第26話 綿菅
二胡を弓弾けば、いつでも幼い頃の石竹を思い出すことができる。
二胡という楽器は、本土からやってきたディーによれば、「何処かで見たような覚えはあるが、名前までは知らない。バイオリンだとかヴィオラだとかいう名前の楽器に似ているが、それよりもっと弦が少なく、演奏方法が違う。たぶん、東方の」楽器だそうなので、あまりメジャーになっていない民族楽器なのかもしれない。
綿菅にとって、この楽器が本土のどういう場所で奏でられてきたのか、どんな歴史があるのかは重要ではない。大事なのは、この二胡がオングルに現存する数少ない楽器のうちのひとつだということだ。
オングルで音楽は貴重だ。楽器を作ったり、機械を修理したりするための知識がないからだ。音楽を生み出す代表的なものといえば、手回し蓄音機だが、再生し続ければ針は短くなるし円盤は磨り減る。電気を使って音を奏でる形式の蓄音機は使えない。かつてオングルに移り住んだ人間が持ってきた、昔ながらの手と指と唇とで奏でる楽器は、その多くが戦火で焼かれたり、外来種の襲撃から逃れる移民の際に失われてしまったりした。かろうじて破損を免れたものでも、長期の使用には耐え切れずに壊れてしまったり、また物理的損傷はなくとも弦や弓といった消耗品が切れてしまい、使用できなくなってしまったものがほとんどだった。
だから、綿菅の二胡はまさしく貴重な一品だった。元はといえば綿菅の父が持っていたものを、綿菅が勝手に持ち出したのだ。彼はおそらく自分では奏でられぬ楽器を宝物として扱っていたのだろう。入れっぱなしで出す様子が無かったのはまさしく宝箱で、おかげで勝手に持ち出しても、それが発覚するまでには時間がかかった。
たびたび楽器を持ち出しては、人目を忍んで練習したものだ。だんだんと、どうやって奏でれば良いのか、どんなふうに指を押さえ、どんなふうに腕を引けばどの音が鳴るのかわかってきた頃、綿菅は石竹に出会った。声をかけてきてくれたのは石竹だった。
「凄いね」
星のように目を輝かせてくれた。
「綺麗だね」
単純な賛辞で胸が躍った。
大嫌いな父親の下で、鬱屈とした日々を送っていた綿菅に声をかけてくれたのは、石竹と彼女の母だけだったのだ。
弦が切れたのもそれと同時期、石竹と出会った頃だ。弦が切れたまさにそのときは、石竹の前で演奏してみせていたときで、切れた瞬間に、彼女がまるで世界が終わってしまったかのような悲しそうな表情になったのをよく覚えている。
弦は、楽器にとってはまさしく生命線だ。
弦が初めて切れたあの日、死とは何なのかを知った。
死とは、つまりは可愛い女の子が声をあげて泣くことだ。ぷつりと切れた途端に、大きな瞳に涙を溜めて、可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、まるで火が点いたように泣き出してしまうのだ。
だから、駄目だ。死ぬのは良くないことだ、と、そうして悟った。
同時に、泣き止ませるにはどうすれば良いのか、ということを考えた。替えの弦が必要だった。いや、弦だけではない。弓も切れるし、塗る松脂も減っていく。鼓に張られた皮も、だんだんと劣化していく。交換部品か代替品が必要だということは、子どもの頭でもわかった。
綿菅は石竹と協力し、楽器の交換部品となる物を探した。張り皮は、元は蛇の皮が使われていたらしく、蛇を探したものの、その皮は子どもの手には容易には扱えそうになく、また大人たちも獣の皮は扱えても、蛇の皮の扱いは知らなかった。代用品をいろいろと検証してみて、海豹の皮を使うことができた。音はまったく変わってしまったが、元より正しい音を追求しているわけではないので問題はない。弓に塗る松脂はオングルの松から取れるものが使えた。弓の弦は冬の雄馴鹿の長毛を束ねたもので代用が利いた。問題は肝心要の弦であった。化学繊維で作られていた弦に相当する糸はなかなか見つからず、動物の腸を加工してみたり、毛をより合わせてみたりしたが、最終的には最終的には馴鹿の脚の腱が弦になった。
