いちまつちょう

小町紗良

第1話 マジックアワー

「お嬢さん、ここ座っていい?」

「どうぞ」


 読書に集中していたので、相手の顔も見ずに返した。この車両には先程から私しか乗っていない。席なんかいくらでも空いているのに、なんでわざわざ私の向かいを選んだのだろう。


 不審に思って本から視線をあげると、そこにはつぎはぎのうさぎの人形が何食わぬ顔で腰掛けていた。成人男性ぐらいの身長はあるし、四肢だって人間みたいだ。申し訳程度にぬいぐるみらしく下っ腹がぽっこりしている。耳を出すための穴が空いているシルクハットを被り、スパンコールが散りばめられた赤い蝶ネクタイをして、てかてかのハイヒールを履いていた。


 「何食わぬ顔」もよく見てみるとちょっとやばい。硝子の瞳は曇っているし、焦点が合っていない。それからハート型の鼻に縫い目の歪んだ口。とてもじゃないけど可愛いとは言えない容姿だ。


「ねえ暑くない? 窓開けるよ」


 うさぎは問答無用でがばっと窓を開ける。この謎の生物に呆気を取られていたせいで、電車が薄紫ひまわり畑の上を走っていることに今更気が付いた。開け放たれた車窓から、飲み屋の換気扇が吐き出す油のような臭いが入ってくる。飲み屋の換気扇の臭いを嗅いだことはないけど、そういうイメージ。


「エビフライみたいなにおいだねえ」


 そう言ってうさぎは楽しそうに窓から頭を出した。私はこの薄紫ひまわりの臭いが大嫌いだ。というか、薄紫ひまわりアレルギーなのだ。目が痒い。鼻水が垂れてくる。頭がくらくらする。くしゃみがとまらない。窓を閉めろと抗議しようにも呼吸が上手くできない。窓を勢い良く降ろしてギロチンよろしくうさぎの首を落としてやりたい。


 しかし兎殺犯にはなりたくないので、うさぎの首根っこを掴んで車内に引き戻してから窓をしめた。目に涙を溜め鼻をすすり、ぜえぜえ言う私を見て、ようやくうさぎは私が薄紫ひまわりアレルギーであることを理解した。私なんか罰あたるようなことしたかなあ。


「ごめんね、お嬢さん、薄紫ひまわりアレルギー顔には見えなかったから」


 申し訳ないなんてちっとも思って無さそうなうさぎは席に座りなおし、シルクハットを脱いで帽子の内側に腕を突っ込んだ。呼吸を整えながら黙ってそれを眺めていたけれど、いつまでもあれじゃないこれじゃないと何かを探しつづける様子に飽きてしまった。


 電車の揺れる音とうさぎがシルクハットの中を掻き回してがちゃがちゃするを聴きながら、窓の下のテーブルに頬杖をついて外の景色へ目を移す。薄紫の地平線にアプリコットの夕日が沈んでいくのは、毒々しくもきれいだった。敵ながらあっぱれだ(?) 。


「あった! これ!」


 うさぎが叫ぶと同時に、暗くなりかけていた車内にぱっと飴色の電球が点る。うさぎが私に差し出してきたものは、金融業者の広告が入ったポケットティッシュだった。


「それで鼻かんで」

「……とっくに乾いたよ」


 私がうさぎにはじめてまともにかけた言葉が沈黙を作り出す。なんだろう、この妙な気まずさ。


「き、気を使ってくれてありがとう、めっ、目薬とか持ってない?」


 空気を取り繕わなければと思って出てきたのがこれだった。なんで私がこんなことしなきゃならないんだ。


「持ってない」


 即答だし。


「お嬢さんはどこに行くの?」


 言葉にできないちょっとした怒りを感じたけれど、ここで私が怒っても事態はややこしくなるばかりだと思う。ため息をついてから答えた。


「市松町」

「奇遇だねえ、僕もだよ」

「ふーん」

「市松町のどこ?」

「おうち」

「じゃあそれなりにお金持ちだねえ」

「そうかもしれないねえ」

「おかっぱ似合うねえ」

「でしょ」

「素敵なワンピースだねえ」

「でしょ」


 とりとめのない会話、というか質問攻めを適当にあしらう。それでもうさぎは楽しそうだった。張り付きっぱなしの同じ表情を浮かべてばかりなのにそう感じた。

 

ひたすら薄紫ひまわり畑だった景色がいつの間にか大きな川を超え、市松遊園地のシンボルである観覧車が見えてきた。そろそろ降りる仕度をしなければならない。テーブルに放置していた文庫本を鞄にしまう。


 線路の周りはすっかり人工的な町並みになり、駅に停まるために電車の速度が落ちていく。シルクハットを被り直すうさぎに、ひとつだけ尋ねてみた。


「なんでわざわざ私の前に座ったの?」


 うさぎは首を傾げて答えた。


「『うさぎは寂しいと死ぬ』って常識だと思ってた」



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