第19話 石竹
怖い。
怖いと言ったのか、と石竹は苔桃に尋ねた。
「たぶん、怖がっているんだろうね」
と苔桃は応じる。無敵号に乗ることをね、と。
ディーに関するふたつの議題を放し終えた集会場には、石竹と苔桃、それに綿菅だけが三つ目の議題のために残っていた。現在のオングルでは年長者である三人である。ほかの女たちは仕事に戻ったため、若い者には聞かせにくい話もできる。
「ねぇ、ディーさんを助けに行こうって話したときのことと、覚えてる? あのときも、華ちゃんが、自分が助けに行くんだ、って提案したでしょ? あれだって、騎手が怖いからだよ。出発した日の翌日は、華ちゃんが騎手当番の日があったでしょ。華ちゃんは騎手をやりたくないから、あんなに強行にディーさんを助けに行こうとしたんだよ」
「そんなの、でもっ」
わたしだって怖い。石竹はその言葉を飲み込む。
戦うのが怖いのは、誰にとっても当たり前のことだ。無敵号は硬く、強く、堅牢な鎧ではあり、迫り来る突撃や飛来する弾丸に対しては、その強靭な腕で騎手席を庇い、守ってくれる。少なくとも、その努力をしてくれる。
しかし外部の状況を観測するために、騎手席は常に外気に身を曝しているのだ。高速機動戦闘を行う無敵号と外来種の戦闘機や戦車との戦いにおいては、安全ということはありえない。穴の空いた堅い箱の中に割れやすい卵を入れているようなもので、無敵号や騎手自身が発見できなかった流れ弾であったり、弾き飛ばされた無敵号が吸収し切れなかった衝撃だったり、跳ね飛ばされた拍子に外に吹き飛ばされたりで、騎手は死とは隣り合わせである。
だが、騎手がいなければ無敵号は戦えない。視覚以外の何らかの方法、たとえば人間でいえば聴覚や嗅覚に相当するような感覚器官によって、無敵号はある程度外部の情報を得ているようではあるが、それは視覚ほどはっきりとしたものではないようで、遠距離は見通せない。格闘戦に持ち込んだときはともかく、通常の戦闘状況では、騎手が優しく先を導いてやらなくては、その場でただ立ち尽くすことしかできないのだ。だから騎手がいなくてはならないのだ。そんな、厭などと、怖いなどと、言っている余裕はないのだ。
だいたい、石竹たちとて恐怖を抱えて戦っているのだ。
それなのに。
「でも、初めてではないでしょ」と集会場の囲炉裏の傍で膝を抱えて座る苔桃が言った。「初めては、誰だって痛いし怖い、厭なもの。でも、わたしたちはそうじゃない、と」
「そんなこと……」
「少なくともそう見える」と口を挟んだのは、胡坐をかいて壁に背中を預ける格好の綿菅であった。「つまりは、そういうことだろう」
べつに華ちゃんだけのことじゃないけどね、と苔桃。「みんな、そうでしょ。大人は強くて、何でもできて、って思ってたけど、そうじゃなかった、なんていうことは、みんな経験してる。ただあの子が未経験ってだけ。初めてがまだなのは、あの子だけなんだよ」
言われて、気付く。今のオングルで無敵号の騎手になったことのない人間は、幼子の撫子と来訪者のディーを除けば、一華だけだ。
つまりは不安を打ち明けて分かち合える相手がいない。
既に経験済みの女たちは余るほどいるので、相談はできる。しかし不安なのだと、怖いのだと、そう打ち明けてみても、既に一度事を済ませている女たちの返答は、最初は痛いだとか怖いだとか思っていたけれど、実際やってみるとそうでもなかったよ、というあっけらかんとした言葉だけだろう。
だが、未経験の少女はそんな話が聞きたいわけではない。欲しいのは怖くないという実感で、でなければただ漠然とした不安を分かち合って過ごす時間なのだ。同じ未経験の相手を探そうとしたところで、撫子に血生臭い話ができるわけがない。そもそも幼く物事を知らない彼女の場合、こちらが何に悩んでいるかということさえ理解できないだろう。幼子は、少女の恐れの対象を、大人になるための通過儀礼として憧れさえ抱いているかもしれない。
一華はそうではない。知識はある。ただ経験がない。だから怖い。誰とも不安を打ち明けられない。だから募っていく。溜まっていく。
「それが、まずいのだよねぇ、きっと」
と苔桃は大袈裟に溜め息を吐いた。
不味いって、なにが、と石竹が問うと、この状況だよ、と苔桃は返してくる。
