第33話 石竹

 妻たる苔桃が死んで以来、ディーはかつて住んでいた独り住まいに舞い戻っていた。灯りは見えないが、肌寒い冬の夜であるから、外を出歩く者はいない。ディーも中にいるはずだ。

 戸の前に立ち、肌寒さに石竹は震えた。闇空の下、雪は降ってはいないとはいえ、着の身着のままで飛び出してきたため、肌寒いどころではない。肌蹴た襟を直しながら、なぜ自分の着物は乱れていたんだろうと考える。子どもに授乳の真似事をしていたからだ。

 己が腹を痛めて産んだ子でないためか、子育ては辛いことばかりだった。赤子は昼夜問わず喚き立て、世話を要求する。出ない乳を吸わせなければ食事をとろうともせず、口にしたとしても吐き出したり、一度腹の中に入れたものまでも嘔吐することさえある。排泄を制御することができず、物をおむつの中に零しては泣くことしかできない、これ以上ないほどに憎たらしい生き物だ。あんな生き物が家にいて、幸せだと思ったことはただひと時としてない。もう厭だ。幸せに死にたい。終わりにしたい。

 だが死んだら終わってしまう。死んだら清白と鈴奈のために、もはや尽くしてやることはできない。


 最近は、あの子らに尽くすことばかり考える。何をすれば笑ってくれるのか、どんな顔をすれば泣き止んでくれるのか。お腹は減ってないか、おむつの中は不快ではないか。寒くはないか。暑過ぎやしないか。身に包む衣の肌触りはどうか。

 そんなことばかり四六時中考えていて、子どもがようやく眠った後の時間は、幸せとはほど遠い時間であった。敢えて言うなら、安堵の時間であった。今日も無事に寝かしつけられた、ぐっすりと、安らかに眠ってくれた、良かった、と。それだけ。それだけだったのだ。

 それはいってみれば食欲と同じだ。食べるのが好きだから物を食うわけではない。食べている瞬間が幸せだから食うわけではないし、生きるために食べているという自覚が常にあるわけではない。ただ食べなければ身体が辛くなるから、心が掻き立てられるから、だからただ食べるのだ。睡眠欲だとか性欲も同じようなものかもしれない。眠る必要がないなら眠りたくなどない。しなくて気が済むなら寝台で己を慰めるなどという汚らわしい行いは真っ平御免だ。だが身体は欲するのだ。

 そのような感情を急きたてていたのは、責任感だっただろうか。亡き友の子であるという想いこそが、子へと縛り付けていたのだろうか。あるいは女の性であるがゆえに生じる、弱い者への母性か。感情の根源は定かではなかったが、想うその先は一点に収束していた。

「何も遺せないまま死ぬのは厭だ」

 だが、ああ。

「何もしてやれないまま死ぬのはもっと厭だ」


 こんなのは違う。あの小さな子らのためになることではない。やめだ。やめにしよう。

 石竹は戸に伸ばしかけた手を袖の中に仕舞いこみ、踵を返した。家に帰ろう。子どもの顔を見てやろう。起きたら歌でも歌ってやろう。歌いすぎて、いつかは喉が裂けるかもしれないが、それでも自分はあの子らのために歌を歌ってやろう。

 かた、と背後で音がしたのは、不意に風が途切れたときである。雪を潰す自分の足跡が聞こえて不審に思ったディーが戸を開けたのだろうと思い、石竹は振り返った。

 一瞬、身体が硬直して転びそうになってしまったのは、目の前に立っていた人間が予想していた人間と違っていたように見えたからだ。改めてよくよく見直してみても、その男は間違いなくディーだった。オングルに男はひとりしかいないのだから、見間違えようがなく、だがやはり、何処か以前のディーとは違って見える。

 月の明るい日である。寒空の下であれば尚のこと、月光を遮る水気が少なく、照らし返す雪はそこら中に広がっているのだから、朗らかな太陽がなくとも眩しいほど。となれば、向かい合っている互いの顔を、その瞳の動きまで見通すのは難しいことではない。