こうして、長らく保管されるだけであった二胡は、綿菅と石竹の努力の甲斐あって、息を吹き返したというわけだ。元の音色と違うのだから、生まれ変わった、というべきかもしれない。
父が死に、自由になってからは、しかし楽器を奏でて暮らすというわけにはいかなかった。当時は最強といわれた無敵号の騎手がいなくなった時代で、数多くの人が弦が切れるように死んだ。
弦は切れたら替えがある。人間も同じで、死んでも替えがある。当時は無敵号の騎手となる男手は数多く存在していた。だから大丈夫、とはいかない。弦と同じく、人間には限りがある。
それに、泣くのだ。
石竹が、やはり泣くのだ。誰かが死ぬたびに。だから、駄目だ。
人間、人一人死んだところで大した変化はない。それでも駄目なのは、死んだ瞬間、切れたそのときが悲しいからだ。目の前で泣かれるのが厭だからだ。思い返してみれば、石竹はよく泣いた。人が死ぬたびに泣いた。一華が死んだときも、泣いた。いちばん年上だというのに、死に際して泣くことなど恥じることではないというように、涙を流して泣いたものだ。
いま、手元に二胡はなく、傍らには耳を澄まし、ときに歌を口ずさんでくれる石竹も居ない。代わりに両の手に握られているのは冷たい鉄の塊だ。
「暑いな………」
集落から馴鹿で東に一時間。岩だらけの磯で、綿菅は呟いた。
オングルの女たちは、みな夏を好む。明るいからだ。暖かいからだ。
しかし綿菅は夏が嫌いだ。暑いし、汗をかくし、周りに生物が多すぎるわりにはみなが活発に動き回るがために狩りがしにくい。冬の冷気や吹雪は危険といえば危険ではあるが、もし吹雪で死ぬとすれば、それは獣に襲われて死ぬよりかは快いのではないかと思う。
綿菅の仕事は、オングルの他の女たちと比べると少し特殊だ。
基本的に仕事というものは、週の前半である日中の昼間に行われる。それは綿菅も同じだ。どんな仕事でも、明るいうちにやったほうが効率が良いからだ。もちろん週の後半、夜間の間にも、完全に休んでいるわけではなく、たとえば医者である石竹なら、少なくとも朝は毎日料理をしなくてはならないし、気象と地表の観測を行う苔桃の場合は毎日の機器の保全が不可欠だ。
しかしそれら一般的な仕事は、多少の変化はあれど、基本的にはルーチンワークだ、などと言ったら、きっと石竹には、「毎日のメニューを考えるのは大変なんだからね」などと叱られてしまうだろう。しかし同じ道具を使って同じ場所で、同じ時間帯に料理をする、というのは同じだ。だが綿菅の場合は、季節と時間帯によって異なる道具を使い、異なる場所で行動しなければいけない。
冬は楽だ。なぜならば冬は狩りの対象が海豹や企鵝など、人間に対してほとんど警戒心を抱いていない阿呆どもばかりだからだ。銃を抱えて忍び寄る綿菅に気付いても、ただ鳴き声をあげて転がりまわるだけの彼らは愛くるしく、引き金を引いて痛みを与えるのには躊躇してしまうが、しかし死を与えるのは一瞬で済む。幼いときに抱いた、死とは弦が切れるようなものだという考えは今も変わらない。切れた瞬間は侘しく、悲しい。その弦はそれで終わりだからだ。だが代わりはある。その代替品はいつかはなくなるかもしれないしし、代替品を付け替えるまでの時間は不便だが、死そのものはそれほど怖くはない。むしろ死に至るまでの過程が恐ろしい。弦がいつ切れるかわからないときは、触れるのも怖い。急に切れて、弦が眼球や口内に突き刺さるかもしれず、そのときを想像するのは恐ろしいが、いつの間にか切れている場合は、ただ駄目になったものをぽいと捨てて、新しいものに付け替えれば良いだけだからだ。
冬は良い。冬ならば、海豹はいつも集落から少し南下したところにいる。気温が如何に低くても、身体を動かせるのならばそれで血は温まる。澄み切った空の中、汗を掻かぬようにゆっくりと身体を動かすことの、なんと気持ちの良いことか。狩った獲物を持って帰れば、肉も脂も皮も取れるため、皆に感謝される。だから冬は嬉しい。
