第14話 ディー
無。
そして敵。
日本語の書き文字にはひらがな、カタカナ、漢字の三種類があるというのは知識として知っているし、オングルの言語がある程度、日本語に基づいているというのは間違いない。そしてこれらの漢字そのものは何処かで見たような覚えがあるが、どの漢字がどういった意味を持つのかは、さっぱりわからない。ディーは正直にそう言った。
「このひとつめの漢字が『無』で、無い、存在しない、という意味です。次が『敵』で、これは、えっと、敵……敵は、ええと、相手ですかね」
と複雑怪奇な文様にしか見えぬ漢字を棒で地面に描きながら、説明してくれたのは苔桃である。
石竹の家を出てから、ディーはオングルの集落を撫子の案内を受けて歩いた。「苔桃はたぶん、無敵号のところに居るよ」ということで、向かったのは昨日も訪れた、山に空いた洞、壁の穴である。
昨日は雪が少し降ったはずなのに、やはりこの祠のような洞穴の周りだけ雪が融けている。融けた空間の中心にあるのは、無敵号だ。
昨日と変わらず鎮座している無敵号のもとへと向かうと、その巨躯の左胸の辺りに苔桃の姿が見えた。ちょうど昨日も石竹が搭乗していた座席のようになっているそこで、なにやら作業をしていたらしい。
苔桃のほうでも来訪者に気付いたのか、凹みの手前に張られた木枠を乗り越え、伝うようにして膝へと乗り移り、そこから飛び降りて地面に着地した。長年無敵号と接してきたことを思わせる慣れた動作であった。
苔桃の格好は、裾の長いシャツに、ポケットの多いカーゴパンツのようなズボンで、本土育ちのディーにとっての一般的な格好に近い。しかし持っていた前合わせの上着を一枚羽織ると、石竹ら他の女たちに近い格好になった。結んでいた紐を解くと、柔らかそうな髪が肩に落ちた。
降りてきた苔桃に、無敵号に教えて欲しいと頼むと、彼女は快諾し、そして最初に教えてくれたのが「無敵号」という名についてであった。
「ひとりきりということですか」
とディーは漢字二文字から連想される意味を己なりに解釈してみた。漢字というのは、表意文字で、文字そのものが意味を持っている。相手が存在しないということは、すなわち、ひとりきりということだろう。
しかしひとりきりというのは、恋人と遠く離れたこの地に居る己自身のことのようで、なんだか悲しいな、いや、ぼくはひとりじゃない、距離は離れていても心は繋がっているのだぞ、とディーはふたつの漢字を眺めながら、かつて漢字の概念を教えてくれた故郷の恋人のことを想った。
「えっと、敵、の意味する、相手、というのは、戦う相手のことです。だから、無敵という言葉の意味は、戦う相手が居ないほど、誰よりも、何よりも、どんな敵もものともしないほど、いちばん強いということになります」
「いちばん、強い……」
「無敵号ですから」
腰に両手を当て、苔桃が薄い胸を張る。昨日の石竹と同じだ。なるほど無敵号はオングルの住民を、外来種の侵略から守ってきた。それを頼もしく思うことだろう。誇らしく思うのだろう。
無敵号というのは恐ろしく単純で、恐ろしく強靭な兵器らしい。
改めて、その巨躯を見上げる。
無敵号のその見た目を一言で言い表せば、人間の四倍程度の大きさのある巨人である。しかしそれはあくまで、直立二足歩行をし、二本の腕を持つという観点でのみ見た場合のことで、ひとつひとつを見てみれば、人間というにはあまりに歪だ。足と腕が人のそれにしては異様に太く長く、頭は胴と一体化していて区別がつかない。足の平の半分以上を占める指は三本で、その爪先に届きそうなほど長い手の指は四本と、人間のそれではない。身体にはひとつとして繋ぎ目が無く、曲げ伸ばしされるはずの指や膝さえも一体になっているのは、何かしらの特殊な素材で出来ているのか、それとも境界が見えないようになっているだけなのか。橙色と黒色のツートンカラーは、昨今の戦争では珍しく、威嚇仕様と考えればわからないでもないが、やはり目を惹く。
武装はその両の拳のみ。敵を見つけ、その二本の足で走り寄り、ぶん殴る。蹴り付ける。捩じ伏せる。あるいは敵が手の届かないところにいるのならば、手近な岩だの氷だのを引っ掴み、ぶん投げる。ただそれだけ。
しかしそれだけの兵器が、これまで人類が苦労していた外来種の兵器を破壊していた。
「昨日、竹ちゃんが戦ったのは、わたしたちが
「うさぎがた?」
「兎だよ」と言うのは撫子であった。頭の上で手を立てて、「ぴょこぴょこ。兎、解るでしょ?」
「兎は」と苔桃が補足して説明する。「うーん、こう、耳が長くて、白かったり茶色かったりで、鶏肉みたいな肉質の動物です」
