第21話 石竹

 発条ゼンマイ式の蓄音機が使用される機会は少ない。

 皆、音楽が嫌いだというわけではない。音の漏れを気にするほどに戒厳令を敷いているわけでもない。発条と針が消耗品で、どちらも現在のオングルでは製造が適わないからだ。

 電池や内蔵発電機といった電気を使って動く機械のほとんどは、交換部品がなく、現在では使われていない。発条式蓄音機はしかし、かつてのオングルの住人の中に好事家がいたため、交換部品が十分に蓄えられていた。それでも貴重な消耗品であるから、大切に大切にと使おうとするため、しぜん特別な日でなければ発条は巻かれない。代表的な使用状況は冠婚葬祭で、正月やクリスマス、オングル開拓記念日や、冬至などだ。

 きりりと蓄音機の発条を巻くときは、なんだか人の命というものが紐状で、その命を巻きつけてから解放することで、人生に記録された音楽が奏でられるのだという気がする。最後の命の灯火で、だからこそ美しい。そんなふうに感じるようになったのは、石竹の世代が蓄音機の音楽を耳にする機会が最も多いのが葬式のときだったせいかもしれない。


 無敵号最強の騎手が死んでからというもの、人死には毎日のようにあった。戦いの最中で死亡する騎手。騎手を失い敵を見失った無敵号に乗り込もうとして踏み潰される男。劣勢のままに村に攻め込まれ踏み潰され、弾丸の嵐に全身を分断される女。南へ南へと逃げる中で衰弱して死亡してしまう赤子。

 どんな辛いときでも、死者が出たときには葬式を行った。それはこの何処よりも冷たい世界で生きてきた命が、次に来世へ転生するのか、それとも天国に相当する場所へと行くのかはわからないが、せめてもう少し暖かい場所へ、という願いがあったため。そして、未だこの冷たい世界で生きなくてはならない己を慰めるため。

 そうして執り行われた葬式の回数は、他のすべての記念日を合わせた回数よりもずっと多かった。だから蓄音機から奏でられる音楽といえば、葬式だという連想が働くようになった。


 今日もその連想は間違ってはいなかった。


 オングル南緯四十三度の集落から僅かに西にある共同墓地では穴が掘り進められていた。墓地とはいっても、雪原にぽつりぽつりと膝丈の墓石が立てられているだけの、簡素なものに過ぎない。柵で囲われてさえいない、ただ平たいだけのその場所が、死者が眠る場所だ。

 視線を幼い妹、撫子に向ければ、彼女は両の手で蓄音機を握ったまま、震えていた。もう死というものを知り、恐れられる年齢になったのだろうか。母が死んだときは、まだその意味を理解できていなかった。

 スコップで穴を掘って死体袋に収めた死体を埋め、故人が生前に身に着けていたものを埋葬品として添え、土を戻し、最後に墓の目印となるような縦長の石を立てる。それだけだ。オングルには本土のような凝り固まった宗教はないため、葬式の流儀は特にはなく、とりあえず死体を埋められれば良いのだが、それだけでは味気ないため、式の間は音楽をかけておく。

 共同墓地は利便性と衛生面を考え、集落から遠からず、近からずの場所である。距離で場所を選ぶと、土の状態まで考慮するほどの余裕はなくなる。掘り進める土はそう軟らかくはない。石竹はスコップを地に突き立てていたディーに、交換すると申し出た。

 ディーは首を振った。

「でも………」

「彼女と」ディーはひたすらに足元の地面を見つめ、腕を止めずに顎をしゃくって隣で同じく穴を掘っている綿菅を示した。「交換してあげてください」

 彼の重い表情に気圧され、石竹は頷いて言うとおりにした。綿菅は無言で、石竹にスコップを預けた。


 あまり得手とはいえない肉体労働に従事しながら、ちらと石竹はディーへ視線を向けた。暗い表情のまま、まるで身体を動かすことで心を無にしようとしているよう。ひたすら地にスコップを突きたて続けていれば、全身汗だくだった。他の女たちは交代しながら掘り進めているというのに、ディーだけが隻腕で交代せずに掘り続けているのだから、当然だろう。冬の終わりとはいえ、週の二日目の晩であるので陽は昇っており、立っているだけならちょうど良いくらいの気候なのだが、肉体労働をするとなると、その暖かさが全身に纏わりつくように感じる。石竹の場合など、まだ五分と作業をしていないというのに、すぐに汗が噴き出して衣服がぴったり身体に張り付き、手が止まってしまう。毛皮で作られた冬用のパーカーやコートは、汗を吸い取ってくれない。

