第15話 ディー

 天気予報とは、ようは計算の連続だ。現在の記録データから未来の状態を計算する、一種の未来予測シミュレーションである。たとえばピンボールやビリヤードを考えてみればいい。ボールの速度と重さがおおよそわかっていれば、そのボールがどう動くかは簡単に予想できる。同じように、場所ごとの気温だとか、水蒸気量だとか、風の向きや速度だとか、そういったことが分っていて、なおかつそれらの運動や変化を導くための計算式を持っているのならば、未来の状態を計算することは簡単だ。だがそれはあくまで、ひとつの点における計算が簡単だというだけのことである。大気は広がっていて、互いに作用しあっているので、一箇所の記録だけから導く計算結果は、周囲の環境の作用によって簡単に覆されてしまうし、そもそもが大気は流動するものなので、周辺の計算をも同時に行わなければならない。そんなふうに考えていくと、計算の式そのものは帳面に書き出せるくらいに簡単でも、計算量は膨大な量になる。そんな計算を、この女性はコンピュータも無いオングルでやっているのか。

「計算機なら、ありますよ」

 と苔桃が取り出してみせたのは、どうやら仕事道具らしい。四角い枠に紐を通した小さな象牙色の塊が幾つも幾つも並んでいる。算盤だとか呼ぶこれは、どうやら計算尺の類らしい。確かに布に筆で逐一計算するよりはましだろうが、計算機ほどの効率があるとは思えない。

「半日後の予報なら自信あるんですけどね……一日とか、一週間とかになると、全然駄目です。吹雪が酷いかどうか、くらいの計算しかしてしませんし、それも当たらないんだから」

「半日後が吹雪になるかどうか、なんてぼくにも解るぞ」と膝の上の撫子が元気良く言う。「今だったらこんなに晴れてるんだから、吹雪になるわけがないね」

「ほんとかなぁ?」と笑みを浮かべる苔桃は、また撫子の頭に手を伸ばして髪をくしゃくしゃにした。

「当たり前じゃん、誰だってわかるよ」

「違ったらどうする?」

 となおも苔桃がぐしゃぐしゃと癖のある栗毛を撫で続けていたが、撫子はその手を振り払おうとした。「もう、意地悪しないでよ」と言って、ディーに抱きつく。「ほら、ディー、なんか言ってやってよ」などと言うのだが、どうして良いものか解らない。解るのは、撫子は姉である石竹とは歳の離れたきょうだいらしく、家ではやんちゃな年下と面倒見の良い姉という具合であったが、苔桃とはまるで同世代のようにじゃれ合う仲であるということであった。


 撫子がディーに抱きつくのを見て、苔桃はくすくすと銀の鈴を鳴らすような声で笑った。

「ディーさん、もてもてですね」

「もてもて?」

「女の子に好かれる、ということです。ここに来るまでも、大変だったでしょう?」

 どうやら苔桃は、ここに来るまでにディーに接触してきた道中の村民のことを揶揄しているらしい。確かに、本土からやって来た男に興味を抱いているらしいオングルの人々に慣れぬ言葉で話しかけられたのだから、難儀した。道すがらに会った相手が若い女性ばかりだったのも、ディーにとっては心労のひとつとなっていた。幸いだったのは、みな忙しかったために、逃げようとするディーをそこまで執拗には追ってこなかったことだ。

「ま、女ばかりの村ですから、それは我慢していただかないといけませんね」

 そう言って苔桃は肩を竦めた。

「女ばかり、とは、女性しかいない、という意味ですか?」

「そうです。竹ちゃんから、聞いていませんか?」

「ええと、戦いで、男性の多くは死んでしまった、という話は聞いたことがあります。それで、いまは二十七人しかいない、と」

 ディーがそう言うと、苔桃は大袈裟に肩を竦めた。「そうですね。いまとなっては、だから男はひとりもいません。全員、女です。どうです、ディーさん。こういうものは、嬉しいものなのでしょう?」

 そうだったのか。道理で男性の姿を見ないと思ったら、本当に男はいないということなのか。幼い撫子が男性を見たことがない、というのは聞いていたため、半ば予想はできていたが、改めて聞かされると、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。

