に意味は無かった。存在をゆるされる大義名分が無かった。


 グッドアフタヌーン、夕映市立市松町総合病院A病棟406号室のみんなー! 貧血でぶっ倒れてる軟弱ヴァンパイアの君も、煙草吸わないとやってらんないキャバ嬢の君も、耳をかっぽじってベリーちゃんの神聖なる真の名を聞き逃すなかれ。マジで血を吐いた今日の私は出血大サービス、ちょっとお喋りがすぎている。それを警告するかのように、ケータイの着信は呻り続けていた。誰が鳴らしてるかなんてとっくに分かっている。喉が痛い、痛いな、もうちょっと待ってよ、一番大事なところで良い声が出ないなんて、しけてるでしょ。



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