第一章 そうして僕は魔王になった

初夏。とはいえ七月も半ば。暑さが空から降り注ぎ、木からは蝉が聴覚で暑さを訴えてくる。

アスファルトは熱を吸い、上を歩く者に熱を放出してさらに苦しめるそんな季節。とある高校は終業式を終えて夏休みに突入しようとしていた。

「ねーねー。れーけん! 聞いてよ!」

夏休み前、終業式が終わった日の帰り道。刑部零賢(オサカベレイケン)の周りには小煩いミツバチのようにぶんぶん言っている少女がくるくる回っていた。半袖のシャツに黒縁メガネをかけて整った髪型をしている零賢はどこからどう見ても優等生だった。

「なんだよ。終業式終わった途端に急にやってきて。そんなにいいことあったのか?」

マイペースにスタスタ歩き続ける零賢の周りを目障りなほどにくるくる回りながら少女は嬉しそうに喋った。

部活にすぐ行けるようになのかそれとも部活から脱走してきたのか、短パンに赤い鮮やかなユニフォームを着ている。ショートカットの髪は動くたびにぴょんぴょんと跳ね回っていた。 

この二人を離れた場所から見たら、バカと優等生という言葉が一番しっくり来る

「あのね! 私が陸上部の新部長になれるんだって!」

ぱぁっとひまわりのように明るい笑顔を作って零賢の前に少女は躍り出た。零賢は目を丸くして「ほんとか?」とつぶやいた。

「ほんとほんと!」

「だったらユッコ! 指定校推薦を取れるように顧問の先生に話しておくんだ。正直お前の学力じゃあ大学受験どうなるかすごく不安だったがこれでどうにかなるぞ! やったなユッコ!」

ユッコと呼ばれた少女、春風友里(ハルカゼユリ)はポカンとして「していこーすいせんってなに?」と聞き返した。

「あのなぁ。ユッコももう二年生なんだから大学受験の事をある程度知っておけよ」

不安そうにため息を吐く零賢を見て友里は「ダイジョーブダイジョーブ」と自信たっぷりに言い放った。

「何せ私にはトーダイ確定の天才れーけんが付いてるんだもん!」

ドン、と胸筋で盛られた形のいい双丘を強調するように胸を張って友里は零賢の前に立ちふさがった。

「天才なんていないよ。みんな、努力してるんだ」

身長差があまりない友里の頭にぽん、と手を置いて零賢はその横を通り過ぎる。

「僕が勉強している間に友里は走ってインターハイに出た。隣のクラスの藤岡はゲームの日本大会に出た。生徒会長の木村先輩は子供を作って退学した。みんなそれぞれ何か行動して努力した結果が、今なんだよ」

「れーけんたぶん木村先輩のは努力じゃないよ!」

「女作って侍らせるという努力」

「ああ! なるほど! れーけん頭良い!」

ぱぁっと笑顔を見せる友里を見ると零賢も釣られて笑っていた。

「頭の善し悪しの問題じゃないと思うんだけどなぁ」

零賢はポリポリと頭を掻くと改まって友里に向き合った。

「よし。友里の部長就任祝いだ。今夜ミスドでパーティーでもするか!」

友里は初めぽかんとして思考停止していたが、数秒経って理解したのか「ほんとほんと?」と小さい子供のようにぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃいだ。

「好きなもの……十個まで食べていいぞ」

「あ、れーけん今私が際限なく食べるんじゃないかって思った?」

にひひと悪ガキのような笑みを浮かべる友里に零賢はバツが悪そうに「そうだよ」と答えた。

「だいせーかい! たぶんれーけんが何も言わなかったられーけん破産するまで食べちゃってたよ!」

「そんなに食うと太るぞ」

「れーけん! 女の子に太るとか言っちゃいけないんだー! でも私は走ってるから太らないもんねー!」

零賢の前に躍り出てくるりくるりとバレリーナのように二回転すると友里はピタリと動きを止めた。

「あ、もう練習始まっちゃうから学校に帰るね! じゃあねれーけん!」

そのまま零賢の脇を突風のようなスピードで走り抜けて、友里は零賢の視界から消えていった。

「ユッコ本当に速いな……僕も予備校行くか」

零賢は己の学力を磨くため、そして両親からの支持もあって五個先の駅にある大手予備校に通っている。よく講師が良いとか場所が良いと言ったことで予備校を選ぶ人が居るらしいが零賢は違った。純粋に近い所、より多くの教材を置いている場所で選んでいた。零賢が天才と呼ばれてトップクラスの学力を維持できている最大の理由はその知識欲にあった。自分が知らないことが多い世の中は恐ろしいものであふれている。小さいころの零賢は世界をそのように見ていた。その性質を保ったまま成長した結果生まれたのが、今の零賢だった。

零賢にとって天才の肩書きは天より与えられたものではなく、自ら望んで手に入れたいものだった。最初のうちはクイズ感覚で問題に挑んでいたが気がついたら勝つために、人より良い点数を取るためだけに勉強をしていた。

いい点数を取っていい大学に行く準備をする。一般的に見て正しい事なのだろうが、零賢は友里を見ていると時折それが正しいかどうか不安になっていた。

零賢が机に向かっている間、友里は記録を走り抜けて気がつけば部長だ。同年代の生徒からも男女問わず人気があり、何かと引っ張りだこになっている友里に反して、高校二年生としては段違いの学力を身につけてしまった零賢は一般学生からあまり絡まれなくなった。

特進クラスに入り、質の高い授業を受けれてはいるが特進クラスは立ったの十名。互いにしゃべる事が少ない上に壁を作る人種が多い。試験の度に入れ替わる制度になっているが零賢はじめとした在中している五人はともかく入れ替わる五人は休み時間の度に一般クラスへ赴き遊んでいた。一時、その五人で仲良くなろうと零賢が画策し、共に昼食を取り、共に帰り、学校外で勉強会を開く、といった事をやったことがあった。気が付けば一人、また一人と零賢の前から消えていったのを覚えている。

皆一様に「君と付き合ってもメリットが無いんだ」「お前、やっぱり変だよ」「近くの奴に気を付けろ」とうつむいたまま呟いていたのを零賢は覚えている。その顔に殴られたような痣があったのも。

果たして勉強することが人生の正解ルートだったのか。電車の中で座りながら零賢は考えた。

つり革広告には市内に住む大学教授でノーベル賞受賞の可能性も示唆されている教授、栗塚重蔵(クリヅカジュウゾウ)の顔写真と出版している本の広告がでかでかと張り出されていた。

『完成こそ成功の元』という新書の広告だ。

零賢も読んだが重蔵の脳内を覗き見ることができるほどの情報は詰まっていなかった。

重蔵は生体工学の第一人者で、カブトムシと言った小型の昆虫からゾウなどの大型哺乳類に至るまで、頭の外に装置を軽くくっつけるだけで意のままに操る事が出来るようになる装置を開発していた。名を、『アスタリスクコントローラー』。どのような生物にでも対応できることからつけられた名前だ。複数の生物に装置を付ける事で視界を共有して効率の良い動きをするようになるなど、動物の資源的な活用方法だったり傭兵や囚人の管理に期待がされている技術であると同時に、対人で使われた場合人権を侵害するのではないかというリスクが付きまとうため何かあればよく週刊誌の食い物にされている人物でもある。

授業を受けながら零賢は『完成こそ成功の元』に書いてあった事を思い出した。

『別にね。私は特別すごい発想力を持っているわけではないんですよ。みなさん、発想力は同じくらい持っているんです。厳密に言えば、持っていた、というのですかね。子供の頃考えませんでしたか? 雲の上に乗りたい、とか、人面機関車に乗ってみたい、とか、空を自由に飛び回りたい、とか、アリを統制してみたい、とか。

常識の枠という物が大人になるにつれて形成されて、「そんなの無理だ。常識的に考えて無理だ」ってみんな言ってしまうんです。

でもね、子供の頃の夢や理想を持ち続けて行動し続ければ私のように夢を現実にする事ができるんですよ』

授業が終わる頃には子供の頃の夢ってなんだったかな、と零賢は思い出そうとしていた。

ほんとうに小さいころの夢は勇者になる事。物語に出てくるような、ただの子供が敵を倒し、最後は世界征服をたくらむ悪の魔王を倒すというお話しに出てくる勇者になりたかった。だが現実には魔王もいなければモンスターもいない。日本は平和だ。

今は勉強が好き、嫌いではない、という己の特性を生かして将来の事、大学進学の事だけを考えていた。いい大学に行ければいい人生を歩むことにもつながり、華々しい未来が待っていると。

