第13話 石竹

「まったく、もう、あの子は………」

 誰もいない集会場の炊事場のところで、料理の準備のために袖を巻くり上げながら、石竹は溜め息を吐いてしまった。


 オングルで最年長世代に属する彼女にとって、ほとんどの女たちは年下なわけであるが、あの子、という言い方をする場合、その対象はたいていふたりのうちのどちらかだ。

 ひとりは妹の撫子である。撫子はまた六歳で、子どもの少ない(というより、現在ではたったひとりになってしまった)オングルでは、甘やかされて育った。そのせいか、しばしば勝手な行動をしては、他人に迷惑をかける。道具を壊す。物を引っ繰り返す。犬を逃がす。そういったときに、石竹は「まったく、あの子は」と呟くのであるが、今回はそのパターンではなかった。

 もうひとり、「まったく、あの子は」と呟くに足る相手は、撫子よりも二〇年上、石竹にとっては同い年であり、集落の最年長である苔桃である。小柄な身体ひとつで集落中の気象観測・地震探査の機器の保全を行い、さらには暇を見つけて無敵号の整備(といっても無敵号がどんな仕組みで動いているのか知らないオングルの住人にとって、可能なのは汚れを拭き取る程度のことであるが)をしている彼女だが、行動としては撫子とあまり変わらない。抓み食いなど日常茶飯事だし、何かと言い訳をして繕い物を押し付けてくることもある。流石に十四歳を過ぎてからはほとんど無いとはいえ、かつては犬や馴鹿に眉や髭を描いたりなどの悪戯をしたこともあった。

 ただし、仕事に関しては誰よりも真面目だ。それは彼女の仕事内容が人の命に直結するものだからかもしれない。苔桃は天気予報のためにデータを集め、そのデータ標本を独自の気候モデルを用いて、半日、一日、三日、そして一週間後の予報の計算をする。その予報精度はお世辞にも高いとはいえず、天気の予報とはいっても、冬場は吹雪くか、吹雪かないか程度の予測しかできないわけだが、長時間野外で活動しなければならない綿菅や葉薊などにとっては、視界を遮るほどの吹雪があるかどうかというのは非常に重要だ。

 また地震観測は、集落付近では造山運動が激しくないため、ほとんど外来種の落下地点の予測に使われている。ひとつきりしかない無敵号を外来種迎撃に向かわせるためには、ある程度の落下地点が判っていないとすれ違いになってしまう可能性があるため、落下地点の推定は非常に重要だ。機器を拭いたり、調整したり、乾燥剤を入れたりといった観測機器の保全はともかく、天気予報や落着地点の計算は他人が簡単にこなせるようなものではなく、ゆえに彼女の仕事の重要さは医者や狩人、犬番に比べればずっと大きいといえる。

 日常生活がいいかげんなわりに仕事は真面目ということは、要は分別を弁えているということであり、生死を決めるような重要ごとに関してはふざけないようにしているのだろう。しかしだからといって、日頃の生活で他人様に迷惑をかけて良いわけではないだろうに。


 思い出すのは、無敵号のところから戻る道程であった。苔桃は何度もディーにちょっかいをかけていた。手を握ったり、腕に抱きついたり。見ていて堪らず、石竹は彼女のフードを掴んで引っ張ったりするのだが、「なんてことするの、乱暴なんだから」などと言って、ディーに同意を求めたりする。ディーもディーで、言葉も碌々解らないのに、とりあえず同意しておこう、などという感情がありありと見て取れる曖昧な表情で頷くのだから、ええい、まったく、腹が立つ。

 石竹はもう一度息を吐いた。これは妬みだ。間違いない。自分はなんと性格が捻じ曲がっているのだろう。嫉妬心を自覚すると共に、己に対する情けなさがぐるぐると旋回しながら持ち上がってくる。

 ディーに肩を貸して寝台に連れて行ったのち、撫子に留守を頼んでから夕飯の準備をするために出てきたが、こんな精神状態では食事の準備も捗らない。炊事場に来て三十分ほど、台所の前で佇んでいただけだった。もともと食事担当の石竹が騎手となった場合、料理の準備が滞ることは珍しくないのだが、今日は一際だ。朝作っておいた雑穀粥と鮭と野菜の汁が十分に残っているのは幸いで、あとは適当に肉か煮物でも用意すればよかろう。もともと、朝餉以外の飯はいいかげんなものなのだ。

