第25話 石竹
馴鹿に乗って集落に戻ったが、男が戦いに赴いている安心感に包まれており、落ち着いたものであった。石竹はそのまま集会場の炊事場に向かい、夕餉の準備の前に、保存食作りに取り掛かる。
代表的な保存食といえば、干し肉やペミカンで、これは比較的作るのは容易なのだが、量が増えると楽ではない。ペミカンというのは動物の脂に砕いた肉を加え、さらに小さな木の実や果物を混ぜて固めたものだ。ほとんどの獲物は、獲れたその日に食べるのでなければ、冬に備えて保存食にする。肉を擂り鉢で潰し、木の実と一緒に脂を煮立てた中に加える。そして木造りの型に流し込む。単なる干し肉より栄養価が高いので、特に冬場に外に出なければならない人間には重宝する。
野菜や木の実から作られる保存食は、特に重要だ。夏の間に作っておかなければ、冬に食べるものが狩りで獲れる海豹や企鵝ばかりになってしまうからだ。肉ばかりだと栄養が偏るし、似たような味ばかりになって、食事の楽しみが失われる。食事は毎日の楽しみだ。石竹も、そうなってくれれば良いと思って始終苦心している。果物は干したり、ソースを作ったりする。野草は湯掻いてから干したり、漬け物にする。薬となる植物は擂り潰したり、乾燥させたりして保存する。すべてのものは有用であるが、そのままでは使えないのだ。そのため、食べ切れず、使い切れないほどには採らない。
今日採ってきたばかりの
大姥百合はそのまま刻んで洗い、干してから粥に入れて食べることもあるが、大部分は澱粉を作るために使われる。まず水で百合の根を洗い、泥を流す。それから根の白い部分から二、三センチメートルほど上で切り離す。髭根も切り離す。そうして僅かに青い部分が付いた根の部分を樽の中に入れて、潰す。潰すのには重石の付いた棒を使うのだが、これがけっこうに力仕事で、苦労する。粘り気が出るまで潰したら水を張る。ここまで来たら、ほとんどの行程は終わったようなものだ。あとは一、二日放置しておいて、繊維と澱粉が分れるのを待つ。
保存食作りのほうがひと段落したところで、ようやく夕餉の準備に取り掛かれる。保存食を作りながら、既に今日何を作るかは決まっている。保存食にしなかったものが、今日の食事の材料だ。夏は比較的食材が潤沢なので、嬉しい。
細かな味付けだの盛り付けだのを考えながら、保存食作りための甕だの塩壷だのを片付けていたときに集会場を訪ねて来た者があった。昼過ぎから一緒に野草や木の実の採取をしていた葉薊である。
彼女がおずおずと、気恥ずかしげな様子で口に出したのは、「あの、お手伝いしましょうか」という言葉であった。
「そう? じゃあお芋でも剥いてもらおうかな」
「えっと、そういうのじゃなくて、もっとお料理っぽいことを………」
もじもじと両の手の指を絡ませながら出てくるのは、そんな台詞である。いったい何を考えているのか、と尋ねるところでは、料理ができる女になりたい、ということであった。
「本土では、料理ができる女性がもてるそうじゃないですか」
「刺繍も大事だよ」
「刺繍だとか裁縫なんかは、本土だともうやらないそうですよ。全部、機械か、専門の仕事に就いている人がやるんだ、ってディーさんが言っていました。子どもの頃は、刺繍が綺麗な子が結婚できる、とか言われてましたけど、騙されたなぁ」
べつに騙したわけではなく、それがオングルの文化なのだ、ここは本土ではないのだから、本土の文化にはかぶれるな、とは石竹は言わなかった。葉薊の気持ちがよく理解できたからだ。
葉薊は、ディーに恋しているのだろう。他の多くのオングルの女たちと同様に。思春期の間、彼女の傍には男が居なかった。その後に急に現れた、これまで見たこともない、物語になぞられるような逞しい姿の男だ。恋に落ちぬほうがおかしい。
彼女は本土の話を幾つかした。文化、生活、風土、すべてディーからの伝聞なのだろう。聞いた話は、昔語りや書物を通して本土の知識を得ていた石竹の知り得る範囲内のことばかりであったが、いちいち相槌を打ってやった。
ようは葉薊は、ディーに惚れてもらいたいと思っているのだろう。そのための手段として、料理を用いようとしているのだ。
(まぁ、料理に積極的なのは悪いことじゃない)
歳は石竹のほうが八つ上で、それだけ石竹が早く死ぬ可能性は大きい。死ななくとも、石竹が病や怪我で料理ができなくなる可能性もあるだろう。いまのところ、石竹以外の女たちが作れるのは簡単な保存食だけなのだから、いざというときに備えて料理ができる人間を育てておくのは悪いことではない。動機がなんであれ。
「じゃあ簡単なのからやろうか」
と言って、今日、綿菅が森で狩ってきたばかりの雷鳥を用意させる。腐敗を防ぐため、既に血抜きは終わっているそれの身体から、大きい羽根を抜かせる。羽根の用途はそう多くはないが、布団に詰めたり、矢羽に用いたりする。
