第20話 ディー

「冷たくて、眩しい」

 澄んだ空気が浮いている。雪氷で覆われた大地が延びている。ほかには何もない。

 否、振り返れば集落があって、南側には無敵号の棲む錆色の山脈も見えるのだが、集落の東端に立って、いまから向かおうとしている東側を見れば、まっさらな雪原がひたすら続いているだけのように見える。右手側、南部に氷で覆われた小高い山々は見えるものの、海方向である東側には、光を照り返す雪氷面以外はまさしく何も見えない。

「まるで雪か氷かそのものだ」

 見渡す限りの雪原を見ていると、幾百里進んだとしても同じ銀色の雪原しか存在しないのではないかという気分になる。いや、ここより南に百キロ進んだところでは、確かにその通りであった。


「そんなことないよ。北のほうには森があって夏は色んなものが採れるし、今から行く東のほうには海があるんだよ。海。知ってる? 氷が浮いてて、水があって、色んな動物とか、魚とかがいるんだよ。釣りもできるし、狩りもできるし、夏は海草とか、綺麗な貝殻が採れるんだよ。海豹が寝てるんだよ」

 いつもよりはしゃいだ様子で言ったのは、もこもことした馴鹿皮のコートを着込んだ撫子である。冬のオングルの衣服というのは、防寒性を高めるためであろう、着膨れするわけだが、いつもより丸々として、短い腕を一生懸命に振り、ちまちまと歩く様子は、まるで企鵝ペンギンのようで、しかもフードに犬の耳がついているのだから、可愛らしい。毛皮のコートの上には白い刺繍のある薄い藍色の布を巻いていて、これはどうやら防寒というよりは、一種お洒落のものらしい。おねえちゃんが巻いてくれたんだ、などと笑顔で言っている。

「この格好、すごく暖かいんだよ」

 と撫子はコートを開いてみせる。中にはもう一枚毛皮のパーカーを着ており、それをさらに持ち上げて見せると、いつも着ている部屋着の前合わせの和服である。

「汗かかなければ、すごい良い気持ちなの。ディーもこれを着れれば良かったのにね」

 流石に下着や肌に接する衣服などはいつまでも着続けることができないため、石竹が作ってくれた、草や毛皮で作ったオングルのものを着ているが、ディーは防寒着としては、元々着ていたサバイバルウェアを着続けていた。オングルでの狩りというのが具体的に何をするのか解らないが、着慣れているこの格好のほうが動きやすい。

 とはいえ最近では石竹がディーのために衣服を縫い合わせてくれているので、我が儘も言っていられず、そのうちにディーもオングルの女たちのような獣皮着を着ることになりそうだ。自分はこれで十分だ、とディーは言ったのだが、一着しかないのでは不便だろうし、自分が好きでやってることなのだから良いのだ、と返されてしまった。挙句の果てに、今日の狩りまでにその上着が完成しなかったらしく、「すみません、裏地の刺繍がまだ完成しなくて……」などというよく解らない理由で平謝りされてしまった。

「せっかく狩りに行くんだから、着ていければ良かったのにね。でも刺繍が完成していないんだったらしょうがないね」

 と撫子も残念そうなのだから、可笑しい。

 一方で、ディーを狩りへと連れて行ってくれる人物、綿菅はディーのことを一瞥したきり、連れてきた馴鹿に小型の橇を括りつける作業をしていて、何も言わなかった。無関心を装っているのか、猜疑心を抱いているのか、あるいは敵愾心を持っているのかは解らないが、ほかの女たちとは違い、ディーにあまり良い感情を抱いていないのは確かである。

 この女性と狩りに行くことになったのは、石竹の提案のためである。


「ああ、そうだ。ディーさん、お暇でしたら、狩りにでも行ってみたらどうでしょう?」

 そんなふうに彼女が言ったのは、ディーを無敵号から遠ざけようという魂胆があったのかもしれない。狩りに出発する日になって、そんなことを思う。

 確かにディーは、オングルの女たちの仕事に興味を抱いており、体力が快復したので手伝いたいと申し出た覚えがある。隻腕でなくとも、裁縫だの刺繍だのは得手ではないので、外で動く仕事のほうが手伝い易いだろう。その上で、狩りというのはまだ慣れぬオングルの自然環境に慣れることもでき、如何にも適切な仕事ではある。

 だが狩りということは集落から離れるということで、いざ外来種の襲来があったとき、ディーが無理矢理にでも無敵号に乗り込む、ということができないことを意味している。

 だから、厭だ、とディーは応じた。しかし石竹は言い辛そうに、こう返してきた。

「でも、仕事もしていただかないことには………」

 こう言われると、ディーは弱い。孤児院を出てすぐさま軍に入ったのも、とにかく手に職を見つけなければと思ったからだ。己を育ててくれた人々に恩を返せねばならぬと思ったからだ。