夏の間に狩れる獲物で喜ばれるものというと、熊だろうか。だが狩るのが大変だ。肉質は海豹のそれとは大きく違うとはいえ、取れる肉の量はそんなに変わらないのに、狩猟の大変さは段違いなのだから、なかなか狩る気にはならない。心配性の石竹にも、熊狩りなんて危ない真似はやめろと止められている。おかげで数で稼がなくてはならない。
引き金を引く。
先込め式の小銃から飛んでいく弾丸を眺めながら思い出すのは、かつて綿菅に狩りを教えてくれた人物の言葉である。
「鳥さんにとってはね、人間の矢だとか銃の弾だとかはとても珍しいんだ。だから鳥さんに見えるように弾を撃ってあげると、それを取ろうとして近づくんだよ」
鳥が矢だの銃弾を持ち帰ってどうするというのだ、だいたいこんな真っ黒な丸いだけの鉄の塊が、何が珍しいというのか。この話を聞いた当時は子ども心にそんなふうに思ったものだ。今にして思い返してみれば、飛んでいる鳥に銃弾を当てるためには、獲物が現在いる位置ではなく、その進行方向を狙って撃たなければいけないということ、いわゆる見越し射撃を説明しようとしていたのだろう。
しかし理屈がわかったとしても、実践することは難しい。あれから何年も経ったが、未だに飛ぶ鳥を落とすほどの腕前は身についておらず、狙えるのは枝を止まり木にして休んでいたり、餌をつついている鳥だけだ。
まさしく狙っていたのは、海岸の岩肌の上で魚を啄ばんでいた鷺である。丸い胴を撃ち抜かれて、血を吐いて倒れる。鳥の表情に関しては詳しくないが、鉄の弾を得たことで喜んでいる様子は感じられなかった。
(子どもが産まれるんだから、熊くらい狩ってやりたいものだが)
海水に濡れ、滑りやすくなっている岩の上を慎重に渡って鳥を回収しながら、近い未来のことに思いを馳せる。
昔、男性が女性と同じくらいいた頃は、熊を狩ることは神聖な儀式であり、その肉や爪、毛皮は貴重品とされていた。特に子どもが産まれたときに熊が狩られたときには、その熊の魂と力強さが赤ん坊に宿ったということで、吉兆とされていた。今更そんな縁起を担ぐというわけではないが、きっと熊の爪で作ったお守りでも作って持っていってやれば、苔桃は喜ぶだろう。それに、そう、石竹も喜ぶかもしれない。喜ばないかも。
子どもが産まれるのは久しぶりだ。オングルで今、もっとも若いのは六歳の撫子だが、彼女はかつて開拓地を探すために集落を出奔した家族の子で、綿菅たちの集落での生まれではない。撫子を抜かすと、三ヶ月前までは十四歳の一華が最年少だった。彼女の同世代や、それより少し遅く産まれ、その後に戦災や病で死んでしまった子もいたはずだが、その辺り、十数年前が最後に子どもが産まれた時代である。
正直なところを吐露すれば、不安ばかりだ。子育てに関してはまだ良い。十数年前とは違い、最近では外来種との戦いも安定してきており、無敵号の敗北に伴って環境の厳しい南へ逃げなければならないということはほとんどないため、赤子に気候の変化による負担をかけなくて済む。幼児を育てることそれ自体に不安はなくもないが、石竹ならまだ乳飲み子だった撫子の子育てを経験したこともあるので、彼女の助言があればなんとかなるだろう。
大きな山となるのは出産だが、これについては子どもの頃に立ち会わさせられたことがある。だから、具体的にどうすれば良いのかは知っている。手順を記した覚書もある。十数年前の出産当時は、ただその場で見ていただけだったが。いや、綿菅の場合は見るだけのこともできなくて、目を掌で覆ってしまい、立ち尽くしていただけだ。
どちらも、いちおうの経験がある。だが怖い。