 銅鍋で湯を沸かす。まだ狩られて新しい企鵝ペンギンの肉を天然銅の包丁で切り分けて、湯に入れ、水炊きを作ることにする。

 銅は、昔から残っている僅かな遺産を除けば、オングルで唯一利用されている金属である。南緯四〇度帯には稀ではあるが、もう少し南へ行くと露呈した銅が存在していることがあって、かつてのオングル探検の文献によれば、このような場所は極域に行くほど多くなるらしい。掘り出した純粋な天然銅を複雑に加工する技術は無いので、適当な形の物を海豹の皮紐で縛り、馴鹿の骨に固定し、そのまま包丁としている。包丁というものは、本来はもっと使いやすい形状をしているらしいというのは伝聞で知ってはいるが、いまのオングルの素材と技術では、これが限界である。

「ディーさんの乗ってきた船のあるところまで行ければ、何か日用品でも見つかるかも」

 船は軍用の宇宙船だろうが、どんな用途の船にせよ、食料と衣類を積んでいないということは有り得ない。料理人くらい居るだろう、包丁くらい積んでいるだろう。鉄の鍋もあるかもしれない。

 とはいえディーの前で、そんなことは口に出せない。あの船には、彼の友が、仲間が乗っていたのだ。その遺品が欲しいなどと、言うわけにはいかない。

 ディーによれば、彼の乗ってきた船は完全に大破してしまい、生存者も彼だけということである。もしかすると、という思いは彼の中にずっとあったようだが、それも朝日が昇り、そして落ちる一週間を経るうちに諦めがついたようだ。冬の南緯六〇度以南の領域は、ディー自身も体験しているように、この四〇度帯に在る集落よりずっと過酷だ。船が居住としての機能さえ失っているのなら、万が一生存者が居たとしても、夜の間に凍りつく。ディーとて、馴鹿トナカイが通りがかからなければ、そんな運命を辿っていただろう。

 ディーは、石竹たちを助けるためにやって来たというのに、逆に助けられた格好になったことについて、非常に申し訳なさそうにしていた。しかしディーたち本土の住民の救援の手を伸ばしてくれたという事実はありがたいもので、それが結果的に失敗してしまったとしても、仕方の無いことだ。オングルが本土から無視されていなかった、見放されていなかったことが知れただけ、嬉しい。

 問題は別にある。己の中に湧きあがっていた感情を思い出し、石竹は何度目かわからない溜め息を吐いた。

「男の人、か………」

 異性がいるというのは、思っていたよりも難しい状況かもしれない。


 オングルに男が居ないのは、その殆どが無敵号の騎手として死んでいったためだ。

 無敵号は、無敵だ。あらゆる攻撃を跳ね返し、どんなに厚い装甲を持つ外来種の兵器をも破壊する。

 しかしそれは無敵号本体に限ってのこと。その装甲に半ば包まれ、半ば身を乗り出して敵を索敵し、方向を指示する騎手は、無敵号の恩恵を受けることはできない。戦闘中、飛来物を感知したりすると無敵号はその腕で騎手席を守ってくれることもあるが、それは余裕があるときだけだ。余裕がない接近戦では守る間もなく弾丸が叩き込まれ、砲身を押し付けられ、吹き飛んだ無敵号に押し潰され、高速機動で放り出され、騎手が死ぬということは幾度となくある。

 オングルの男は皆、女を守るために無敵号の騎手となり、そして死んでいったのだ。石竹と三つしか違わなかった兄も、面影しか覚えていない父も、会ったことすらない祖父も、騎手として死んだ。石竹の家族だけではない。おそらくはオングルで唯一の生き残りの集落であろうこの場所に集った者たちの先祖は、無敵号を最後の盾として、砦として集った者たちだ。だが無敵号を頼りにした者たちはみな、最後は無敵号そのものに殺されたようなものだ。

 男性がすべて死に絶えるまで、女性の騎手というのは存在しなかった。女が戦いを厭うたというのもないではなかったが、それ以上に男たちが許さなかったのだ。

 無敵号を駆るというのは、それだけで男にとっては誉れだったらしい。無敵号に騎乗して集落を守り、敵を殲滅する騎手は、己を姫を守る騎士のように感じていたのかもしれない。