 オングルのこの集落というのは、家屋こそは別個になってはいるが、金銭や資産の概念がなく、集落全体がひとつの家族のようなものだ。だから彼女らに恩を返すためには、労働しかない。でなくとも、仕事をしろ、と言われると、返す言葉がなく、狩りに行くことになってしまった。そして、その狩りを仕事としているのが、この綿菅らしい。


「ディー、ちゃんとこれ持った? 晴れてる日はちゃんと掛けないと、目が潰れるって、おねえちゃんに怒られるよ」

 と撫子が指して見せるのは己の額に乗っている眼鏡のようなもので、レンズに相当する部分は何枚か重ねられた薄皮が張られている。どうやら遮光器の一種のようだ。確かに汚れていない雪面の反射率は大きく、ほとんど太陽を見ているのに等しいため、晴れた日に雪を直接見るのは危険だ。ここまで原始的なものではないが、ディーも多機能ゴーグルがある。

「準備は大丈夫?」と綿菅が声をかけてくる。ディーではなく、撫子に向けて。

「大丈夫?」

 と撫子がディーに訊いてくる。ディーは頷いた。

「じゃあ、行くか」

 と言った綿菅は、毛皮のコートを着て刺繍の入った布を巻き、フードに耳が付いているところまで撫子と同じ格好だ。違うのは、両腰に木彫りの鞘に入った刃渡りの短い刀を下げており、肩には弓と矢筒を背負っているところだ。長い髪は背中のところでひとつに結わえ、なかなかに勇ましい格好であるが、犬耳つきのフードがアンバランスに可愛らしい。

「それだけで、大丈夫なんですか?」

 と綿菅の格好が軽装に見えたため、尋ねてみると、なんだ、と睨まれた。良かった、無視はされなかった。

「何か文句でもあるのか」

「いや、そういうわけでは………」

 ただ、弓矢と短刀だけでは余りに心許無いのではないか、と思っただけだ。

「狼や熊狩りというわけじゃあない。この時期ならこれだけで十分だ。それに、銛もある」

「これね、これ」

 と嬉しそうに撫子が指し示すのは、馴鹿の背中に括り付けられた木製の柄をもつ銛である。銛を持っているということは、海に飛び込みでもするのだろうか。オングルでの狩りが初体験であるディーにとっては、あまりに難易度が高い行いだ。


(いや、初めてじゃないか………)

 思えばオングルに落ちた直後、近寄ってきた海豹を何匹か殴り殺したような覚えがある。無警戒で、好奇心旺盛だったのか、あるいは倒れているディーを仲間とでも思ったのかもしれない、可愛らしい海豹だったが、殴られて目の玉を飛び出せて死んだ。

 これからまた生き物を殺すのだと思うと、少し気分が暗くなる。が、生き物を殺さなければ肉は食えない。狩りというのは、自然に根ざしたオングルの住人にとっては生活に組み込まれた行いなので、それを否定するようなことは言えない。

「綿ちゃん、なんか忘れ物ない?」

 と言ったのは、狩りに同行するわけではないが、見送りに来てくれた苔桃である。最初は石竹が見送りに来ようとしていたが、仕事で忙しいらしく、代わりにとついてきたのが苔桃である。とはいえ彼女も仕事があるらしく、見送りはこの集落の端までだ。

「あー……」

 と綿菅は逡巡する様子を見せた。苔桃の言う、忘れていることを思い出そう、というふうではなく、どう切り出そうかという表情である。

 やがて決心したように、「撫子、狩りに出るときに気をつけることはわかっているな?」と言った。

 撫子は幼いながら、これまで何度も狩りに同行しているらしく、「わかってるよ」と応じた。

「逸れたら?」

「狼煙を上げて、助けが来るのを待つ」

「吹雪になったら?」

「雪で壁を作って風除けにして、座って待つ」

「手袋を敷いて、が抜けてる。尻が冷えて死ぬぞ」

 綿菅の指摘に、撫子は慌てた様子で言い返した。「ちょっと言い忘れてただけだよ」

「というわけで」と苔桃が割り込んで説明する。「逸れたら、まず狼煙を上げます。火を点けて煙をつけるわけですね。道具は竹ちゃんが持たせてくれましたよね。で、助けを待ちます。その間は、身体が冷えるのを防ぐために、風にできるだけ当たらないようにしてください。近くに風雪を防げるような場所があれば良し。なければ固まった雪を切って、壁を作るんです。それで、座るときはこういう感じでですね」と彼女は手袋を外して雪の上に敷くと、その上に膝を抱えた姿勢、所謂体育座りで腰掛けた。素手になった手は、互いの袖に入れる。「それで吹雪が止むのを待つわけです。手は勿論ですけど、顔もフードの中に隠して、雪にも風にも当たらないようにしてくださいね」