赤子に触れるのが怖いのは、触れればすぐに死んでしまいそうだからではない。赤ん坊というのは、骨が入っていないのかと疑うほどに柔らかくて、少し力の入れ方を間違えたり、取り落としてしまえば、頭から落ちて砕けてしまうような弱い存在だ。だが怖いのは、それだけではないのだ。
生まれたばかりの赤ん坊というのは、なんとなく生きているのではないような感じがするのだ。起きているときはただ泣き喚くばかりで理性的ではないし、眠っているときといえば死んでいるときとあまり変わらない。すぐに死んでしまうというのは、ほとんど死すれすれで生きているからだ。生きているものが死ぬのは、ただ弦が切れるのと同じことだとみなせても、まだ生きていないものを生きているものにするのは大変だ。弦を新たに作り直す行為に等しい。
幼き綿菅は、石竹と一緒になって貴重な昔の本をいろいろと読み漁り、二胡のような弦楽器の類には、昔は
生きていないものを生きているものにすることは、生きられるようにすることは大変だ。育てることも。責任が重く、失敗したときの心の痛みは大きい。だから出産は怖い。
過去に出産に実際に立ち会ったことがあるのは、年長組であるところの綿菅と石竹、それに苔桃だけなのだが、苔桃は出産の当事者である。本人は「やばそうだったらアドバイスくらいはするよ」と言っていたが、よもや陣痛で喘いでいる当事者が手順を指示できるはずがない。頼りになるのは石竹だけだ。
問題は、だから、石竹なのだ。
彼女は、まだ苔桃が妊娠したという事実を知らない。いや、綿菅も、懐胎については半信半疑だ。まだ目に見えて腹が大きくなったというわけではないのだ。だが苔桃当人によれば、間違いないとのことである。そしてそのことは、彼女と同居している綿菅にしか伝えられていないのだ。
石竹が妊娠のことを知ったら、どう思うのだろうか。どんな行動に出るのだろうか。彼女はディーについて、きちんと食べているだろうかだとか、薮蚊に食われていないだろうかだとか、幼子を心配するようなことしか言わない。だから、どんな反応をするのかが解らない。知るのが怖くて、綿菅はここのところ、石竹を事実から遠ざけようと尽力している。
オングルには、いまや男はひとりしかいないのだから、恋の話に昇り、女を孕ませる人物はひとりしかいない。その人物、ディーは持参の黒い手斧を口に咥え、海から出てきた。肩に身の厚い
昆布は出汁を採れるので、陽が延びて気温が上がってくると、医者の石竹が「そろそろ昆布を採りに行ったほうが良いかも」などとしばしば零すようになる。彼女にとっては、味に深みを持たせる、他の何にも替え難い重要な食材なのだ。
昆布を採る方法としては他に、舟に乗って鉤棒を伸ばして絡め獲ったり、時化の後の晴れた日に浜辺に打ち揚げられているのを採ったりすることもあるが、巣潜りで採るのがもっとも効率が良い。どんな方法にしても、昆布を乾燥させるために晴れていることが重要だ。
今日から三日は苔桃に晴天の太鼓判を押してもらった日だ。身重にはなったものの、特に行動に支障が出るほどではなく、周囲に懐胎のことを隠しているので、相変わらず予報業務を続けている。
「昆布採り、ディーさんが手伝うんでしょ? ちょっと心配だね。薄着の男女がふたりきりになるわけだから」
などと苔桃は笑って言っていたが、あながち冗談とも言えない。
海に潜るときの綿菅の格好は、草織りの薄い羽織にやはり薄い腰巻の磯着で、脚は露出しているし、濡れると布地が肌に張り付くため、慎ましやかな格好とは言い難い。しかし実際に漁に出てみて気になったのは、己の格好よりはディーの姿それであった。
彼の体格に合う磯着というものはなく、急に作れるものでもなかった。そもそも男はといえば、かつては漁のときは、上半身裸になり、下着だけで潜っていた。ディーもそれに倣ったというわけではなかろうが、ほぼ似たような姿だった。
見られることよりも見ることのほうが恥ずかしく感じるのは、ディーはあまりこちらのほうを見ていないという気がするからだろう。自分は違う。水を滴らせる均整の取れた肉体に見惚れてしまっている。男を厭うていたはずの綿菅でさえも、彼の身体には惹きつけられた。