「今まではべつに、それでも良かったと思う」苔桃は言う。いや、良くなかったかもしれないけど。苔桃はさらに言う。「でも、それで上手くいってた」また重ねて言う。「だって、頼る相手がいないんだもの。怖くても、厭でも、やらなくちゃ仕方ないんだから、結果的には何とかなった。でも、今は違う。頼る人がいる」
「ディーさんのこと?」
「そう。だって、ねぇ?」苔桃はにっこり微笑んで、指を組む。「あんなにかっこよくて、強そうで、それに、軍人さんだっていうじゃない。だったら、ほら、守ってほしいって思うのが普通でしょう?」
「もし一華さんがさっきの話し合いのときに、そう訴えていたら……」腕を組んだまま綿菅が言葉を発する。「他にも同調する子らはいただろうな」
「だろうね。感情論だけど、男の人だからなんて理由で騎手にさせたくないんですぅ、なんていうのも、そもそも感情論だし、それに、あの場はなんとなく竹ちゃんの勢いに呑まれた子が多かっただけだもんね」
そうかもしれない、と石竹も思った。自分には、心に決めた想いの相手がいた。あの幼き日の少年の姿が焼きついている限り、男だからというだけの理由で男性に騎手を務めさせたくはないと思っていた。が、すべての女が心に想い人があるわけではないし、あるいは新たにディーの中に理想の男性像を見出した者もいるかもしれない。力強くて素敵な男の人に守ってもらいたいという思いは、解らないでもない。ああ、理解できる。理解できるのだ。
それに、ディーに騎手をやらせることに反対の石竹とて、彼が男だからという理由で騎手をさせるのが厭というだけだ。そうではなくて、彼をオングルの住人として受け入れた上で、十四歳以上の勤めとして騎手の順番に組み込むというだけのことであれば、それは受け入れざるを得ないことだ。
「昔はさ、ずっと男の人が守ってくれたじゃない。なのに、勝手に死んで、勝手にいなくなって、それで、女だけでなんとかしなくちゃいけなくなって……それで今は男の人が来たのに、どうしてまだ、わたしたちが守ってあげなくちゃいけないの?」
苔桃の表情は平静で、口調は地震計のメンテナンスの方法を説明するように穏やかであり、言葉がオングルの女たちの気持ちを揶揄したものであるということはわかっていたものの、石竹には彼女の瞳が濡れているように感じられた。
唐突に思い出したのは、やはり幼い日々の思い出であった。
石竹と苔桃は同い年である。ふたりが生まれた時代から既に小さな集落となっていたオングルで、同い年の子どもは貴重だったため、ほとんどいつも一緒になって遊んでいた。苔桃が「おじいちゃん」と呼ぶ彼女の伯父は、オングルで英雄と呼ばれた、最強の騎手だった。苔桃はそんな彼を誇りに思い、いつもこう言っていたものだ。大きくなったら、おじいちゃんと結婚するのだ、と。
思えば、誰よりも男に対して幻想を抱いているのは、目の前にいる苔桃なのかもしれない。彼女にとっては、男といえば、強く、優しかった伯父に違いないのだから。
その彼女が、誰よりも強くディーを守ろうとしているのが不思議だった。先程も、一華の言葉を封殺して、ディーを騎手にはさせぬべきだという論を押し通したのだ。
「だって、かっこいいもんね。死なせたくないじゃない」
苔桃はそう言って舌を出したが、石竹にはそれが彼女の本心だとは、どうしても思えなかった。
苔桃と綿菅と別れ、家に戻る。ディーも撫子も、まだ戻ってきてはいなかった。会議のため、昼食が終わった後にすぐに追い出したから、そろそろ戻ってきているだろうと思ったのだが、犬たちとよっぽど楽しく遊んでいるのか。
ふと思ったのは、一華とディーは犬小屋のほうで今頃会っているかもしれない、ということだった。一華は話し合いが終わってすぐに仕事のために犬小屋のほうへと向かったはずだし、ディーと撫子は、この集落に他に遊ぶ場所などないので、おそらくはまだ犬小屋付近にいるはずだ。
一華はディーに、戦いたくないのだ、怖いのだ、と訴えるだろうか。
今、一華は十四歳。石竹より十二歳、年下だ。幼かった当時の自分なら、どうだっただろうか。石竹の場合は時代が時代であったため、一華よりもずっと早く騎手を体験したわけだが、その当時の石竹なら。当時の自分も、彼女と同じく恐怖と不安を抱えていた。