 ちらと背後を伺えば、疲れ果てた女たちに囲まれるようにして、袋に入った遺体がある。今回の死体は、無敵号の騎手として戦っている最中に死んだにしては、腕も千切れていなかったし、脚もちゃんとついており、損傷が少なかった。喉元の穴を見なければ、安らかに眠っているように見えないでもない。

 不意に視界が滲んだが、石竹は慌てて目元を拭い、涙を隠して作業に戻る。


 一華が死んだ。


 十四歳。まだ幼い撫子を除けば、集落の中で最も歳若い少女だった。初めての騎手を務め、初めての戦いの中、発射された敵の弾丸の、僅か一発を喉元に食らって死した。

 難しい戦いではなかった。敵は単なる偵察だったのか、偵察機と思しのウサギ型が僅かに三機で、巨大な砲塔を有する海豹アザラシ型も、機動性の高い多脚を有する鹿シカ型もいなかった。落ち着いて戦えば、負けはしない相手で、敵と接近した状態にあった無敵号は、騎手の死亡によって視覚を失いつつも、何とか手探りで敵を撃退することに成功したほどだった。

 男を失ったオングルでは、十四の齢を越えた者は、皆戦っている。いつかは戦わなければならない。そう考えれば、今回の戦いは、緒戦の肩慣らしとしてはこれ以上を望めぬほどの好条件であったといえる。確かに結果としてみれば、騎手死亡ということになってしまったが、それは運が悪かっただけだ。石竹の場合は、緒戦から海豹型三機に水陸両用戦車である川獺カワウソ型四機に加え、さらには十を越える兎型という、生き残れたのが信じられないほどの大部隊が相手だった。それに比べれば、ましだ。ましだったのだ。ただ、ただ、運が悪かっただけで。

 石竹はまた涙が溢れてくるのを感じたが、今度は手を止めずに袖で拭った。

 先程は、一華の死が悲しく、恐ろしくて涙が溢れてきたが、今度の涙は彼女の死そのものが引き起こしたものではなかった。いちいち言い訳をしている自分がいやらしいと感じ、情けなかったのだ。

「わたしのせいだ」

 そんな悔恨は言葉にさえならない。


 ディーはひたすらに穴を掘っている。一華の死に対し、彼も己に責任があると思っているのだ。彼は前日、一華に約束していたらしい。戦うのが厭なら、自分が戦ってやると。もう怖がる必要はないのだと。そう言ってやったらしい。その翌日に、一華は死んだ。守れなかった。戦ってやると言っておきながら、村を留守にしていた。狩りに出かけていた。

 先程までスコップを手にしていた綿菅は、今は穴から少し離れた場所で石に腰掛けて休んでいる。彼女の表情もディーに負けず劣らずに意気消沈しているのは、一華の死の一端になったかもしれぬという自覚があるからだろう。

 しかし元はといえば、ディーを狩りに行くよう勧めたのは、連れ出してくれと綿菅に頼んだのは、石竹だ。彼らが責任を押し付けるべきは、自分自身ではなく、むしろ石竹なのだ。

 だがたとえ石竹が綿菅に何も頼まず、ディーが集落に留まっていたとして、それで何か変わっただろうか。外来種の襲来に気付き、無敵号が出撃するときになって、ディーが無敵号に乗りたいなどと言い出したとしても、石竹らが全員で止めただろう。女たちを全員退けて、無理矢理に騎手になったとしても、それでどうなったというのか。一華ではなく、ディーが死んでいたかもしれない。ディーが無事に勝利したとして、その後はどうなる。他の女たちの分も、ディーは戦ってくれるというのか。石竹の分も、戦ってくれるというのか。そして、その後は? いったいいつまで戦ってくれる? いつまで生きていてくれる?