「じゃあ、撫子以外はみんな女性ということですか」

 腿の上で居心地良さそうにしている撫子の頭を撫でてやりながらそう尋ねると、苔桃は目を丸くして驚いたような表情になった。

「もしかして、ディーさん、えっと、撫子のこと、男の子だと思っていますか?」

「女の子なんですか?」

「当たり前じゃん。みんな女だって言ったでしょ」とディーの質問に答えたのは、腿の上から彼の胸に後頭部を押し付けてくる撫子である。「なんだと思ってたの」

 癖の有る短い髪や快活な言動から、てっきり男の子だと思っていた。否、あるいは女性だけの家に邪魔をしてはなるまいと思い、撫子を男の子だということにして自分が石竹の家に寝泊りさせてもらっている正当性を作り出そうとしていたのかもしれない。女だけではないのだから、自分がいても良かろう、とそんなふうに思うために。

「ああ、なるほど、子が付くから」

 ディーは思いついて言って、頷いてやった。子、という漢字が子どものことを指すと同時に、元は高貴な身の上に付けられる漢字であり、現代では女児の名に多く用いられるということは、故郷の恋人に話を聞いいたような覚えがある。

「そう、子がつくから」

 撫子も、得たりという顔で頷く。

「まぁ、女はみんな子が付くわけではないですが、そういうことです」と言って、苔桃はにやりと笑った。「竹ちゃんが今のこと聞いたら、きっと怒りますよ? あの子、撫子のこと、大好きですから」

「そうですよ?」

 苔桃の真似をして丁寧な言葉遣いになる撫子の頭を、苦笑しながら、また撫でてやる。石竹には世話になったし、撫子の遊び相手もしてやりたいが、やはり彼女の家には居られない、と思いつつ。もちろんディーにはリリヤという恋人がいるのだから、何か間違いが起きる可能性は天地天命、神に誓ってありえないのであるが、それでも女性しか住んでいない家を間借りさせてもらうというのは申し訳ないことである。


 とはいえ、この集落は普通の都市ではない。探せばアパートがあるわけではなし、野宿できるほど環境や道具が調っているわけでもなし。

 何所か住めるようなところはないか、とまずは目の前の苔桃に、そう尋ねてみた。

 返って来た返答は、「竹ちゃんのところでは、何か問題があるのですか?」だった。

 ないわけがないではないか、とは返答できなかった。何か問題が起きる可能性を示唆するというのは、自分を野放しにすれば不貞行為が起きる、とでも吹聴するようようなものである。

「それは、女性しかいないのなら、問題がある、と思います」ディーは言葉を濁らさざるを得なかった。「女性だけで暮らしているのに、おれが居ては、不安でしょう」

 石竹は、散々ディーの世話を焼いてくれた。見ず知らずの来訪者であるところのディーにあそこまで尽くしてくれたのは、ひとえに人命を救いたいとの使命感あってのことだろう。

 だがひとりで歩き回れるようになった今、ディーの存在が彼女にとって厄介以外の何ものでもないはずだ。ディーがいることによる石竹へのメリットは、せいぜいが撫子の話し相手になってやれることくらいで、他にはまったく役に立たない。どころか、図体の無駄に大きい、慣れぬ男性がいるということで、落ち着かぬ日々を送っているはずである。石竹は親切なので、感情を表には出さぬだろうが、説得の仕方を間違えなければ、家を出るというディーの考えには賛同してくれるだろう。

「わたしだったら、ディーさんみたいな方がと一緒に暮らすのは、大歓迎なんですが」

 苔桃は間髪入れずにそう言って、微笑んだ。オングルの女たちが着る毛皮のコートや刺繍の入った前掛け付きのパーカーは、着膨れして見えるもので、少なくとも身体の線は出ていない。おまけに苔桃という女性は小柄なだけではなく、随分と細い。撫子を除けばいちばん歳若いという、昨日会った一華などよりも小柄かもしれない。しかし小さく軽いといっても膝に乗っている撫子とは違い、覗くうなじや胸元には女性らしさがあった。