だがそれは本当なのか。

時折誰にも言えなくなるくらいの不安が零賢を襲う事がある。それも成績表を見ることで、友里と話すことでなんとか抑えていた。

最寄駅へ付き、数時間前の友里のメールに返信する。

『塾終わって駅ついたら連絡してね』

「今ミスドに着いたよ、っと」

メールを送信し、友里のメールを待ちながらコーヒーを飲んでた時だった。急に電話が鳴った。友里からだ。遅れそうとかそういう連絡だろうと思い軽い気持ちで零賢は電話に出た。

「もしもし。どうしたの? 遅れるならメールでも……」

電話に出ると同時に零賢は異常を感じ取った。電話口の向こうでけたたましく鳴り響くサイレンの音、大勢の人間がざわめく声。そして電話に出たのは友里ではなく息を切らした女性だった。

『あ、零賢くん?』

声でわかる。友里の母だ。非常事態だ、とすぐに察して零賢の頭の中は非常事態宣言が出された。

「はい。どうかしたんですか?」

事故か、怪我か。軽症で済んでいればいいと零賢は願ったが、友里の母からは零賢の予想の斜め上をいく答えが返ってきた。

『友里そっちにいないかしら。あのね、友里が、消えて、その、警察にも行ったんだけど、争った形跡があって、その、手掛かり無くて、でも零賢くんからちょうど電話あったし、えっと、最後に会ったのが零賢くんじゃないかな、って、零賢君がどっか連れて行っちゃったの? ねえ、答えてよ!』

「今向かいます。おばさん、おちついてください。僕は今まで塾にいました」

会計もしないまま零賢は立ち上がり、カバンを鷲掴みにして携帯電話で話を聞きながら走り出した。

『ごごごごめんなさい。でも、ごめんね、零賢君。ほんとは零賢君疑っちゃだめなのに。でも、手掛かりなくて。家に帰ってから零賢くんと晩御飯食べてくるってメールをもらってから全然帰ってこなくて。零賢くんとの約束夜九時って言ってるのに連絡も無ければ帰ってもこないから気になって電話したんだけど出ないで。ちょうど友里の電話のそばを通りかかったお巡りさんが……』

そこから先は友里の母がすすり泣いてよく聞こえなかった。零賢は走った。鍛えていない棒のような足で。友里なら五分とかからず走り抜けれる距離を十数分かけて走り、聞いた現場に着いた。

近所にある陸橋の下。

そこには規制線が貼られて警察官と野次馬、地方紙の記者らしき人物などでごった返していた。

「ユッコ?」

事の中心点。

規制線の向こう側。黄色いKEEPOUTと書かれた線のこちらと向こう側では別の世界が広がっていた。陸橋の真下に、口を開けた友里のバックが落ちていてその周囲に携帯電話やノート類が散乱していた。

規制線の向こう側には非日常が広がっていた。友里がいないという、耐え難い非日常が。

そこから先は零賢もよく覚えていない。警察官に二つ三つ事情聴取されて、友里の母と少し言葉を交わして、帰路に着いた。

家に着き自室に戻り、ベッドに横たわる。両親は海外旅行のチケットが当たっとかで今はハワイに行っている。零賢は学校と予備校があるから断っていた。何も食べていない事を思い出し、食事を取ろうとリビングに行くも、お茶を飲んで終わり。食事は喉を通りそうにない。

「ユッコ……」

動いたところで仕方ない上に、零賢じゃあ消えた友里を見つけられないのは百も承知だったが、零賢はただじっとしている事が出来なかった。考えもなしに零賢は家を飛び出した。

一人で夜道を走るのはこれほどまでに寒いのか。零賢は夏の夜の中、得体の知れない悪寒を背負って零賢は事件現場へとたどり着いた。数時間経過して警察は規制線を残して現場から消えた。あれだけ集まっていた野次馬も一人もいない。まるで、友里が消えた事を誰も覚えていないかのように。

写真が撮られたのか、地面には白いチョークの線だけとチョークで書かれた数字だけが残っていた。残留物も取り除かれてそこには何もない空間だけが広がっていた。

規制線を乗り越え、友里のバックが落ちていた場所に膝を付く。

「誰が……どこに行っちゃったんだよユッコ」

そのまま地面に大の字になるように寝そべった。持ち物の散乱状態から一悶着あったのではないか、というのが警察の見解だ。

見えるのは橋の裏側だけ。こんなところで友里は何をやっていたのか。何もない天井に向かって零賢は語りかけた。

「ユッコ。君はこんなところで何をしていたんだい。何を見つけたんだい」

消え入りそうな声で、最後につぶやいた。

「どうして、僕の目の前から消えちゃったんだユッコ……」

声が大地に溶け風に流され、無音の闇が零賢を包んだ時、異常は起きた。

零賢の周りの地面が急に光り始めた。真下に大量の蛍光管でも埋められていたように大地が白く急激に光り始めた。危険を察知した零賢はすぐ立ち上がろうとしたが、地面が溶けたかのように足がずぶずぶと大地に沈んでいく。

「くそっ! なんだこれ」

足元が徐々に緩くなり、そしてついに底が抜けた。下に吸い込まれる。掃除機に座れるゴキブリも似たような死を体験するのだろうかと、訳のわからない状況に零賢は全身を預けた。目を開けると光の筒の中を通っているような状態だった。白く光る筒の向こう側には黒い空間と点のような光るモノ……星空と宇宙空間が広がっていた。

「……なんだこれは」

謎の空間を落ち続けているうちに零賢は意識を失ってしまった。

次に目を覚ました時は見知らぬ部屋だった。

天蓋付きの大きなベッド。零賢の部屋にあるベッドの三倍はある大きさだ。黒を基調にした柱には白い薔薇の装飾が付いている。白いレースのカーテンを払いのけ、ベッドから降りる。ベッドの高さも通常のものの倍ほどあり、降りるのは簡単だがベッドに乗るには腕の力を使わなければいけないほどだ。

夏休みの初日からとんでもないところに来てしまったと、零賢は確信した。服も黒いバスローブのようなものに着替えられている。枕元に畳まれた制服があったのですぐに着替える。洗濯してくれていたのか、ほんのり花のいい香りがする。

部屋全体を見渡すとまず目に入ったのは部屋の壁に掛けられた大きな肖像画だ。立った零賢がすっぽり収まってしまいそうなほど大きく、金の装飾が施された額の中には黒い人物が描かれている。巨大な二本の巻角を持ち、鷲のような黒く巨大な翼を広げた、棘のある鎧のようなもので体を覆われた二本脚で立つ生物。おそらく王か何かだろうが、明らかに人間でない事は確かだ。角と翼に加えて、背後にはうっすら剣のような鋭い尻尾も見える。さらに背後、背景には山のような黒い城が赤い月を前に鎮座している様子が描かれていた。

「これは、なんだ?」

幼いころやったゲームの中のラスボスのような生物を目の当たりにして、流石の零賢も驚いて目を丸くしていた。

「……ここは、どこなんだ」

改めてどこに来たのかわからなくなり、零賢はさらにキョロキョロと周りを見た。零賢の家にあるようなグラス。映画などでお城の中にあるろうそく立て。窓には真紅のカーテンがかけられていて窓の両端で結ばれている。窓に近寄り外を見ると地上何階かわからないほど、下が見えないほど高い位置にある事だけわかった。外は晴れていて太陽光が感じ取れるものの、砂嵐が吹き荒れ視界は最悪。地上が見えない。

窓のある壁の反対側には黒い観音開きになる扉があった。これも一般家庭にしては豪華すぎる象嵌の装飾が施されていた。

ベッドをもう一度詳しく調べる。掛け布団の材質は一般家庭にあるような安っぽい布ではない、高級感があって重い物を使っている。空調設備があるらしく、天井付近の壁に空いた穴からは空気が出てきている。天蓋を支える柱は木製。ニスのようなものを塗ってあるため湿気に強そうだ。年季が入っているのか、茶を通り越して黒に近い色を出している。ドアノブは黄金だ。無駄な装飾は一切なく、金の球体が扉にくっついているような感じだ。書物の類やコンセントの類は見当たらなかったため、黄金のドアノブを掴み、外に出ようとした時だ。

突然ドアが向こう側から開かれた。

ドアの重みで蝶番が軋む音が室内に響く。それと同時に零賢の心拍数も上がった。

何が出てくるのか。誰が出てくるのか。そもそも人間なのか。どの国の人間なのか。日本語が通じるのか。心臓の音が太鼓のように鼓膜を打ち付ける。

ドアが開き外の様子が見えてくる。カーテンと同じ色の真紅の絨毯が外の廊下に敷かれ、廊下の壁にはろうそく立てと火の付いたろうそくが等間隔に並んでいた。扉が完全に開ききる頃には誰がドアを開けたかわかった。

