第8話 午前二時五十分
こんな真夜中に、どうしようもない自己嫌悪に陥ってしまいました。
私の主治医であるフラン先生は、不安感や強迫観念を振り払う薬を処方してはくれません。そんな俗っぽいものを飲むのは人間だけで十分だと言います。フラン先生の言葉は絶対の正しさを孕んでいるように思えて、どんなに小さいことであろうと首を縦に振ってしまいます。
くだらない話、目玉焼きにはソースだろ、と言われても本当は塩派なのに頷いてしまうのです。フラン先生の発言を否定することができたとしても、精神を安定させる薬をもらえることはないでしょう。だってあの人は自分のやりたいようにやっているんです。彼のそういう性格は羨ましいです。
ともかく、あまり良くない思考に陥ってしまい寝付けないのです。薬が無い所為にするのもいかがなものかと思うので、気分転換を図ることにしました。
エレベーターでエントランスまで降り、自販機の前に立ちます。フラン先生のピラニアの水槽の大きさです。
私は首をかしげました。喉がはじけ飛びそうな気がして炭酸は苦手です。果汁ジュースという気分でもありません。とすれば、コーヒーか紅茶? でもこの時間にカフェインなんてますます眠れなくなります。あ、これにしましょうか、就寝前に飲むとよく眠れると聞いたことがあります。
「あれ、イバラギさん?」
***
「ねえファニー氏、どうしたらいいと思う?」
「なにがー?」
「メロンパンが100円でプレミアムチョコチップメロンパンが130円なの。私今250円しか持ってないの。でね、カフェラテを飲みたいんだけどね、125円なの。チョコチップを買うと5円足りないけどメロンパンで妥協すればいけるじゃん、でもこのプレミアムチョコチップメロンパンは新商品でね、ずっと発売を楽しみにしててね……ねーきいてるー?」
少年漫画誌を立ち読みしているファニー氏に意見を求めるも、興味なしといったかんじで無視される。レジの店員さんがだるそうにこっちを見ている。店内は私達3人だけだ。
お腹がすいてコンビニに来たのであって、決してライオットラジオのリスナーから寄せられた恐怖体験や都市伝説をベリーちゃんが読み上げる、深夜特番を聴いて眠れなくなった訳ではない。べつに窓から白い顔の女性が覗いてるとかベッドの下に何かいるとか思ってない。
ともかくファニー氏は私の優柔不断さにふてくされているようなので、プレミアムチョコチップメロンパンだけを買って店を出た。
「ねえ、顔面お花畑のお医者さんの話って知ってる? このあたりで有名な都市伝説なんだけど。さっきでてこなかったなーと思って」
深夜の市松町に、もったりとした時間が流れている。街灯の光は相変わらず頼りない。
「首から上がお花畑でね、身体は枝みたいなんだって。市松町のどこかの路地を進んでいくとお医者さんに会えるんだって。でも、彼は酷く何かを恨んでいるんだって。その邪気がすごいらしくて、会ったら頭おかしくなって残虐な人格になっちゃうらしいよ」
黙っていたファニー氏がぶふっと吹きだした。なんて人形らしからぬ動作なんだ。はじめて見た。レアすぎる。
「だいたい合ってるけど違うよ」
「私は昔からこう聞いてるよ。何か別のパターンもあるの?」
***
振り返ると、いつもよりラフな格好のココアさんがいました。こんな真夜中、普段ならお仕事中のはずなのに。
ピッピロピー、というチープなファンファーレとともに、ホットココアがふたつ落ちてきます。スロットが揃うと購入した商品と同じものがもらえるタイプの自販機なのですが、幾度と利用してきて当選したことなんてありませんでした。なんだかどうしようもなく恥ずかしいです。自販機は私をおちょくっているのでしょうか。
「こんな時間に起きてるなんて、吸血鬼のイメージそのまんまですよ」
「ああ、いえ、今日は眠れなくて。ココアさんもこんな時間にマンションにいるなんて珍しいですね」
「ミーティングだけだったんです。お店はお休みで」
ひとつをココアさんに渡すと、ありがとうございます、と微笑んでくれました。中庭に出て、ベンチに並んで座ります。プルタブのはねる音と、ホットココアの甘い湯気。少し缶が熱いです。
「ココアさんは眠くないんですか」
「いつもは仕事してますから。むしろお付き合いしてくれてありがとうございます。帰りたくなったら言ってください」
「いえ、こちらこそ」
ココアさんは煙草に火を点し、ホットココアと交互に口をつけました。煙草を吸いながらコーヒーを飲む人が多いらしいのを知っています。こんな甘い飲み物と、煙草の相性ってどうなのだろう。煙草をくわえたことすらない私は、彼女の横顔を見ながらぼんやり思いました。
「あ、すみません。煙草苦手でしたか?」
「い、いえ、そういう訳ではなく」
火を消そうとするココアさんに咄嗟にそう返しました。じゃあどういう訳なんだ。目をそらして缶に口をつけます。四角く切り抜かれた夜空を見上げても、星はありません。
「あの、イバラギさん。変なこと聞いてもいいですか」
「ええ、何でしょう」
吸った煙を大きく吐いて、ココアさんは言いました。
「さびしくなったりとか、しますか」
***
ファニー氏は自分の顔の中央の、縦にはしる一筋の縫い目を指して言った。
「これとか。あとこれとか。これもそうだっけ」
続けざまにあちこち指し示す。追いついていけず、とりあえずファニー氏をかがませて顔の縫い目を見る。たしかに、布を繕うための糸ではなかった。
「ほんとに? お花畑の先生?」
「うん、ぬってもらった」
ファニー氏がお花畑の先生と友達だと言い張るのだ。いまいち信じがたい。
「一体どういう経緯でお友達に?」
「最初は人違いだったの」
