第27話 石竹
ディーの新しい家は、夏の天気の良い日に村の女総動員で、二日がかりで建てられた。
家を作るときは、まず図面を地面に直接描く。その上で材木で桁と梁を組む。穴を掘って、その中に柱を突っ込む。柱の先は又になっていて、この上に組み立てておいた屋根が乗る。骨組みが完成したら、屋根葺きと壁葺きを行い、その上に縫い合わせた獣の皮を被せる。壁の東側に四角く小さな穴を開け、海豹の腸膜を張って窓とする。屋根には囲炉裏から出た煙が抜ける煙突をつける。これで外装の工事は終わりで、ここまでくればもう八割ほどは終わったようなものだ。中に枯れ草や茣蓙を敷き、囲炉裏を作り、家具を入れる。家のすぐ傍に小さな溝を作るのは、雨水が家に染みてこないようにするためだ。倉庫と厠、それに魚などを干すための干し柵を建てたのち、前が見えないほどの猛吹雪になったときのために掴まるための安全綱を引き、これでこうして小さいながらも一通りの設備が整った家が完成したのだ。
家が出来上がると、今度は新築祝いが行われる。これは一種の地鎮祭のようなものなのだが、儀式的なものはひとつだけで、今度もやはり炉に火を入れる。完成した囲炉裏に、家主であるディー自身の手によって、火が灯されれば、あとは呑んで歌って踊るだけだ。
ディーの周りには多数の女が集っていたが、石竹はそこからだいぶん離れたところに座って酒を呑んでいた。傍らでは綿菅が二胡を弓弾いていて、それが酒によく合って心地良かった。『
しばらくして、ディーの膝の上に座っていた撫子が走り寄って来て、ちょっと来てくれ、などと言い出した。何かあったのかと思えば、ディーが料理に関して質問があるということであった。どうやら、料理について質問されたものの、みな答えられなかったらしい。それはそうだろう。血抜きや解体は手伝ってもらったりもしたが、料理そのものは石竹がほとんどひとりで作ったのだから。
「これはなんですか?」とくすんだ色の刺身の乗った皿のひとつを指してディーが尋ねる。
「鮭の
氷頭というのは魚の鼻から額にかけての軟骨部分だ。独特の触感があり、美味い。しかし撫子や歳若い女たちには不評で、あまり減っていない。酒の肴にちょうど良いと思うのだが。
「これは?」と次にディーは椀に盛られた飯を指す。
「
米は貴重だ。この飯には稲黍が一に対し、米も一入っている。さらに煮た豆と塩を加えて炊いたものだ。このときは米の収穫時期の前だったので、前の夏に採れて貯めておいたものを用いた。米の収穫量は少ないものの、こうした祭りに備えて備蓄してあるものなのだ。
「これは?」とディーは
「
「なんの?」
「栗鼠です、栗鼠」聞き取り難かっただろうかと、石竹ははっきりと発音してやる。栗鼠は、撫子が読み聞かせていた本に載っていたはずなので、ディーも知っているはずだ。「胆嚢とかを取り除いた栗鼠を丸ごと叩いたやつです。栗鼠、お嫌いですか?」
「いや、栗鼠は好きですが………」
それは良かった。以前から栗鼠は料理として出しており、そのときもディーは美味しそうに食べていた記憶があったので、きっと栗鼠は好みの味なのだろう。
これまで料理の紹介を受けては箸をつけ、美味いと言ってくれていたディーであったが、ここに来て箸が止まった。何か問題があっただろうか。少し考えて、食べ方を説明する。といっても、難しい食べ方があるわけではなく、栗鼠のたたきをそのまま食べても良いし、辛味のある姫座禅草と一緒に口に含んでも美味いということだけだ。
決心したようにディーはようやく栗鼠のたたきに箸をつけた。まずたたきだけを。次に姫座禅草と一緒に。美味しいです、と言ってくれた。嘘を吐いている表情ではない。
その後も、ディーはあれやこれや料理について質問をした。本土育ちのディーにとっては、オングルの何もかもが珍しいのだろう。彼がひとりで暮らすようになってからは疎遠になっていたが、それ以前はよく料理や道具についての質問を受けていた。綿菅の狩りに同行すると、狩りの獲物や狩猟道具について矢のように質問を浴びせかけてくるというから、単に物珍しく感じているだけではなく、いま暮らしているこの場所のことを、文化を知り、吸収しようとしているのかもしれない。
