第2話 アバンチュール
「グッドモーニン、お目覚め如何? ライオットラジオの時間だよ! パーソナリティは勿論! みんなのアイドル! ラズベリーちゃんでっすよろしく! 早速お便りいきまーす。市松町のルメルシエさんから。先週もお便り紹介させていただきました、この番組に出会った時から毎朝聴いているというヘビーリスナーさんです! まいどあり!
『ベリーちゃんこんにちは。昨日、電車に乗っていたら、空いてるのにわざわざ私の前に座る人影が……その正体はつぎはぎのうさぎの人形。マナー無視の理不尽な絡みに付き合わされるはめになりました。ベリーちゃんも不審者には気を付けてね!』
それは災難でしたねえ、ルメルシエさんお疲れ様です! うさぎはベリーのおばあちゃんの大好物なんですよ。お刺身が美味しいらしいんだけど、食べたことある人います? ベリーはそんなゲテ食興味ありません爆笑! 本当に近頃物騒だからねー。知ってます? 女の子を狙った暴行窃盗事件が多いみたいですよーみんなも変な人には気をつけましょう!
ルメルシエさんには番組オリジナルのラブリー不謹慎イヤホンを……もう持ってるよね? まあいいや、保存用にプレゼントしちゃいます。いらなかったらオークションに出しちゃっていいからねー。皆さんからのお便り随時募集中でっす!
それではお待ちかねミュージックタイム! まず1曲! 竹輪麩で『元カレのビーチサンダル』……」
プレイヤーから流れてくる激しいイントロが、トーストに乗ったバニラアイスを溶かしていく。全部がどろどろになってしまう前に食べきり、続いてコーヒーも飲み干した。
「ごちそうさまでした」
テーブルを挟んで向かいに座る、大破したビーズクッションをぼんやり眺めながら手を合わせた。虚しい。
このビーズクッションは、私が算数もろくにできないような年齢の時から抱き枕として愛用していた。これが無いと寝れなくて、どんなときだって手放さなかった。そんなビーズクッションが、今朝目を覚ました時には床の上で中身のつぶつぶを噴き出して萎びていたのだ。なんてことだ。
寝相の悪さは自負しているけれど、ビーズクッションを引き裂く威力のある寝相ってどんなだ。まあ、クッション自体に寿命がきていて、私がベッドから投げ飛ばしたか蹴り飛ばしたかの衝撃で破れてしまったんだろう。
家にある裁縫道具じゃあこの生地を縫うに適しているものがない。でも事務所になら数え切れない種類の糸があるし、最新の機能を備えたミシンだってある。仕事が終わったら使わせてもらおう。そう思いつき、早速ビーズクッションの布と中身のつぶつぶをかき集めて紙袋に入れた。
薄っぺらいトートバックと、大きな紙袋を提げて家を出る。私が住んでいるのは市松町で1番の高層マンション、30階のワンルーム。最上階31階、ワンフロア全てをしめる部屋がマンションの大家である両親が暮らす実家。
就職した時に、半ば実家から追い出される形で私に割り当てられたのが今の部屋だ。家にお金を入れないまま、お嬢様然と生活させるのが嫌だったらしい。財産なんて有り余っているくせにちょっとケチだと思う。しかし、私もいつまでもすねをかじってるのは気分が悪いので、家賃は親にきっちり払っている。
「おはようございます」
エレベーターを待っていると、うちの右隣に住んでいるのサラリーマンに会った。短髪で黒縁の四角いレンズの眼鏡をかけた真面目な人だ。勤め先では結構エラい地位の人らしい。
「おはようございます」
挨拶を返すと、右隣のサラリーマンは歯磨き粉のコマーシャルに出れそうな白い歯を見せて笑った。
「いやあ、良い天気だね。今日は遊園地混むねえ」
「そうですねえ。あー、でも、今日は観覧車点検なんですよ」
雑談をしながらエレベーターに乗り込む。朝のエレベーターはここからが長い。
「そっか。じゃあそこまででもないかもねー。あ、おはようございます」
すぐに次の階で止まり、疲れた顔をしたおばさんが乗ってくる。膨れ上がったゴミ袋を両手に抱えていて、この通勤通学ラッシュのエレベーターでは間違いなく邪魔になる。彼女は右隣のサラリーマンをちらりと一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。
いやな沈黙が満ちる。その後から乗ってくる人の挨拶も無くなり、妙な気分のまま1階に到着した。
