第10話 ディー

 寝台の上で呆けとしていると、撫子が膝に乗ってきて、いつものように本を広げて朗読し始めた。瞳に溜めていた涙はどこへやら、既に表情は平素のものになっている。先ほどはディーのせいで動揺を見せたものの、どうやら外来種が襲来して迎撃に出るというこの状況はオングルではそうそう珍しいものではないらしい。それに加え、おそらくは石竹と彼女の駆る兵器に全幅の信頼を寄せているのだろう。

 一方で一華を見れば、囲炉裏の傍で何やら作業をしている。どうやら持ってきた布に針で糸を通しているようである。石竹もしばしば囲炉裏の近くで作業をしていることがあって、そのときは海豹や馴鹿からとったのだという毛皮や内臓の皮を使った衣服の縫い物をしていた。単に皮を縫い合わせて形を整えるだけではなく、草花の汁で色を抽出した蕁草イラクサの糸で、卍や十字、渦巻きのような文様を細やかに刻んでいくのだが、見ているだけで惚れ惚れするほどの緻密な作業であった。目の前の少女の指も、石竹と同じく熟練の技で動いている。


「それはなんですか?」

 ディーは何気なく声をかけてみた。しかしびくりと一華の身体が震えたので後悔した。

 よくよく考えてみればこの家には家主が居ないわけで、そこに得体の知れぬ男と一緒に居るというのは、幼い少女にとっては不安で堪らない状況なのだろう。

「あの……、服です」

 しばらくしてから一華から返答が返って来た。目は泳ぎ気味ではあるが、声までは震えていない。会話は続けられるようである。

「服を作る人なのですか?」

 とディーが尋ねたのは、石竹から、オングルでの生活は集落内部での分業作業によって成り立っていると聞いていたからだ。たとえば石竹は食事を作る係である。他に狩りを生業としている人間や草花の採取を行う人間、細工をする人間、染色をする人間などがいるらしい。ということは、目の前の彼女の仕事は針仕事なのだろうか。しかしそれでは、なぜ石竹も繕い物をしていたのかという疑問が残る。

「えっと、服を作るのは、みんなたいてい自分でやります」

 というのが一華の返答であった。

「そうなんですか?」

「はぁ、まぁ、それくらいなら………」

 自分の着るものだから、自分が作るのが確実だということだろうか。確かにそのほうが、身体のサイズも把握しやすいだろう。オングルでの長い夜の間、手持ち無沙汰になりがちなことも関係しているのかもしれない。

「一華さんの仕事は、なんですか?」

「犬の世話です。犬の……、ええと、解りますか?」

「犬は解るよね、ディー?」

 と撫子が膝の上からディーを見上げて言ったので、頷いて返してやった。撫子と本を読んだり、絵を描いたりして遊んでいたおかげで、動物の名前はだいたい覚えたのだ。

「犬に餌をあげたり、散歩をさせたり、橇に乗ったり、そういうことをするのが、わたしの仕事です」

 と一華は言った。楽しそうな仕事だな、とディーは思った。


 そんなふうに受け答えしている間も、一華の縫い物を行う手は休むことが無い。手元はときどき確認する程度なのにも関わらず、指を針で刺したりしないのだから大したものだ。しかも彼女の針はいまや単に布地同士を縫い合わせるだけではなく、迷路のような精巧な刺繍細工を始めていた。

 彼女の作り出す刺繍は、角ばった渦巻き模様を何度も何度も描くというものであったり、植物の巻いた蔓のようにくねったものであったり、あるいは動物を模したと思しき曲線であったり、様々である。模様の中には石竹も描いていたものに似ているものがある。壁に架かっている衣服を見れば、他に十字模様だとか、角が丸い普通の渦巻きだとか、瓢箪のような形だとか、様々な刺繍が有った。一華の刺繍は石竹の幾つか有る刺繍とは、似ているものはあれど、細部が少し違うような気がする。