ディーと石竹が料理に関して質疑応答を繰り広げている間、ディーの周りに集まっていた女たちも、感心した様子で話を聞いていた。それを見ると、石竹は自分が死んだあとのことが心配になった。幾ら分業にしたほうが効率が良いとはいえ、料理のひとつも知らないのでは生活が不安だ。葉薊などは料理を習おうとする姿勢もあったが、最近ではあまり熱心ではない。
「石竹さんが飲んでいるそれは、なんですか?」
「あ、これは稗酒です。
炊いた稗を同量の
「止めたほうが良いですよ」と女のひとりがディーに囁いた。若い
それでも子どものように好奇心旺盛なディーのこと、きっと呑むだろうと思って骨作りの杯に稗酒を注いでやると、恐る恐るという様子で口をつけた。海色の瞳が動いたのは、酒に舌に触れた瞬間だろうか。
ディーが杯を下ろすと、半分ほどが喉元を既に通り抜けていた。その口から出てきたのは「美味しいです」という変わり映えのない言葉ではあったが、表情からその言葉が嘘でないことが読み取れた。
思わず石竹が笑みが毀したのは、ディーが稗酒を呑んでくれたからだけではない。日頃、本土からの持ち物である軍の寒冷地用の制服を着ていることが多い彼であるが、祭りの今日ばかりは着物を着ていた。石竹が以前に刺繍をしたものだ。健康でありますように、怪我をしませんように、病気になりませんように、平和でありますように。そんな願いを篭めて織り込んだ刺繍だ。それを着てくれるのが、嬉しい。よく似合っていると思う。
「ディー、これっ、これっ」
と元気良く言ったのは、いつの間にかディーの膝から降りていた撫子である。彼女は雪を盛った皿を盛っている。雪の上には、平たく伸ばした紅色の菓子が載っている。どうやら好物を見つけ出してきたらしい。
「これ、美味しいよ」と言って、彼女は自分で菓子を抓む。
「これは?」
「
「苔桃?」
とディーが吃驚した表情になった理由は解る。気象観測を生業としている苔桃が作ったのだと思ったのだろう。彼女は料理などしそうにもないから驚いたのかもしれない。最近では、カシムの炊事場に顔をよく出してはいるが、あくまで石竹と喋ることが目的らしく、料理の様子を眺めたり、調理方法について尋ねてくることはあるが、手伝うことなど一切ない。
「果物の苔桃だよ」
と撫子が訂正してくれた。ディーが、ああ、と納得して頷く。果物の苔桃は、採取の手伝いで見ることもあるし、洗っただけの状態で食卓の皿に登ることもあるのだから、わかるはずだ。
撫子の取ってきた皿に乗っていたのは氷菓は、鮭の皮と海豹の脂を煮詰めたものに潰した苔桃を加え、冷やして固めたものだ。保存用に冬場に取っておいた雪を使った。
そういえば、苔桃はどこに行ったのだろう、とふと石竹は周囲を見回した。彼女は若い女たちと同様に、ディーの傍にいることが多い。いや、違うのは、少女らがディーのもとに集う一方で、苔桃の場合はディーが寄ってくることが多いということか。彼は色々なことに興味を持ち、質問を投げかけてくるが、オングルで最も興味がある対象は、料理でも裁縫でも狩りでもなく、無敵号らしい。無敵号に最も親しんでいるのは苔桃だ。祝い事も好む苔桃は、いったい何処へ行ってしまったのか。
そう思って探してみると、ちょうど苔桃が家の中に戻ってきた。顔色が悪く、何かあったのかと尋ねてみると、「げろ吐いちゃった」と弱々しく笑った。
このときはまだ、苔桃の懐胎のことを知らなかった。
だから、小柄で酒に強くない彼女が、久しぶりの祝い事の席で飲みすぎてしまったのだろう、と軽く考えていた。今にして思えば、あれは
その建築祝いも季節一巡り前の夏の暑い日のこと。いまも夏だが、あれから六ヶ月が経った。過ぎ去った日々は雪に埋もれた。同じように見える風景でも、家の傍に植えられた落葉樹の葉は新しくなっている。石で舗装された用水路を流れる水は海を辿ったものだ。干し台にある鮭も、季節一巡り前のものとはまったく違う。
オングルの女の服は腰に紐を巻く構造になっている。端に菱形の留め具のついた紐は下着を留めるためだ。
隻腕のディーは、如何にして苔桃の衣服を結ぶ帯を解いたのだろうか。愛撫をするに不便ではなかったのだろうか。いまは苔桃も妊娠しているから、夜の睦み事は控えているのだろうか。石竹は、いまや倉庫ではない、ディーの家の前に立って、思いを廻らせた。
「なんか、気持ち悪いな」
石竹は暗がりの中で情事を想像する己に気付き、われながら厭になった。
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