第28話 石竹

(苔桃は、おじさんのことが好きなんだと思ってたな)

 集会場の調理場で煮炊きをしながら、石竹は友のことに思いを馳せた。

 昔から、苔桃は何かにつけて、無敵号の騎手であった伯父のことが好きだと言っていた。まだ男女の性差を知らぬような幼い頃も、同い年の少女たちが同年代の少年に恋をし始めた頃も、そして伯父が死んだあとも。彼より素敵な男性はいないから、きっと自分は恋なんてしないだろう、なんてことを幼いときには声を大にして言っていたくらいだ。

 だから、ディーを射止めたのが苔桃だというのには意外だった。触れていくにつれ、彼の良いところが見えてきたのかもしれない。


 そんなことを考えながら、午前に捕れたばかりの木霊鼠コダマネズミ蝦夷栗鼠エゾリスの皮を剥ぎ、内臓を取ってから、鉈で叩く。骨が砕けて柔らかになったら、山菜と澱粉でんぷんを混ぜて、小さな団子にする。朝作った汁物に混ぜて、つみれ団子になる。

 さて主菜はどうするべきか、狩りに行った綿菅が戻ってきて獲物を確認してからにするべきか、それとも午前中に採れた獲物の中から適当に作るか。なんにしろ汁物に肉を入れたから、主菜は魚にしたほうが良いだろうか、などと考えている折、厨房に入ってくる者がいた。大きいお腹を抱えた苔桃である。

 つい先ほどまで彼女のことを、勝手な想像を交えて考えていただけに、石竹は反応に戸惑った。が、こちらの頭の中を知らぬ苔桃のほうはといえば片手を挙げ、にこにこと気安い口調で声をかけてくる。

「お仕事中?」

 見ての通りだ、と石竹はつみれ団子を作ったばかりであまり綺麗とはいえない両手を広げてみせた。「何か食べたいものでもあった?」

 言葉にしてから、どうにも不自然な言葉だと自分自身で感じた。何か食べたいものでもあるのか、というのは、つまりは石竹の仕事に関連することだ。仕事に関連する用事がなければ訪ねてきてはいけないようで、友にかける言葉ではない。

「串焼きがいいかな」

「綿菅、今日は海に行ったけど……」

「今日は地面が暖かくて、鳥が水際で狩りをしてるから、綿ちゃん、魚よりも鳥のほうを採ってくるんじゃないかな」と歌うように苔桃は言う。勝手なことを言っているように聞こえるが、彼女の気象観測とそれに基づく予報、さらには天候に関連した行動予測はよく当たる。綿菅は銛や網を使った漁よりも、弓や銃を用いた狩りのほうを好むため、確かに魚漁よりは鳥撃ちでもしているかもしれない。ならば串焼きも悪くない。


 今日の献立が決まったところで、作り始める。串焼きだったら綿菅に解体してもらえば、串に刺して焼くだけなので、味付けだけを考えれば良い。保存甕を開き、味噌や脂を混ぜて何種類かタレを作る。夏場は樹から採取する樹液で甘みをつけやすいので、単純な料理でもいろいろな味わいが楽しめるのが良い。

 味を見ながら調味料や香草を混ぜたり煮詰めたりしていくだけなのだが、それも見られていると思うと居心地が良くない。苔桃が小柄な身体をかめのひとつに乗せ、にこにこしながら石竹が働く様を見ている。

「暇なの?」

「暇だなー」

 と苔桃は甕の上から足をぶらぶらとさせる


 苔桃の仕事はオングルの気象観測とその観測機器の保全だ。だが大きくなったお腹を抱えて集落中を走り回るのは大変だろうということで、今は気象観測は撫子に手伝ってもらい、データ値だけ読んできてもらっているため、あまり動かなくて良い。計算のほうはディーの所持品のうち、幾つかの機械が限定的ながら機能を取り戻したということで、それを借りて計算が効率よく行えるようになったらしい。

 そういった理由で、今の苔桃は暇を持て余しているというわけだ。お腹の中の子どものことを考えると、忙しいよりは良かろう。まだ生きているとはいえないような、苔桃の腹の中の子は、母親の体調変化で簡単に死んでしまったりするかもしれないのだ。

 暇を潰すためか、苔桃はいろいろと喋りかけてきた。ほとんどが過去の、子どもの頃の話で、最近のことは話題に昇ることはなかった。石竹はほとんど相槌を打つだけで、彼女が喋るがままに任せた。