 男性であるディーは、肉体的にオングルの女たちよりも頑強だ。銃弾で撃ち抜かれても死なないというほどではなかろうが、たとえば戦闘機動にある無敵号から放り出されたときの生存率では、女と比べれば少しは高いかもしれない。

 しかしだからとて、永久に戦い続けられるわけではない。岩のように、銅のように、氷のように硬いわけではないのだから、流れ弾ひとつで命を絶たれてしまう。戦いを続けていれば、いつかは、負ける。死ぬ。そうなったら、どうなる。残された女たちは、どうなる。男に戦いを任せきりで、女は戦えなくなってしまう。皆が戦えなくなり、そうして終わりだ。

 男がいなくなってからというもの、オングルの女たちはリスクを分散させてきた。誰かひとりに騎手を務めさせた場合のリスクは、英雄と呼ばれた苔桃の伯父の死によって学習された。ディーだけに騎手を務めさせることは、かつての再現になるだけだ。

 だからディーだけに騎手をさせるべきではないのだ。させるべきではないのだ。その通りにしたのだ。

 そんな言い訳が、いくつもいくつも湧き上がってきて、それで、情けなかった。一華の死体を前にして、言い訳をし続けているという事実が、いっそう悲しかった。


 穴が出来上がったときには、もう腕が上がらないほどに疲弊していた。雪が溶けてきたとはいえ、動物に掘り返されない程度に十分に掘り進めるのは苦労した。指の腹も節々も、足の指の先さえも痛い。

 そして一華の死体を埋める段階になったときである。振動が足元を襲った。

 地震波の観測手である苔桃が地震波の観測装置に走ったが、敵の襲来があったこと自体は、彼女の言葉を聞くまでもなかった。問題は、距離と、おおよその数。

 先程感じた振動は、いつもの地震より遥かに大きかった。通常の規模の敵部隊が赤道付近に降り立ったのであれば、ここまで地を揺るがすことはない。こうまで大きな振動波が押し寄せてきたということは、敵の部隊が大規模であるか、でなければ、南緯三〇度付近にではなく、この村により近い場所に落下してきたということだ。

「たぶん、ここから五十キロくらい北のあたり」

 と苔桃が計算尺と距離表を使って計算する。五十キロメートルということは、南緯三五度あたりということか。

(今まで南緯三十度から南に落ちてきたことなんてなかったのに………)

 外来種は頑強だ。剛健だ。その力強さゆえにかもしれない、外来種は宇宙空間を真っ直ぐに飛ぶことしかできやしない。人類のように、大気がなくとも船体を自由にコントロールする術を持たないのだ。だから、外来種がやってくる方向は、外来種が占領している惑星が存在している方向からと限られている。それは北側、つまりオングルにとっては北極側の方向だ。外来種の惑星の分布には幅があり、また自転軸が公転軸に対して傾いているものの、これまで外来種に支配されていた惑星とオングルとを繋ごうとすると、南緯三〇度以南には到達できなかったのだ。

 それが、変わった。

 外来種の航宙技術が進歩したのだとは思えなかった。戦争が始まって百年、その間の外来種の戦い方はほとんど変化がないという。だからそれよりは、外来種が根付いた惑星、外来種の勢力圏が広まったと考えてしかるべきだろう。

 ここも、いつまでもつだろうか。石竹はそんなことを考えた。

 無敵号は無敵だ。罅割れた瞳を除けば、無敵号はこれまで傷一つついたことがない。だが人間はそうではなく、死んでいっている。戦える人間がいなくなれば、無敵号も戦えなくなる。敵を追えないし、海に突き落とされたら、きっと上がってはこれないだろう。それで、終わりだ。外来種に惑星は支配される。もしくは人類の手によって、これ以上外来種の勢力圏が広がらぬように、惑星ごと破壊されてしまうだろう。

 戦わなくてはならない。勝たなくてはならない。勝ち続けなくてはならない。

(乗らなくちゃ………)

 自分が騎手にならなくては。


 現在の状況に気付いた石竹は、駆け出した。まだ一華が死んでから日にちを跨いでいない。この日の騎手担当である一華が死んだゆえ、騎手の座は空いている。当番の騎手がいないのだ。

 誰もいないのならば、自分が、いちばん年上の自分が女たちを守ってやらなくてはいけない。自分が、一華を死に追いやったのだから。誰もが戦わなくてはいけないのだから、だから自分が率先して戦ってみせなければならない。

「死ぬかもしれない」

 ふと、そんな思いが湧き上がってくるのを感じた。生きるか死ぬかという状況は日常茶飯事であるが、今日の感慨はいつものそれと違った。オングルの住人であり、何より無敵号の騎手である以上、常に死と隣り合わせなのは仕方のないことだ。