これで良いのですか、というディーの言葉に対する反応が遅れた。
「ああ、そう、そうだ。ちゃんと採れたか」
ディーには昆布の群生場所と刈り取り方だけを教えて、ひとりで潜ってもらった。泳ぎは得意で、たぶん片腕でも問題がないという自称もあり、任せたのだ。
「偉いな」
と言葉を続けかけそうになったが、適当ではないような気がして止める。まるで幼い撫子を褒めてやっているようではないか。しかしディーは綿菅よりは年下ということで、表現はおかしくないような気もするのだが、やはり気安い言葉は掛け辛く、結局褒め言葉はそれ以上に続かなかった。ディーには、昆布は海に浸けた籠の中に入れておくように言う。海の中にあったものなので、すぐに乾燥させるのでなければ、海水に浸けておくのがいちばん良い。
ディーが海に戻って更に昆布を刈り取ってくる間、綿菅は仕掛けておいた釣竿を回収する。仕掛けは多くの針を持つサビキ仕掛けだ。回収してみると、鰯用の仕掛けに鰈も掛かっていた。これらも海に浸けた籠の中に入れる。
途中、岩の上で昼食をとる。
午後も漁を続ける。綿菅も海に潜って、昆布や貝を採り、十分量が確保できたところで帰り支度を始めた。濡れた磯着から着替えて、ようやく人心地ついた気分である。
馴鹿に乗り、海に流れ込む川に沿うように帰路に着く。川幅は細く、一、二メートルほど。川の周辺には、所々に木立ちがある以外には、夏でもほとんど高い木々が無く、冬と同様に視界が開けている。
ぽつりぽつりと存在する木立ちに立ち寄り、仕掛けた罠の様子を見る。
「これは?」
と冬場の狩りのときと同様に、ディーはよくよくオングルの道具に興味を示した。今回彼が疑問を抱いたのは、道に突き立てられた何本もの杭と、その先にある縄と棒とが繋がった罠であった。
「輪縄だ」
「わなわ?」
「罠だ」と言ってから、これでは間違いなく伝わらないだろうと気付き、言い直す。「動物を獲るために置いてあるものだ」
輪縄は獣道に仕掛ける罠だ。少し手はかかるものの、輪の大きさと仕掛ける位置次第で様々な種類の獲物が獲れることと、生け捕りにできるのが特徴だ。仕掛けるためには、まず獣道を狭くするために、一部を除いて狭い間隔で棒を突き刺し、獣が通る道を制限する。その傍に長い棒を突き刺しておき、撓らせた状態で近くの樹に固定し、そこから片側を輪にした縄を垂らす。これでこの縄に気付かずに輪を潜り抜けようとすると、撓らせた状態で樹に固定していた棒が外れ、縄が締まる。どんな動物であれ、首が絞まると遮二無二前に逃げようとするが、そうするとさらに首が絞まり、逃げられなくなるというわけだ。
板に棒や縄を固定し、餌で誘き寄せる形式の輪縄もあり、たまに可愛らしい鳥がかかっていることもあるそういうときは、撫子に持っていってやる。しばらく遊ばせてやってから、森に逃がす。もしくは石竹のところに持っていき、擂り鉢でごりごりと擂り潰して団子になる。
「これは、兎ですか?」
とディーが尋ねる通り、今回罠に掛かっていたのは
説明してやると、成る程、とディーは興味深そうに頷いた。
「飼うわけではないんですか?」
「なんで、飼う」
「いや、生け捕りにしているので……」
とだいぶん達者になった言葉で、いまや逃げられぬように脚を吊られた状態の角兎に視線を向ける。本土では食うために獣を殺すという工程を一般人が行うことはないらしく、海豹や馴鹿の狩りへ出かけていった折にも当初は抵抗を覚えていた様子のディーである。ましてや相手が小さな生き物であると思うと憐憫の情が湧き上がるのかもしれない。
「殺したら血抜きしないと腐りやすくなる。血抜きしたらしたで、血が料理に使えない。だからだ」
と説明してやる。果実、野草、そして血は、食事に彩を加えるソースを作るための大切な材料なのである。