ああ、とディーは合点がいった。兎、兎か。
苔桃が説明した兵器は、本土でも弐型偵察車両と呼称されていた。本当に偵察を行っているのかどうかは解らないが、受信機らしい長い装置を持ち、外来種の戦車の中ではかなり小型かつ動きが素早いので、軍ではそう分類していたのだが、なるほど、オングルではその長い受信機を兎の耳に見立てたわけだ。
オングルでいうところの兎型は、砲台や足回りは非力で、外来種の兵器の中ではそれほど強力なものではない。それでも正攻法で戦えば、一台の兎型を破壊するために、人類側は数台の戦車と航空戦力を犠牲にしなければならないほど強靭で、強力だ。昨日はそのような兵器を六機同時に相手して、石竹の駆る無敵号は全てを破壊したらしい。
しかも無敵号がこれまで相対してきたのは、外来種の兵器の中では比較的装甲が薄く、機動性に特化した兎型だけではなかったらしい。機動力と攻撃力を併せ持つ多脚戦車や鈍重な外見に似合わず水陸を問わずに行動可能な水陸戦車両など、人類の武器では破壊が難しかった兵器さえ、それぞれ
「こう、ですね、おっきな砲台があって、下はキャタピラになってで、それでぐーって走って、ばーんばーんって撃ってくるやつとかとも、戦ったことはありますよ。鯔型っていうんですけど」
という苔桃の説明だけで断言するのは如何なものかと思わないでもないが、おそらくそれは外来種の兵器の中でもとりわけぶ厚い装甲と一撃で剛外殻の戦艦に穴を空けるほどの威力の砲台を持つ、無限軌道戦車だ。惑星破壊以外の方法で、人類が
その脅威の兵器を、たった一機の二足歩行戦車が破壊したとは、まさしく驚異である。
それを可能としているのは、外来種の兵器にも劣らぬらしい無敵号のその強靭さだった。
「無敵号は強いのです」
「そう、強いんだぞ」
と苔桃に続け、なぜか撫子も自慢げに言ったのがおかしかった。
とはいえ、その薄い胸も張りたくなる気持ちも解る。苔桃たちが伝え聞くところでは、無敵号がオングルにやってきて以来、いや、正確にいえばオングルに落着した無敵号を住人が発見して以来ということになるらしいが、無敵号にはその装甲に傷ひとつ付いたことがないという。あらゆる攻撃を跳ね除け、逸らし、避け、受け、無効化してきた。おそらく単純に装甲が厚いだとか、硬質の素材を使っているだとかだけではない、何か得体の知れぬ防衛機構が表面に存在しているのであろう。
そしてその強靭さを盾に敵に接近し、殴る。殴るにしても、見た目どおりの質量なら、いかに素早く振りぬこうとも、外来種の兵器の装甲は貫けないはずである。だのに破壊するのだから、おそらくそちらにも単純に殴る以上の機構があるのだろうが、それは石竹ら、オングルの住人にもよく解っていないらしい。勿論、ディーにも解らない。本土に持ち帰れば解析できるかもしれないが、ここではどうしようもない。
重要なのは、走り、殴るというひたすら単純な動作だけで無敵号があらゆる害悪を跳ね除けてきたということだ。
だが無敵号は完璧ではなかった。それを示すのが、右胸の巨大なレンズだった。光を受けて赤く輝くそれは、何か硬い物が衝突したかのように蜘蛛の巣状に罅割れていた。傷ひとつ付かぬ無敵号の、唯一の例外である。
「発見されたときには、既に割れていたらしくて」だから、と苔桃は説明してくれた。「どうして無敵号の眼が割れているのか、誰にもわからないんだそうです」
理由はともかくとして、重要なのは、無敵号の搭載されている視覚装置らしき部分が正常に動作していないことである。
無敵号は、昨今の兵器事情に漏れず、自律して稼動する兵器である。しかもおそらく、外部に指示系統を持ちそちらからの指示に従って動くのではなく、完全自律で自ら情報を入手し、判断を行うタイプだ。
情報を得て、判断し、行動を行う。それは生物にも共通するルーチンだ。無敵号の壊れたレンズはしかし、外部情報の取得を困難にしていた。
目で外部の情報が取得できなければ、その情報に基づき何処に敵がいるのかを判断することはできない。何処に敵がいるのかわからなければ、どのように攻撃を行えば良いのかわからない。
もちろん視覚情報のみが外部情報ではない。実際に無敵号は割れた目を持ちながら、おそらくは音や振動を頼りに、あるいは無敵号にしか解らないようなある種の信号を感知して外来種の襲来を察知し、動くことがあるという。しかし空気や地盤の濃密で変化しやすく、しかも速度がせいぜい音速の振動に比べて、ほぼ直線に光速で伝わる視覚情報は戦闘行動においてはこれ以上ない有用な情報だ。