 だがどんなに悪い状況でも、努力をすれば道は開ける。光明が射す。母親はそう言っていたし、少なくとも石竹は、それを信じてきた。その道というのが茨の道であり、光明というのが目を焼く光であったとしても、努力次第で先が変わると思えば、頑張れた。

 今は、頑張れる気がしなかった。疲れていた。人の死の原因を作ったのが自分だというのが悲しかった。保身ばかり考える自分が厭だった。もうなるようになれという、達観の気持ちが心の裡で渦巻いていた。誰かに助けて欲しかった。


 それでも前に向かって走らねばならなかった石竹の肩を、ぐいと引くものがあった。

「ディーさん………」

 眼前が曇る。涙があふれ出てくるのを、今度は堪え切れなかった。

 彼が助けてくれる。これからは彼が代わりに戦ってくれる。  

 そんな安堵がせり出てくるのを感じたというのに、石竹はディーの服の裾を掴んでしまった。待って、行かないで、と言ってしまった。

 だって、でないと死んでしまうのだ。男は弱くて小さくて、勝手に戦って、勝手に死んでいってしまうのだ。死なせたくないのだ。

 守ってくれなくても良い。生きていてくれれば良い。だというのに、どうして戦いに赴こうとするのか。

「おれは、あなたたちを守るために来たんです」

 ディーが立ち止まったのは一瞬だった。大きな掌で石竹の手を包み込むと、優しく指を剥がして走っていってしまった。巨躯のディーと小柄な石竹では、走る速度はあまりにも違いすぎた。ディーはすぐに見えなくなり、そして集落の方向から振動が響いた。集落の南部の小高い山、無敵号が安置されている壁の穴から無敵号が飛び出してきた。彼がついに、無敵号に乗り込んでしまったのだ。ディーを乗せた無敵号はすぐさま北へ向かって駆け出し始めた。

 あとは出陣する無敵号を、呆然と見守るしかなかった。

 無敵号は戦いに際しては、どんな騎手であろうと拒まない。ただ敵を弓指してくれるのならば、なんであろうと疑わない。無敵号が立ち上がる。ディーを乗せて立ち上がる。女ではなく、久しぶりに、戦いに赴く戦士を乗せて。


「大丈夫なのかな」

「きっと、大丈夫だよ」

「だって、男の人だもの」

 若い女たちの囁き合いが聞こえる。彼女らは、ディーならば負けるはずがないと、きっと勝ってくれるのだと、そう心から信じている。

 彼は空から降ってきた。本土の価値観に照らし合わせれば、それは黄金が降ってくるようなものだった。オングルの医者である石竹の価値観でいえば、本か調理器具が落ちてきたようなものか。予期せぬ幸運だ。予想だにしないもので、だからこそ無条件にその性能を信じている。

 だがディーはそんなに強くない。彼は、乗ってきた船を破壊され、腕を切断しなければ生き延びれなかった。オングルの極寒で、死に掛けていた。馴鹿が彼を拾わなければ、石竹が適切に治療しなければ、それ以前に、墜落したときの立ち位置が少しでも違っていれば、その時点で壊れてしまっていた命だったのだ。何度殴ろうと、殴られようと壊れぬ無敵号のように硬くはない。見かけほど硬くはなくて、想像ほどに大きくなくて、そんな弱い生き物なのだということを、石竹は幼い日々の経験を通して、そして男の身肌を直に見て知っている。


 石竹は集落に向かって走った。

 馴鹿小屋へと向かいかけ、足を止め、方向を変える。馴鹿では、駄目だ。無理矢理に急かせれば、無敵号よりも速く走れるだろう。だが長時間は持たない。無敵号に追いつく前にへばってしまうだろうし、何より馴鹿から無敵号には乗り移れない。馴鹿よりももっと速く、もっと強く、もっと頑強で、もっと巨大なものに乗らなければいけない。

 それを満たすものは、ただひとつ。陽を浴びて湿った雪を踏みつけて、石竹は集落の集会場へと向かい、併設されている車庫の両開きの扉を開ける。

 巨大なその扉の中にあるものは、塗装が剥げかけた黒色の箱。側面に白字で書かれているのは『極観測』の三文字。車高の三分の一近い高さのあるキャタピラを両脇に備えた雪上車。

 黄金色の取っ手を引いて戸を開き、乗り込む。箱型の車両部分は、左右には幅があるものの、縦の幅は石竹でも頭が天井につくほど狭い。ぶつからぬように首を曲げ、車両前部右側の運転席、無敵号の騎手席より遥かに薄汚れ、破れ、ひび割れたそこに座る。