 いちばん違って見えたのは、まさしくその瞳である。彼の瞳は動いていた。石竹の足元から、頭の上へと、ゆっくりと。その視線は腿の辺りや胸元で、何度か止まったように感じた。

 言葉も発せないままに、ふと石竹が思い出したのは、村の中で腹が大きくなった女が目立ち始めたという事実だった。言うまでもなく、父親はディーである。

 その事実について、死の恐怖に怯えていた石竹は、何も口出ししなかった。でなくても、鈴奈と清白の世話で手一杯で、余計な苦労を背負い込みたくなかった。

 苔桃と仲睦まじく結婚生活を送っている中で女たちを孕ませていたのならば、まだしも怒りが湧き、声高に糾弾していたかもしれないが、ディーが村の女たちに手を出し始めたのは苔桃が死んだ後であるという、それは間違いなかった。懐胎した女たちは、妊娠に至った経緯については語らず、また石竹も問わなかったが、医者である石竹は出産予定日を計算する過程で、彼女らが交わった日については推定できた。

 懐胎した女たちは、みな幸せそうに見えた。だから石竹は思っていた。一夫一妻というオングルの常識からは逸してはいるけれども、愛する心そのものは咎められるものではない。ならばそれも良かろうと、互いの合意の上で愛を交し合ったのならば、それもひとつの落とし所なのだろうと。実際、本土では一夫一妻ではない地域もあるらしい。

 だが、だが、今の今まで忘れていたことがひとつある。

 それは己の死の恐怖だ。


 死ぬのは怖い。何もできずに死ぬのは怖いと、石竹は怯えていた。否、今も尚、その恐怖は奥の奥から突き上げるように響いている。ただ今は何もできずに死ぬ恐怖を、子どもたちに何もしてやれずに死ぬ恐怖が上回っているというわけなのだ。

 苔桃の死を契機として、他の女たちもおそらくは同じ恐怖を抱いた。石竹との違いは、すべてを尽くすべき対象が傍らにいなかったことだ。女たちが想いを寄せる相手は、ただひとり。空からやってきた金髪碧眼の筋骨隆々たる偉丈夫、ディーン・ブラックボロしかいなかった。有り体に言えば、皆がディーを好いていた。そして皆が、彼と愛し合った後に死にたいと思っていたことだろう。刹那とはいえ、自分もそう感じたように。

 とはいえオングルの女たちは男を知らない。大胆不敵で人を小馬鹿にしたところがあり、さらには強がりで弱味を見せるところが嫌いな苔桃という一風変わった人間を除けば、みなディーに対しては慕情を抱きつつも、臆病な態度を取っていた。

(それが、急に態度を変えられるわけがない)

 自分は苔桃の死と綿菅の告白に衝撃を受け、昨今溜まっていた育児疲れも手伝って、家を飛び出し、ディーの家まで走ってきた。他の女も気の転換でここまで走ることになったとしても、走っている間に冷静になるはずだ。なぜならば、火照った頭を冷ますほどオングルの冬は冷たいのだ。戸のところで立ち止まるはずで、オングルの女たちがディーに愛を囁けるはずがないのだ。でなくとも、みな初心うぶなのだ。

 ならば、ならば、そう、たとえば今の石竹と同じように、ディーの家までやってきた女がいたとしても、その女は家の前まで来たところで冷静な頭になっただろう。こんなことははしたないことだと、立ち止まったことだろう。まさしく今の石竹と同じように。戸外に誰かが立っていることに気付いてディーが出てきたとしても、女は愛の言葉をを投げかけたりはしなかったはずだ。既に頭は冷たくなっているのだから。だが冷たくなっているのは女のほうだけだ。

 そして、そして……。


 その先は想像する必要はなかった。ディーの太く毛深い隻腕がぐあと伸びてきてきて、襟元を掴んでいた。避けようという努力すらままならないほどの早業であり、男と女の筋肉の差を思わせた。

 襟を掴んだその手はそのままに、着物の合わせを胸元を肌蹴させていた。オングルの冬の夜であるから、着の身着のままとはいえ重ね着をしてはいるものの、肌着から上着まで一度に剥ぎ取られた。雪面ゆえに照り返しの多いオングルでも、衣服に覆われているがために日焼けせずに白いままになっている部分が明らかになり、成長するにつれて同い年の友人に揶揄されるようになった他の女たちよりも豊かな場所さえも露になる。