天の川のような銀色の髪に闇に溶け込むような褐色の肌を持つ女性が跪いていた。真紅のマントが背中に見える。

「お早うございます。魔王様。朝早くから申し訳ありませんが大魔皇帝ルシフェル様との面会の時間でございます」

上げられた女性の顔を見て零賢は度肝を抜かれた。雑誌やテレビに出るほど均整な顔立ちというレベルを超えるほど美しかった。ほっそりとした顎のラインに、鮮やかなブルーの目。その眼差しは鋭く研ぎ澄まされた刀剣のようだった。そして人間には見られない鋭く尖った耳が特徴だった。

そして何より零賢は外見以外の事に驚いていた。

「日本語……通じている?」

「あら。あまり驚かれないんですね」

零賢の反応が淡白だったのか、銀髪の女性は立ち上がった。立ち上がると零賢より少しだけ背が高く長い脚を強調するかのようなミニスカートを履いているのがわかった。

「改めまして。これから三十日間魔王様の専属秘書を務めます、アルテンシア・ドグノフスキーと申します」

深々と頭をさげるアルテンシアの言葉を零賢はようやく理解した。ゲームの中の敵キャラとしてしか聞いたことのなかった魔王様という言葉が誰をさすのか。

それは誰でもなく、零賢自身だということに。

「僕が、魔王なんですか?」

「左様です。あと、魔王様は魔王様らしく部下に対して敬語を使う必要はありません。敬称をつける必要もありません」

無表情のままピシャリと言ったアルテンシアの目が怖かったのか、零賢は「わかりまし……わかった」と言い直した。

「ならばアルテンシア。僕の質問に答えてほしい」

光橋の下の地面に穴が開いて落ちることも、訳のわからない空間を落ち続けることも、友里が消えることも、全て零賢にとっては想定外の出来事だった。その上魔王になる。なんていうのは想定外も予想外、常識外もいいところだった。

だが常識外の出来事には慣れすぎてしまい感覚が麻痺していた。麻痺のし過ぎで、零賢の頭は周囲の状況を理解しないまま大きな時代の奔流に流されるように、適応することだけを考え出した。

アルテンシアに連れられるまま廊下に出て、零賢はあることに気づいた。部屋の作りもそうだったが、廊下の作りも大きい。本当の城のようだ。

「アルテンシア。ここはどこなんだ?」

スタスタと歩くアルテンシアになんとか合わせようと零賢も必死になって歩きながらアルテンシアに問いかけた。アルテンシアは前を向いたまま答えた。

「ここは大魔皇帝城、移動要塞ドーラです」

「ここは僕の城、魔王の城なのか?」

「いいえ。ここは大魔皇帝ユリウス・ルシフェル様のお城になります。お部屋にあった絵はご覧になられましたか?」

すぐにあの黒い生物と城の絵の事だとわかった。

「見ました。あの生物が大魔皇帝ユリウス・ルシフェルなのか」

「左様です。あと、魔王様よりもルシフェル様の方が階級が上なので『様』を付けてお呼びください」

「わかった。大魔皇帝ルシフェル様、だね?」

「そうです。それから絵にあった背景の城が、この移動要塞ドーラにあります」

「これから、どこに行くんだ?」

廊下をまっすぐ歩いていたアルテンシアが不意に止まった。続けて零賢も止まり周囲を見る。

通ってきた道を見ると部屋の扉が見えない。廊下が右に湾曲していることがわかった。立て付けの問題ではなく、円周を沿うように廊下が張られているらしい。

「この廊下って元から曲がっているの?」

「はい。玉座の間が円柱状になってこちら側にあります」

 婉曲している廊下の、内径側の壁をアルテンシアは指さした。

「それに沿ってドーラの中央塔は設計されているため、どの廊下も円周に沿った廊下を持っています」

大きな扉の前で止まったアルテンシアは咳払いをした。

「これから大魔皇帝ユリウス・ルシフェル様との御謁見があります。ルシフェル様は巨大なお方ですが驚かれないよう。言葉遣いにも気をつけてください」

「怒らせると危険、っていうことなの?」

「いいえ。ルシフェル様と会われる方々は……」

アルテンシアは伏し目がちになりながら続けた。

「ルシフェル様をご覧になって泡を吹いて倒れてしまったり、恐怖のあまり泣け叫んだり、失神してしまう人間の方々が多いのです。その度にルシフェル様は陰でとても悲しんでおられるのです。ルシフェル様は人と、人間と話をするのが好きな方なので」

なるほど、と零賢は安心した。大魔皇帝ルシフェルはあの絵の通り怖い生物ではないらしい。見た目こそ怖いが心は非常に繊細で優しいのだろう。

「ルシフェル様はとてもお優しいんですね」

「はい!」

アルテンシアは今までに見せたことがないくらい明るい笑顔で答えた。ふと、その笑顔が友里のものと重なった。友里はアルテンシアほど背が高くないし、胸もなければ耳も尖っていない。だが、ふいに考えてしまった。

友里は今どこにいて、移動要塞ドーラとは、魔王や大魔皇帝が普通に存在するこの場所はどこなのか、と。

「心の準備ができたらお入りください。私はここで待っております」

「わかった。行ってくる」

そう言い、颯爽と扉を押して中に入って行った。

扉の内側は静かな廊下とは対照的に機械の駆動音がガンガン鳴り響く部屋だった。巨大な円筒状の部屋で天井についたライトが部屋全体を照らしている。円筒の中心部分に彼はいた。

あまりにも大きすぎてこの部屋にどうやって入ったかわからないくらいだ。天を衝く柱のように、中央の玉座に鎮座している漆黒の王。

「大魔皇帝ユリウス・ルシフェル……」

その大きさに零賢は息を飲んでそのまま息をすることをやめていた。

絵に描かれていたような巨大な翼の代わりに、背中には水道管のような太いケーブルが何本も繋がれ、血のように赤い目は閉じられていた。が、零賢が入ってきたことを感じたのか、ゆっくりと瞼が開いた。

「ようこそ。ニホンから来た小さき人間よ。我が名はユリウス・ルシフェル。君を歓迎しよう」

部屋を震わせるほど大きな声に度肝を抜かれたが、零賢は声を張り上げた。

「僕の名は刑部零賢だ。大魔皇帝ルシフェル様。お目にかかれて光栄です!」

零賢の声も負けじと部屋の中に反響した。ユリウスは不意をつかれたように一瞬表情が固まったが、にっこり笑うと「ガハハハ」と豪快に笑った。

「レーケンよ。そなたは元気が良いな。これから三十日間、そなたになら我が第三十七魔王軍を預ける事が出来そうだ」

「大魔皇帝ルシフェル様!お聞きしたい事がございます!」

「何なりと申すがいい」

「僕はいつどうやって帰る事ができるのですか!」

零賢の叫びは、今にも崩れ去れそうなほどの悲痛を秘めていた。

「ぬ……」

「ここは! どこなのですか!」

「……」

「夢の中や僕の頭の中でない事は分かっています! 大魔皇帝ルシフェル様。なぜ僕が魔王なのですか。僕は、人間です」

「アルテンシアは何も言っていなかったか?」

ユリウスはバツが悪そうな顔をして少しだけ零賢から目を逸らすと呟くように言った。

「タイミング逃して聞きそびれていました!」

「そうか。では我が教えねばなるまい……まず、話す前に一つだけ言わせて欲しい。余はおぬしに謝らねばならない」

悲しそうな目、そして謝罪と贖罪を含んだ眼差しがやんわりと零賢を包む。

「申し訳ない。異世界の、日本の少年、レーケンよ。そなたをこのような事に巻き込んでしまって。だがアバロニア帝国が、この大魔皇帝ユリウス・ルシフェルが、そなたが帝国のために戦う限り全てそなたの味方である事を忘れないで欲しい」

零賢は突然の事で戸惑った。なぜこの巨大な皇帝は見ず知らずの自分に対してこれだけの絶対的信頼を置くのか、そしてなぜ謝るのか。最大の疑問は国そのものが零賢を守る、サポートする、とも取れる言い方だった。

