第32話 石竹

 一度熱して消毒したのち体温程度にまで冷ました馴鹿の乳を、海豹の内臓で作った哺乳袋に入れて口に含ませる。

 妹、鈴奈のほうは乳首の先に見立てた袋の先を目の前に近づかせただけで吸い付いてくれたのだが、兄、清白のほうはそうはいかなかった。無理矢理に哺乳袋の先を口に含ませようとすれば、感触が厭なのか泣き出し始め、抱いている石竹の胸元を肌蹴させ、無理矢理にでも乳首に吸い付こうとする。


 試行錯誤した結果、最初に乳房を吸わせておいて、落ち着いてきたら哺乳袋も一緒に口に含ませるというやり方になった。時間がかかる上、ほとんど授乳と同じ事をしなければならないので、苦労する。しかも清白のやり方を見て自分も羨ましくなったのか、鈴奈のほうまで真似をして吸い付こうとし始めたのだから、大変だ。

 とはいえ相手は幼い子どもである。ただでさえ栄養豊富な母乳を与えることができないのだから、できる努力を尽くしてやらなければなるまい。そう考えれば、小さな掌で胸を揉みしだかれ、乳首に噛み付かれるくらい、何でもないのだ。

「でも、恥ずかしくないわけじゃないんだからね」

 だからあんまり見ないで、と授乳の様子を観察している綿菅に向かい、石竹は恥ずかしがりつつも声に出した。

 ついと綿菅は目を逸らし、「子どもが元気かどうか見ていたのだ」などと言う。亡き友の遺児が気になるのはわかるが、それならばもっと率先してふたりの世話をしてほしいものだと思う。

 石竹がそう言うと、「おまえが気に入られているんだから、仕方がないだろう。吸いやすいんだろうし」と返される。後半の文言はともかく、確かにそれは事実である。かつて母とともに幼い撫子を育てた経験もさることながら、育てる役目に率先して立候補したこともあり、苔桃のふたりの遺児は石竹と綿菅の家に引き取られた。綿菅は狩りで村を空けることが多いが、石竹は夏に採取を手伝うときを除けば、たいていは村の中にいる。しぜん、赤子の世話をすることが多くなり、好かれるようになってしまった。今ではふたりの子は、まどろみから目覚めて石竹が視界に入らねば泣き出すほどである。


 乳房をどろりとした涎と馴鹿の乳とでびしょびしょにして、ようやくお腹がいっぱいになったふたりの子はすやすやと寝息を立て始めた。頭が冷えぬように、兎の毛を入れた模様違いの防寒頭巾を被せてやり、蕁草イラクサを敷いた編み籠に寝かせ、上から海豹の皮から作った毛布をかけてやる。

 石竹は赤子にかからぬようにと小袋に包んでいた髪を解くと、自分の濡れた乳房を拭いて指についた液体を唇に含んだ。どろりとしたこの馴鹿の乳が、赤子たちの主な食事だ。ほかに果物の絞り汁や雑穀を擂り潰して溶いたもの、野菜の茹で汁も与えているが、栄養面で十分かといえば大きな不安を感じる。やはり赤子には母親の母乳がいちばんなのだが、うんうんと唸ってみても出るものではない。

(離乳食には、まだ早いかな)

 赤子の食事のことが、最近のいちばんの悩みだ。

 生後三ヶ月くらいから離乳食を食べられる子もいるが、生後六ヶ月の苔桃の子らは上手くいかない。鈴奈は食事の努力をしてくれるが、清白は離乳食を近づけると頑として口を開こうとしないのだ。もし離乳食を食べてくれたとしても、それで母乳を飲まなくなるというわけではないのだから、母乳栄養が摂れないという問題は残る。

 苔桃の子は、双子だったせいかもしれない、未熟児だった。ふつうはひとりずつしか産まれてこないところを、一度にふたり産まれたのだから、栄養が足りていなくても仕方がない。いまでも、以前の子どもの記録と比べても、体重が少し軽い。双子の場合は、育つにつれて一人っ子との差が縮まってくるというが、いまだに軽いというのは、母乳を摂取できていないせいではないかと不安で堪らなくなる。


 いまのところ、特段の病気はしていない。栄養さえ取れれば、きっと、とは思うのだが、果たして自分がきちんと子どもの栄養を管理できているか、自信がない。それでも、ほかに方法がない以上は、いまの食事を続けさせるしかない。

(この子たちも、いつかは死ぬのだ)

 ただただ石竹のことを信頼し、あるいは何も考えていないのか、安らかな寝息を立てる赤子の姿を見ながら、ふたりの子の今後の運命を考えると何よりも可哀想になり、涙が溢れてくる。

 今はまだ、死なない。自分が守ってやれるから。ああ、相手が病魔だろうと、寒さだろうと、あらゆる害悪から守ってやる。守れるだけ守ってやる。馴鹿の乳程度しか与えられないが、それでも飢えからも守ってやれる。