 ディーは実演付きの解りやすい説明を受けて、頷いた。「今日は吹雪になりそうですか?」

「今日明日は比較的乾いていますし、風も弱いので、吹雪は心配ないです。ただ、わたしの予報はあまり信用しないでいただけると助かります」

「あとは」と綿菅が言う。「海に落ちたときだな。撫子、海に落ちたときは?」

「ごろごろってする」

「理解しているのかしてないのか判らんな」

 と綿菅は僅かに口元を持ち上げた。どうやら笑ったらしい。

 いいか、と彼女は言って、ディーにも海に落ちたときの対策を教えた。「当たり前だが、まずはどうにかして陸に這い上がれ。これは自力でどうにかしろ。で、上がったら、兎に角、服を乾かす必要がある。雪の上で転がるのがいちばん良い。雪が水気を吸ってくれるからな。余裕ができたら、濡れた服を着替えろ」

 ディーは頷いてみせる。綿菅という女性は、口調はぶっきらぼうで、明らかにディーを嫌っているふうではあるが、それにしても親切である。 

「綿菅、銃は持っていかないの?」と撫子が尋ねる。

「今日はいらん。夏じゃあないんだ。べつに危険な動物もいないからな」

 と綿菅が答えるからには、これから向かう場所は比較的安全らしい。幼い撫子を連れて行くとなれば、当然だろう。

 じゃあ行くぞ、と言って綿菅が馴鹿の口縄を取り、遠くに氷の山が見える東南方向に歩き始める。行こうよ、と撫子がディーの手を取る。

「馴鹿には乗らないのですか?」と歩き始めてすぐにディーは尋ねてみた。馴鹿にはほとんど荷を積んでいないので、てっきり乗るものだと思っていた。

「歩いて帰れないところまで行きたいのか?」と前を見据えたまま綿菅が応じる。「こいつは獲物を乗せるためだ」

 成る程、と頷きながらディーは歩き始めた。いってらっしゃい、という苔桃の声を背中に受けつつ。


 自分の半分ほどの背丈しかない小さな撫子の歩幅に合わせて歩くのには少々苦労したが、そのぶんゆっくりとオングルの景色や周囲の状況を観察することができた。ディーが特に興味を惹かれたのは、オングルの大自然よりも、綿菅の格好や馴鹿に積まれている装備のほうだった。

 たとえば綿菅が背負う弓だ。弓は一メートル近くある長弓で、薩摩芋色の弓幹に耐久性を増すためか、木の皮が巻いてある。矢筒は木を刳り貫いて作られているようで、短刀の鞘もそうだが、鮮やかな彫り物が為されている。

 たとえば靴だ。見た目は毛皮のブーツであるが、底に木製の寒敷かんじきを履いているらしく、踏み出すたびに氷の上に足跡が付く。どうやら撫子も同じものを履いているらしい。

 たとえば銛だ。木製の柄の先端には木製の鞘がついており、それを外すと象牙色の刃が姿を現す。その刃であるが、やけに不安定な造りになっており、これでは突いた先からばらばらに解体されてしまって威力を失ってしまうだろう。刃には穴が空いており、綱が通されているが、これで補強になるとは思えない。しかも綱には何か丸い塊のようなものに繋がっている。


「何を狩りに行くのですか?」

海豹アザラシ企鵝ペンギン

「海に入るんですか?」

 じろと睨まれる。そして綿菅の口から返って来たのは、「おまえは馬鹿か」という簡潔な言葉であった。

「冬に海に入ったら死んじゃうよ。さっきも言ったでしょ?」

 と撫子が声をあげて笑う。確かにその通りなのだが、では銛はいったいどのようにして使うのか。まさか投げて使うわけではあるまい。投げるなら槍で、槍と銛の違いくらいは解る。

 使用用途の疑問や、なぜ銛を用いるのか、そういった疑問は狩りの場についてから氷解した。


 一時間ほど歩いて辿り付いたのは、冷たい海に程近い、だだ広い氷に包まれた大地であった。透明度が高いゆえ、僅かに青みががかった雪氷が遠く遠く、南方に見える小高い山脈まで続いている。山の頂上付近には薄く雲がかかっていて白く、山の付近の空は雲の影響で青白く、そして天頂に近づくにつれて夜空のように黒い藍色に染まっていく。まるで足元の大地から空までがひとつに繋がっているような錯覚をおぼえた。

