第35話 夢

 着地するまでのたった8秒間で思考が飛んだ。視界は限りなく広く、視野は限りなく狭くなっていた。


 足と頭で言えば、圧倒的に頭の方が重い。空中で重力に手繰り寄せられた体は、従順にも重い頭を下に向け、必然的に軽い足が上を向く。

 地上60メートルからの落下。

 そこに生まれたものは、決して死への恐怖などではない。

 そんな漠然とした概念を処理するほどの余裕など、8秒では生まれる余地もない。


 頭蓋は落下の衝撃に耐えられない。もちろん内臓だって無事ではないはずだ。

 固い地面に叩きつけられ頭が割れ、身が裂け、内容物をぶちまけるイメージと、今まで築いてきたすべての事柄が問答無用で無に帰した世界へ放り出されることへの具体的な恐怖。

 臨戦態勢に入った脳が8秒間に何回何十回何百回何千回と処理し続ける、その恐怖のストレスに胃は耐えきれない。


 心を置き去りにした処理済みの情報の波にかき回され、精神と体が悲鳴を上げ、限界を超える寸前に目が覚めた。



―――



「ごちそうさまでしたー、と言っても、聞こえてないんでしょうねー」


 おやおや、食事を提供してくれたお方が、落ち着かないご様子でキョロキョロとなさっておいでですねえ。繰り返される悪夢で頭がおかしくなっちゃったのかもしれません。

 まあ、あのお方の頭はとっくの昔から無いのですが。


 ああ、ご自身の手を見て驚愕されています。血まみれだったからではなく、透けて向こう側が見えたからでしょうねえ。

 この調子なら、思い出すまで、そう時間もかからないことでしょう。

 全く、ビルから落ちて亡くなった幽霊さんが悪夢を見るなんて。

 よっぽど怖かったんでしょうねえ。


 まあ、夢を喰う獏という存在のわたくしは、食事を提供していただけるのでしたら、なんでもようございます。


 はてさて、次はどんな食事にありつけることやら。

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