第40話 綿菅

「なぜ、こんなときに」

 そんな言葉しか出てこない。

 寝台の上で、石竹が荒い呼吸をしている。痛みに耐えているのか、額には脂汗が浮いていて、とても見ていられない。綿菅は撫子をぎゅうと抱き締めて祈ることしかできなかった。


 外来種を撃退するため家を出て行ったディーを見送って家に戻ると、石竹が寝台の上で喘いでいた。息遣いが荒く、布団が明らかに小水ではないとわかる液体で濡れていたので、産気づいているのだということは、子を産んだことがあるわけではない綿菅にもわかった。

「予定日まで一ヶ月以上あるはずなのに………」

 ぬるりとした液体に触れて、膝から崩れ落ちそうになる。医者の石竹とは違い、狩人で村を出ていることの多い綿菅は、これまで出産の場に立ち会う機会がなかった。子どもの頃も、出産の場を見せられるということはなく、伝聞によって知識として知ってはいる出産の場に面して、気が動転し、何をすれば良いのかわからなくなってしまった。何を、どうするのだったか。確か、お湯を沸かす必要があったか。あとは、清潔な手拭いも必要かもしれない。あとは、なんだ。

 抱きかかえられている撫子が、手から逃れようともがく。この忙しい状況で、いったい何だというのだ。


「誰か呼んでこないと」

 撫子に言われて、自分ひとりで対応する必要はないのだということにようやく気付く。綿菅以外の女たちは、出産を経験している。中には石竹について産婆役をやった女もおり、ほとんど右も左もわからない綿菅が独りで赤ん坊を取り上げようとするよりは、ずっと良い。撫子は、綿菅よりずっと冷静だ。

 彼女は自分で他の者を呼びに行こうとしていたが、引き留めた。季節は冬の終わりで、酷く吹雪いている。如何に戸口を叩いて回るだけとはいえ、幼い撫子に独りで視界が悪く空気の冷たく足場の悪い冬の夜を走り回らせることはできない。それよりも石竹についていてもらい、清白と鈴奈を見ているように頼む。

「走って呼びに行って来るだけなら、わたしひとりのほうが早いからな。今は吹雪いているし、おまえが外を出歩けば遭難するだけだ」

「でも……綿菅ひとりだけで、ほんとに大丈夫?」

 と、先程の失態を見ていたためか、撫子は不安そうな表情で言う。

「大丈夫だよ」と綿菅は撫子の頭を撫でてやった。「それより、石竹について、励ましてやってくれ。あと、清白と鈴奈が火に近づいたりしないように、ちゃんと見ていてやれよ」

 未だ納得できない表情ではあったが、撫子は頷いてくれた。「気をつけてね」


 綿菅は上着を着込んでから家を出た。吹雪が酷く、他の家々が見えない。積もりつつある雪は足を踏み出すと埋まるほどに柔らかい。撫子なら、腿まで埋まるだろう。

 もし無敵号が敗北して外来種が攻め込んできて、この集落を放棄しなければならないとなれば、この雪の中を移動しながらの出産ということで最悪の状況になってしまうだろう。

「頼むぞ」

 家や設備が破壊される程度のことは構わない。だが、負けないでくれ。死なないでくれ。そしてどうか石竹を守ってくれ。綿菅は心の中でディーに祈った。

(それにわたしも、やるべきことをやらなくては)

 この吹雪を掻き分けて、可能な限り早く他の女を呼ばなくてはならない。

 個々の家からは他の主要な施設に対しては、伝っていけば辿り着けるように綱が張られているが、家々同士を繋ぐものは何もない。綱は日射や温度変化、あるいは湿気などですぐに劣化するため、毎年夏に全ての綱を張り替えている。季節一巡りを耐えるような太い綱を編み、張り巡らせるというのは重労働であり、特に仕事の多い夏場、日々従事する作業を考えるとそう時間は使えない。細い縄を使えば多少は楽ができるのだろうが、それでは万が一切れてしまったことを考えると非常に危険だ。そういった安全面の配慮もあり、どうせ冬場、家同士を移動するということはあまりなく、炊事場や集会場を兼ねている集会場だけ行き来できれば良いのだから、現在のような形式になった。

(直接他の家へ向かうべきか)

 週の後半、闇夜に包まれた夜の時間である。ましてや外来種が襲来中なのだから、集会場へ行ったところで人がいるはずがない。積雪が酷く、何処へ行くにもいちいち雪を掻き分けて進まなければならないのだから、時間がかかる。多少の汗をかいて凍傷になろうが、腕がもげようが構わないところであるが、一刻を争う状況でいちいち無駄な手間をかけたくはない。