「あ、ココアちゃん。おはよう」
エレベーターを降りると、左隣に住んでいるキャバ嬢のココアちゃんに会った。心愛と書いてココアのココアちゃんだ。ぐるぐるに巻いた金髪、ばっさばさに生やしたつけ睫毛、露出の多いギャルファッションが眩しい。
「おう、おはよう! いってらっしゃい!」
ココアちゃんは私に気付くと、手を振って挨拶を返してくれる。彼女の腕についているきらきらのアクセサリーがじゃらじゃら鳴った。
「お疲れ様、おやすみ」
キャバ嬢であるココアちゃんはいつも朝帰りだ。あんたのおやすみなさいはなんか安心すると言われたので、朝の彼女にかける言葉は、おはようとおやすみなさい。
ココアちゃんはすれ違う時に私に笑顔を送ってくれたけど、右隣のサラリーマンには蔑みの視線を送った。右隣のサラリーマンは咳払いをする。この2人の間には何があったんだろう。
マンションを出て右隣のサラリーマンと別れ、ラブリー不謹慎イヤホンを装着する。発音部が星型のデザインになっていて可愛い。何が不謹慎なのかって、首を吊る人を模したチャームが付いているのだ。チェーンをロープに見立てて、吊るされた人形が首を垂れて身体を揺らす姿がオシャレだよ! とベリーちゃんが言っていたけれど全くその通りだと思う。でもこの間これをつけていたのを右隣のサラリーマンに見られ、道徳的にどうだとか倫理的にどうだとか叱られたので彼の前では使わないようにしている。
「朝からハイテンションなライオットラジオ、まだまだ続きまーす!二度寝するなよ! はいお便りいきます! 水玉区の田中花子さんから! メルシー!
『ベリーちゃん、リスナーの皆さんおはようございます! 私は今友達と市松町遊園地に来てます。平日の朝の遊園地は空いてて快適ですよ。で、さっきルメルシエさんが電車の中で絡まれたといううさぎらしき奴を見かけたんです。遊園地で風船の売り子をしています。つぎはぎなんですよね、帽子も被ってませんでした? どうなのルメルシエさん!』
いーなー遊園地! 全国の通勤・通学中の皆さんは白いハンカチを噛んで悔しがっていることでしょう! 市松町遊園地、独り身の友達と2人で乗った観覧車が思い出です爆笑! それでそれで、これは例のうさぎなのかー? 気になるねー。気になってるのは田中花子さんとベリーだけじゃないはずだ! ルメルシエさん、是非お返事よろしくです!
田中花子さんには番組オリジナルのラブリー不謹慎イヤホンをプレゼント……」
ヤツはラジオで晒しあげられていた。まあ、うさぎの人形に人権もプライバシーもないと思うのでどうだっていい。
また出くわしたら嫌だなあ。事務所は遊園地のすぐそばにあるのだ。実は市松町遊園地の経営者も、私の両親である。私の親はなんだってする。遊園地に併設の市松劇場の責任者だってあの人たち。言ってしまえば結構な大企業で、両親はちょっとした有名人である。
私は市松劇場所属のお針子をしている。有名劇団から幼稚園や小学校の学芸会まで、この劇場で公演する舞台の衣装を製作、修繕の依頼を受けるのが主な仕事。
市松模様のクッキーみたいなブロックが敷き詰められた大通りを進む。イヤホンからは相変わらずベリーちゃんのハイテンションなMCと、がちゃがちゃしたバンドの曲が交互に聴こえてくる。少し強い風がふいて、首吊り人形が頬に体当たりした。市松町遊園地のゲートが見えてきて、事務所まであと少し。
風船を売っている着ぐるみはゲートを抜けてすぐのところにいる。そう思い出して、あのうさぎが本当にいるのか好奇心で覗いてみることにした。向こうがこちらに気付いたとしても、まさか仕事中にこっちに駆け寄ってきたりはしないだろう。
チケット売り場のお姉さんに変な目で見られながら、園内を覗きこむ。
確かにヤツは風船を売っていた。
修学旅行生っぽい子に囲まれて写真撮影をしている。風船売りを満喫している様子で、こちらには全く気付いていないようだ。
ふと片方の靴下が下がっているのに気づき、直そうと少し屈むと再び首吊り人形が頬を叩いた。ちょっと急がなきゃ駄目だ。先程よりも少し早足で事務所に向かった。
「お送りしたのはMr.madomadoで『屍オムライス』でしたー。サビが印象的な曲だよねえ。男は胃袋で掴め! 乙女諸君! オムライスぐらいは作れないと駄目よ!