 足元には右から、アクセル、ブレーキ、クラッチ。左手側にサイドブレーキ。座席の股の間には床から二本の棒が延びており、これを引くことで曲がる、ハンドルだ。大丈夫。操作は覚えている。ああ、大丈夫。動かし方は解っているのだ。この雪上車が、最高時速六〇キロメートル、巡航速度四〇キロメートルで、多少の凹凸などものともせずに踏み越えられること、長時間一定の速度で走行できること、目の前の硝子が風や雪や、巻き上げられた砂埃を防いでくれることなども知っている。運転したことがないだけで。

「本当にいいの?」

 雪上車の運転席、速度計や燃料計の表示パネルの横にあるレバーを引くことを、石竹は一瞬躊躇う。これを引けば、雪上車に貴重な液体燃料が供給され、エンジンが稼動を始めるだろう。

 躊躇したのは一瞬だけだった。レバーを引く。この雪上車でしか追いつけないのなら、使うしかない。

「これは凄いものだから」

 サイドブレーキを外し、アクセルを踏み、ハンドルで左右のキャタピラの速度を変え、雪上車が車庫から飛び出す。

 雪上車は、見方によっては無敵号よりもはるかに有用であり、蓄音機と同様に、現存している数少ない機械だ。そして蓄音機と同様に、石竹にとっては死を思い起こされる道具である。なぜなら、雪上車を使うときというのは、敗北に伴う事態だからだ。これまで雪上車を使うときといえば、外来種の襲撃を受け、無敵号の騎手が死亡し、集落が踏み荒らされ、南へ南へと逃げなくてはいけないときだったからだ。

 もう、そうしてはならない。石竹は思う。アクセルを踏む。雪上車が震える。

(ディーさんはこの辺りの地形を知らない)

 集落の周辺か、せいぜいが綿菅に連れて行ってもらった南のほうの地理しか知るまい。北には風を遮り、雲を作る山があり、傾斜がなだらかな地形を選んで通らなくては、山越えは難しい。きっと追いつける。石竹は雪上車を北へと向けて走らせる。

「先回りすれば、たぶん追いつける」

 そう独り言を呟きながら、石竹はバックミラーに映るものに目を留めた。雪原の中に見えるのは、人を乗せた馴鹿である。乗っているのは、綿菅だ。


 石竹は雪上車の速度を緩めなかったが、綿菅は日頃から狩りで馴鹿に乗る機会が多いだけ、さすが手綱捌きが手馴れている。馴鹿を全速力で走らせ、雪上車に並ぶと、併走したまま車両横の扉を開き、無理矢理に飛び移ってきた。

「無茶する………」

 雪上車の床を転がり、荒い息を吐く綿菅を見て、石竹は呟く。アクセルから足は離さない。

「無茶してるのはおまえだ。追いつけるわけないだろう」と壁に手をついて立ち上がった綿菅が言う。「石竹、止まれ。無敵号と競争するのは無理だ」

「ディーさんは、この辺りの地形を知らない。だからだいたい北へ向かうしかないけど、たぶん回り道になる。だったら無敵号より遅い雪上車でも追いつけるはず………」

「追いついて、どうするんだ」 

「決まってるでしょ」

 ディーさんの代わりに無敵号に乗るの。石竹は叫ぶように言い返す。そう、きっと追いつける。問題は、ディーを引き摺り降ろして代わりに乗り込むことができるかどうか、だ。

 戦闘中の無敵号に乗り込むことは、ないわけではないが、それは騎手が死亡してしまったったり、激しい戦闘機動によって外に投げ出されてしまった場合だけだ。石竹も綿菅も、そうした事態に直面したときの経験はあるが、騎手が死ねば無敵号を内側から敵のいる方向を示してやる人間がいなくなるため、視覚に頼らずとも戦える至近距離の格闘戦でなければ、無敵号は敵の向きがわからず、不用意に動かなくなるため、身体を伝って騎手席まで上るのは、簡単とまでは言えないが不可能ではない。しかし今回は、ディーという、不慣れながらもれっきとした騎手が騎手席に座っている。騎手に導かれて動き回る無敵号の身体を伝うのは容易なことではない。