「大魔皇帝ルシフェル様。お話をお聞かせください。僕には何もわかりません!」

「落ち着いてよく聞くのだ、魔王レーケン」

ユリウスは大きく息を吸い、重低音の効いたベースのような声で言った。

「そなたはここから、我らが星、マルセルスから今すぐ帰る事ができない」

「は?」 

かろうじて零賢が発する事ができた言葉はそれだけだった。零賢の中で何かが崩れた。

明日からの夏休みはどうなる。

夏期講習もあり、夏には三回模試がある。

そこで実力を示さないと東大クラスからは落ちてしまう。

それどころか帰れないとはどういう事だ。

約束された華々しい未来はどうなる。

零賢には成績しかなかった。そんなものが通じるのは日本の大学受験という狭いフィールドだけなのは零賢だって百も承知だ。

それが通じない、マルセルスとかいう謎の世界に飛ばされて零賢は今後の身の振り方がわからなくなっていた。

突然魔王と言われ、いきなり魔王より格上の大魔皇帝という巨人と会い、帰れないと言われる。

あまりのショックに零賢は意識を失い倒れてしまった。

「レーケン様!」

扉が開き、アルテンシアが走って零賢に駆け寄った。

「衛生兵! 急げ!レーケン様が倒れてしまった!」

大魔皇帝は悲しそうな目で倒れた零賢を見つめていた。零賢はぐったりしたままアルテンシアに米俵でも担ぐかのようにひょいと持ち上げられて大魔皇帝の玉座から連れ出された。

「すまない。レーケンよ。恨むなら、そなたの間の悪さを恨んでくれ。我らはこの戦いに勝たねばならぬのだ」


再び自室に戻された零賢は意識こそなかったが脳内は色々考えていた。

すぐに帰れない、というのはどういう事なのか。

今までは日本の社会で生き残るために必要な勉強をやってきた零賢だが、大学受験がなく、社会制度が不明な世界に突き落とされては社会的に死亡するどころか文字通りいつ殺されてもおかしくない状態なのは目に見えていた。

その上、消えた友里の事も気がかりだった。あの場所で消えたなら、この世界に、ユリウスが言っていたマルセルスという場所に来ている可能性もあるのかもしれない。

友里がここにいる。

そう思った瞬間零賢は目が覚めた。

最初に目覚めたのと同じベッドである事はすぐにわかった。一つだけ違うとすれば、多くの生物が零賢の顔を心配そうに覗き込んでいた事だ。

まずは一番近くの右手側にアルテンシア。その隣に見慣れない黒山羊の頭部を持ったメガネをかけた生物。続いて大魔皇帝ユリウス・ルシフェルを人間サイズ……と言っても三メートルは下らないほどの大きさなのだが……に圧縮したような生物。背中には先ほど見たケーブルは繋がっていなく、血の色のような黒みを帯びた赤いマントを羽織っていた。

続いて足元にはメイド服姿のアルテンシアに肌や髪の色が似た女性の集団がレーケンを物珍しそうに眺めていた。目があった者が頭を下げ、それに続くように待機していたメイドが全員頭を下げた。

左手側、窓の方にはパイプを蒸した黒髪の男性が窓枠に腰掛けていた。もじゃもじゃに伸びた黒い髪の毛は海藻類を彷彿させた。

状況が状況だけに零賢はバツが悪そうな顔で呟くように「あ、えっと、おはようございます」といった。

「先生!」

アルテンシアが黒山羊にもっとよく見ろと言わんばかりに後頭部を押して零賢に近づけた。

「もうレーケン様は! 大丈夫ですか?」

「ああ。大丈夫大丈夫」

黒山羊はしゃがれた声を出してにっこりと微笑んだ。

「極度の緊張と疲労からの貧血じゃよ。ちゃんとご飯食べて休んでくださいね、レーケンさん」

「先生! レーケン様は現魔王です。ちゃんと……」

「病人ならば何人であっても医者より弱い立場ですよ、アルテンシアさん。例え、大魔皇帝であろうとね」

「余は医者の世話にはならぬから大丈夫だ」

人間サイズの大魔皇帝ユリウス・ルシフェルは豪快に笑ったが黒山羊先生の目は鋭かった。

「長命なのは誰のおかげでしょうねぇ……ルシフェル様。あとで血液検査をしたいのでわしの部屋まで来てくださいね」

「ぬ……わかった」

シュンと縮こまるユリウスを見て零賢はクスッと笑った。なんだ。ここの人たちも姿形こそ違うが同じ「ヒト」なのだと理解して。

「時にレーケンよ」

改まってユリウスが口を開いたところでメイドたちはそそくさと部屋を後にした。

「余の事を覚えておるか?」

「大魔皇帝ユリウス・ルシフェル様、ですよね」

「そうだ。記憶は大丈夫なようだな。改めてそなたに話をせねばならぬ」

零賢は黒山羊先生の介助で上半身だけを起こした。

「嫌でしたら聞かないでもいいんじゃよ。今のあなたには落ち着く事が必要じゃ」

黒山羊先生は優しく零賢に語りかけた。

「ありがとうございます。でも、聞かなきゃいけないんです。僕は詳しい事情を知らないけど、一番偉い大魔皇帝ルシフェル様が個人の寝室にまでいらっしゃるなんて、相当の急ぎの話なんでしょう」

黒山羊先生は頭を下げて「左様です。聡明な方だ」と言った。

「魔王レーケンよ。これは話すと長い話だ。簡単にやってもらいたい事を余が話す。最後まで聞いて欲しいのだが、よいか?」

相当切羽詰まっているのだろう。踏めば潰れるほどの体格差があったのにもかかわらず、大魔皇帝が小型化して現れるなど、異常事態ではないのかと零賢は思っていた。

「はい」

まっすぐユリウスの目を見つめて応えると、ユリウスは無言で頷き話し始めた。

「事の起こりは五百年前だ。我ら帝国はある領土を奪い合うために人間の国、ユートピア共和国と戦を続けている。だが我々が直接ぶつかり合ってタダで済むほどこの大地は強くなかった。そなたも見たであろう。外の砂嵐を」

零賢は窓の外から見た下が見えないほど吹き荒れている砂嵐を思い出した。

「あれは、余がやった」

何を言い出すんだ。零賢は理解が追いつかなかった。

「ここは元々緑あふれる地下資源の豊富な土地だったのだ。山には雪が積もり、大地には木々が生い茂り、ここにしか生息していない原生生物も多くいた。我々は戦の度にそれらの大地を徐々に削っていった。それでも水が豊富で山々は美しい景色を見せていた。五百年前、ユートピア共和国の魔法使い、マーリンの行った広域魔族殺戮攻撃は我ら魔王軍へ直撃し大打撃を負った。雪崩のように攻めこむ共和国軍に対し、まだ動けた余が剣を振るっただけでこのザマなのだよ」

意味がわからなかったが、なんとなくユリウスの強さが零賢に伝わった。確かにあのサイズの生物が振るう剣で大地を薙ぎ払われた日には、山が吹き飛ぶでは済まないだろう。

「その事件後、両国共に話し合い、代理の者を立てて戦争を定期的に行う事にした。そこで選ばれたのが、大魔力を用いて共和国が発動させた召喚魔法で呼び出されたそなたらニホンの者だ」

どうして日本語が通じたのかという疑問が、確信を通り越して零賢の中で怒りに変わった。

「その条約以後十年に一度、この戦は成されてきた。時代は流れ、当初から決闘の形式は変わってしまったが、レーケン殿には魔王として魔王軍を選別し、指揮していただきたい。魔王軍の詳細と取り決めについては落ち着いてから話そう」

「落ち着いてから話そう? 大魔皇帝ルシフェル様。あなた、今何を言ったかわかっているのですか!」

特別待遇を受けているのは理解できる。ユリウスが心配しているのもわかる。大魔皇帝傘下の魔族が切羽詰まっているのもわかるが、零賢は怒りを抑えれなかった。

「たまたま召喚に成功した日本の人間を使って、代理戦争をやろう? なんの冗談だ! 日本人は! 日本の、地球の人間はこの国で戦争をやるために生きているんじゃない! 自分の人生を歩むために生きているんだ!」

ユリウスは零賢の怒りを全身で受け止めていた。仁王立のまま一歩も退かず、ただまっすぐに零賢の目を見ていた。

「それを五百年も続けてきていたあなた方の神経がわからない! どれだけの日本人がこの地で死んでいったんだ! 答えろ!」

「それは、わからぬ。だが、戦争が始まって以来、我が帝国で死したニホンの者はおらぬ」

「……本当ですか?」

「本当だ。そして、戦争が終わればそなたも祖国へ帰る事が出来る」

「……本当に?」

零賢は目を丸くしてユリウスを見ていた。

「本当だとも。この戦争期間中は、三十日間は召喚魔法の使用が禁止されているが、終われば帰る事ができる。レーケンよ。ここでもう一度そなたにお願いしたい。どうか、魔王軍を指揮してはくれぬか。この戦いには魔王軍の誇りが、帝国の人民の生活がかかっておる」