ゆえに人間が騎乗し、無敵号に戦うべき先を教えてあげる必要があるのだ。苔桃はそう説明した。
「無敵号はですね、ちょうど、こう、眼の反対側、左胸のところが凹んでいまして」と苔桃は自らの薄い胸に手をやり、さらに鎮座する無敵号の分厚い胸を指差す。「あそこに見えますよね。さっきわたしが居たところです。壊れたとかじゃなくって、もともとそういう形になってるんですけれども、戦うときはそこに乗っているんです。騎手席と呼んでいます。で、そこにある無敵号の身体の出っ張ったところの一部を押したり、引いたり、そうやって敵の位置とか、攻撃が来てるかとか、そういうことを教えてあげてるんです」
予想はできていたものの、彼女らが「騎手席」という場所を仰ぎ見て、ディーは絶句した。先ほどまで苔桃が座っていた、騎手席と呼称された無敵号の胸の凹みは、下部を木材や獣の皮らしきものなどで覆っているだけ状態で、ほとんど身を外気に曝け出しているようなものだ。透明な素材が調達できず、広い視界を確保して目視で敵を確認しなければいけないのだから、その構造は理解できるが、そんなところに跨って戦うなど、危険すぎるではないか。いつ何時放り出されるか、わかったものではないではない。落ちるだけで死んでしまう。
「そうですね」とディーの言葉を聞いて苔桃は頷いた。「まっ、しょうがないですね。もともと人間が乗る用みたいじゃないですし。でも乗り心地はそんなに悪くないですよ。戦闘中じゃなければ。中は暖かいし」
(口がよく動くな)
苔桃の説明を受けて、ディーはそんな感想を抱いた。
先日、石竹を交えて遣り取りしていたときとは異なり、今日の彼女はディーにも解り易いよう、ゆったりと平易な言葉を使って説明をしてくれた。活発に動くのは小さな口だけではなく、大きな瞳や短い指先、柔らかそうな腕もよくよく動く。余所余所しい他の女たちとは異なり、やけに馴れ馴れしく、少し変わった人物だと思っていたが、こうして対峙してみると、よく動く口で無敵号に関して嬉しそうに話す、ただの女性だという気がする。
撫子が無敵号を、たぶん単純に強いから、好いているというのは昨日今日の様子を見ていてよく解る。幼い子どもが強く巨大なものに憧れを抱くというのは、至極当たり前のことだろう。
一方で相応の年齢の女性の苔桃が無敵号に抱く感情は、単なる憧れとは少し違うように見えた。理由は解らぬが、しかしきらきらと目を輝かせ、嬉々として無敵号について語る様子を見るのは、少し奇矯に見えないでもないが、悪くなかった。
向かい合って話し込んでいる、というかほとんど苔桃が話すのをディーが聞いている状態なのであるが、そのうちにだんだんと興味が湧いてきたのは、目の前の女性についてであった。オングルの住民について、といっても良いかもしれない。例えば苔桃は、どんな仕事を生業としているのだろう。今日の住人たちは、皆、忙しそうであった。石竹は料理を担当しているようで、類に漏れずに毎日忙しそうであるが、苔桃は例外のように見える。
「ああ、すみません、わたしばっかり喋っちゃって」
忙しくありませんか、とディーが尋ねると、苔桃は恥ずかしそうに視線を逸らしてそんなふうに言った。どうやら話を打ち切りたがっているのだと誤解させてしまったらしいのだが、ディーには申し訳ないという気持ちと同時に、何処かしら愉快めいた気持ちが生じた。昨日から、苔桃という女性は石竹に対しては強気というか、他人をおちょくる調子であり、初対面のディーに対しても物怖じせぬ様子ではあったが、やはり若い女性ということか。
「いえ、他の……沢山の人が、忙しかった、忙しそうに見えたので」
「ああ、明日から夜だもんね」
と言ったのは、ディーの膝の上を定位置として確保する撫子であった。
オングルの自転周期は約一五〇時間と、地球の約六倍だ。このあまりに遅い自転周期は、オングルが利用価値が少ないとみなされた原因のひとつである。普通、人間居住に適しているとされる惑星は、気温や大気組成、重力の大きさもさることながら、自転周期も重要で、というのも本土の時間、より正確にいえば人間の体内時計なのだが、それと比べて自転周期が長くても、短くても体調を崩しやすくなるからだ。
生物はその惑星の自転に合わせた体内時計を有しており、人間の場合はおおよそ二四、五時間を一日としている。現在の本土の自転速度は二十四時間と少々であるため、僅かに体内時計との時間にずれがあるものの、日光だとかの環境刺激を受けることでその体内時計のずれは補正される。それでもあまりにずれが多すぎると補正が働かなくなり、健康に変調を来たす。いわゆる時差呆けの状態だ。