(もし自分なら………)
ディーに恐怖と不安を伝えたかもしれないし、伝えなかったかもしれない。怖い、と、そう言って抱きついていた可能性はあるが、怖がるのはかっこわるいと思って何も言わないでいたかもしれない。どちらでもありうる。
が、どちらにしろ、ディーには何かしらは伝わるだろうというのは想像に難くない。一華は表情がそう豊かな部類ではないが、ディーは他人の顔色や言葉にならぬ表情の変化を読み取るのが上手い。だから言葉もすぐに慣れることができたのだろう。一華がたとえ何も言わなかったとしても、訴えたい言葉は表情に出ているはずで、ディーはそれを読み取るだろう。彼が優しければ、一華の気持ちを汲み取るかもしれない。女たちの決定がどうであろうと、自分が無敵号の騎手になってやると、そう思うかもしれない。
「話し合いの結果は、どうなりましたか?」
ディーの住居の件と無敵号の騎手の件をオングルの女たちで話し合うということは伝えてあったため、撫子を伴って家に帰って来たディーは、いきなりそう訊いてきた。
石竹はまず、住居の点については倉庫を改造することで纏まったので、ついては少し待ってほしい、と伝えた。ありがとうございます、とディーは応じる。
彼が急いて問うたのはもうひとつの議題で、すなわち無敵号の騎手に関してである。
「騎手の件についてですが、今回は見送ることになりました」
彼の意に反する決断になったわけで、ディーの表情を伺いつつ、そう言ってみたが、石竹のその努力は無駄になった。ディーの反応が小首を傾げるだけのものだったからだ。どうやら今の言い回しは、彼には難しすぎたらしい。可愛らしい仕草に心を動かされかけたが、それはともかく、改めて石竹はわかりやすいよう説明してやった。
「つまり、無敵号に乗るのは、駄目だよ、ってことです」
今度は意味が通じたのか、はっきり眉根を寄せて嫌悪感を示してきた。「どうしてですか」
「それは……えっと、危ないでしょ」
できるだけわかりやすい言葉遣いを心がけたために、まるで撫子に言い聞かせるような口調になってしまった。
しかしディーにはそんな表現の差などわからないのか、ただ受け止めた内容だけに対して真剣な表情で応じる。「危ないのは、あなたも同じです」
「わたしたちは、以前から無敵号に乗っていたので、戦うことには慣れています」
「でも、ディーも軍人さんだから、慣れてるんじゃないの? 軍人さんって、戦うのが仕事の人のことなんでしょ?」
そう口を挟んだのは、定位置の如くディーの膝の上に乗っている撫子だった。ねぇ、そうでしょ、ディー、と彼女は顔を上げて問いかける。
「そうです。おれは軍人さんです」
文法は正しいが、単語の用法がおかしいディーを笑える状況ではなかった。ご飯までまだ時間があるから、撫子は外で遊んでいなさい、と言って、石竹は彼女を外へと追い出した。彼女がいては、正しいことを言い出してしまうため、都合が悪いのだ。
「撫子も言っていましたが」とディーは彼女が消えた玄関に視線をやって言った。「おれは軍人さんなので、戦うのが仕事で、あなたよりは強いです。だから、おれが乗るべきだと思います」
彼の言葉はあまりに幼稚で、それでいて真っ直ぐで、石竹はおかしさを覚えると同時に、どうしても幼き頃の友であった少年を思い出さずにはいられなかった。
彼の言うとおり、撫子は正しく、石竹が間違っているのだ。ディーが軍人であるのに対して、石竹は兵器の扱いや戦闘の手順などを心得ていない一市民に過ぎない。無敵号は未知の兵器ではあるが、それにしても戦い方の心得というのがあるのかもしれない。彼にだけ騎手を任せるというのは行き過ぎではあるが、まずは騎手の順番に加えても失敗ということはないだろう。
何より、彼には勇気がある。
人を助けるためにやって来た。命を救うためにやって来た。空を駆けてやって来たのだ。
そしてそれが失敗してもなお、己の腕を切り捨てて生き延び、それだけのことをして生き延びた命を顧みず、いまや女たちのために戦おうとしている。
オングルにただ根付き、その場その場で生きているだけの石竹たちとは、まさしく根本から違う。彼を見ていると、本土の人間はみなこうなのか、と思ってしまう。古びた本の中でだけ夢見た物語の世界そのままに感じてしまう。