 熱い血が胸の奥から先の先まで駆け巡るのを感じ、身体の上に腰掛けている撫子に気付かれぬよう、ディーは居住まいを整えた。

「やはり、そういうわけにも………」

「ディー、何処かに行っちゃうの?」

 言ったのは撫子であった。なんで、どうして、おねえちゃんがご飯作って、運んできてくれるし、暖かいし、良いところじゃん、なんで、そんなこと言うの。そんなふうに言いながら瞳を潤ませるのだから、いじらしい。

「ええと……」ディーは少ない語彙を絞って、撫子に説明してやった。「その、ふつう、男の人は、女の人のいる家では暮らさない」

「そうなの?」撫子は細い首を傾げる。「違うでしょ。だって、ふつう、夫婦は一緒に暮らすじゃん」

「おれは、石竹さんと結婚してるわけじゃない」

「なんで? すれば良いよ。しようよ。そしたら、ディーがおにいちゃんになるもん。おにいちゃんで、合ってるよね、おねえちゃんの、旦那さんだったら」

 撫子の無邪気な言葉に、そうですよ、と引き継いだのは苔桃であった。

「だいたい、あんなに良いおっぱいはないですよ」

 ねぇ、そうじゃありませんか、ディーさん。あんなにでかいおっぱい、本土でもそうそうはないでしょう。もちろんおっぱいだけで女性の価値が決まるというものではありません。ええ、それはわかっています。ですが、大事な要素であることは確かでしょう。ねぇ、そうでしょう?

 苔桃の切り口は茶化すようではあったが、表情は不思議に真剣そのものに見えた。

「そうだよね。少なくとも苔桃よりはでかいもん。苔桃が小さいだけかもしれないけど」

 という撫子の言葉を受けて、苔桃の顔は人懐こいそれに戻る。「自分がいちばん小さいくせに、そういうこと言わないでくれる?」

「ぼくはこれから成長して、おねえちゃんみたいにおっぱいおっきくなるだろうけど、苔桃は大人だからもう成長しないじゃん。やーい、可哀想」

 撫子の言葉に釣られ、苔桃の胸元にディーの視線が移る。それを受けてか、片手で胸元を隠すように動かし、もう片方の手で撫子の頭を小突くように手を伸ばすのが、この苔桃という女性が初めて見せた恥じらいのように感じられた。

「じゃあ、そういうことにしておいてあげる。撫子はでっかくなるんだね」と苔桃は撫子の頭を撫で回しながら、笑って言う。「で、いまはいちばん小さい撫子さん、本人の目の前で、そういう比較はしないでよね」

「じゃあ、いないところでする」

「それがいいね」

 何がいいのか、ディーにはいまいちよくわからなかったが、同じ民族の言葉を語るもの同士でしか通じ合わないものもあろう。ディーはそう考えて、納得することにした。納得しなければ話が進まない。


「ねぇ、それで」どうなんですか、ディーさん。苔桃はまだ言ってた。

 いろいろと言いたいことはあったものの、もともとディーは口が回るほうではなく、しかも慣れぬ言語での会話である。女性関係の話題というのも、苦手とするところである。簡潔に、自分には故郷に結婚を約束した女性がいる、と伝えた。

 ふむん、苔桃は一度頷いた後に、こう言った。「ばれなきゃ大丈夫です」

 そういう問題ではない。

「いいえ、そういう問題ですよ。なぜ浮気が駄目なのかと言いますと、それは裏切られたら悲しいからでしょう。ですから、その裏切りが認識されなければ問題ありません。だいたいですね」と苔桃は身を乗り出す。「その彼女は、竹ちゃんよりおっぱいがでかいんですか?」

 そんな目でリリヤを見たことがない、といえば嘘になる。幼い頃と比べると明らかに膨らんでいる胸の双丘に、夢想めいたものをしたこともあった。

 とはいえリリヤの胸は石竹に比べれば、慎ましやかな、手頃な大きさである。いや、もちろん手頃な大きさというのがどれくらいなのか、ディーには想像することしかできないのだが。