体内時計と自転周期のずれが大きい惑星で、その自転に合わせた生活をしていると、常に時差呆けに近い状態になる。体内時計は本土の時間単位で動いているのに、環境状態の変動はそれとはまったく違うのだから、本能が混乱してしまうのである。
基本的に自転周期が大きく異なる惑星、たとえば自転周期が地球の二倍以上長い惑星に居住する場合は、時点時間を二十二から二十六までのいずれかの数で割り、その割る数を現地一日、割る数に商をかけた、つまり割られる数を現地一週間とするのが普通である。つまり、オングルでは現地での一日を二十五時間とし、現地での一週間は六日なのだ。
こうなると、前半の三日は常に昼、後半の三日は常に夜となる。週の初日は本土でいう四時から八時で朝方、二日目が八時から十二時で昼、三日目が十二時から十六時の夕、四日目は十六時から二十時で薄明から夜で、五日目が二十時から二十四時の真夜中、そして六日目が零時から四時で深夜から未明といったところだろう。
本来ならば一日の半分が昼で、半分は夜なのだから混乱するように見える。だが一般に、その惑星で生まれ育った人間は、一日として定義した時間が体内時計の時間から大きく逸脱していなければ、その惑星の自転周期に順応するといわれている。実際、石竹たちはこのオングルで問題なく生活しているようなので、その説は正しいのだろう。
今日は週の三日目の午前中だから、本土でいえば十三時から十四時といったところか。南緯四十度地帯にある村であるため、太陽高度はそれほどでもないが、昨日に比べれば遥かに暖かく、摂氏零度よりは上だろう。しかし明日、太陽が沈んでからは一変して冷え始めるだろう。
さらに危険なのは、闇夜だ。
「暗くなると危ないからね」と撫子が得意げな顔で補足してくれた。「ご飯も取るのも大変になっちゃうし。だからみんな忙しい」
オングルのゆっくりとした自転周期と潮汐を引き起こしている衛星はふたつある。夜でもオングルの地表を明るく照らす、現地民には本土の衛星と同様に「月」と呼称されるそれらが闇夜に輝く姿を、ディーは厭というほど見た。槍の折れたあの場所で。何も無い雪原で。
空気の澄んだオングルの大気の中で、眩しいほどに明るかった。神々しいほどに。だがあくまで衛星は衛星だ。恒星ほどには明るくない。闇夜が作り出す不便さは、この村のような電気の行き届かない場所では相当なものだろう。急ぎ足の人々は、夜に向けての準備をしているのだということは、ディーにも想像がついた。
「苔桃はぜんぜん忙しくないよね」
と撫子が言った。
「わたし、暇に見える?」
「暇かどうかは知らないけど、いつも暇そうには見える」
「ほう、なんで?」
「うーんと、苔桃は……」撫子は指を顎に当て、考える仕草。「だって、あんまり忙しくなさそうだから」
答えになってないな、とディーは思ったが、言わないでやった。
「苔桃のお仕事はね、他のみんなと違うんだもん」
と、己でも言葉の足りなさに気付いたのか、撫子は急いだ様子で言い添えた。
「どこが、違う?」とディーは訊いてやる。
「他のみんなの仕事は、ご飯とか、水とか、犬とか、馴鹿とか、そういう、無くっちゃ困ることだけど、苔桃だけ、違うもん」
「なぁに言ってるの」と苔桃がディーの膝の上の撫子に手を伸ばす。「わたしのお仕事も無くっちゃ困るものなんだぞ」
撫子は苔桃の手を払い除けるようにしながら、だって、と言う。「だって、苔桃のって、変な機械が書く変な紙見て、変な計算したりだとか、変な式書いたりだとか、そういう変なことばっかりやってるじゃん。よく解んないもん」
「撫子にはまだ早かったかな」
「おねえちゃんも、苔桃のやってることはよく解んないって言ってたぞ」
「竹ちゃんにも早かったね」
「綿菅も、苔桃の予報は当てにならないって言ってた」
「綿ちゃんはお仕置きだな」
「あの」とディーはじゃれ合うふたりの会話に割って入る。「苔桃さんのお仕事は、無敵号のことですか?」
「いえ、わたしの仕事は、天気の予報だとか、外来種の落下地点の予測だとか、そういったことです。ここにいたのは、いろいろと都合が良いからです。夜の間は、出歩く者が少ないので、予報業務がゆっくりできますから、わたしだけ昼の終わりは暇なんです」
ディーは驚いた。天気予報など、こんな環境でできるのか。
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