だが彼には戦う理由などないはずだ。
オングルでは、誰しも戦いたくて戦っていたわけではない。無敵と呼ばれた苔桃の伯父とて、自分より上手く無敵号を駆ることができる者がいないから、仕方なく騎手の座に着き続けていただけだ。石竹を守ろうとしてくれたあの少年も、戦いが好きで騎手の座に着いたわけではない。
彼らはみな、その先にあるものを夢見ていた。
苔桃の伯父は、迫り来る外来種の機体をすべて跳ね除けてオングルで皆が幸せに暮らせることを祈っていただろうし、石竹の思い出の中の少年は、戦いで勝利を手にし、そして石竹と好き合うことを夢見てくれたはずだ。
だがディーには戦う理由がない。なぜなら彼は異邦人だ。この地に根ざした人間ではなく、ただただ外の世界から飛んできた異物に過ぎないのだ。
大事にしているロケットペンダントに挟まれていた写真の人物が、果たして恋人なのか、あるいは葉薊がいうように、きょうだいか何かなのか、それは知らない。しかし肌身離さず身に着けているくらいなのだから、守りたい大事な女性なのだろう。
その女性は、しかしこのオングルの地にはいない。遥か遠く、天高く遠くの星に彼女はいるのだろう。
ならば彼がここで如何様に努力をしようとも、その女の無事には関わらないのだ。ここで起きた出来事を語る術がない以上は、その女に格好をつけることもできないのだ。
それなのに、なぜ戦う。
「あなたを守りたいからです」
「あなたたちを」
「え?」
「あなたたちを、です」
石竹は自分の顔が真っ赤に染まるのを自覚し、俯いて顔を隠したまま、ディーの言葉を訂正させた。
ああ、ええ、とディーは戸惑いの表情になって頷いた。「はい、あなたたちを、守りたいからです」
「それは……、解ります」と石竹は未だに熱い顔を覚ますかのように首を縦に振った。「あの、解ります、というのは、あなたがわたしたちを守りたいという、それは解ります、ということで……。その、つまり、あなたの意図は、理解できるという意味です」
解りやすく喋ろうとしているはずなのに、言葉がうまく出てこなかった。きっと、ディーは戸惑っているはずだ。
石竹は、恥ずかしかった。面と向かって、あなたを守りたいと、そう言われることはこんなにも恥ずかしかっただろうか。幼き頃は、ただただ己の感情が勝っていて、相手の言葉などほとんど聞いていなかったのかもしれない。いま、ディーには特段の他意はなかったのだろうが、まるで愛情をぶつけられたかのように感じられて、戸惑ってしまったのだ。
「あの、でもですね、無敵号の騎手に適当かどうかという問題もありますし……」石竹はディーに騎手を諦めさせるための理由を捏ねくりだす。「無敵号を動かすのって、そう簡単じゃないんです」
「そうは見えませんでしたが……。苔桃さんに見せてもらったときは、動かすのは非常に簡単だと、そう聞きました」
石竹は心の中で舌打ちをした。そうだ、苔桃が無敵号の案内をしたのだった。そのときに、騎手席を見せてもらっていてもおかしくはない。くそう、無敵号はあまり見せないようにと言っておけば良かった。
騎手席といえば、この前に騎手だったときに脱いだ服が置きっぱなしだったような気がするが、誰か回収しておいてくれただろうか。石竹のものとはわからないはずだが。否、汗をかいて脱いだのだから、臭いがするか。自分の体臭は嗅ぎ分けられるほど目立つだろうか。そんな関係の無いことを考えてしまう。
無敵号の操縦については彼の言うとおりで、操縦というほどに高度なことはしていない。ただ騎手席にある四面体に手を触れ、敵がいる方向へ圧力をかけてやるだけで良いのだ。そんな単純なやり方だからこそ、特に適性をかけて選んだりすることなく、戦い方だけ教えて騎手の順番に入ることができるのだ。
だから、そう、ディーを騎手の座に据えることは簡単だ。
「でもあなたが騎手になったところで、何も変わりません」
話は終わりです。そう言ってディーから視線を逸らし、石竹は囲炉裏に薪を足した。
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