「じゃあ、竹ちゃんで良いじゃないですか」

 いったい何が、じゃあ、なのだ。

 ディーがそう反抗すると、苔桃は、「何でも良いのです、男たるもの、決めるときは決めてください」などと言い出す。面白がってだろう、撫子までもが騒ぎ立てるのだから、始末に終えない。言葉を弄して話の軌道をずらすなどということはできぬディーは、話を戻しましょう、戻しましょう、すみませんでした、もう勘弁してください、お願いします、と、ひたすら愛顧することによって耳たぶが熱くなるような話題から離脱することができた。


「住居の話ですが」

 難しいですね、と苔桃は言った。曰く、現在オングルの住民が住んでいる家屋は、ほとんどが敷地面積十から三○平米ほどの平屋である。特徴的なのは、資源と技術の少ないオングルのことだから当然なのだが、釘だの螺子だのをひとつとして用いていない点で、木材を骨組みとして、植物の蔓で縛り付けられている。屋根や壁には樹皮やカヤかれ、さらに冬場には防寒性を高めるため、馴鹿や海豹の毛皮が衣服のように被せられる。屋根の形状は中央から四方向に対して傾斜している、いわゆる寄棟よせむね造りだ。窓には耐水性のある海豹の腸膜が用いられ、明かりを取ることができる。家の周囲には、雨水や溶けた雪が侵入してこぬよう、小さな溝を掘るらしい。

 内部には囲炉裏だとか、煙突だとか、寝台だとか、様々な日用品が入り、周囲には小さな高床の倉庫だの、便所だのを作るわけだが、この際それは無視しても良い。使われていない家屋があれば、そこに住める。

「で、余っている家というのは、残念ながらありませんね」

 この資源に少ないオングルでは、余分なもの、というのは存在しないのだ。思案げな表情の苔桃の解答は、ディーの予想したとおりのものではあった。

 では、新たに作るのはどうか。ディーはそんな問いかけを試みに投げかけてみた。

「被せる毛皮だとか、葺く植物だとかは在庫が無くもないんですが」

 問題なのは、材木であった。家屋に用いるのは、カツラだとか犬槐イヌエンジュだとかの腐りにくい木材と相場が決まっているらしい。如何に防水性の高い毛皮で覆うとはいえ、冬場となれば猛吹雪に襲われるのだから当然だろう。その木材を確保するのは、基本的には夏場であり、冬の終わり際である今は十分な量がない、ということだった。

「作るのも大変なんですよねぇ」

 家屋は普通は一週間、急いで作っても三日はかかるものだという。もし一畳程度のただ寝るためだけの家屋を作るにしても、防寒防水に外来種の落着による地震に備えて作れば、丸一日は要する。家屋を建てるのはふつう夏場なので、今作るとなればもっと長い時間を要するだろう。冬に力仕事は汗を凍りつかせ、病や凍傷の原因となるので、冬のオングルの住民たちは、汗をかかぬよう、なるたけゆっくりと行動するのだ。

 そしてそれだけの長い時間、ディーの家屋を建てるがために力を貸してもらうことはできない。オングルの女たちは、みな生き抜くために忙しい。オングルの一週間は自転周期に等しく、六つに区切って、月火水木金土と曜日がある。だが日曜日はない。まさしく安息日がないというわけだ。


「おれだけで、家を作ることはできませんか?」

「無理でしょうね」

 と苔桃は一蹴した。釘や螺子ねじを一切使わずに木材を組み立てていく建築法は経験を要するという。でなくても、隻腕のディーには一度にふたつの作業を行うことはできない。木材を立てて、それをつるで結ぶ、だなんてことは絶望的だ。

「簡易的な家屋も、無いではないです」

「それは、雪で作るのですか?」

「面白い意見ですね。そういうのも、無くもないですよ」

 こう、まず穴を掘ってですね、と苔桃が地面に図を描いて説明するところでは、それはディーの想像通りに、雪で作るかまくらであった。予想と違ったのは、入口にトンネルが作られていたり、雪を単に固めるだけではなく、ブロック状に固めて螺旋状に積み上げるなど、本格的なものであるということだった。