「見て、いいですか?」

 と刺繍模様に興味を抱いたディーは訊いてみた。

「はぁ………」

 と、あまり乗り気ではない様子だったが、一華は縫いかけの服を渡してくれた。丈の長いワンピースのようであるが、広い袖と腰から足先まで幅の変わらぬ形状は、如何にも亜細亜的だ。所謂着物だとかと違うのは、前で合わせるのではなく、頭から被る形式であるというところだろうか。

 刺繍は主に裾周りに行われており、基本となる布地の上に、もう一枚布地を継ぎ当てるようにして糸で縫い付けて模様を作っている部分と、糸だけで見事な模様を作り出している部分が有る。特に後者の刺繍模様は緻密な渦巻きを作っているのだが、どうやら糸を一度通してから、その糸に輪を作るように縫っているようで、それが連綿と続くのだから、鎖の輪のように刺繍が繋がっていることになる。本土でも伝統工芸を受け継いでいる一握りの職人だけが為せるような見事な技を、まだ年端もいかないような少女が仕上げているのだから恐れ入る。

「これは、なんですか?」

 とディーが模様を指して尋ねると、「は?」と一華は首を傾げた。「ええと、わたしが着る服なんですが………」

「いや」

 そうではなくて、と言葉にするのだが、その先の言葉が思いつかない。

「模様のこと?」

 と助け舟を出したのは撫子であった。これでしょ、ぐるぐるの、これ、と指先で渦巻き模様を描く。

「そうです」とディーは頷く。「これは、なんですか」

「これは、えっと、渦巻き模様ですけど………」と一華は戸惑い気味に言う。

「何が渦巻きですか?」

「渦巻きは、だから、渦巻きです」

 ディーの語彙がいまひとつなせいで、一華は言葉を繰り返すだけである。

 撫子に助けを求めると、「なんで渦巻き文様の刺繍してるかってことじゃあないの?」という言葉が返って来た。

「そうです」

「刺繍の理由、ですか?」えっと、と一華は戸惑った様子を見せる。「えっと、それは、綺麗だから?」

「そうなの?」と撫子も刺繍の理由を知らないらしく、興味を示す。

「え? 違うかな」

「知らない。ぼくは刺繍したことないもん。おねえちゃんも暇なときにちくちくやってるけど、なんで刺繍しているのかなんて教えてくれたことはないし」

「そうだよね」ええと、そういうわけで、と一華はディーに向き直る。「基本的には装飾目的で模様を付けてるだけです。あ、でも、もしかすると、昔は刺繍文様に呪術的な意味とか、そういうのがあったのかもしれませんけど……、わたしはあまり詳しくないです。そういうことは、石竹さんのほうが詳しいかもしれません」

「一華、一華」と撫子がディーの膝の上から発言をする。「それじゃ駄目だって。ディー、喋るのも聞くのも下手糞だから、簡単な言葉でゆっくり喋ってあげないと」

 撫子の言葉を受けて、ゆっくりと一華が説明してくれたのは、文様は単に装飾目的で入れているらしいということだった。

「普通は親とか、同じ家に住んでいる家族に教えてもらいます。だからたぶん、わたしと石竹さんの文様は少し違うんだと思います」

 文様には幾つかパターンがあって、それが渦巻き状になったり、十字になったりするらしい。

「あの、そろそろ………」

 返してもらえますか、と僅かに頬を染めて一華が言った。手をしきりに擦り合わせ、何やら恥ずかしそうな様子だ。いつまでも女性の衣服を持っているのは不味かったか。

「いちおう、肌着なので………」

 と言われ、意味が全て汲み取れたわけではないが、ディーは服を返した。ありがとうございます、と言って、一華は受け取ると、また火の傍で針に糸を通し始めた。ディーは彼女が縫い物をする様子をじっと見ていた。撫子はディーの膝の上で本を読み続けていた。


 互いに無言になった。


 静かになると、考え込んでしまうのは今後のことについてだ。

 帰る手段が無い。

 『耐え忍ぶ槍』号は大破した。降下艇も、駄目だ。『槍』号の落着現場を鑑みるに、緊急用の惑星脱出装置なども破壊されてしまっただろう。自動修復機構は働いているかもしれないが、あの破壊状況では、惑星脱出速度が出せるようになるまでどれだけ時間がかかるかわかったものではない。