 だが容易ではなくとも、やらねばならない。

「石竹、止まれ。アクセルから足を離せ」

「厭」

「止めろ」

 肩を掴む綿菅の手を振り払う。

「追いつかなきゃ駄目なの」と言葉を紡ぐのに、唇が震えた。手も。指も。「ディーさんが死んで、わたしが無敵号に乗れなかったら、その時点でもう終わりなんだよ。今回はいつもより南の地点に落ちてきたんだから、ディーさんが死んでから、無敵号に登って、集落に戻って、なんてしてたら間に合わない」

「違うだろう。おまえはあの男を助けたいだけだ」

「理由なんてなんだっていい。駄目なら、みんな、死んじゃうんだよ。みんな。わたしも、綿菅も、撫子も」

 石竹はクラッチを外し、慣性走行に入った雪上車の中で運転席を離れた。


 既に景色は雪に塗れた南緯四〇度帯から変わりつつあり、岩山や苔生した大地、落葉樹が目立つようになった。車両の前方には、まさしく苔生した岩が存在していた。雪上車より遥かに大きな岩が、眼前に迫ってくる。

 慌てて綿菅が運転席に飛びつき、ハンドルを引いて方向を変える。苔生した岩とすれ違う。

「止めないで」

 ブレーキを踏もうとする綿菅を制止する。雪上車は止まらない。キャタピラが向きを変え、茜色の大地を突き進む。綿菅はブレーキではなく、アクセルを踏んでくれたようだ。納得したのだ。無敵号に接近することを。

 石竹は編んだ髪を服の中に仕舞う。二重にしていた手袋を一枚外す。上着も一枚脱ぎ、動きやすくしたうえで、襷掛けで袖が邪魔にならぬようにする。縄と鉤を持つ。雪上車の天井にあるハッチを開く。これで天井から飛び出せるようになった。

「おまえ、本当に騎手がいる無敵号に取り付くつもりか」と綿菅が苦虫を噛み潰したような顔で問う。

「当たり前でしょ。言っておくけど、危険なのは、綿菅も同じだからね。走ってる無敵号に向かいから接近しないといけないんだから。上手く足を避けないと、踏み潰されるよ」

「なんで向かいから近づくんだ」

「普通に追っても振り切られちゃうんだから、接近するためには向かいからすれ違うしかないでしょ。だから、わたしが外に出たらすぐ逃げてね。綿菅のほうが運転は上手いだろうから、わたしが登る、綿菅が近づく、そういう割り振り」

 綿菅が何か言いかけて、しかし何も言わずに舌打ちをする。石竹の言葉に偽りがないこと、ディーをこのまま野放しにして死ねば、外来種が集落を、オングルのすべての人間を滅ぼしてしまう可能性があるということを理解しているのだ。

「見えてきた……」

 キャタピラに巻き上げられた土埃だらけの視界の中、前方に人型に近い機影が確認した。ディーが道を知らずにひたすら北へ向かおうとしていて行き止まりにでもぶつかったのか、今は南へと歩いていた。他の機影は見えず、まだ戦闘は始まっていない。向きはちょうど良いのでこのまますれ違うしかないだろう。


 接近しながら、不思議な違和感を感じた。無敵号が、いつもの無敵号とどこか違うように見えたのだ。久しぶりに男を乗せているから、そう感じるのかもしれない。かつての英雄と呼ばれた男を思い出し、そんなふうにぼんやりと考えていた石竹だったが、接近して機影がはっきりしてくるにつれて、自分がどんなに平和的な考えをしていたかを思い知らされた。

 気付いたのは綿菅も同時だったようだ。彼女は雪上車を近くの岩場に隠れるようにハンドルの片方を引いたが、そのときには既に遅かった。ひた走る雪上車の振動を感知したのか、人型の機影はこちらに接近してきた。これでは隠れても無駄だと判断したのか、綿菅はアクセルを踏んで加速させた。高速での走行を前提としていない雪上車の車体が揺れる。

 接近してみるまでもなく、はっきりとわかる。人型の機影は、無敵号ではなかった。人型というには厳ついながらも、ずんぐりとした無敵号に比べれば、幾分肩なり腕なり頭なりがはっきりした形状をしている。全身真っ黒なその機体が外来種のものであることには間違いなかった。

 追ってくるその機体は、腕を必死で振り振り、足を前後に動かして疾走しながらも、綿菅と石竹を載せた雪上車との距離は縮まってはいなかった。雪道を前提としている雪上車だが、雪上でも走れるようにしているというだけで、雪がないほうが速度が出る。