少しばかり小さくなった雷鳥の身体を割いて、腹の中に今日採ってきたばかりの新鮮な野草を詰める。そしてやはり今日採ってきた粘土で包ませる。
「皮を剥いだりだとか、そういうことはしないんですか? 粘土で包むだけ?」
「しないよ。そういう料理」
「料理というか、なんかお鍋とかお皿を作ってるみたいな………」
「こういう料理。蒸し焼きはこれがいちばん美味しくできるんだよ。どこも出るところがないように粘土で覆ってね」
ぶつぶつ文句を言いながらも、葉薊は雷鳥を粘土で包み終えた。竈に薪を入れさせ、火をつける。そしてその上に岩を敷く。粘土で包んだ雷鳥を乗せて、焼き上げる。
「焼きあがったら、完成」
石竹は固まった粘土を手槌で割った。中から良い香りとともに、狐色に焼き上がった雷鳥が姿を現す。
「なんか、ほんとに簡単過ぎるような………」
と葉薊は納得できないような表情であるが、「最初はこんなもんだよ」と返してやる。口で指導をしながら、石竹は主菜以外のご飯物や汁物を作り上げてしまった。
「焼き上がりは、どうやって決めるんですか?」と文句は言いつつも、葉薊は研究熱心である。
「火の強さと鳥の大きさから適当に判断しようね。だいたい、三十分から一時間くらいかな」
「そんな、いいかげんな……」
と葉薊は嘆くが、実際そうなのだから、仕方がない。いいかげんというよりは、経験的手法であると言って欲しいものだ。
夕餉の準備をしている間に戦闘は終わり、ディーは戻ってきた。今日も快勝だったようだ。折角、葉薊が初めて雷鳥を料理したわけだし、自分も腕によりをかけたので、ディーに食べて欲しいと思ったのだが、彼は帰ってくるなり疲弊のためか、自分の棲家に戻って寝こけてしまった。
「きちんとした家も建ててあげないとなぁ………」
女たちがみな夕餉を食べ終えても、ディーは起きてこなかった。石竹は夜になってから、夕餉の残しておいた分を持ってディーの家を目指した。彼の寝床は、未だ材木用の高床倉庫なのだが、夏の盛りであるいまは、その倉庫を本来の用途に使わなくてはならない。となると、彼のために新たに家を建てねばならぬ。
「戻ってきても、良いのだけれど」
人が増えるはずもないのだから、石竹の家の寝床は、未だひとつが空いている。戻ってくれば撫子も喜ぶだろうに。
小石が敷き詰められた道を歩きながら、石竹はそう呟く。冬とはうって変わり、左右に芝や丈の短い木々に巻きつく蔓植物を備えている。
石竹の家に住まうというのは、他の女たちが許すはずがない。今日の葉薊の様子を見てそれとわかるように、ほとんどの女たち、特に歳若い少女たちは、ディーに執心だ。
ディーのほうは、果たしてどう思っているのだろう。彼がオングルにやって来てから、三ヶ月が流れた。冬の間は狩猟を手伝っていた彼は、陽の出ている時間が長くなってからは、採取だの獲れた作物の加工だのを手伝うようになった。彼は初めて見るオングルの道具に目を輝かせ、興味深そうに色々と質問をし、実践しようとした。隻腕ではあったが、彼の力は役に立った。木材を切るのにも、黍を叩いて実を取るにも、肉を柔らかくするために叩くにも、男の力を感じた。
僅か三ヶ月とはいえ、彼にとっては長い三ヶ月だっただろう。慣れぬ土地だ、慣れぬ文化だ、知らぬ言葉だ。何より、石竹にとっては当たり前のことだが、本土の二倍の速度で流れる季節は忙しなかっただろう。
彼はよく働いたが、一方で鬱々と何かを書き付ける様子もしばしば見受けられた。どうやら数少ない所持品である便箋に書き物をしているらしい。手紙だろう。届かぬ手紙を本土の恋人に書いているのだ、と、確信に近いものを持って、石竹はそう思った。彼の心の中には、やはり恋人の姿があるのだ。
週の四日目、夏の夜である。空は鮮やかな朱色に染まっていた。
本土の空も、夕方や明け方になると赤く染まるらしい。空の色が同じなのは、空を構成している物質が似ていて、恒星と空の関係がまた似ているからだ。
本土でも、この辺境のオングルでも、同じだ。
違うのは、こちらのほうがゆっくりと時間が流れているということ。六日ある一週間のうちの半分が昼で、半分が夜という偏った時間の流れ。それは二十五時間の体内時計に制御されている人間には長すぎるほど。昼の間は遮光を怠れば一日の終わりにも眠ることさえ難しいほど眩しく、逆に週の後半の夜は明かりなしに歩くにはあまりに暗すぎる。おまけにその遅すぎる時間は週の前半と後半での気温の較差を大きくさせ、特に夜のときは凍傷や雪害などで生きていくことも困難になるほどだ。
だが遅すぎる時間の流れは、悪いことばかりではない。