 だが、そうした夢想は間違いだったといわざるを得ない。結果として男子は死に絶え、女子だけが残った。女性だけで子を残せるはずもなく、今後オングルの人口は減っていくばかりだろう。その後は女だけで騎手を続け、残り人数はいまや二十七人。オングルから人類が死に絶え、無敵号を駆る者がいなくなるまで、そう遠くあるまい。


 そう考えていたところに、ディーがやってきた。


 やってきたのだ。


(ディーさんは、わたしたちを助けるために来たみたいだけれど………)

 それを実現するのが困難であるということを、当の救助対象である石竹は理解していた。

 外来種との戦争が激化し、オングルもその戦火に晒されて文明と隔絶されるようになったが、本土からの救助がこれまでになかったわけではなかった。オングルに接近し、探査艇や降下艇を下ろして、オングルの残留民を救い上げようという試みもあったようである。もっともそれは石竹の記憶にあることではなく、百年近く前、まだ外来種との戦争が始まって間もない頃の話である。

 子孫である石竹たちがオングルに取り残されているのだから、結果としてその試みは達成できなかった。当然である。人類の軍は、兵器は、力は、外来種に対し、劣っていた。その力関係は、オングルに無敵号が落ちてきてからも変わらない。巨視的に見れば、地を這いずり回る鼠に等しい無敵号の存在は、集落の周辺では大きな影響を持つものの、オングル全土を巻き込む支配権争いや大気圏外のいざこざに関しては一切関与しないのだから、当然である。

 しかもオングルは、本土から遠く離れたところにある惑星だ。大規模戦艦を率いては敵の索敵網に引っかかり、少数の船で向かえば危険が大きい。ディーの乗ってきた船は、単体でも小規模艦隊に見劣りはしないせいのうだったそうだが、その船さえも、オングル突入前に破壊されてしまったという有様である。


(助からない)


 できれば助けて欲しいとは思う。自分は無理でも、まだ小さな撫子や若い一華といった子らだけでも救って欲しいと思う。

 だがその難しさも、理解している。


(生きられない)


 そして救助の難しさを理解しているのは、石竹だけではない。苔桃も、綿菅も、オングルの置かれている状況を理解している年齢の者たちなら、みな。


(死ぬだけ)


 死ぬのは仕方がない、という達観に似た気持ちはないではなかった。元より、無敵号の存在がなければ石竹は生まれることすらなく、祖父母の代で、いや、もっと前にオングルの人類は死に絶えていただろう。自分は二六年生きられた。


「でも、何も遺せないで死ぬのは厭」


 そんな想いもあった。死ぬのは、仕方がない。弱ければ、死ぬ。負ければ、死ぬ。

 石竹は無敵号ではない。ただその恩恵を受けているだけに過ぎない。だから、弱い。厭だ、厭だと言っても、死ぬことは止められない。だから、仕方がない。死ぬことは仕方がない。

 だが何もできないで死ぬのは厭だ。

 これまでは、どうしようもなかった。自分の生きていた足跡を残したいと考えたとて、できることはなかった。いくら厭だ厭だと言ったとて、何も変わらなかった。

 だがいまは、ディーがいる。


「子どもを作ることができる」


 怖いのはその己の考えだ、と石竹はまた溜め息を吐いた。石竹がこのように考えているということは、他の殆どの女たちも同じように考えている可能性が高いということだ。

 多くの女の中に異性がひとり、しかもそれがお話に語られるような美形となれば、奪い合いになることは間違いない。事実、現時点で既に石竹自身、馴れ馴れしくディーに接する苔桃に、嫉妬心を抱いている。よろしくない。

 できれば皆がいがみ合うことなく、仲良くやりたいと思う。仲良くできるのがいちばんだ、というのが亡き母の口癖だった。

 無敵号とて、常に人々を守れるわけではない。時には戦火は村まで拡大し、人が死ぬ。撫子の両親も、そうした戦火によって死した者たちのひとりだった。石竹の母は、孤児となった、まだ赤子の撫子を引き取り、育てた。そうして撫子は石竹の妹になった。

 石竹は初め、手間のかかる撫子の存在が疎ましかった。

 だが石竹が何かにつけて文句を言うたびに、母は、仲良くしなさい、とそれだけを言った。当時は不服であったが、現在では日毎に成長する撫子を見るのは何にも代え難い喜びのひとつで、母の言っていることは偽りではなかった。それを知っているから、できればみんな、仲良く生きたい。それがたとえ不可能なことでも、求めることそのものは間違ったことではないと思う。

 企鵝肉の水炊きの味見をする。われながら、良く出来ている。少し薄味に成り過ぎたような気もするが、海豹脂でタレを作って必要に応じてかけるようにしておけば、女たちからも文句は言われぬだろう。何より、内臓が弱っているディーには良い。きっと喜んでくれるだろう。そして。そして。


 そして?