 集落とは違い、ここは氷の下が海となっている海氷上らしい。一枚氷を隔てて足の下に海があるというのは恐ろしいが、この氷盤は厚く、馴鹿や人が乗ったくらいではびくともしないということであった。

「この辺りだな」

 と綿菅は馴鹿を止めたものの、周囲には企鵝や海豹の姿はない。時刻は正午前、週の一日目であるため、太陽の高度はまだ低いが、既に昼餉の時間となっていた。馴鹿の荷から毛皮のピクニックシートを取り出し、雪上に広げる。骨組みに海豹の腸を張ったと思しき日除けのパラソルを立てる様子は、まさしく行楽だ。

「お昼ご飯ですか?」

「それと、獲物が来るのを待つ」と手際良く準備を行いながら、綿菅が応じる。

「今日、おねえちゃん、なに作ってくれたかなぁ?」

 などと言いながら、途中から馴鹿の背に乗っていた撫子は、喜々として弁当を広げる。


 ピクニックシートは中央に丸く切れ込みが入っていて、その切れ込みの部分を捲ると、下の氷が覗けるようになっていた。綿菅は切れ込みの傍らに座り、銛を置いてから腰の短刀で何やら作業を始める。その様子を見れば、氷の下にやって来る海豹を銛で突いて仕留めるつもりなのだということは、ディーにも理解できる。気になるのは、どのようにして海豹がやって来るのを探知するのか、本当に海豹はこの氷盤の下にやって来るのか、もっと海の近くに寄ったほうが良いのではないか、などのことであった。

「まず」と綿菅は意外にも丁寧に説明してくれた。「今の時期は、海辺の氷は割れやすいから危険だ。冬も終わりが近いからな。南へ行けば氷が厚いが、遠い。かといって、もう少し北だと、もう春も近いから、なかなか獲物が来ない。だからこの辺りの厚い氷盤の上で狩りをしたほうが良い。そして」と綿菅は彼女が毛皮のピクニックシートが切り取られ、厚い氷が顔を覗かせている場所を指差す。「ここに穴があるだろう。これは海豹の呼吸穴で、銛を突き刺すための穴だ。だから、海豹は来る」

 言われて観察してみれば、氷には幾つか小さな穴が空いている。しかもその穴からは、なにやら細い棒のようなものが突き出ていた。綿菅曰く、この下に海豹が呼吸するための空洞があり、細い棒はそこまで延びているのだという。海豹が呼吸をするために顔を出すと、この細い棒を押すのでその存在が解る、ということだった。

 単に穴が空いているだけでは、海豹が呼吸しには来ないだろう。おそらくはこの穴の下には、空気の溜まりになるような場所があるのだろう。そしてこの足の下一枚の氷板を隔てた海を泳ぐ海豹が息継ぎをしたくなったとき、このような空気溜まりを探して呼吸をしに来るというわけだ。

「来るまで待つ」

 そう言って、彼女は撫子が広げた弁当に手を伸ばした。ディーも倣う。干し肉だの、アワヒエの握り飯だのといった、簡単に見える弁当ではあったが、料理を担当している石竹が丹念に作ってくれたのだろう、美味かった。現在のオングルでは農業は行われておらず、こうした雑穀は時期に採集で集めてくるものだと聞いた。


 早めの昼餉を終えても、まだ浮きに反応はなかった。これは浮きを用いた釣りのようなものだが、釣りの場合は獲物が餌に食いついて浮きが沈んだ時点で、針から外れたり糸を切られたりしない限りは獲物が逃げることはないが、この海豹漁では、浮きが持ち上がった時点では真下に海豹が居るのが解るというだけで、まだ銛を突き刺してもいないのだ。呼吸をするのにそう何分も居るわけではないだろうし、神経を使う。

「ディー、お昼、美味しかったね」

 と撫子が嬉しそうに訊いてくるので、頷いてやる。しかし、喋って大丈夫なのだろうか。海豹が逃げるのではないか。

「喋るぶんには、構わない。海豹は好奇心が強いからな。むしろ寄ってくるかもしれない。ただ大きな振動は怯えるから、あまり暴れてくれるなよ」

 と綿菅がディーの心を読んだかのように言う。

 綿菅という女性は、石竹のように世話を焼くわけではなく、苔桃のように親しげというわけでもなく、むしろディーのことを厭うているのがありありと伝わってくる。

 嫌っているというより、怯えているのかもしれない。もし仮に自分が女たちの立場だったら、と思うと、そのほうが納得できる。同年代の女というものを知らずに男だけ生きてきた中に、急に女がやって来たようなものだ。相手は同性とは明らかに異なる反応をする、得体の知れない生物だ。喜ぶよりも、むしろ怖い。