はいはいはい! お便りターイム! 市松町のルメルシエさんから! こんなラジオばっかり聴いてると耳から苺味のアイスクリームが噴出しちゃうぞ!どんな病気だ!
『ベリーちゃん田中花子さんリスナーの皆さん、こんにちは。お昼休みなうです。駅の立ち食い蕎麦屋さんが恋しくなったのですが、遠いのでコンビニのメロンパンで妥協しました。遊園地のうさぎ、私が昨日会ったうさぎで間違いないです。仕事に行くときに遊園地の前を通って確認しました。お金と心に余裕がある方は、風船を買いに市松町遊園地へ!』
マジだったー! みんなー! 市松町遊園地でうさぎと握手! なんだかお便りコーナーの方向性がよくわかんなくなってきた! まあいいや知らねえ! ていうか、蕎麦の気分でメロンパンって。蕎麦ぐらいコンビニにもあるじゃん?ベリーはルメルシエさんのそんなところが大好きです! あいうぉんちゅー。
ルメルシエさんには番組オリジナルのラブリー不謹慎……3個目? 観賞用にプレゼントしちゃいます。要らなかったらオークションで処分する方針でお願いします。番組では皆様からのお便り随時募集中でっす!
お次は道路交通情報でーす。お姉さんよろしくです」
次にイヤホンを差した時には、そろそろ日付が変わりそうな時間だった。頭の悪そうなバンドの曲ではなく、渋いバーとかで流れてそうなジャズが聴こえてくる。
どうしても今日中に仕上げたい衣装があって、黙々と作業を続けていたらこんな時間になってしまった。仕上がった記念に写メを撮ってみたり、衣装を着せたトルソーの周りをぐるぐる何週もしたりしているところを警備員さんに見られ、早く帰れと事務所を追い出された。
結局ビーズクッションは修繕することなく、今朝と全く変わらない姿のまま紙袋の中でぐったりしている。これがないと眠れないからロッカーに置かず持ってきたけど、ビーズクッションとして機能しないのだからあってもなくても一緒だよなあ。困ったな今日寝れるかな、ホットミルクでも作ろうか。
ラジオ局が流すでたらめなトロンボーンのメロディを聴きながら、うんうん考えてクッキーの石畳を歩く。通り一帯の商店や住宅はしんと静まりかえっていて、街灯がじりじりと小さく鳴りながらを上げながら光を放っているだけだ。人類最後のひとりになったかのような錯覚が、私の足をはやくした。相変わらずずり落ちる片方の靴下もどうだっていい。
「ってんのかぁ!!」
本当に突然だった。両耳からちぎれるようにすぽんとイヤホンがふっ飛び、裏拍のリズムの代わりに男の怒声が耳に入ってきた。振り返ると、ラブリー不謹慎イヤホンを手にした男が私を見下ろしていた。
「えっ、あの、何かご用でしょうか」
人の気配に気付けないほど大音量で聴いていたのか。耳に良くないな。気をつけよう。男の手から垂れ、ぶらんぶらん揺れる首吊り人形を見ながら思う。
「お前、金もってんだろ?」
男の声は上擦っていた。これ、やばいやつだ。しかし私の身体は動かない。動けない。ほんとは動くはずなのに、動けないふりをしているんだと思う。要領が悪い。
「知ってんだよ、お前、ハリヤマ興業の社長の娘なんだろ」
男の拳が振り上げらる。やっと身体が動き、咄嗟にビーズクッションが入った紙袋を男に投げつける。男はビーズクッションの中身を浴び、顔面でへにょりとビーズクッションの布を受け止める。その映像がとても鮮明なスローモーションに見えた。
私はその間に男から距離を取ろうと足を浮かせた。しかしビーズクッションの残骸を振り払うのにそう時間がかかるはずもない。ビーズの粒を吐き出し、男は包丁の刃先をこちらに向ける。そこで再び私の動きは止まってしまう。
「痛い目に合いたくなかったら、こっちに、財布を、寄越せ」
目をひん剥き、息荒く言う男から微塵も視線を逸らせないまま、トートバッグの中に手を入れる。私は冷静なつもりだった。しかし、混乱した指先がバッグの中から抜き取ったものは、明らかに財布の手触りではなかった。意識とは逆に手はそれを離すことができず、力なく男の前で振り回して見せた……小さな糸切ばさみを。男の嘲笑を聞いて、ああやっぱり昼食は駅まで天ぷらそばを食べにいくべきだったなあと後悔した。
「ナメてんじゃねえぞ、このクソアマが!!」