歩いている間に、太陽がすっぽり隠れてしまっていた地平線の上方からその上方に向けて、鮮やかに色を変える。太陽から直接届く光は見えなくなっても、大気だのその中を漂う微粒子だのにぶつかった光が、その経路によって僅かに色を変えながら、地表にまで届くために起きる現象だ。空気が多い場所を通ってきた光は赤くなる。空気は地表面近くに積もっているのが、高いところへ行けば光を遮る空気が少なくなるので、高い場所で跳ね返る光は青くなり、地平線間際は赤や橙の色で光る。鮮やかなグラデーションが作られる。
薄明。東雲。黄昏。そして
本土では明け方の前と夕陽が沈んだ直後の僅かな時間にしか出会えぬという、さまざまな名を持つこの空が好きだ。それは単に地平線から天空へと色が移り変わっていくのが美しいからというだけの理由だけではない。薄明を作り出している微粒子というのは、巻き上げられた土埃だとか、飛び散った波飛沫だとか、花粉だとか、いろいろなものだがあるが、どれも普通は目に見えないものだ。そうした瑣末な存在たちが、この薄明の時間帯は、ただそこにあるだけで、こんなにも美しい光景を作り出す。そんな事実がとても好きなのだ。
気分良く歩いていれば、音楽も聞こえ始めて、自然と鼻歌も洩れてくる。
音が流れてくる元は、並ぶ高床倉庫の近くにある、幹の太い広葉樹の影からである。石竹が足音を殺して近寄ると、木の陰には予想通りに胡弓を奏でる綿菅がいた。小さな太鼓からにょっきり竿が伸びており、竿の先から太鼓へ張られた二本の弦を、弓で弾くという形式の、
やがて音が徐々に弱くなり、こんな言葉が投げかけられてきた。
「そんなところに突っ立っていて、どうした」
こちらを見ずにそんなふうに言うからには、今気付いたというわけではなく、演奏中に石竹の気配に気付いたのかもしれない。
石竹は歩み寄り、向かいに座る。「集中してるみたいだったから、邪魔しちゃ悪いかな、って思ったの」
「いてもいなくても気にならん」
「冷たいなぁ」
弦の張り具合を見ていた綿菅だったが、ようやく顔を上げて視線を石竹が携えてきた皿に向ける。「なんだ、それ。夜食か」
「綿菅のじゃないよ。ディーさんの」ご飯食べてないから、お腹減ってるだろうと思って。もう起きただろうし、と石竹は説明してやった。
「今から持っていくのか」
「そりゃ、そうだよ」
「後にしたらどうだ」
「どうして?」
石竹は首を傾げて問いを投げかけたが、綿菅は視線を二胡に戻して「今はやめたほうが良いからだ」と答えるだけだった。
理由になってないよ、と言葉に仕掛けたが、しかし綿菅の言葉は予想しうるあらゆる返答の中で最も納得しやすいものだ、と考えて踏み止まる。なぜなら、石竹がディーのところに夕餉を届けに行くのを押し留めるに納得しうる理由などないからだ。少なくとも石竹には、その理由が思いつかない。
ならば綿菅が石竹をこの場に留めようとする理由は、石竹には予想のつかないような理由なのだろう。やめたほうが良いから、という理由は、だから想定しうる解答の中では、最も納得できるものだ。
わかったよ、と石竹は頷いて返してやった。「でも、ご飯、どうしようかな」
「わたしが後で持っていってやる」
「なんで綿菅は良いの?」
「良いとかじゃなくて、あとで持っていくなら良いってこと」
「じゃあ、わたしがあとで持っていくよ」
「あとって、いつだよ」
「あとって、いつ?」
「わからんから、わたしがあとで持ってくって言ってるんだ」
呆れたように、しかしあくまで視線を二胡に固定して応じようとする綿菅の顔を、しっかと両手で掴んで石竹は自分の目と向き合わせた。
「綿菅、ディーさんのこと好きなの? だから自分で持って行きたいの?」
この問いかけは、われながらまるで苔桃のようだな、とやはり親友であるところの女のことを思い浮かべる。いまやオングルで最年長の世代となってしまった女たちである。ずっと心を通い合わせていたというわけではなく、喧嘩をすることもあり、仲違いもあった。それでも親友と呼べる程度に縁が続いているのは、何のことはない、他に同世代の者がいないからだ。昔はいないではなかったが、皆、死んでしまった。
そんなわけあるか、と綿菅は鼻を鳴らして応じる。「それを訊きたいのはこっちのほうだ」
「わたしは、べつに、違うよ」
先に視線を逸らしたのは石竹のほうになってしまった。わかった、わかったよ、と皿を綿菅の傍に置く。「できれば、冷めないうちに持っていってあげてね、あとは、雷鳥の包み焼きは葉薊さんが作ったんだからね」と言い添える。
綿菅がもう少し演奏していくと言うので、その場で演奏を聞いた。曲に合わせて歌った。まるで少女時代のようだった。
それから完全に空が完全に真っ暗になる前に、石竹は家路についた。帰り道は綿菅に送ってもらった。
綿菅と同じ家に住んでいる苔桃が妊娠したという事実を知ったのは、それからずっとあとのことだった。
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