 綱を無視して他の家に向かえば、時簡短縮になる。だが、だがそれは可能だろうか。一歩先さえ危ういような吹雪なのだ。如何に、如何に長年親しんだ村とはいえ、吹雪に雪で視界が塞がれ、感覚も曖昧となれば、すぐに道に迷ってしまう。迷って綿菅が死ぬぶんには構わない。いまさら、過剰に死を怖がるということもない。だが何もできずに、何もしてやれずに死ぬのは厭だ。


 ディーの家での、撫子の言葉が脳裏を過ぎる。

「何がしたいのか、なんで生きるのか、わからないんだね。じゃあ、おねえちゃんと同じだ」


 あの言葉が指し示していたのはディーだった。だがいまや、彼は己の為すべきことを理解している。騎手として、女を守ること。無敵号に敵を指し示してやること。死なないこと。生き延びること。

 ご飯を作ってやること、抱いてやること、話をしてやること、歌を歌ってやること。石竹は勿論、己の為すべきことは知っている。

 撫子も、たぶん知っている。だから、大人しく家で待ち、子どもの面倒を見てくれている。

 言葉も話せぬ清白や鈴奈とて、己の為すべきこと、食べること、寝ること、泣くこと、笑うことを知っている。

 みんな、きっとなぜ生きるのかわからない。ただ何をすべきかを知っていて、それを果たすために行動している。

 綿菅は、何がしたいのか、なぜ生きるのか、何を果たしたいのかを知っている。石竹と共にいたい。彼女と生きたい。彼女を喜ばせたい。彼女がその気になったときでいい、歌ってほしい。その願いを自覚している。だから幸せだ。だが何をすべきかを知らないのでは、話にならない。それでは生きる目的もすぐに消えてしまう。

(わたしが助けてやらなくちゃいけないんだ)

 今、石竹の危険な状態を知っているのは綿菅と撫子しかおらず、この雪では撫子では他の女を呼びに行くのは不可能だ。そして彼女に家で待っているように伝えた以上、綿菅が途中で力尽きてしまえば、もはやそれまで。撫子は綿菅が戻ってくることを期待してただ不安のままに待ち、予定日よりも大分早い出産となってしまったために、産まれてくる子のみならず母体も死に至るかもしれない。

 行って帰ってくるまでが、自分の為すべきことなのだ。ならばこの綱を握り、一歩一歩歩んでいく以外の選択肢はない。


 皮を重ねて作った手袋越しに握る綱の感覚はほとんどなく、片手で雪を掻いて進みながら、綿菅は何度も綱の存在を確かめた。年毎に張り替えている綱であるが、もしこれが何処かで切れていたら、それで綿菅も石竹も終わりだ。

 前の見えぬまま進んでいくというのはとても曖昧で不安定で、しかしオングルで生きるというものはそういうものなのだから仕方がないという気がする。今の生活とて、無敵号という、その存在も出自も知れぬ存在に守られたものだ。そして無敵号とて、外来種のあらゆる攻撃を防げるわけではない。たとえば人工的に隕石を作り出してぶつけるだとかの攻撃ならば、無敵号を以ってしても防ぎきることはできないだろう。無敵号本体は無事かもしれないが、隕石の衝撃で地表は吹き飛び、それだけでオングルの人間たちは飛んできた岩盤を受けたり地に叩き付けられたりして、死に至るだろう。万が一その衝撃から生き残ることがあっても、小さな惑星であるオングルの地軸や軌道が変化し、衝撃で弾き飛ばされた細かな粒子によって太陽からの放射が防がれ、ただでさえ冷たいこの惑星はもっと冷たく、不毛になることだろう。

 そうはなっていないのは、ただ外来種がこの惑星を侵略しようとしているからというだけだ。相手がオングルを奪おうとしている限りは、襲来してくる部隊を退ければ良い。いつか外来種がオングルの支配を諦め、あるいは人類がオングルを足がかりに侵略されぬよう、オングルが破壊されるその日まで。

 そのときは、寿命だ。

 そう思えば、何処で生きるにしても同じだ。いつか死んでしまうことを考えるのは恐ろしい。だが、そのときまで、精一杯生きれば良い。


 ようやく集会場に辿り着く。綿菅は転がり込むようにして中に入る。雪を払い、中を見回すが、やはり誰もいない。やはり家を直接訪ねなければ。荒くなってしまった息を整え、外に出る。

 家を出たときには見えていた無敵号と外来種の巻き起こす氷煙や地の揺れが小さくなっていた。無敵号はまだ戦っている。そして戦いを有利に進めているのだ。少なくとも、村から外来種を遠ざけることには成功しているらしい。

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