 それでも、手が滑ったのかもしれない、足が滑ったのかもしれない。心さえが滑らないでいてくれさえすれば、そう思ってやれる。だが目の前で起きる変化を目の当たりにしては、もはや自分を誤魔化すことはできなかった。

 ディーは凍えるような冬だというのに、薄い着物を纏ったきりであり、今はその着物も乱れていた。そして股間の隙間からは雄々しいものが見えており、それは指先に抓めるくらいに可愛らしい清白のものとはまったく違っていた。まるで太った蛇のごとき大きさと形のそれが、下から上へ、心臓が血を送り出すのにあわせて、どくん、どくん、どくん、とゆっくり持ち上がっていくのだ。


 毛深い男の腕に、石竹はがぶと歯を立てた。革のように硬かったが、それでも牙が通らぬというわけではなかった。火箸を当てられたかのように声をあげるディーは、火に怯える獣そのものにしか見えない。

 わずかに力が緩んだ隙を突いて、ディーの腕から抜け出すと、石竹は露になった胸元を隠して駆け出した。

 逃げなくては。

 だが、どこへ?

 足が止まりそうになってしまったのは、いったい誰が自分に味方をしてくれるだろうかと考えてしまったからだった。

 オングルの女たちは、皆、子を孕んだ。その子どもたちの父親はといえば、今まさしく石竹を追いかけている男である。

 ひたすらに駆けながら背後を振り返れば、迫りくるのは大柄な隻腕の男である。露になっている腰元には、まるでそれ自体が意思を持っているかのごとくぶらぶらと揺れる巨大なものがあり、石竹は本能的な恐怖を抱いた。あの男はそそり立つものを隠そうともせずに、まるでその巨大な槍でこちらを速贄はやにえにでもしようとしているのかのように感じられたのだ。


 恐ろしい。恐ろしいが、しかし他の女たちは既に皆、あの男のものを受け入れたのだ。喜んで貫かれたのだ。否、貫かれたそのときは、違ったかもしれない。あるいは今の石竹と同じように、初めは肉食獣のようなあの男から逃げようとし、しかし捕まって犯された結果、価値観を変えられたのかもしれない。しかし経緯がどうあれ、今は村の女たちが自分よりもディーの味方をするであろうことは、間違いなかった。だから、頼れない。

 唯一味方をしてくれそうなのは、石竹と同じく、彼の子を孕んでいない綿菅くらいのものだが、彼女は今、ぐっすり眠っている赤子や撫子とともに石竹の自宅にいる。家に逃げ込み、幼い子どもたちにこんな状況は見せられない。それに男性そのものを嫌っているような綿菅がこんな事態を目にしたら、ディーの股間へと銃を発砲してもおかしくない。

 ディーを受け入れるのは厭だったが、彼のことを暴力で排除したりだとか、ましてや銃を撃つなどというのはもってのほかだった。

 だが逃げる場所がなければ、いったいどうすれば良いというのか。


 そんなふうに考える必要はなかった。何所に逃げようとしても、初めから、この追いかけっこの結果は決まっていた。小柄な女である石竹と、大柄な男であるディーでは、足の速さから歩幅まで、差は歴然としていた。

 だだっ広い雪原の上で、髪を引き掴まれて、石竹は仰向けに倒された。集落の端、枝葉の上に雪を実らせた立ち木がひとつあるだけの、身を隠すものは何もない場所だった。

 やめて、やめてくださいと、そんな言葉は彼の耳には届いていないようだった。組み敷いた女の身体を貪ろうとする彼の様子は、本能の赴くままに餌を食する獣以外の何物でもなかった。

 石竹は獣を追い払うのと同じように、必死で腕を振るった。その手は男の顔に当たり、僅かに怯んだかのように見えたが、今度は逃げ出す隙は生じなかった。男はお返しとでもいうかのように隻腕で握り拳を作ると、石竹の額に向けて叩き付けた。頭を掴んでしまえるほどに大きな手で作られた握り拳である。避けられるはずもなく、恐怖で目を瞑ってしまった石竹は、顔を逸らそうとするのが精一杯だった。