 頼みの綱は本土からの救援だが、それもいつになるだろう。『槍』号の大破が本土に伝わったかどうかさえ怪しい。『槍』号は時空間を捻じ曲げて航海をしてきたため、本土からオングルまでは約半年で到着したが、単に光を飛ばしただけでは、十年、数十年とかかる。『槍』号が破壊される前に、正しい手順で時空間圧縮通信がなされていれば、既に本土まで情報が届いている可能性もあるが、通信機構に詳しくないディーには確かなことは判らなかった。

 それに、『槍』号は本土からオングルまでの長距離の航海に耐え、道中に予想される外来種との戦闘にも耐えるために、多大な資金と時間を投入されて建築された船だと聞いている。それに代わる船など、そうそう在るものではない。

 情報が伝わっても、そもそもオングルと本土の距離を考えれば、いったい救援が来るまでどれだけ掛かるだろう。『槍』号は半年で本土からオングルまで辿り付いたが、それは航行にかかる時間と空間が最も短くなる時期を選んで出発したからだ。宇宙は重力で捻れていて、時間と空間の尺度が次々と変化する。だから次の船がオングルを目指そうとしても、『槍』号と同じ半年でオングルまで到達することができるかどうか疑問だ。一年かかるのか、二年かかるのか、それとも十年かかるのか、ディーにはわからない。それに、『槍』号が大破した原因が解らないうちは、本土の軍本部としても容易には動けないだろう。


「いったい、なにがあったのか」


 『槍』号に乗っていたディーにも、その問いには答えられなかった。外来種の攻撃を警戒していたはずの『槍』号が、一瞬にして大破してしまったのだ。大破したその瞬間、ディーは降下艇の窓から何かを見たような気がするが、それがなんだったのか、よく思い出せない。

 だがもはやそんなことは、どうでも良かった。ディーには本土に帰れないこと、恋人に会えないことのほうが辛かった。

 『槍』号がオングル上空で破壊されたことを知って、奇跡的にディーが生きているなどとは思う人間がいるだろうか。恋人、リリヤもきっと、ディーが死んだと思うことだろう。

 リリヤはディーのことを待つと言ってくれた。だがそれはあくまでディーが生きている場合のことだ。死んだ人間までは、さすがに待ってはくれないだろう。

(ぼくはいったい、何をするためにここに来たんだろう)

 そう問いたくなった。

 ディーがオングルに来たのは、リリヤの父親に認めてもらうためだ。軍の高官である彼はディーとリリヤの婚約に、軍で功績を立てて相応の勲章を得るという条件を突きつけた。


「ねぇ、ディー。べつにお父さんの言うことを聞かなくても良いんだよ」

 とリリヤが言ったことがある。挺身部隊としてオングルに向かうことを話したときのことだ。オングルでの任務は、現地での任務が最短で終わっても、一年以上掛かるというものであったため、志願制であり、望めばこの任務を断ることもできたのだ。

「お父さんには恩があるし、たぶん、従わないのは悪いことだと思う」せっかく拾ってもらったのにね、とそう言ってリリヤは僅かに笑んだ。「でも、娘が連れてきた恋人が気に食わない父親なんて、ほら、よくある話じゃない。最初は認めないとか言ってたけど、そのうちに、娘を頼む、なんて言ったりしてさ」