そんなやり取りを交わしながら、綿菅の頭の中では思考が渦巻いていた。
「おまえは苔桃と結婚するつもりがあるのか」
彼に訊きたいのは、まずそれだ。もちろん、孕ませたのだから、そのつもりがなくては困る。きっと首肯してくれるはずだろうと予想はできる。
「苔桃とは合意の上の関係なのか」
でなければ問題だろうし、苔桃の態度からはそう考えて間違いなかろう。
「苔桃の何所が気に入ったのか」
そんなことを訊くのは野暮だ。確かに彼女は小柄で凹凸のない身体つきのため性的魅力に欠け、尊大で、人をおちょくる傾向にあるような気もするが、人には好みというものがある。
訊きたいことは幾らでもあるが、やはりほとんどが返答が予想できる質問ばかりである。
「故郷に残してきたという恋人というのはどうするのか」
彼がやってきてから、僅か三ヶ月しか経っていない。本土から半年の航海を経ているとはいえ、合わせても一年に満たぬような期間である。それなのに、恋人のことは忘れてしまったというのか。
これは訊きたくはない質問で、しかし答えが予想できない質問でもある。恋人の存在は、これまでは石竹が彼の持ち物である首飾りの写真から予想しているだけであり、ディーの口からその存在を示唆されたことは、この三ヶ月間でもなかった。
だが今日、綿菅はその存在を確認した。海で服を脱いだときに、彼の首には首飾りが掛かっていた。濡れぬようにと、彼は海に潜る直前にその首飾りを外して、服の上に置いたのだ。綿菅は首飾りを開いて見た。やはり石竹の言っていた通り、女の写真があった。オングルで育った綿菅でも、美しいと感じる女性であった。この女が、ディーが故郷に残してきた恋人か。
「苔桃を本当に愛しているのか?」
本土の恋人の存在を確認したいま、訊きたいのはこれだ。そして返答が予想できないのもこれだ。ディーは正直な男だ。軽々しく、そうだ、などと頷いたりはしないだろう。
だが、だがそれはそれで良かろうとも思うのだ。悩むなら、悩むなりに真摯に向かってくれているのだから。
綿菅はディーに対してよりも、むしろ苔桃に対して問いを投げかけたかった。
「なぜおまえが、あの男と関係を持っているのだ」
これが石竹なら、わかる。ああ、理解ができる。理解できる、というのは、そうなっていてもおかしくないということで、歓迎すべきことであるというわけではない。だが石竹なら、ありえるのだ。もともと最初の頃に看病していたこともあり、石竹とディーは親しかった。
「少し、かっこいいな、素敵だな、って思っただけなの」
べつに好きだとか、そういうわけじゃないの、と石竹はそんなふうに言ってはいたが、そういうものを恋というのではないのだろうか。
一方で苔桃も、ディーを嫌っていたわけではなかったと思う。というより、そもそもディーに悪感情を持っていた女は、綿菅を除いてはいなかったのだが。
しかし彼女がディーに向ける感情は、憧れだとか恋だとか、そういったものではなく、むしろディーの存在を愉快がっていて、ディーとオングルの女をどうにかして恋愛させようとでも画策していたように思う。それなのに、いつの間に彼を愛するようになったのだろう。
「あいつを本当に愛しているのか?」
ディーに対する問いかけと同じ問いかけを、苔桃にしたかった。だが、できなかった。
かつてオングルには守護神がいた。無敵号の騎手を誰よりも長く勤めたその男は、苔桃が「おじいちゃん」と呼ぶ彼女の伯父であった。そして彼が死ぬ原因を作ったのは、綿菅だった。彼は父親に虐待されている綿菅を救おうとして、殺された。
あの日以来、綿菅と苔桃の間には、見えぬ亀裂、触れられぬ溝が形成された。平時は気安く付き合えても、何処か立ち入れぬ部位ができた。
苔桃が何を考えているのか、綿菅には解らない。ただ最近は、とみに幸せそうに見える。
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