「あ、これ、ぼくも作ったことあるよ」

 と苔桃の説明を聞いた撫子が嬉しそうに手を挙げた。

「ああ、犬が突っ込んでぶっ壊したやつ?」

「もう一回作り直したもん」

 膨れる撫子が放っておいて、苔桃が話を続けるところでは、こうした雪で作られたかまくらは狩りや採集のために家を離れたり、移住するときの簡易施設ということであった。

「移住というのは……」

「外来種から逃げるための移動です。わたしたちは、わたしたちの親は、そのさらに親は、南へ、南へとずっと移動してここまで来たんです」


 オングルは自転軸が本土に比べて大きく傾いているため、緯度が大きくなると昼や夜の時間が極端に長くなったり、短くなったりする。太陽の出ている時間が極端になれば、単純に明るさの点で生活に不便ということもあるが、さらに冬には極寒に見舞われることになる。そのため、外来種が襲来してくる以前は、オングルの住民は探検家など一部の人間を除き、赤道付近に居を構えていたという。

 だがオングルの北極側の宙域の惑星が外来種に占領され、住民たちは徐々に南へ逃れざるを得なくなった。オングルの守護神、無敵号がこの地に降り立ってからも、人類の遁走は続いた。最強の兵器、無敵の機械を手に入れてもなお、オングルを奪還するでもなく、こそこそと地を這いずり、逃げ回りながら襲撃をかわさなければいけなかったのは、簡単な理由である。すなわち、無敵号は一体しかいない。

 襲撃部隊に惹き付けられている間に別働隊によって叩かれては、どうしようもなかった。また、時に無敵号は敗北することもあった。無敵号は無敵であるが、騎手たる人間はそうではない。卵のように脆い存在を抱え、無敵号はしばしば撤退を余儀なくされた。

 無敵号の力で村を守れぬとなれば、あとは憐れなものである。何しろ、剣が無い、爪が無い、牙も無い。戦う術は一切なく、最低限の物だけを担いで逃げ出すのみ。僅かな抵抗にと、集落に火を点け攪乱するのが精一杯というところであった。人が死に、物資は減った。そして残された人々が寄り添いあって生きているのが、この集落というわけだ。その道中で、人々が寒さと風とを防ぐために作ったのが、先に述べたかまくらなのだという。


「わたしも作ったことがありますよ。撫子のと違って、ちゃんと人が入れるやつ」

 などと笑顔で言うからには、苔桃も寒さと風と、飢えと人死にに包まれた惨めな遁走を経験したことがあるということだろう。

「でもあれはあれで、けっこう作るのが難しいんですよね。綺麗に形を整えないと、すぐに崩れちゃうし。苦労のわりに、夏になれば溶けちゃいますから」

 苔桃によれば、他に柱を立てて毛皮を被せるだけの簡単なテントくらいなら有るということだが、これはあくまで夏用で、冬場にこんなものを使おうなら、風と寒さですぐさま凍死してしまうということだった。

「ほかには、集会場とかですかね」

「石竹さんがご飯を作っている処ですか?」

 集会場という場所の説明は以前に石竹の口から聞いたことがある。炊事場と会議場、食堂、それに日用品の倉庫を足したような場所らしい。

「そうですね。もともとはもっと大人数での利用を考えていたので、空いている場所はけっこうあります。それに竹ちゃんも、最低でも朝に一度来ますから安心ですし」

「それは良くないですね」

「またそんなこと言って」と苔桃は唇を尖らせる。「ディーさんは竹ちゃんのこと、嫌いなんですか?」

「そういうわけではないのですが………」

 石竹に迷惑をかけぬように家を出たいというのに、彼女と毎朝接触を保ってしまうようでは申し訳ない。

 石竹はディーのことを助けてくれた。助けに来たはずなのに何の役にも立たなかったディーを。

 これから先も、何もできないのかもしれない。技術もない、知識もない、言葉も不自由だというのに、この隻腕で、いったい何ができるのだろう。


「ほんとに嫌いだったりして」

 と悪戯っぽく苔桃が言うと、「そんなことないよ。だって家だと仲良いもん」と撫子が反論する。

「そっかそっか。じゃあ照れてるだけだね」と苔桃は撫子の頭を撫でたのちディーのほうを向いて、ほかの候補としてはですね、と話題を元に戻す。「あとは、倉庫くらいかなぁ………」