目を開けたユリウスは零賢に対して深々と頭を下げた。

「よしてください大魔皇帝!」

零賢はすぐに止めた。だがユリウスは頑として頭を上げようとしなかった。

「そなたの言う通り、我々はそなたらニホンの人間の人生の一部を頂いて戦争を行おうとしている。そこに怒りが湧くのは当然の事であろう。しかし、そなたがいなければ我々は不戦敗になり、領土の一部を奪われてしまうのだ」

「それだけじゃねぇ。戦争に出なかった腑抜けとして、俺と俺の軍も共和国に出向いて公開処刑だ。魔法の炎で体が消えるまで燃やされちまう」

窓枠に腰掛けていた男が頭を掻きながら零賢に寄ってきた。

「俺は第三十七魔王軍魔王、ジョージ・ベルゼブブだ。俺の軍をお前に預けるんだ、レーケン新魔王。俺の命欲しさに戦ってくれ、というわけじゃ無い。俺の魔王軍を犬死にさせないで欲しいんだ」

髪の毛の間から覗く黒い目は人間の目と同じ場所についていて白黒比も同じだったが、黒目は虫のような複眼になっていた。

「うちのボスも頭を下げているんだ。お前の歳はわからんが、この意味がわからない、って年齢じゃないよな」

ジョージも続いて頭を下げた。

気がつくと零賢の周りで頭を上げている者は誰もいなかった。

零賢は考えていた。帰れるのだとしたら、確実に帰れるなら、戦争期間の三十日間だけこちらにいる事ができるならそれは悪い話ではないのかもしれないと。夏期講習で隔たった学力は後で補強すればいい。家に帰れないのは神隠しに会った事にすればいい。逆に、魔王軍を指揮するなんて事は滅多にできることではない。彼らは全力で零賢を守るようだし大丈夫そうだと判断した。

だが、それでも零賢は踏ん切りがつかなかった。

「今すぐお答えするのは無理です。大魔皇帝ルシフェル様」

「……そうであろうな」

「今し方お時間をいただきたいです。よろしいでしょうか」

ユリウスは頭を上げて零賢を見た。そこには動揺し、思案に耽る少年の目があった。

「かまわぬ。よく考えて欲しい、レーケンよ。そしてできることなら今日中に結論を出して欲しい」

だろうね、と零賢は内心呟いた。

「この戦争は三十日戦争。準備期間に二十五日を要し、残りの三日で決着を付け、最後の二日で負けた軍の解体と停戦条約を結ぶ。急かしたくはないが時間が無いのもまた事実である」

「わかりました」

それでは失礼するよ、と言いユリウスは地面に溶けるように消えていった。続いて黒山羊先生がドアから去り、ジョージとアルテンシアも去ろうとしたが零賢は呼び止めた。

「ジョージさん。アルテンシアさん。待ってください」

呼び止められて二人は目を丸くして振り返った。

「少し、連れて行ってもらいたい場所があります」

着替えた後に零賢はアルテンシアとジョージに連れられて廊下を進み、その先にある昇降機へとやってきていた。

「ここは移動要塞ドーラの上階層部分になっていて一定の階級以外の者は入ることができません」

昇降機が来るのを待っている間、アルテンシアはレーケンに説明していた。

「ここは大魔皇帝の玉座兼移動要塞ドーラの制御室と、レーケン様はじめとした魔王様の宿泊スペースが四部屋、四大魔王、四天王様の臨時宿泊スペースとして一部屋、クヌギ先生……黒山羊の先生です。彼の医務室として一部屋、食堂を一部屋とそれにつながる厨房、食料庫を用意しています」

「あんさ、アルテンシア。レーケンくんに対する態度、俺が魔王やってた時よりすげー丁寧なんだけどこれなんていう格差?」

ニタニタ笑いながらちょっかいでも出すように、直立不動のアルテンシアにジョージは言った。アルテンシアは露骨に嫌そうな顔をして唾でも吐くように言い放った。

「は? ハエくさいお前が魔王とか片腹痛いわ。ゴミ箱に頭からぶち込むぞ」

ハッと気付いたように零賢に向かって「し、失礼しました」と赤面しながらぺこりと頭を下げた。

「こいつ普段はああだから気をつけろよ。レーケン」

馴れ馴れしくもフレンドリーなジョージの語りかけは零賢にとって心地いいものだった。

「そもそもあなたはレーケン様に対して馴れ馴れしいのです! まずそこから改めて……」

「エレベーター来たぜ」

早く乗り込めと言わんばかりに口の開いたエレベーターに零賢とアルテンシアを押し込み、最後にジョージも乗った。

「まあさっきはボスが頭下げてた手前、俺もああいったけどよ」

エレベーターの内装は円柱形で全面ガラス張りになっていた。今でこそ壁しか見えていないがそのうち外の景色が見えるのだろう。

「仮に嫌だったら断っていいからな。その代わり三十日間はこっちにいないといけないから帝国帰って観光でもゆっくりしていってくれ」

ジョージはふにゃっとした笑顔を零賢に向けた。零賢が断ったら自分とその軍が消滅させられて領地まで取られるというのにも関わらず、NOという選択肢を零賢に与えてきた。アルテンシアはジョージの想定外の発言に「ちょっと!」と素っ頓狂な声を上げた。

零賢はこれが魔王軍を指揮する人間の心構えか、と少し学んだ。外界の者にすべてを押し付けるよくわからない制度の戦争は、参加させられる零賢からすればいい迷惑だし断りたいし逃げ出したいのは当然だ。しかし、今この世界で生きている魔王や魔王軍は自らの軍を見ず知らずの異界の者に預けなければならない。これには相当の覚悟が必要だ。その覚悟が、一見能天気に見える『いやだったら断っていいからな』というジョージの言葉だった。

それを深く心に刻み、零賢もまた覚悟を決めた。

「断る気はありません」

摑み合いのケンカに発展しそうだったジョージとアルテンシアに対して凛とした声で零賢は言った。

「ただ、何も知らずに軽々しく引き受けていいものでは無いと思ったので、今すぐにでも魔王軍という物を見せてもらいたかったのです」

「レーケン様……」

アルテンシアは目を潤ませ、ジョージはうんうんとにこやかに頷いた。

「言ってくれれば俺も手伝えること手伝うからな」

はなからそのつもりだ、とは言わずに「ありがとうございます」と零賢は言った。

エレベーターは壁の区域を抜け、屋外が見える透明な筒の中を下るエリアへ来た。外は相変わらずの砂嵐だが、移動要塞の全貌が少しでも見えればと零賢は身を乗り出して外を見た。都内で乱立しているようなビルほどもある巨大な昆虫のような足が五本が、順繰りに動きながら前進していた。

「こちらから見えるのが移動要塞ドーラの右半分になります。足は合計で十本。それを交互に動かしながら最高時速百五十キロで移動しています」

「……少し気になっていたんだけど、なんで単位がそうはっきりしているの?」

「ああ、これはうちのボスの方針でね。敬意を持って接するために、相手の文化を取り入れようという話だ。日本語の文化も然り、食糧事情も元召喚魔王たちから話を聞いて君たちの口に合うようなものを用意している。昔は共和国の事も積極的に調べてたな。うちのボスは探求心がすごいんだ」

「そうでしたか」

納得と同時に大魔皇帝ユリウス・ルシフェルの覚悟と懐の深さを知った。流暢な日本語をゼロから教育するのに何年要したのだろうか。それに加え、変化する日本語を魔王軍に定着させ、単位系までも日本に統一させようという徹底ぶりに零賢は度肝を抜かれた。

移動要塞ドーラは絵にあったものよりも禍々しい物だった。

全体の大きさとして街一つが入るほど広く、高さも東京タワーが入ってしまいそうなほど高く、山に足が生えて動いていると言っても過言ではないくらい大きかった。表面は大小様々な円柱形の物が地面から生えているような形状になっていて、先端は丸くドーム状になっていた。  

これなら軍が丸ごと入ってしまうのにもうなずける。

再び透明な筒から壁の中へとエレベーターは降りていき、続いて目に飛び込んできたのは住宅街のような場所だった。無機質な三階建て程度のアパートのようなものが等間隔に並び、その間は道だったり植え込みになっている。所々広いスペースが空いていて軍隊らしき影が隊列を組んでいた。