包丁の刃先が街灯に照らされ、ぬるりとした光を反射した。目を瞑り、最後の悪足掻きに糸切ばさみを振り翳す。
さくり、と何か軽いものに刃物が突き刺さる音が微かに鼓膜に届く。目を瞑っている間に感じたものはそれだけで、肌が裂ける痛みもない。
恐る恐る目を開けると、そこには薄汚れた布の壁があった。何かに突き刺さる糸切ばさみを握っている片手を見上げると、それはあのうさぎの後頭部だった。
私の腕はぷらんと落ち、糸切ばさみが抜けた傷口からは白い綿がはみ出す。
「えええええ」
思わず男とハモった。
屈強なヒーローが現れて、男を一撃で捻じ伏せるとかなら良いよ。くそ、覚えてやがれ! はっはっは、正義は必ず勝つ! お怪我はありませんかレディ? ええ、ありがとう。あなたは命の恩人だわ。 お役に立てて嬉しいよ。おおっ!? どこかで誰かが助けを呼んでいるぞ、さらばだレディ! 嗚呼待って、せめてあなたのお名前を……みたいな。
「これはお料理をする時に使うものだよ」
うさぎはそう言い、男に突き立てられた包丁を腹からずぼっと抜き取る。
蛍光の街灯がうさぎの背中を照らし出している。布の毛羽立ちすらはっきり見えるほど、こうこうと光が射していた。目の前に立ち塞がるうさぎに遮られ、光は男に届かない。暗く重い影だけが圧し掛かっていた。
要するに、男には逆光を浴びた巨大なうさぎが見えている。しかも無表情で包丁を握っているのだから、恐怖でしかない。
「女の子を襲うためのものではないよ」
エナメル質の長い爪が、包丁の刃線をなでる小さく密やかな音がした。
少しの間があった。
男は言葉にならない大声をあげ一目散に逃げ出した。それとほぼ同時に、うさぎはスマッシュでも打つかのような構えで包丁を持つ手を上げ、しゅっとブツを飛ばす。
包丁は真っ直ぐに飛んでいき、男のもみあげを掠めて急降下、男の爪先に落ちた。
「持って帰りなよ」
語調を強めるでもなく、無機質な声音でうさぎが言う。男は少し短くなったもみあげを触りながら青ざめた顔で振り向く。そしてまた奇声を上げ、包丁を蹴り飛ばしてから走り出した。
私は男に同情してしまった。可哀想に。トラウマになっただろうな。もし私を刺して金を奪うのに成功していたとしても、私のがま口財布の中には500円しか入っていないのでとてつもない喪失感と罪悪感を感じたことだろう。しかし人のものを盗ろうなんてするモンじゃないぞ、うん。
「大丈夫? ルメルシエさん」
うさぎはくるっとこちらを向き、首を傾げて聞いてきた。
「ラジオ聴くんだ」
「今朝はたまたま」
うさぎの腹部は大きく縦に裂け、綿がもこもこと露出している。うさぎはそれが気になるらしく、手で綿を押し込めようとしているけれど、どうしてもはみ出す。
「私は大丈夫だけど、君が大丈夫じゃなさそうだよ」
「困ったねえ」
傷口に手を突っこんでいるうさぎと、その後ろに残されたもはやどうにもならないビーズクッションを見比べて逡巡した。考えてもしょうがないなあと思ったのでうさぎに抱きついてみる。
「出来心は犯罪だよ」
首、脇の下、腹、いろんなところに腕を回して抱き心地を確かめる私に、相変わらず無機質な声で言う。可愛くないなあ。
「慣れだな、よし」
ぺしぺしと軽くうさぎの背中を叩いてから腕を放し、私は意を決した。
「破れたとこ、私が直してあげる。このぐらいならうちで縫えるし」
「ほんと?」
「うん、だから私の抱き枕になって」
「はあい」
「少しは悩もうよ。まあいいや、帰ろ」
契約も成立したし、ここに留まる理由も無いので、うさぎの手を引っ張ってマンションの方向に歩き出す。
「ルメルシエってラジオネームだよ。本名はめるこ。針山めるこ」
「めるこちゃんね、わかったー」
「うさぎさんには名前あるの?」
「ティファニー・ローレン・ターニャ小池」
「え?」
「ティファニー・ローレン・ターニャ小池」
「う、うん……? ファニー氏って呼ぶね」
私の靴の底が擦れる音とファニー氏のヒールが地面を弾く音が、夜の市松町の澄んだ空気に溶ける。それがなんの濁りも無く響いている違和感で、ラブリー不謹慎イヤホンを男に持っていかれたことにようやく気付いた。
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