 だがいつかは死ぬ。


 生きていれば、いつかは、死ぬ。


 幼い頃に布団の中で打ち震え、母親に相談して泣き出したものの、いつしか克服していたはずの当たり前の自然の摂理。それが涙を溜めるほどに恐ろしくなっていた。

 苔桃でさえ死んだ。このオングルで、愛する男性に巡り合い、子を成し、幸せの只中にいた苔桃でさえ死んだ。死んだのだ。それが切っ掛けで、いつか死ぬという現実、そして死ぬことに対する恐ろしさをまざまざと見せ付けられた。 

 死が恐ろしいと思うのは、どんな場所、どんな生命でも同じなのかもしれない。生が終わってしまう恐怖は、生を繋いで種を残すがために、おそらくすべての生命に共通だ。そんな死の恐ろしさに対しても、生の喜びを、未来への希望を抱き続けば耐えられる。

 だが、だがここには何もないのだ。獣に木々に、土塊に雪。銅の短剣、狼の牙。あるのはそれだけ、生きるための理由、生きるに足る喜び、そんなもの、この冷たく乾いたオングルには存在しやしない。石竹はその現実に、改めて気付いてしまった。何も出来ないまま、死んでいくことしかできない。

「この子たちは、どうなる」

 石竹と同じだ。オングルに根ざし、何処にも行けず、死を恐れるだけの生を紡ぐことになるのか。それではあまりに哀れだ。

 それともディーの行為如何では、そうはならなくなるのだろうか。


 苔桃が死んで、三ヶ月。僅か三ヶ月。

 悪阻や眩暈、不眠といった妊娠初期の症状を訴える女が増えていた。オングルの長くて冷たい冬で、多くの女が胎に子を抱えるようになっていたのだ。現在の集落における男はふたりのみ。幼児である清白が女を犯して子を生せるはずがないので、父親はディー以外には考えられない。


 女たちが子を産み続ければ人が増え、オングルもまた繁栄するだろうか。

「いや、無理だ」

 極寒に闇夜、病、そして騎手としての戦いで人々はどんどん命を落としていく。たとえディーが外来種の侵略からこの地を守ったとして、いつかは産む子の血に彼のものが濃くなりすぎ、遺伝子がおかしくなるだろう。

 何よりこのオングルで生きている限り、何処にも希望はありはしない。ただ、ただ、生きるしかないのだから。

 だというのに、なぜ子を生した女たちは幸せそうに見えるのだろうか。この先にどんな未来もありやしないというのに、ただただ生まれる子どもたちが憐れな人生を生きるしかないというのに

「泣くな」

 綿菅が隣に座り、石竹の目元を指で拭う。なぁ、どうした、と彼女は優しい表情で顔を覗き込んでくる。

 幸せそうに見えるという点では、綿菅も同じだった。ディーに対する嫌悪感は払拭されたようだが、それでも根が男嫌いである彼女がディーと同衾したはずがないが、彼女は日々の生活で恐れや不安を感じている様子がない。狩りという仕事に、人が減ったがために増えた雑務に、代わり映えのしない食事に、あまり手伝わない子育てに一日の終わりに寝台を潜り込むことに、あらゆることに彼女は幸福を感じているように見える。それは、なぜなのだ。

「おまえが好きだからだ」 

 綿菅は顔を近づけ、石竹の唇に接吻をしていた。


 かぁと顔を赤らめるでもなく、さぁと血の気が引いて青くなるでもなく、石竹は綿菅を押し退けると、外に飛び出した。腹の奥から湧いて出たのは嫌悪感ではなかった。

「ずるい」

 苔桃も、綿菅も、好いた相手がいる。その恋心が実るか否かや相手についてはともかく、好いた相手がいる。

「ずるい」

 それが、ずるい。彼女らは、確かな恋心というものを胸かお腹のあたりかに抱いていて、だから死ぬことも怖くない。でなければ死ぬことを想定していない。まさか自分が死ぬなどと思っていない。こんなに幸せなのだから、死ぬなんてことはないと思い込んでいる。

 現実は違い。あんなに幸せそうだった苔桃も死んだ。

 だが、だが、そう、彼女は正しかったのかもしれない。最後の最後まで幸せだったのかもしれない。おそらくは即死だったのだろう、死に顔は安らかなものだった。彼女は最後まで、自身が死ぬことを知らなかったに違いない。このまま永劫の幸せが続くと思っていたに違いない。死などは怖くなかったのだろう。

 ならば彼女は幸せだった。

 綿菅も同じだ。苔桃の死に様を見た今となっては、よもや自分は死ぬまいとまでは思っていないかもしれない。だが、いつ死んでも良いという、心安らかな気持ちでいるのかもしれない。

「だから、ずるい」

 わたしは、わたしは駄目だ。石竹は呟きながら、冬の夜の村の中を駆けた。ただ無為に駆けているようでいて、その足はしぜん、ディーが暮らす家へと向かっていた。


 わたしも、わたしも死にたい。死ねるようになりたい。


 いつか訪れる死を前にして恐れるのは厭だ。何もできないまま死ぬのは厭だ。だからその前に、好いた相手を作り、ありとあらゆる行為を成し遂げて、そして幸せのままに死んでゆきたい。

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