「ドーラはこの中央棟をベースに大小五十以上の塔がくっついて出来ている、歩く摩天楼みたいなものだ。その最下部はこういう感じで兵士の生活スペースとなっている。寝る、食う、遊ぶ、訓練するスペースはだいたいこのあたりだ。武器や弾薬の貯蔵スぺースも離れた場所にある」

ジョージの説明が終わると同時にエレベーターは最下層へ着いた。扉が開き、上の空気とは全く違う、緑の新鮮な空気がなだれ込んできた。

「これが、要塞の中……」

上から見たときよりも鮮明にわかるが、このフロアは自然の中に駐屯地を作ったような構造になっていた。

青々とした芝生に背の高い見たことも無いような背の高い樹木が所々生えている。木ではあるものの葉の形や花、成っている果物など日本では見られないものばかりだ。

木の上には狼の頭部と腕を持つ人間のような生物や、腕の代わりに鳥の羽が生えている生物など人間と何かの合成じゃないかと言うほど奇妙な生き物たちが和気あいあいと談笑し、地面には半透明のゲル状の生き物が荷物を運んだり、小さい鬼のような生き物がチャンバラをしていた。

「これが俺の、いや、今はお前のだが……第三十七魔王軍だ」

「なんか思ったよりのんびりしていますね」

「屈強な兵士はいますよ」

これが兵士か、と言われて冷え汗を垂らす零賢にこれだけじゃないよと言わんばかりに焦ったアルテンシアが付け加えた。

「通常、魔王軍は国防に努めています。現在領土争いを行っているユートピア共和国以外にも我々には敵がいます。北極にいる海魔族は知能を持たないが強力な力を持っているため、侵攻してきたら魔王軍で追い払わねばなりません。また、交易最中の海賊を追い払う、領空侵犯してくる魔法使いを迎撃するなど魔王軍には様々な機能があり……」

「そこまでにしておけよアルテンシア。いっぺんに言われてもレーケン新魔王びっくりしちまうだろ」

ジョージがもう聞き飽きたと言わんばかりに手で払いながらアルテンシアを止めたが、ケロッとした顔で零賢は言った。

「そのくらい僕にも理解できるから大丈夫ですよ」

その言葉に感動したのか、アルテンシアは目を潤ませて「さすがですレーケン様!」と感嘆した声を上げた。

「あ、こいつこれが素だから。別にお前の事バカにしてるわけじゃないからな」

「お前は一言多いんだよ!」

アルテンシアの肩をぽんぽんと叩いたジョージは顔面にグーパンチをくらって鼻を押さえてた。

木の上の住人たちは「お、新魔王様だ!」とざわつき、「ジョージ魔王またアルちゃんにやられてやがんの」とはやしたて、スライムと小鬼は動きを止めて魔王のほうへ向いて頭を下げた。

「あ、なんか邪魔しちゃったみたいですね」

「今は休憩中だからいいんだよ」

鼻血を出しながらも笑顔を崩さず、ジョージは零賢に言った。

「存分に見ていってくれ、俺の魔王軍を」

歩きながらジョージは零賢に説明してくれた。魔族の王で、魔王。魔王が束ねる軍隊で魔王軍。最初はそういう意味付けだったらしい。現在、魔王軍は全四十八あり、それぞれが四十八の州の護衛、治安維持を務める州軍となっている。有事の際は国であるアバロニア帝国のために動くこともできる指揮系統を持っている。現在大魔皇帝として君臨しているユリウス・ルシフェルのほかに、政をつかさどる政務官が複数人いて彼らは国民の選挙により選出されることなど。国のシステムから魔王軍のシステムまで、事細かに教えてくれた。

「四大魔王軍というのがあって、これは完全に別モンなんだ」

出歩く先々でジョージと零賢は魔族たちに頭を下げられていた。姿形こそ違うが、人間と同じ知性があり、物を考える力があり、自由意志で行動する彼らを魔族などと呼んで差別化するのは違うのではないか、と零賢は思った。

「そこは四天王っていう連中が統括する特別な軍で、よっぽどの事じゃないと出てこない。今四天王のうち一人は北極で海魔族迎撃に行ってて、一人は首都の防衛、もう一人は俺の抜けた第三十七魔王軍の穴埋めをする形で州に出向いている」

「最後の一人はどこにいるんですか?」

「ここに来ているよ」

ジョージに引き連れられて様々な魔族と対話した。

魔王軍で働くことを夢見ていた下等種族スライム。砂嵐の中外を飛べずに不平を漏らす鳥人族の少女。これ美味いっすよと謎の柑橘類を進めてきた人狼。試しに零賢が一口かじると予想以上の酸っぱさで変な声を出してしまった。その様子を見て人狼だけでなくジョージも「騙されたな!」と豪快に笑った。アルテンシアだけが「レーケン様に何かあったら!」と怒ったのは言うまでもない。

巨鬼は立ち並ぶ樹木ほどある種族で、零賢やジョージ、アルテンシアの二倍以上大きい角の生えた種族だ。上半身裸で灰色の肌を出していた。

「おでたちあたまわるい。けど、まおうさまのため、ここではたらいてる」

のそのそというゆっくりした喋りと動作で新魔王である零賢に握手を求めてきた。ちょっと力を入れれば潰れそうなほどの差があったが、巨鬼の手は優しかった。

「魔族にもいろいろあるだろ?」

一通り見て回った後に、ジョージは零賢に語り掛けた。アルテンシアは気が付いたら消えていた。どこかへ行ってしまったらしい。

「いろいろありますけどアルテンシアさんやジョージさんと似た種族はいませんでしたね」

「アルちゃんはダークエルフっていう種族でね。数が少ないけど大魔法を発動するのに耐えれるだけの体を持っているからこういった白兵の場所じゃなくて魔法戦士の隊舎にいるよ」

「だーくえるふ、ですか。で、ジョージさんの種族は?」

「俺は、突然変異って奴でね。生物種としては唯一無二。種族としては蟲に当たるんだ」

ぎらりと光る黒い複眼は、やはり昆虫のそれだ。

「今は人間の形状に押し止めているんだ。そうでないと一般生活に支障が出たり、居室に入れないからね。他の魔王や魔族でもそういう個体はいて、大魔皇帝も人間サイズにまでなる事が出来るけどドーラを動かすときとかはあのサイズにならないといけないから今は元のサイズだ よ」

一通りの魔族とふれあい話を聞いて、零賢は考えた。

「どうして魔王軍に?」

零賢はことある度に聞いた。

「ぼくたちスライムは、下等種族。魔王軍で働けるのは、光栄な事」

唯一発声器官を持つ変異体のスライムは一リットルにも満たない体をぷるぷると震わせながら発声した。

「いやあ、美味い飯が食えるからっすよ。都会のごみ箱漁ってるよりこっちのほうが何倍もましですじゃ」

手のひらサイズの喋るネズミは何かのナッツを頬張りながら答えてくれた。

「そりゃあ、知らない空を飛びたいからね! 仕事でいろんなところに、州の外に出れるならありがたい話だよ。でもこういう砂嵐の天気は簡便かなぁ」

ハーピィーの少女は鳥のような足で木の枝にぶら下がりながら零賢に言った。

「我が一族の誇りだからです。父も、祖父も、魔王軍に努めていました。魔王軍こそ我が誇りです」

上半身が人間、下半身が馬のケンタウルスの男性は、新魔王零賢と話す際、目線を合わせるためにわざわざ膝を折ってくれた。

「俺たちゃベルゼブブの旦那に拾ってもらったからな。一族諸共、第三十七魔王軍に仕えるぜ」

人狼の男は「今度は美味いぞ」と言いながら零賢にリンゴを差し出してくれた。

「剣を作る。正当な評価を付けてくれる。高く買ってくれる。軍騎士に使ってもらえる。これ以上の事があるか!」

身長一メートルにも満たないひげ面の老人はドワーフ族だと名乗った。片手で馬車が引くような荷車を引きながら零賢には目もくれず立ち去って行った。荷車にはぴかぴかに磨かれた甲冑や剣、槍が見えた。

「おでたち、あたまわるい。けど、ゆりうすさま、かんけいない、いった」

巨鬼の群れは「ゆりうすさま、ばんざい」と大声で叫んだ。

「ん~そうだな。聞いてくれよ。俺、先日子供生まれてさ。子供のためだな。魔王軍で働くのは」

白い肌のエルフの男は煙草をふかしながら零賢に写真を見せた。ロケットの中には女神のように美しい金髪の女性と天使のようにかわいらしい子供の写真が入っていた。

「他の連中は魔王様のため、とか、大魔皇帝のため、とか言うかもしれねえけど俺は家族のためだな」

屈託のない笑顔でそういうと同時にエルフの男は「あ、ベルゼブブ様のためじゃないとは言ってませんから! くびだけは勘弁してください!」と冷たい視線を向けるジョージにぺこぺこと頭を下げた。