 完成した水炊きを、己と撫子、それとディーのぶんだけ鍋によそって、石竹は自宅へと向かった。

 胸中は暗澹たる想いであった。

 同じ村の友人たちと仲良くやっていきたい。そう思っているというのに、行動にしてみれば、どうだ。他の女たちに奪われぬよう、彼の姿を隠し、自分はといえば、よく気がつく、甲斐甲斐しい女を演じている。これでは駄目だということは解っている。だが解っているだけだ。

 自分自身に腹が立つ。

「だいいち、こんなことしても無駄なのに」

 ディーには恋人がいる。

 彼が大切にしていたロケットペンダント、その中に入っていた写真のプラチナブロンドの女性は、間違いなくディーの恋人だろう。

(色の白い、綺麗な子だったなぁ………)

 何度思い返してもそう思ってしまうのは、自分と比較してしまうからだ。反射率の高い雪面に照らされているせいで、石竹の肌は、雪とは程遠い色に焼けている。長く冷たい冬を耐えるために、手や足の皮は荒れてがさがさだ。外来種との戦いで巻き上がる熱を帯びた土や金属の飛沫を受けて、所々赤く、黒く、醜くなっている。

 己の手を何度も眺め回すのは止めにした。鍋を取り落としそうになったから。

 昼間に歩いたせいか、少し疲れた表情のディーだったが、夕飯はしっかりと食べてくれた。綿菅の言うとおり、十分に快方に向かっているのだろう。

「美味しいです」

 そんな素朴な言葉が嬉しい。ディーは目鼻立ちの通った精悍な顔立ちであるが、笑うと可愛い。スプーンを握る手は長くて、節張っていて、それでいて指は意外と細くて、可愛い。慣れぬ言葉で必死に言葉を紡ごうとする様子が、堪えようもないほど可愛い。家から出したくない。ずっと傍にいて、可愛がっていたい。仔犬と同じだ。


 だから翌日になって、ディーが外に出てみたいと言いだしたときには、首輪をつけてやりたくなった。鎖も。

「駄目ですか?」

 恐る恐るという調子のディーに、駄目だ、ふざけるな、何処にも行くな、とは言えない。

「あ、危ないですよ」

 外にはいろんな生き物がいるのだ。たとえば海豹だとか、鮭だとか、企鵝だとか、狼だとか、熊だとか。特に危険なのは人間で、中でもいちばん凶悪なのは苔桃という女である。男を見つけると襲い掛かってくるかもしれない。

 その危険生物であるところの苔桃にも会ってみたい、と彼が言い出したので、石竹は耳を疑った。

「あ、いえ……、苔桃さんに会いたい、というよりは、無敵号のことを知りたいんです」

 彼がそんなふうに言い出した理由を石竹は知っていた。軍人であるせいか、ディーは元々オングルを守る兵器に興味が有ったようだが、これまでは言語の不一致のため、石竹は彼に正確な無敵号像を描画してやることができないでいた。昨日、初めて無敵号を目の当たりにして、溜まっていた疑問が急に溢れ出したらしい。帰路でも、家に帰ってからも、昨日の夕餉でも、無敵号に関して様々な質疑を投げかけてきた。

 悪かったのは、苔桃が無敵号の話でディーを釣ろうとしていることが解っていながら、その意図を断ち切ることができなかったことである。

「きちんと答えてやれば良かった」

 昨晩、きちんとディーの相手をして、無敵号に対する疑問を石竹なりに氷解させてやれば、今日になって苔桃に話を聞きたいなどとは言い出さなかっただろう。しかし昨夜は疲弊していたのだ。ただ敵の居る方向を指し示すだけだとしても、無敵号の騎手を務めるのは苦労するのだ。おまけに夕餉を作ったのだ。「残りの質問は、明日にしていただけませんか?」と言っても仕方がない状況ではあったのだ。だがそうすべきではなかった。

