第7話 或る人物の憧憬

 "あの遊園地の観覧車からマジックアワーを見れた者は幸せになれる"というジンクスがある。レトロでちゃちな噂話だけれど、そんなに嫌いじゃあない。そういうくだらないものを信じて、靴を履いてしまうわたしを好きでいるためにそれを愛すべきだ。不安定なものに希望を見ると、たいていの場合ろくなことが起きないなんてことはよく知っている。


 いってきますの声を欲しがらない家に鍵をかけて、なんでだっけ、と思う。何に対してのなんでだっけなんだろうと思う。憂鬱の隙間に足をとられる前に逃げなければと思う。そうして地面を蹴った。


 先ほどの通り雨のせいで町は湿気っている。遊園地を目指して大通りのど真ん中を歩きながら、あたりをぼんやり眺めた。


 よろよろした運転で自転車の二人乗りをしている学生服のカップル。体格に不釣り合いな長い傘を引きずって歩く子供と、その手を引く母親。カフェテラスのテーブルを拭く店員を呼ぶ客の声。誰かと携帯電話で通話しているサラリーマンらしき男性の笑顔。じゃれあう散歩中の犬。電線の上に群れる小鳥。


 ひたすらに寂しかった。うさぎが死ぬ寂しさだった。なんだかあまり楽しくない夢の中を散歩しているようだ。大袈裟だけども、わたしだけ世界から切り離されているような心地がする。ここにいる誰も、わたしのことなんてどうでもいいんだ。からっぽだ。


なら、目を閉じて歩いたって遊園地に着くんじゃないだろうか。誰もわたしを見ていないのだから、わたしだって誰も見なくたっていい。これはわたし自身も意味がわからない思い付きだった。しかし瞼をおろすのは実に簡単なことである。視界を暗幕で被ったその途端、世界がうるさく聴こえてくる。不思議なものだ。


 まっすぐ歩いた。少しだけ俯き加減だったかもしれない。折角なのであのひとのことを考える。誰も見ないために目を瞑っているのに、まぶたの裏にあのひとをのせる。あのひとはわたしの奇行をどうおもうだろう。ああ、奇行っていう単語が出てくるぐらいには、一応自分がちょっとおかしいってことを理解できているのか。それはどうでもいいや、あのひとはわたしをどうおもうだろう。


 あのひとのことを考えていたら、耳に届く喧騒がなんとなくやわらかくなった。足取りも幾分軽くなる。じめじめした風がぬるりとわたしを撫でる。もういいかなと思って目をひらくと、ぴったり遊園地の入り口だった。途端にばちんと世界との隔たりが消えたような気がした。この町に上手くカモフラージュできているかもしれない。


 入園すると園内は閑散としといて、そろそろ閉園するという旨のアナウンスが流れていた。そんなのに構う訳もなく、観覧車に乗り込む。係員に可哀想なものを見る目で見られたけど気にしないことにする。


 暑かったのでゴンドラの窓を持ち上げると、安全を考慮してか数センチしか開かなかった。わたしは飛び降りたりしないのに。手摺りに腕をかけ、少しずつ離れていく地上に目を落とす。なんか喉の調子が良くないな、あの売店でメロンソーダは買えるのかな。ここからじゃ店先でなびいているのぼりに、ポップな字体でフランクフルトと書かれているのが見えるだけで他のメニューがわからない。


 売店のすぐそばにいる子供が、持っていた風船を手放してしまった。慌てて飛び跳ねながら手を伸ばしたけれど、風船はそれをかわし自由の身となる。子供は口をあんぐりと開けて、何も考えてなさそうな顔で風船を見上げた。


 風船はどこにも寄り道をせず、空を目指して上へ上へと昇ってくる。ぼんやりと目で追っていると、やがてわたしのゴンドラを通り過ぎて行った。


 その瞬間、観覧車の頂上に到達していることに気付いた。マジックアワーだった。


 艶やかだった。町を濡らす雨露は、アプリコットを反射していた。砕いた宝石をばらまいたかのように、家々の屋根やビルの壁を輝かせていた。頭が痛くなるようなことばかり起きる町があまりにきれいに映えているので、ちょっとだけむかついた。もっとちゃちな景色だと思っていたのに。でも迷信を信じたのはわたしだった。迷信の何を信じたのかはわからない。


 恥ずかしくなって靴の踵を踏み潰した。アプリコットの光源は見えない。地平線の向こうに畳まれているかもしれないし、ここより高いところで笑っているかもしれない。


 相変わらず湿っぽい風がゴンドラ内に吹き込んでくる。油の匂い。どこかの家の夕飯の匂い。そう思ったのも束の間、気味悪い色のひまわりが脳裏をよぎる。ああそうだ、あの臭いだ。


 視線を繁華街の反対側に移し、そう遠くない位置に薄紫ひまわり畑を望む。あの花はあのひとに似てるかもしれないな。もしくは、あのひとからしてみたらわたしが薄紫ひまわりなのかもしれない。本当はそんなに嫌いじゃないんだ。少しだけ申し訳ないような、くすぐったいような気分になる。薄紫ひまわり畑の上の線路を走る電車の汽笛が小さく届いた。


 町から影が消えたのは、ほんのひと時のことだった。私はお安いものじゃないのよ。そんな声が頭の中にきこえた。実際に聴こえたのではない。遠い遠い記憶の中、褪せてしまわないように何度も瞬かせているあのひとの存在を確かめるような響き。それでいて、たったいまはじめてきいた声。どうしたのだろう、わたしの思考の糸はたゆんでいるのだろうか。


 夕空はゆっくりと翳りゆく。慎重に群青を垂らしてゆく。観覧車もわたしを帰すためにゆっくりとまわる。急かされたりはしなかった。


 頂上からマジックアワーを見た。だからと言ってきっと何も変わらないのだ。ハリヤマ興業は黒字だし、ラジオはうるさいし、顔面花畑の医師の都市伝説は絶えないし、その傍らで人間じゃない生き物が平然と日常をすごしているし、薄紫ひまわりは臭い。でもこの町はこのままでいいんだ。

 本当はわたしが気に病むことも億劫に思うことも罪悪感や劣等感を持つことも、ないのかもしれない。何もないのかもしれない。ああ、なんか、わたしばかなんだと思う。でも、説教くさく見えていた町並みがやさしく見えたのだから、きっとこれからはわたしを甘やかしてくれるのだろう。



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