「逃げ切れる?」

「微妙だな」と短く綿菅が応じる。「どこかのトンネルでも入って引き離そう。このまま真っ直ぐ逃げると、集落の位置が知られて不味いしな」

 と綿菅は言いながらも、必死な様子で拍車を掛ける。

「うん………」

 頷きながら俯く石竹は、ディーと無敵号のことが心配だった。彼はいったい、何処へ行ってしまったのか。まさか逃げたわけではあるまい。

 兎に角、いまは自分たちのことだ。雪上車が駄目になる前に、何処かに逃げ込まなくては。いつまでも全速力で走り続けられる代物ではないのだ。

 背後の外来種の機体が急に動きを変えた。

 上半身を前方に投げ倒し、太い両腕を地面に突き立てた。最初は、何かに蹴躓きでもしたのかと思ったが、そうではなかった。外来種は二足で追いつけないと見るや、四足歩行に切り替えてきたのだ。

「まるで熊だ」

 そんなふうに批評するどころの事態ではなくなっていた。四足歩行になった外来種の熊の速度は急激に上がり、馴鹿に追いつかんとしていた。

 周囲は背の高い岩と針葉樹の森だけが点在しているだけの地形で、雪上車だけが通れるようなトンネルや壕はなく、隠れることもできない。雪上車を乗り捨てたとて、逃げ切れるはずがない。


 焦りと恐怖の中に飛び込んできたのは、橙を基調とした警戒色の巨体だった。


「無敵号」

 その警戒色の巨体に向けて、石竹は天井のハッチを抜けて飛びつこうとした。だが身体は動かなかった。怯えで竦んでしまったわけではなかった。これまでの人生で、怯え恐れるべき事態は両手の手に余るほどで、そのような出来事に際してただ縮こまっていたら、何度死んでも足りない。身体が動かなかったのは、綿菅が運転席から身を乗り出して、石竹の腰を掴んでいたからだ。

「行くな」

 股の間を潜り抜けるようにして、石竹たちの乗る雪上車は既に無敵号とはすれ違っていた。惜しかった。綿菅が邪魔をしなければ、きっと足に取り付くことができていただろう。いや、無敵号の足に弾き飛ばされていたか、でなければがっちり組み付くことになった無敵号と外来種の熊に挟まれて潰されていただろう。

 ディーの駆る無敵号は、石竹と綿菅を守るかのように、外来種の熊と組み合っていた。体格の差がほとんどないせいか、状況はほとんど硬直状態だ。いまなら、後ろから近づけば、なんとか組み付ける。脹脛の側から回り込んで騎手席まで昇るのは難しかろうが、背面から一度肩元まで登り、そこから縄をかけて降りるのならばなんとかなるか。騎手交代には、いまこそ好機だ。

「石竹、行くな。無理だ」

「行く」

「行くな。まだいる」

「え?」

「さっきのやつの背後から、近づいてくる機影が見えた。二機いた」

「嘘………」

 無敵号が同時に複数の敵と戦うことは珍しくもない。そもそもオングルで戦える兵器といえば、無敵号一機なのだから、敵がオングル地表に到達する際に燃え尽きるだとか、海に落ちて上がってこなかっただとか、そういった馬鹿なことがなければ、無敵号は常に一対多の戦いを強いられることになるのだから、複数の敵と戦うのは、日常茶飯事だ。

 しかし今回に限っていえば、今まで見たこともなかったような、無敵号に似た形状の熊のような外来種が現れたことに加え、無敵号に慣れていないディーが騎手を務めていることが、石竹を絶望の淵へと追い落とした。


 最初の一体と同様に四つん這いになって現れたふたつの外来種の機体は、動きから機体色に至るまで、最初に現れた熊のような機体と同型のように見えた。無敵号と酷似した兵器が、同時に三機も。

 恐怖する暇もなく、無敵号は組み付いていた外来種の熊を腕ごと抱きしめると、抱擁そのままに身体を砕いた。自爆なのか、それとも機関が破壊されたことによる誘爆なのか、外来種の兵器特有の爆風をその身に、そして騎手席にも受けながらも、無敵号は次の二機へと目標を定めて動き出した。無敵号が惑うことなく動き続けているということは、騎手が生きているということ、そして戦う意志を保っていることの証左のほかない。

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