 無敵号の腕の上で昼寝をしていたらずり落ちて足を折っただとか、ランの実だと思って食べたら毒性のある植物の実で、口が痺れて丸一日碌々口が利けなくなってしまったことだとか、そんな他愛もない馬鹿話ばかりだった。


 自分のほうでも何か語りかけてみようかと、そんなふうに思ったときに、また厨房に入ってくる者があった。どっさり野草や木の実などが詰まった編み籠を抱えて入ってきたのは、採取に行っていた葉薊である。

 夕餉のための材料を持ってきてくれたのだから、礼の言葉をかけようと思ったが、葉薊が苔桃に向けた視線がために、声がすぐには出なかった。視線の色は明らかに冷たく、それを受け止める苔桃はといえば、いつもは豪放磊落なはずの彼女が、怯えたようにすぐさま顔を伏せるほどだった。

 葉薊の目はすぐに苔桃から石竹へと移されたが、苔桃の怯えた表情はすぐには戻らなかった。「じゃあ、わたし、行くね」と彼女は身を強張らせたまま甕から降りると、厨房を出て行ってしまった。

 いつまでも苔桃が出て行った戸を見つめてはいられないので、ひとまず採集を終えてきた葉薊を労う。その後に、何か彼女に苦言でも呈そうかとでも思ったが、葉薊の表情を見ると言葉が出なくなる。彼女の表情は気まずさを思わせるそれで、彼女も彼女で自分の行いを反省しているであろうことは間違いなかった。編み籠を置くと、葉薊も逃げるように厨房を出て行ってしまう。

 最近の葉薊と苔桃の仲は良くないらしい。

 いや、葉薊とだけではないだろう。幼いときから親友だった石竹と碌々話もできなかったくらいである。ディーと過ごす時間が多くなったぶん、女たちと過ごす時間が減ったからか、あるいは他の女からの嫉妬ゆえか。

 薊には棘があるものだ。


 石竹も同じかもしれない。嫉妬。嫉妬だろう。嫉妬がある。抱えてしまっている。苔桃に対して。ディーを射止めた苔桃に対して、嫉妬を。ああ、認める。認めなければいけない。

 幼い頃に好きになった少年相手のように、ゆっくりと恋心を育てたわけではない。ただ、その場にいたから。目の前にいた唯一の男性だから、好きになった。いや、好きになたという段階に達してはいないかもしれない。ただひとりの男に惹かれるのは単なる本能だ。それだけだ。みんな、そうだろう。いや、彼の優しさに触れて、あるいは青い瞳に見据えられて、好きになったという女もいるかもしれない。だが、すぐ近くにいるというだけでも十分だった。惹かれるのが本能なら、嫉妬もまたそうだろう。

 石竹は葉薊の置いていった編み籠の中を掻き回す。山牛蒡ヤマゴボウ行者大蒜ギョウジャニンニクに紛れてふと目に留まったのは、血のような真っ赤な膨らみをつけた野草、高麗天南星コウライテンナンショウであった。根は食用に使えるが、赤い膨らみには毒がある。子どもの頃に、食べられる蘭の種と間違えてこの実を食べた苔桃が、毒にやられて口を痺れさせたものだ。勿論、採取を生業としている葉薊はそのことを解っているから、根の部分だけを採ってきている。

 あの頃は石竹ともどもこっぴどく怒られて一日休めばなんとか快復したが、今、これを食べたら、母体である苔桃の身体は休めば治る程度でも、腹の中の赤子はそうはいかないかもしれない。


 苔桃の腹の子を殺そうと思えば、簡単に殺せる。


 石竹は、少し前までそこに居た苔桃のことを思い出す。彼女は甕の上で俯き、足を揺らし、手で己の腹を撫でていた。赤子のいる、膨らんだ腹を。

 今の苔桃は、弱い。そして彼女の周りの人間は、苔桃がただひとりディーの寵愛を受けることになってしまったから、良い感情を抱いていない。ここのところ苔桃のことを避けていたせいもあって、石竹はそれに気付いていなかった。

 本来なら、ディーが苔桃のことを守ってやらなければいけないはずだ。女は男が守るものだ。だがディーは無敵号を駆って外来種を打ち払うことはできても、苔桃の敵を追い払うことはできない。相手も女だからか。あるいは未だ本土に残してきた恋人に未練があるのか。

 理由がなんであれ、ならば男の代わりに苔桃とその赤子を自分が守ってやらなければと、ふと石竹の中に湧き上がってきたその感情は、友情だとか恨み辛みだとか、そんなものを越えていて、だからこれもただ種の本能のように感じた。

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