第3話 こいはもうもく
休日の昼下がり、私とファニー氏は中庭のベンチでひなたぼっこをしていた。ひなたぼっこだなんて言っても、ファニー氏を日光消毒したくて連れ出しただけである。
隣でぼけーっと宙を眺めているファニー氏には見えていないようだけれど、ガラスで囲まれた中庭の向こう側のエントランスでは、ココアちゃんとイバラギさんが立ち話をしていた。
イバラギさんは吸血鬼の青年で、このマンションの住人だ。重度の自律神経失調症を患っていて、心療内科に通院しているそうだ。少し前まで遠くの森の古城に住んでいたのだけれど、近くに良い病院が無かったので城を売り払ってこっちに越してきた。
いつもさらさらの黒髪を真ん中分けにして、木枝のように細長い身体によく似合う黒のスーツを着ている。容姿の良さと人柄の良さで、マンション内ではちょっとした人気者だ。
ぐるんぐるんに髪の毛を巻いてセクシーなワンピースを着た夜の蝶ココアちゃんと、スーツ姿のイバラギさんが談笑しているのはなかなか不思議な光景だ。なにかそういうパーティーでも始めるように見えなくもない。そういうパーティーってどういうパーティーだろう。
ココアちゃんはいつもの笑顔を見せているけれど、イバラギさんは普段は恐ろしく白い頬を赤らめて落ち着きの無い様子で話している。イバラギさんの方が私よりずっと乙女らしい。
しばらくすると、ココアちゃんはイバラギさんに手を振りながら、マンションの外に出て行った。イバラギさんは何度もぺこぺこしてココアちゃんを見送る。
ネクタイをねじねじしながら、エレベーターの方向へと踵を返すイバラギさんと目が合った。私が軽く手を振ると、イバラギさんは小走りで中庭の方へやってくる。あの長い足と足が絡まってももつれたりしないのか少し心配したけど、彼は問題なく中庭に入ってきた。
「針山さん、こんにちは」
相変わらずぼけーっとしているファニー氏をすみっこに追いやり、空いたところにイバラギさんがぺこぺこしながら腰をかける。両隣が高身長の人外のせいか、変な圧迫感がある。私の身長が低いのがいけない。
「珍しいですね、イバラギさんがこんな時間帯に外にいるなんて」
「陽にあたらないと生活習慣が調整されないとお医者さんに言われまして。ちょっとお散歩してきました」
「なるほど。じゃあたまたまココアちゃんに会えたかんじですか」
へにゃりと笑うイバラギさんは、やっぱりその辺の女の子より可愛い。
「今日もいい香りがしました」
イバラギさんが以前住んでいた古城の周りには、星屑金木犀がたくさん生えていて、気まぐれに花を咲かせていたらしい。群れで行動する植物なので、開花した時の香りはそれはもう芳醇なのだ。
イバラギさんには馴染みがあってとても落ち着く香りだと言う。そんなイバラギさんが引越しの挨拶まわりにココアちゃんの部屋を訪れた際に、彼女からあの星屑金木犀の香りを感じた瞬間恋に落ちてしまったらしい。
イバラギさんの幻想を打ち砕きたくないから言わないけれど、ココアちゃんはかなりのヘビースモーカーであり、それの消臭のために星屑金木犀フレーバーの水煙管を吸っているだけである。
「ココアちゃんもこんな時間に外出なんて珍しいですよね」
「仕事仲間さんと遊びに行くそうですよ」
「イバラギさんもそのうちココアちゃんをデートに誘ってみたら良いじゃないですか。まずはお食事からとか」
「いえいえ、私なんかと外出だなんてココアさんに恥をかかせてしまいますよ」
イバラギさんは力なく笑うと(元から無さそうだけど)俯いてしまった。耳にかかっていた髪の毛がさらりと落ち、表情が伺えない。
「十分サマになりますよ、美男美女じゃないですか」
「そんなことないです……華やかな彼女とこの地味な私じゃあ不釣合いですよ」
「服装なら私がどうにかしますよ、ただのお針子だけどそれなりに詳しいつもりです」
「針山さんを煩わせる訳にはいきませんよう!」 「水臭いなあ」
「す、すみません」
「イバラギさんは姿勢低すぎですよ。もっと胸張ってくださいよ」
イバラギさんは困ったようにこちらをじっと見つめる。
「ココアさんには私なんかよりももっといい人が居るに決まってます……こんなにガリガリで蒼白で根暗な吸血鬼の相手なんかしたくないに決まってます……私なんか…うう……」
何かぐちぐちと後ろ向きなことを吐きながら、イバラギさんは左手の薬指の第一関節あたりに鋭い八重歯で噛み付いた。少しもしないうちに血が噴き出し、尋常じゃない量の血液が彼の手の甲を伝っていく。上下させ、見開いた瞳の中で激しく瞳孔を震わせ、歯と歯の隙間で呼吸をする。その姿はただの人間の私からしたらかなり異常に見えるけれど、吸血鬼である彼にとっては自らを落ち着かせるためのなんら当たり障りの無い行為なのだろう。
それでもやっぱり怖いので、ポケットに突っこんでいたハンカチでイバラギさんの血を拭いつつ、刺激しないように呼びかける。