 それにしても、綿菅はディーの疑問や質問には答えてくれるので、親切だと思う。

「いつもこういう狩りなんですか?」

 とディーが尋ねると、綿菅は首を振る。「違う。これは比較的安全だが、時間がかかるやり方だ。今の時期なら、もう少し南へ行って獲物を探すか、でなければ明日あたり、太陽が高い時間に日光浴をしている海豹を仕留めるほうが話が早い。ただその方法だと、さっきも言ったように薄氷の上に乗って海に近寄ることになるから、あんたもいるし、やめてくれ、と石竹に言われた」

 親切だが、綿菅はディーに気を遣ってゆっくり喋る、ということはしてくれない。それでも己の中で何度も反芻し、また撫子の補足を受けながら、ディーにはなんとか理解ができた。つまり、ディーの存在が邪魔になっているということだ。

「そうだな、まぁ、あんたの体重がどれくらい重いのか知らないし、そうするとどれくらいの薄さの氷盤まで耐えられるかどうか解らんからな」

 綿菅がオングルの女の中では背の高い部類だということは解るが、それでも大柄なディーと比べれば頭ひとつ分以上小さく、細身だ。彼女の体重は、ややもすると筋肉質のディーの半分程度かもしれない。いま居る氷盤は馴鹿が乗っても十分耐えられる厚さのようだが、海辺での狩りともなると、割れそうなほど薄い氷盤の上を渡らなければならないのかもしれない。改めて、オングルの過酷さに対する女たちの行動力に感心すると同時に、己がついてきたことが迷惑をかけているという実感が高まる。

「すみません」

 というディーの言葉に綿菅が応じることはなかった。

 無視されたわけではなく、彼女は素早く傍に置かれていた銛を掴み、呼吸穴に突き立てていたのである。


 呼吸穴にやって来た海豹が棒を押し上げたのだということには、遅れて気づいた。ディーも呼吸穴に刺さる棒は、常に視界に入れていたのだが、その動きにはまったく気付かなかった。

 綿菅が銛を引くと、刃先が外れていた。脆い作りだったため壊れてしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。よくよく見れば、中空になっている柄から綱が出ており、今も引かれている。これは刃先に繋がっているらしい。

「銛の鏃は肉に食い込んだら外れないようになっている。刃には穴が空いていて、綱が出ている。一方の先にはこの柄に繋がっていて、もう片方の先には浮きがついている。だから逃げられないし、潜っていれば浮きのせいで、すぐに疲れる。疲れきって動けなくなったところで引き揚げる」

 と親切にも説明しながら、綿菅は綱を手に巻きつけるのだが、すぐに穴に向かって引っ張られ始める。

「大丈夫?」

 とよく狩りに同行するらしい撫子が心配そうな表情を見せるからには、獲物が大きすぎたのだろうか。大丈夫、と返す綿菅であったが、引っ張られ続けるのは変わらず、手の位置がどんどんと落ちていく。空いた手を馴鹿に向けて伸ばすが、届かない。

 ディーは咄嗟に綿菅の手に巻きついていた綱を掴む。成る程重いが、引っ張られるほどではない。氷盤が厚いのは解っているので、足を地面に打ち付けて己の身体を固定し、綱を留めようとする。

 綿菅が急いで氷盤に短刀を突きたて、円形に穴を開ける。どうやらそのまま引っ張って良いらしく、隻腕で綱を引いてやると、首の後ろから血を流した海豹が姿を現した。敵愾心を剥き出しで、まだ生きている。暴れてはいないが、このまま引き揚げるのは難儀しそうだ。

「そのままにしてろ」

 と綿菅が言って、弓を抜き取ると矢を番え、穴の中の海豹に向けて射た。矢は頭に突き刺さり、やがて海豹は息を引き取った。さすがに百キログラムを越す海豹の身体を持ち上げるのは辛いので、馴鹿に綱を繋ぎ、引っ張り上げる。

「でっかいねぇ」

 と撫子が感心したように言うからには、いつもこの方法で捕らえている個体よりも、大き目だったようだ。だからこそ、狩りに慣れている綿菅も苦労したのだろう。また命を奪ってしまったという罪の意識を感じつつも、ディーは不思議な、誇らしさというべきであろう感情に包まれた気がした。

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