 だから大丈夫だよ。危ないことなんてしなくて良いから。駆け落ちするっていう手もあるよ。リリヤはそう言って、ディーを引き止めようとした。

 だがディーは、リリヤの父親と対立したりはしなかった。どうしてもリリヤの父親の課した条件を乗り越え、認めてもらいたかった。

 だからリリヤの白い手を振り払って、『槍』号に乗ったのだ。

 だがその結果はどうだ。右腕を失い、本土に戻れなくなった。この小さな冷たい星で生きていくしかないのか。もう、リリヤには会えないのか。


「あの」


 震えた声はすぐ傍らから発せられていた。

 顔を持ち上げてみると、一華が近くまで来ていた。彼女は折り畳まれたハンカチのような布をディーに差し出していた。

「ディー、泣いてる」

 と言ったのは膝の上の撫子で、一華の手からハンカチを受け取ってディーの目元を拭こうとする。ディーは撫子の手からハンカチをもぎ取り、己の涙を拭う。

 衣服と同じく、やはり見事な刺繍が為されているそれを畳みなおし、一華に返そうとしたが、「持っていてください」と言われてしまった。ディーの体液が付いたものなど返してもらいたくないということでなければ、また泣きそうなのでそのとき使え、ということだろう。どちらにせよ、使ったものを洗わずに返そうとしたのは失礼だったかもしれない。

 一華は囲炉裏の傍で裁縫に戻り、撫子はまた本を読み始めた。ディーは何もすることがなくなった。


 静かな時間が戻った。

 ディーは不思議とリラックスしている己を感じていた。


 自分より間違いなく年下の少女の前で涙を見せてしまい、吹っ切れたのかもしれない。一方で一華のほうでは居心地が悪そうにしているのだから、それが可笑しい。彼女は先ほどから、こちらをちらちらと見やる様子から、警戒がありありと見て取れる。落ち着かないのだろう。

 彼女をそんな気持ちにしている最中で申し訳ないことだが、しかしディーはオングルに来て以来、初めての落ち着いた気持ちだった。石竹は色々と世話を焼いてくれたが、ディーのほうでも気を遣ってしまい、気疲れした。ひとりで居るときは、これからどうすればと悩み、己の内なる声に気分が休まなかった。

 対して、いまはどうだろう。目を瞑って聞こえるのは、紙が擦れる音、布が触れ合う音、炎が燃える音だ。しかし繰り返されるその音たちは、いつしかだんだんと薄れていき、そのうちに膝の上の撫子の呼吸音であったり、一華が布地に針を通す音が聞こえ始める。その音も消え始め、最後に残るのは規則正しく鼓動を刻む心臓の音であった。

 あの雪原と同じだ。ディーがただ彷徨っていた。あの冷たい雪原と同じだ。

 何も聞こえない。

 だが目を開けば、そこには生の営みがある。変わらず、居心地悪そうな様子で一華が刺繍を続けている。撫子が膝の上で熱心に本を読んでいる。目を閉じる前と、何ら変わらぬ光景だ。それがただ、ただ、心地良かった。たとえ、何処にも行けないとしても。


「一華さん、いるか?」

 静寂を打ち破ったのは、そんな声だった。家に入ってきた者があった。

 石竹だろうかと思ったが、違う女性だった。オングルに来て、ディーが会った四人目の人間となる。長い黒髪を後ろでひとつに結わえており、石竹や一華に比べると背が高い。格好は石竹や一華に似て、毛皮のコートやブーツを纏っている。

 女はディーを一瞥したが、すぐに一華と撫子に視線を戻した。「一華さん、撫子、終わったから出ても良いよ。石竹が帰って来た」

 彼女の言葉を聞き、一華はほっとした顔を見せた。「そうですか………」

 撫子はディーの膝の上から飛び跳ねて、解り易く喜びを表現した。幾ら信頼を置いているとはいえ、姉が戦場に出るというのはやはり不安だったのだろう。寝台から飛び降りて、壁の外套掛けからフード付きのコートを取る。ディーも杖をついて立ち上がり、自分の防寒具を取る。石竹のことが気になったし、何より外を出歩く絶好の機会だ。

 長身の女はディーを一瞥したが、何も声をかけてはこなかった。ディーにしても、何を言ったら良いのかわからず、そのまま外套を着込んだ。

「外に出るんですか? 大丈夫ですか?」

 と一華が駆け寄ってくる。ディーが外を歩けるかどうか心配なのだろう。ディーは頷いて返した。

 外に出てまず感じたのは、冷たい空気であった。トイレが外にであるため、外に出たことが一度も無いわけではないが、改めてディーは集落を見渡した。


 足下には、『耐え忍ぶ槍』号が墜落した地点から歩いてきた道程と同じく、雪原が広がっている。それはディーが歩いてきた南緯五〇度や六〇度帯と同じだ。だが雪の白と空の黒、血と炎の赤しかない南とは違い、この場所にはさまざまな色があった。