「いやぁ。悪魔だったら目指すは魔王。そのために魔王軍に入ったっすよ」

角の形も尻尾も、大魔皇帝ユリウス・ルシフェルによく似た青年はそう言った。黒い外皮を持つ人間離れした姿をしているが、ジュース片手に人狼とボードゲームをしながら彼はつづけた。

「俺たち悪魔族っていうのは自然が生み出した突然変異体みたいなもので、家族とかいないっすよ。悪魔族に分類されても姿かたちがまちまちで、俺みたいな魔人型もいれば蟲型もいるし、海獣型、四天王のウリエル様は海魔族の突然変異体だとか。俺にとっては受け入れてくれた魔王軍が家族みたいなもんでね。いつかはとーちゃんみたいな立場である魔王になりたいな、なんて思ってたり」

「いやぁ、照れるな。俺もとーちゃんか」

悪魔族の青年の言葉に照れながら頭を掻いていたジョージだが、悪魔族の青年は真顔で否定した。

「いや。ジョージ様の事じゃないっす。第二十三魔王軍のアルバート様っす」

「てめえええええええええ!」

魔獣にも聞いてみた。

「がう」

「…………」

隊舎脇にあった魔獣舎。中にはライオンにコウモリの翼を生やし蛇の尾を持つ猫ほどの大きさの生物が毬で遊んでいたり、明細柄の人間の頭部なら丸のみにできそうなほどの顎を備えて机ほどの横幅を持つ巨大なムカデが何匹もいた。

「あれはサニーキャット。偵察用の魔獣だ」

ジョージがライオンだかコウモリだかわからないネコサイズの生き物を指さした。

「見たものをほかの個体に伝える能力を持っている。サニーキャットの中だけでなく、俺たち魔王軍にも伝わるようにしつけたのがあいつらだ」

「……あ、あの、ライオンよりもこの巨大ムカデは……」

檻の隙間を縫って自由に出入りしている巨大ムカデに巻き付かれながら顔を青白くして今にも死にそうになった零賢は、命からがら声を絞り出した。

「ああ。こいつらはハコムカデ。帝国の運び屋さ。知能もそこそこ高い。スタミナもあって長距離移動にも使える優れものさ。そして何より速い」

ジョージが右手の人差し指を中指を口に入れ、思い切り息を吹き込んで耳を劈くような「ピー」という音を出した。檻の外で遊んでいた個体も、中でうごめいていた個体も、零賢の体をぐるぐる巻きにしていた個体も全員が檻の中へすぐに戻り、人間のように直立不動の姿勢を取った。

「な? 頭いいだろこいつら」

「す、すごいけど……もう勘弁です」

まだ魔王軍に、という質問をしていない身近な人物がいた。

「私ですか?」

最後に、お茶会の準備が完了しましたと言いに来たアルテンシアにも聞いた。

「強い奴を倒したいから、です。具体的には共和国軍総帥の勇者を」

アルテンシアの目は非常に冷たく、鋭かった。

「おっと~アルちゃんおっかなぁ~い」

「先にあんたを殺して私が魔王になろうか」

「あ、すみません。俺まだ死にたくありません」

アルテンシアからの怒りの飛び蹴りを避けていたジョージにも零賢は同様の質問をした。

「俺は単純だからさ」

アルテンシアからの頭突きが入り鼻血を出しながらジョージは答えた。

「昔はさ、蟲の中で知能も高くて結構強かったから森でハバ効かせてたんだよ。で、何年前か忘れたけどボス……大魔皇帝と出会ってな。ぼっこぼこにされて勧誘されて教育されて、気付いたら魔王軍で魔王やってる、って感じかな」

ジョージは悪戯小僧のような無邪気な笑みを浮かべて続けた。

「あとはそうだな。レーケン。お前ハエ好きか?」

「いいえ」

即答した零賢を見てジョージは少し悲しそうな目をするも、諦めたように「普通はそうだよな」とつぶやいた。

「一般的に見ても虫が大好きだ、って奴、ハエの事を好き好んでる奴なんていないと思う。でも、そんな俺の事をかっこいいって言ってくれる奴がいたらその人の側に居たくなるだろう?」

ジョージの言葉から、他の者の言葉から大魔皇帝ユリウスの像が見えてきた。それと同時に魔王に何が求められるのかも。

「大魔皇帝ユリウス・ルシフェル様。あのお方は偉大だぞ。レーケン、お前が思っている以上にな」

人それぞれの魔王に対する、魔王軍に対する想いという物を零賢は聞いて回った。これを聞いてどうするか、何かの参考にするというわけではない。

ただ、零賢は知っておきたかった。

今後、自分はどのような生物の、生き物の、人を指揮するのかを。

魔王とはどのような人物なのかを。

全てを理解した零賢は玉座兼ドーラの制御室へ向かった。重い扉をジョージとアルテンシアに開けてもらい、零賢一人で中に入る。一番最初に感じたほどの圧迫感は無く、どこか我が家のような優しさがそこにはあった。

「大魔皇帝ルシフェル様!」

零賢はユリウスに聞こえるような大声で語りかけた。ユリウスは巨大な頭を動かし、燃えるような赤い瞳で零賢を見つめた。零賢から魔王申請を拒否されても構わないという、覚悟を決めた男の目がそこにはあった。

「申してみよ。異世界の小さき者、レーケンよ!」

必要なものは見てきた。魔王軍を統べる意味も理解した。

人生を、夏休みのうち三十日間が確実に潰れるのなら意味のある事をやりたい。

零賢もユリウスと同じく覚悟を決め、息を吸った。

「刑部零賢は、第三十七魔王軍の魔王となる事を決めました!」

その瞬間、零賢の視界がぐらりと反転し、足元がゆらりと地面に吸い込まれる感覚を覚えた。

無機質で配管と巨大なディスプレイだらけで大魔皇帝ユリウスがいることで圧迫感が与えられていた白黒の世界、玉座の間から、黄金に輝く部屋へと転移していた。

部屋の中央には端に座る人の顔が見えないほどの長テーブルが置かれ、その長辺の真ん中あたりに零賢は座っていた。玉座の間よりも低いが一般的な住居に比べて高すぎるほどの天井からはシャンデリアが等間隔にいくつもぶら下がり、フロアを照らしている。背後にはジョージとアルテンシアが立っていた。

「え? あの、これは……」

「言いたいことはわかるが今は黙って前を向く事に努めろ」

ジョージがぴしゃりと言い放ち、ジョージ達の方を向いていた零賢の身体を無理やり回れ右させた。

次の瞬間テーブルと壁に並んだ金色の燭台のロウソクの火が一斉に灯った。そしてそれに伴い各座席から光の柱が立ち上り、天井と床を貫いた。その数四十八本。一番奥、上座に一本光の柱が立ち長机の左右に二十四本ずつ、零賢のところは光の柱が立たなかったので零賢側は二十三本だった。

光が収束すると中から人間大の生物が現れた。上座には人間サイズにまで小さくなった大魔皇帝ユリウス・ルシフェルが。その近くの他より豪華な装飾が付いた椅子にはマントを羽織った四体の生物、魔王軍四天王が座った。一人は零賢やジョージのように一見すると人間の男性のように見える者。しかし頭部は髪の毛の代わりにイカやタコのように吸盤の付いた太い触手が何十本も生えてうごめいていた。一人はユリウスのような黒い二本の巻角を頭部に持った、艶美な体格をそのまま晒すような煽情的な赤いドレスを着た女性。残り二つは人とは言いがたく、人間の頭部が四つほど入りそうな巨大な黒い球体が座席の上に浮いているだけのものと、王冠を被りマントを羽織った三メートルほどある真っ赤な骸骨だった。真っ直ぐな角が頭部に三本生えているが、頭蓋骨の形状は人間のものと酷似していた。マントの背後からは魚の骨のような形状の尻尾の骨が覗いている。

四天王が席に着くと続いて光の柱が収束し、中から人間のような二足歩行の生物から生物か物質かわからないようスライムのようなものまでが席に着いた。四十八魔王軍の魔王たちが全員この場に来た。