「イバラギさん、大丈夫ですよイバラギさん、とりあえず口から指を抜いてください」
ゆっくりイバラギさんの左腕首を引っ張り、なんとか口から指を離すことができた。彼の薄い唇から血混じりの唾液が滴る。
「は、針山さん! いつもの癖で……申し訳ないです」
我に返ったイバラギさんは泣きそうな顔をしてぺこぺこ謝る。背中をさすってあげると、彼は長いため息を吐いた。
「私はこんな面倒な奴なんですよ。迷惑ばかりかけてしまって」
「まあまあ、きっと今はそういう時期なんですよ。人気の無いとこにいた分、人との関わりに不安があってもしょうがないと思います」
ハンカチでイバラギさんの指を止血しつつ、なんて細くてきれいな指なんだろうと見惚れる。ささくれだらけの自分の指が恥ずかしい。
「針山さんは優しいですね」
「そうでもないですよー」
「優しくなかったら私の友人など勤まりません」
イバラギさんは小さく笑った。私の中の吸血鬼は、キチガイじみた表情で美女の首に噛み付いているテンプレートなイメージしかなかったけれど、それは彼に出会ってからあっさり粉砕した。
「そうだ、まず私と外出してデートの練習したらどうですか」
「え、いいんですか」
「お互い接し慣れてるし、これと言って気にかけるようなことも無いじゃないですか」
「そうですよね、じゃあ、よろしくお願いします」
私に対して憚りは無いのかと思ったけれど、また必死に謝るだろうし、何より純粋に友人だと受け止めてくれているのが嬉しかったので口には出さなかった。
「だめ」
突然頭の上から圧力がかかる。分かっちゃあいたけど、視線だけを上に動かすとファニー氏の耳が見えた。
「顎乗せないでよ」 「いいでしょべつに」
「今まで何ぼーっとしてたの」
「寝てたの」
「寝るの? ファニー氏睡眠するの? 初耳だよ」
「こうしてめるこちゃんはひとつ賢くなったのでした」
頭上のファニー氏の顔面を目掛けて拳で小突くと、ごつんと硝子の瞳にぶつかって地味に痛かった。そういえばこいつには痛覚が無いようだから、殴ったところで意味はない。
「どちらさま?」
きょとんとしているイバラギさんにファニー氏が問う。
「イバラギと申します」
「ふーん」
「ふーんじゃないでしょ、はじめましてでしょ、ちゃんと挨拶なさい」
妙な沈黙が流れる。居心地が悪くなり、中庭に咲き誇る食虫コスモスに視線で助けを求めたけれどそっぽを向かれた。この薄情者め。虫やり当番が回ってきてもさぼるぞ。「だめ」
また「だめ」が出たかと思うと、今度は視界と気道を塞がれる。綿がぎちぎちに詰まったファニー氏の腕が私の頭を引き寄せてるか何かしてるんだろうが、とりあえず普通に考えたらこのままだと私がだめになる。
ファニー氏の腕を退けようと再び手を上げたところで、ぱっと解放された。変にバランスを崩してベンチから滑りそうになる。
「ちょっとファニー氏、何を」 「すっすみ、すみませっ、すすすみませんすみませんごめんなさい」
私が見ていないほんの一瞬の間に何が起こったのか、出会った日から今まででの間で見たことが無いほど、イバラギさんは激しく取り乱していた。
「イバラギさーん!」
私の声がマンションの吹き抜けをぐわんぐわん鳴し、最後には虚しく市松町の空に吸い込まれていった。
そして結局、イバラギさんは憑かれたように謝罪を繰り返し、何度も転びながらもエレベーターに乗って消えてしまった。こういうのをデジャヴと呼ぶのだろう。
「ふう」
「ふう。じゃないでしょ」
どや顔をしているファニー氏の頬を全力で抓る。ちぎれろ布。
「友達減っちゃうでしょ、イバラギさんが二度と口聞いてくれなかったらどうするの」
「友達なの?」
「友達だよ」
「それは困ったねえ」 「誰のせいだ」
「誰だろうねえ」
「反省するまで家に入れないからね」
「めるこちゃん寝れないね」
やだこの子。ああ言えばこう言うわ。どこで間違えてこんな子になっちゃったのかしら。呆れてモノを言えなくなり、ひたすら残念なものを見る目でファニー氏を見る。
「ごめんね」
ようやく私の思っていることを理解したのか、てろんと長い耳を垂らして落ち込んでいる素振りをするファニー氏。私は可愛いから許しちゃうなんていう野暮な人間ではない。でもまあ、本当に事の重大さに気付いたんだと思う。
「私じゃなくてイバラギさんに言ってね。でもしばらく顔を合わせてくれそうにないから、また今度ね」
「うん」
「吐血ウツボカズラとか差し入れたら許してくれると思うから、どっかのジャングルから採ってきてね」
「うん」
イバラギさんがしばらく玄関の扉にチェーンをかけた状態でしか会ってくれなかったとか、受け取ってもらえずどんどん生臭くなっていく吐血ウツボカズラの処理に困ったとか、ココアちゃんが星屑金木犀フレーバーの水煙管に飽きたとかいうのはまた別の話である。
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