 衝撃は額から身体全体へと伝わり、手足の指が痙攣するように動くのが抑えられなかった。

(怖い)

 ぽろぽろと溢れてきた涙の味は、人が死んだときに流すそれとはまったく違っていた。

 痛みを感じた今となっても、殴られたという事実を信じられないという思いでいっぱいだった。なぜ、なぜディーはこんなに恐ろしいことをするのだ。最初の頃は、こんなではなかった。いや、つい昨日までも、少なくとも食事の際に顔を見る限りでは、こんな暴力を振るうようではなかった。

 生暖かい濡れる感覚があるのは、溢れる涙のせいだけではないだろう。殴られた額が切れて、血が滲んでいるようだった。その血に怯むこともなく、もう一発殴られた。涙と血とが混ざって、首筋まで流れた。それでも必死に腕を振るって抵抗を続けると、遂には隻腕は女の細腕を掴んできた。短い動作で仰向けからうつ伏せへと女の身体を半回転させ、そのすぐ後に力を篭めているのだとわかったときには、既に手首が折られていた。短い悲鳴が漏れた。


 腿引きがずらされ、その太い腿が露になっていた。下着を結ぶ腰紐が千切られた。編んでいた髪が解けて雪の上に流れた。

「やだ………」

 こんなのは厭だ。

 そう思っているというのに、心も身体も折られ、もはや抵抗は適わない。両足はのしかかられているゆえに動かず、逃げられたとしても追いつかれるのは明らかで、それでも残った腕で石竹は必死に雪を掻いた。

 こんなのは厭だ。こんなのは厭だ。

 だがディーのものは無慈悲にも石竹の中に入ってきていた。ご大層に守り続けた貞操というわけではないが、ものが秘所を破ったと同時に、心を砕かれたような気がした。雪を掴んだ指が震えた。


(壊れてしまった)


 ディーの心は壊れてしまった。


 彼がオングルにやってきてから、本土の時間に換算して二年近くの月日が流れた。

 救援の兆候は一切なかった。

 元々、ディーの部隊は決死の覚悟でオングルまでやってきたのだというから、それをさらに助けようとして、二重墜落ということになっては適わないという判断なのだろう。そもそもディーが生存しているということすら認識しておらず、取り残されているのがオングルの住人だけならば、そう焦って助けなくても良いとでも思われているのかもしれない。単純にオングルまでやってくるのに時間がかかるのかもしれない。本土の人間たちは、オングルが外来種の侵略から逃れ続けている理由を知りたいと思っているらしいが、彼らにとっては無敵号のような未知の兵器の存在は想像の枠外にあるものかもしれない。まさかこんな兵器が存在していると思わず、オングル特有の自然現象か何かによって外来種の進行が阻まれていると思っているのかもしれない。外来種を阻むその現象を人為的に形成することが不可能であると考えれば、オングルの秘密を解き明かそうという意欲はなくなり、やはりオングルへの救援は来なくなるだろう。もはや帰れない。ならばこの地で根付くかと思えば、この地で愛した女さえも死んでしまった。

 そうしてディーの心は壊れてしまった。


「うう」

 その声が自分の口から漏れたのか、それともディーの口から発せられたのか、もはや判別もつかない。

 痛みと不快感に堪えながら、ぼろぼろと涙を零しながら、石竹は家で寝息を立てているはずの子どもたちのことを思った。あの子たちが、自分のこんな姿を知ることをなく、安らかであってほしいと思った。

 熱いものが身体を満たす感覚があっても尚、ディーのものはまだ石竹の中に押し込まれたままだった。そのまま何度も、何度もされた。行為が止んだのは、地面が揺れたときだった。外来種がやってきた。

 ディーは素早く石竹から離れるや否や、何一つ声をかけることなしに、無敵号のほうへと走っていた。月明かりの中、ぶらぶらとまだ大きな腰のものを揺らしながら狂気さながらに駆けていくその姿は、悪鬼羅刹そのもののように見えた。

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