その事実を悟り周囲の生物に圧巻されて棒立ちになっていた零賢は、背後のジョージから「席に着け」と囁かれて慌てて席に着いた。

零賢が席に着いた事を確認し、今度は各座席の背後、ジョージやアルテンシアが立つような場所に光の柱が現れた。光が収束すると同時に各座席に座っている生物と類似した生物が二人ずつ現れた。

「帝国魔王軍の全魔王に次ぐ」

ユリウスが立ち上りマイクも無しに部屋全体に響くほどの声を放った。和太鼓のような声を聞き心臓まで震えるほどの振動が零賢を襲う。

「第三十七魔王軍に臨時でだが異世界の少年レーケン・オサカベが就任した。此度の戦は彼が第三十七魔王軍を率いてユートピア共和国軍と戦う事になる。今後の戦勝を祈願し、レーケン新魔王の就任を祝い、今宵は宴だああああああ!」

テーブルの上に黄金のジョッキが現る。それぞれの体格に合わせた大きさのジョッキで、零賢のは比較的小さいサイズだった。中に紫色の液体が湧き水のように底から湧き出てジョッキいっぱいに満ち溢れた。ユリウスがジョッキを掴み取る。それに続き魔王たちもジョッキを持つ。持てない者は空中に浮かせ、擬似的に持つ格好をとった。

野獣のような低い声でユリウスが「乾杯!」と叫ぶと同時に帝国魔王たちも立ち上り「魔王レーケンに乾杯!」と叫んだ。

零賢もそれに合わせてジョッキを高く掲げた。ジョッキ同士がぶつかり合い紫色の液体が零れ落ちる。

「小僧! 魔王軍へようこそ!」

零賢の隣に座っているのは成人男性ほどある巨大な剣を背負った爬虫類のような頭部を持つトカゲ人間だった。尖った口先をジョッキに付けて中の液体を飲み乾す。皺が深くある事と声から、老齢なのがうかがえる。

「おれは第三十六魔王。ドルドルイ・バジリスク。これでも昔は帝国一の剣豪だったんだ」

ドルドルイは蛇のような舌をペロリと出して舌なめずりしながら背負った剣を親指で指した。

「ドル爺。そんな百年以上昔の話したって面白くないって。老人の若者に対するトークで絶対やっちゃいけないのが昔の自慢話なんだってよ」

零賢の目の前に座るメガネをかけた和服姿で黒髪の女性が、乾杯後からずっと読んでいた本をぱたんと閉じて零賢とドルドルイの方を見た。黒を貴重にしていて夜桜が舞う様子と満月が描かれた柄をしている。一見すると日本人の女性のようにも見えるが、背後には大蛇のような尻尾がゆらゆらと揺れている。本は『このままで大丈夫か! 日本の社会!』というタイトルの新書だった。魔法で行き来できるという事から、定期的に魔族が日本に来て買い物をしているらしい。

「わたしは第十五魔王、カスミよ。よろしくね、日本の魔王様」

「ど、どうも」

やっと上半身がまともな人間のような形状をしている生物から話しかけられて、今まで硬直していた零賢は言葉を発することが出来た。カスミに続くようにその隣に座った魔王も話しかけてきた。

「僕は第十六魔王、オズマ・オズマール」

零賢が黙ったまま顔をひきつらせたままフリーズしていた原因でもある生物が喋り出した。首から下は零賢が見てきた巨鬼に非常に酷似している。喋り方もそうだ。だが、胸のあたりから頭部と思われる場所まで縦に裂けた巨大な口があり、その両隣には人間サイズの小さな眼球が十数個ずらりと並んでいる。右頭側部には耳のあったであろう場所に口が開き、頭頂部に耳か鼻らしき穴が開いている。種として成立しているのかどうか怪しい生命体が、零賢に話しかけてきた。

「この姿、怖いって思うかもしれないけど」

縦に裂けた口の中にある人間サイズの横に裂けた口が動き喋っているのを零賢は確認した。

「君の事を頭から食べたりしないから、気にしないでね」

とても優しい喋り方なのだが、零賢は「は、はひ」と府抜けた返事しかできなかった。

「あんたの事を怖がるな、なんて言うのが無理なのよオズマ。日本のマンガにもそんなバケモノ出てこないわよ」

「君は異世界の文化に触れすぎだよ。事実はアニメよりも奇なりってことわざが日本にもあるように……」

「それを言うなら『小説よりも』よ。だいたいあなた執務室でアニメ見まくってるっていうじゃない。帝国じゃ発電装置は貴重なんだからそんな事に使わないで……」

日本の文化と帝国の電力事情について口論し始めた目の前の二人の魔王をどういう風にしてみればいいのかわからずに眼球を右往左往させて泳がせていた零賢を見てか、ドルドルイが零賢の肩をバシバシ力強くたたいた。

「はぁ~帝国魔王もいつからこうなっちまったかぁ……おう、小僧。お前はこういう風になっちゃダメだからな。まあおれも昔はエドの文化に触れて心ときめいたこともあったけどな!」

江戸の文化、という時代はずれな単語を聞き、零賢は驚いた。

「……ドルドルイさんはおいくつなんですか?」

「ん~、かれこれ三百年くらいかねぇ。もう年なんて数えるのやめて長いからなぁ」

「魔族は長命な人が多いんですね……」

「いやぁ。そうでもねえぞ。おれなんかは寿命長いほうだけどよ。反対側見てみろよ」

零賢は反対側、右隣に腰かけていた物体を見た。

食事を取るのに体の一部を伸ばし、皿の上の物を皿事半透明な身体に取り込み、そのまま吸収してしまった。姿かたち、大きさこそ段違いだがまぎれもなくソレはスライム種の生物だった。

「は……じめ……まして。きんぐ……すらいむ。だい、三十八まぉ……う」

身体を人型へ変形させて腕らしきパーツを作って零賢に軽く会釈をした。

「どうも」

「スライム種は寿命が数年だ。死んだ仲間を別の個体が食って記憶と能力を引き継ぐんだぜ。面白いだろ」

いや全然。なんだよその共食い。と言いたかったが零賢は苦笑いで「スライム種ってすごいですね」とお茶を濁した。

気が付いたらテーブルにはよくわからない料理が並んでいた。フライドチキンらしいもの、サラダらしきもの、何かの煮込み料理だが何の生物を煮込んだかは不明、虫っぽい生物の佃煮、 緑色の刺身に青色の生肉、豆腐のような白い物体に、パンらしき香ばしい香りのするものが出てきた。

あまりの不気味さに零賢は「なにこれ」と声を上げてしまった。

「レーケン君も食べなよ。美味しいよ」

実際に食べて見せる事で、オズマは料理が美味しくて無害な事を照明したかったのだろう。だが、生物種からほど遠い外見をしているオズマが縦に裂けた大きい口で皿ごと生肉を平らげているのを見てしまうとアレは人間がたべたらダメなものではないかと判断してしまった。

「それは脅かすだけ、ってわからないのかなオズマは。はい、これ。お豆腐ね」

カスミから渡された白い直方体は零賢も聞きなれている食べ物の名前だった。

「おう小僧。これも食えよ。どこいっても野菜と果物に外れはねえ。覚えておいて損は無いぜ」

ドルドルイは果物が乗った皿を零賢の前まで引き寄せてにこっと笑った。

カットフルーツ盛り合わせ。何がどの食べ物か見当がつかないがリンゴのような断面を持つ食べ物から零賢は食べ始めた。よく思い出せば移動要塞ドーラに来てから何も口にしていなかった。瑞々しさが歯から伝わり、口の中で果汁が溢れる。歯ごたえのある触感とうるおい、そして甘味が口の中で広がり零賢は感動した。美味しさのあまり無言で食べ続ける事になったのは言うまでもない。

食べながら慌てて立ち上がり、ドルドルイにお礼を言おうと零賢がなんとか声を発した時だった。

「これおいひいでふ。あり……うっ」

喉を押さえ、顔をみるみる青くしながら零賢はゆっくりと動作を停止した。

「そんなに慌てなくてもまだいっぱいあるからな、小僧」

がっはっはと笑っていたドルドルイの隣で、口論していたカスミの前で、皿ごと料理を平らげていたオズマの斜め前で、テーブルの上に全身を移動させて食料を貪っていたスライム種の隣で、零賢はゆっくりと後方へ倒れていった。

「小僧!」

「レーケン!?」

「レーケン様!」

ドルドルイの叫ぶ声、ジョージの素っ頓狂な声、アルテンシアの慌てる声が聞こえたと同時に椅子が倒れ、零賢も床に倒れた。食べ過ぎによる窒息。非常に情けない原因で零賢は意識を失った。

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