「ほう?」
「あるお医者さんを訪ねにいったら『もう死んでる』って。フラン先生が」
「フラン先生?」
「お花畑の先生」
「つまり、ファニー氏が会おうとした先生のかわりに、その、フラン先生がいたと」
「うん」
お花畑の先生に名前があったのか。知らなかった。ファニー氏が会うはずだった先生は何故死んでしまったのだろう。フラン先生に抹消されたとか。フラン先生にとりこまれたとか。むしろフラン先生に生まれ変わったとか。
「もうかなり長い付き合いになるなあ」
遠く夜空を見上げ、何かを懐かしむように言うファニー氏。はぁーだのほぉーだの声を出し、わざとらしく頭を大きくゆっくり左右に振りながら歩く。酩酊しているサラリーマンみたいで一緒に歩くの恥ずかしいからやめてほしい。
「いま抱き枕やってるって言ったら笑うんだろうなあ」
「フラン先生笑うの?」
「笑うよ。口あるし」
「口あるの? お花畑に?」
「お花畑じゃないもん、お医者さんだもん」
***
「さびしくなることですか……?」
正直、焦りました。こんな問いかけを受けた時、どう返せばよいのかわかりません。下手に何かあったのか聞き返すのはどうかと思うし、自分はさびしいのかどうか、考えたことなどないのです。
「小池さんとも似たような話したんですけどね」
「ああ、めるこさんのSPのうさぎさんですか
「SP……? あー、あながち間違いじゃないかな」
ココアさんは軽い調子でそう笑い、ホットココアに口をつけました。もうぬるい、と呟いて、短くなった煙草の煙を燻らせます。それからもう一度、私に問いました。
「で、さびしくなったりするんですか? イバラギさん」
「……さびしい、より、わずらわしい、という感じです。多分。あまり詳しくは言えませんが、ちょっといろいろあって親類や知人と距離をとることにしたんです。いろいろ信じられなくなったし、馬鹿馬鹿しいと思って。疲れたんです。誰かのせいでいちいち傷付いてるぐらいなら、最初から誰かに期待しないほうが楽です……その方が自由ですけれど、やはり少し虚しいですね。でも、さびしいとは違うかもしれません」
言葉を選び、慎重に話すつもりだったのに、余計な本音を喋ってしまったような気がします。暗い奴だと思われただろうな。冷えてきた缶を握る手が、かすかに汗をかきます。
「すみません」
私は謝りました。私はいつだって謝ってばかりです。情けなく思います。しかし、ココアさんは私に目を合わせてくれます。
「いえ、いろいろ考えてらっしゃるんですね。しっかりしてるなあ」
しっかりしてる。私には似合わない言葉です。こんなこと、はじめて言われました。ココアさんは煙草の火を潰し、缶の中に落としました。
「でもわかりますよ。お店のケバい女の子達と一緒にお客さんを囲んで頭の悪そうなコールしたり、賑やかな雰囲気の中で、こう、ぷつんと私何してるんだろうなあ、私がここにいなくたってみんな平気なんじゃないかなーって思いますね。で、さびしいなーって。きっと私はイバラギさんより贅沢なんですね。嫌ですよね、私みたいな人間は」
相変わらずココアさんはからからと笑います。そんなのはずるいと思います。ココアさんは贅沢ではありません。私なんかよりずっと頑張っていて、いろいろを考えて、しっかりしています。だから何か言い返さなくてはいけないのです。なのに、口の中でいくら舌を動かしてみても、これよりましな言葉が出ませんでした。
「ないですよ、そんなこと」
***
ファニー氏がそこまで言うんだったら、お花畑の先生はいるんだってことにする。そう思ったほうが面白いし。それをファニー氏に伝えると、どこか不満そうだった。
「僕が言うからいるんじゃなくて、本当にいーるーのー」
ファニー氏の歩幅ってでかいな、と視線を足元に落として思う。少し後ろを遅れて歩く私の一歩よりあきらかに大きい。底の薄い靴が地面を擦る音が、ハイヒールが地面を蹴る音に負けている。
「ファニー氏を信じてあげてるんだから喜んでよー。右隣のサラリーマンがフラン先生見たって言っても信じないよー」
そんなことを言いながらエントランスに入ると、共用のソファーに白目を剥いて倒れている右隣のサラリーマンがいた。噂をすればなんとやら。しかし、この有様ではさっきの発言は聞こえていないだろう。
「大丈夫―?」
さして心配してなさそうにサラリーマンの顔を覗き込むファニー氏。それにならって私も一応声をかける。
「しっかりしてくださーい、社会人がべろべろに酔うまで飲んじゃみっともないですよ」
サラリーマンは呻きながら上半身を起こし、数秒の間ののち、顔を青くしてヒステリックに声をあげた。
「聞いてください!! 顔面お花畑の先生を見たんです!!」
「……はあ?」
「終電を降りて歩いてたら気持ち悪くなって、路肩で吐いてたら、気付いたら横にいて!! 『しけてるな』って!!言ったんです!! 喋ったんです!!」
あらやだこのひとどうしたのかしらよくわからないわ、とファニー氏に視線で助けを求めるも、あまり意味がなかった。
「先生、真夜中のお散歩好きだからなあ」
「やっぱり!! そうだ!! 見たんだ!! うわあああ!!」
サラリーマンは取り乱し、髪の毛をかきむしりだした。担いでエレベーターに乗せてあげようと思ってたけど、もう放っておこう。なんとなしに中庭に目をやると、ベンチにイバラギさんとココアちゃんがいた。向こうはこちらに気付いていないし、声はかけないほうがいいかな。エントランス備え付けの電波時計に目をやると、午前二時五十分だった。
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