「空いているところがあるんですか?」

「人が住める程度の大きさのものだと、木材とかの倉庫だったら、夏には使うことになるかと思いますが、いまの時期なら空いています」と言いつつも、うーん、でもなぁ、などと苔桃は何か迷っているようであった。

「問題が?」

「人が住むようにできていないので……防寒がしっかりしていないのは、上から毛皮を被せれば良いのですが、問題は……囲炉裏がありませんし、築材も対策をしていないので、が酷いと思います」

「か?」

「ええと、虫です。小さくて、血を吸うやつ」

 説明されて理解した。蚊か。病気を媒介することもあるし、刺されれば不快だが、そう危惧するほどのものではないのではなかろうか。

「そんなことはありませんよ」と苔桃は大袈裟なくらいに強調して言う。「夏場になれば物凄い量ですから……、まさしく雲霞の如くです。ほんと、厭になるはずですよ。油塗っておけば喰われるのは防げますけど、室内に入ってこられると厄介ですよ」

「ふつうの家は、蚊が入ってこないんですか?」

「夏場は蚊帳が入口に付けられますし、柱の組み木や葺いた所には虫除けの香を付けてます。囲炉裏があれば、蚊避けにもなりますし。倉庫もそうですけど、木材の倉庫みたいに食べ物が入ってない処は虫除けしていないんですよね。いまから虫除けしようにも、そのための草が無いので、ずっと煙を焚いておくことになるかもしれませんね」

「いまは、蚊は居ませんね」

「冬場はまだ大丈夫ですが……、もうすぐ春ですから」

「いまだけで良いので、その倉庫を借りたいと思います」

 えぇ、と撫子の残念そうな声があがったが、ディーはくしゃくしゃと彼女の髪を撫でるだけで言葉は返さなかった。自分の言語能力では、幼い子を納得させられるような理由は言葉にできない。


 苔桃はしばらく考え込んでいたが、「どうしても、とディーさんが仰られるのなら、それは仕方が無いですね。倉庫を人が住めるように改造しましょうか。みんなに声をかけて、手の空いている子には手伝ってもらいましょう」

 その必要は無い、とディーは言ってやった。木材を立てて、縛って、といったことならともかく、既に有る小屋の上に毛皮を被せる程度のことなら、隻腕のディーでも不可能ではないだろう。元はといえば、石竹と撫子の家から出て行くというのは、ディーの我が儘のようなものだ。忙しい女たちに迷惑はかけられない。

「そう簡単にいくものではありませんよ。毛皮は縫い合わせる必要がありますし、倉庫の中も完全に空というわけではないので整理しないと。日用品を運び込む必要もありますし、そうそう、ご不浄も必要ですね」

「ご不浄?」

「便所です」

「ああ……」

 成る程、確かにそれは必要だ、と首を縦に振りかけたディーであったが、問題の焦点はそこではない。オングルの女たちは、みな忙しいのではないのか。

「大丈夫ですよ」と苔桃は人好きする笑顔を作る。「ディーさんがお願いだったら、たぶんみんな率先して手伝おうとするでしょうから」

 そんなふうに言ってくれるのはありがたいが、石竹を見ていて解ったとおりに、オングルの女性は親切だ。助けを惜しまない。申し訳なく思う。

「それは下心があるからなのですよ」

「下心って、なに?」

 と撫子がディーに先んじて尋ねた。幼子では理解できないような難しい言葉か、でなければ姉である石竹が使わないようにしている単語なのだろう。

「ディーさんと仲良くしたいなぁ、という気持ち」

「じゃあ、ぼくも有るね」

「撫子は無いな」

 そう言って苔桃は鈴の音を鳴らした。

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