 これは第一次反抗期と同じだ。石竹は二、三歳の頃の撫子を思い出した。「なぜ」と「どうして」ばかり言う撫子に飽き飽きしていた石竹に対し、母は、「きちんと答えてあげなさい」と言っていた。解らないことでも、一緒に考えてあげるのが良いのだから、と。ディーは幼児ではないが、石竹に対する不信感が芽生えてしまったのかもしれない。

「無敵号のことだったら、わたしが……わたしが教えてあげられますよっ」

 そんなふうに言ってみても、一度植えつけてしまった反抗心は容易には覆らなかった。

「でも、苔桃さんが、知っていると……ええと、他の人よりも、苔桃さんが、無敵号のことは、知っていると、言っていたので………」

 そう言われて返す言葉に詰まってしまったのは、苔桃が無敵号に詳しいというのは事実だからだ。


 オングルが女だけになる以前、騎手が当番制ではなく、特定の職業の人物が行う仕事として扱われていた時代があった。そんな時代、石竹の知る限り、最も長く無敵号の騎手を勤めた人物こそが、苔桃の伯父だ。苔桃とは歳が離れていたため、彼女は「おじいちゃん」と呼んでいた。

 いまの苔桃の片手間の整備作業は、その人物の仕事を引き継いでいるようなものだ。無敵号について解っているいることは少ないとは、それでもその少ない事実について、最もよく理解しているのが彼女であることは間違いない。

 自身もそれを理解しているからだろう、彼の興味を察知した苔桃は、昨日の去り際、ディーの耳元に無理矢理に唇を寄せて、「わたしのほうが竹ちゃんよりも、無敵号に関して詳しいと思います。ですから、もしまだ無敵号について気になることがあれば、わたしのところに来てください。一から十までお教えしますので」などと言い放った。わざわざディーの顔を寄せさせたのに、聞こえるような声量で、なので、間違いなく石竹をおちょくっているのであろうが、彼の興味を満たしてやろうとしているのは本当かもしれない。

「無敵号のことだけではなくて、もっと……ええと、石竹さんたちのことを知りたいのです」

 他意がなく、語彙がないだけなのだろうが、それでもディーの必死な物言いには心を動かされた。それに、怪我や重態であることを理由に足止めをしようにも、昼間歩く姿を見せられた以上は、もうこれ以上は食い下がることができない。

「では、撫子を連れて行ってください。子どもですけど、ここのことは詳しいですし、困ったことがあれば通訳にもなります」

 石竹が提案したのは、そんな譲歩案だった。幼い撫子がいれば、苔桃も過剰に変なことはしないだろう。そう思ってのことである。撫子と一緒になって悪戯をすることは珍しくはないが、そういった、子ども染みたことだったら、許容できる。


 本音を言えば、自分がついていきたい。手を取り、肩を支え、ともに歩いていきたいのだが、石竹には仕事がある。ここのところ、ディーの看護で一日の大部分を使ってしまい、平時の仕事が疎かになっていた。夏を迎える前に、冬の低温時期に貯め込んでおいた食料を、保存食に換えなければいけないのだ。悲しいかな、ディーを案内して一日を潰すことはできないのだ。

 冬は、天候の問題を無視すれば、こと肉に関しては、海豹や馴鹿、企鵝といった食いでの有る動物を比較的容易に捕まえられるため、食糧事情は悪くない。むしろ夏場のほうが、海で魚を捕らえるか、森へ分け入って活発に動き回る獣や鳥を射止める必要があり、苦労するのだ。だから肉と脂は冬に蓄えておかなければならない。

「わかりました」

 とディーは撫子の同行を承諾した。

「変な人についていっちゃ、駄目ですよ?」

「はい」

「おう」

 石竹の言葉をきちんと理解してくれたのかしてくれていないのか、ともかくとして、ディーと撫子がそれぞれ頷く。

「苔桃には気をつけてくださいね?」

「はい」

「何を?」

 おそらく石竹の言っている意味もわかっていないのだろう、神妙な表情でディーは頷く一方で、撫子は無邪気に問いかけてくる。やはり心配だ。

「ほんとにふたりだけで、大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

「大丈夫に決まってんじゃん」

 息の合ったふたりのやり取りが、石竹には心配だった。はぁ。

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