 オングルの南緯四三度に在るこの集落一帯を本土ふうに表現するならば、タイガかツンドラ気候帯といったところだろう。タイガというのは寒さに強い針葉樹林が群生している気候で、ツンドラはさらに寒さが強く背の低い潅木や苔などの植物しか存在しない気候だ。

 空はぽつりぽつりと雲が点在していたが、おおむね晴れていた。今日は週の二日目であり、太陽高度が最も高くなる時間帯だ。冬とはいえ、太陽は燦々と輝いている。

 石竹の家は継ぎ接ぎの毛皮で覆われており、外から見ると巨大な獣のように見えた。少し離れたところ在る他の家々も、同じように毛皮を纏っているので、装飾ではなく防寒目的なのだろう。

 家の周りには、工事現場の簡易トイレのような便所のほかは、高床の小さな小屋と物干し台のような竿を組み合わせたものがあるくらいだ。小さな小屋は、燃料や非常食が入った倉庫の類か。

 家のすぐ前にディーの腰ほどまで高さのある杭が打たれ、そこから太い荒縄のようなものが真っ直ぐに伸びていた。他の家からも出ていて、それらは真っ直ぐに大きな建物に向かっているので、どうやらこの縄は道標のようなものらしい。

「触るな」

 掴むのにちょうど良い位置に在ったので触れようとしたところ、鋭い言葉が飛んできた。声の主は、石竹の家を尋ねてきた長身の女である。これが初めてディーに向けてきた言葉だ。

「緊急用だ」

 という言葉の意味まではよく捉えられなかったが、一先ずこの綱に触れてはいけないということだけは理解した。雪道に杖を突いて、彼女のあとを追う。 

 広い雪原に、ぽつぽつと家が建っている。家の形は本土育ちのディーからすると個性的だが、ひとつひとつの家に個性は無い。どれも毛皮で覆われた住宅で、広さは十畳から二十畳といったところであろう平屋だ。「緊急用」だという打ち付けられた杭から延びる綱の方向にある建物だけ、ほかの建物と比べて数倍大きさがありそうだったが、特殊なのはそれだけのようだ。

 広がる雪原に、ぽつりぽつりと存在する家屋。小さな小屋。小さな柵。小さな物干し台。

(何も無いな)

 そう感じるのは不思議と建物同士の感覚が開いているからかもしれない。広々とした雪原に小さな家が点在しているのだから、寂しく感じる。

 見回していると、遠くに濃い緑色の固まりが見える。どうやら針葉樹の森らしい。しかし女たちが歩いていくのは、それとは反対方向だ。歩く先に存在しているのは、小高い岩山である。辺り一面真っ白けで距離感がよく判らないものの、高さは数十メートルほどだろう。場所によっては強い風の吹くオングルであるが、集落があるこの一帯は殆ど無風らしい。この山が風を防いでいるのかもしれない。

 山は地と同様に白い雪に覆われているが、なぜか雪が溶けて赤茶けた岩盤が露出しているところもあった。あの山だけ暖かいわけがあるまいに、なぜだろう。


「面白いね」

 そう呟いたのは隣を歩く撫子で、山についての質問をしようとしていたディーとしては先を取られた形になった。

 何がだ、と先を行く女性が反応すると、撫子は「綿菅、ちびっこいな」と愉快そうに言った。「いちばんでっかいのに、ちっちゃい」

 どうやらディーと目の前の女性、名を綿菅というらしい人物の体格差のことを笑ったらしい。

 五月蝿いな、と綿菅がふてくされるように言った。「男と女なんだから、しょうがないだろ」

「ああ、そうなんだよね」と撫子は相槌を打った。「綿菅、よく判るね。おねえちゃんも、そうやって言ってた。どこが違うの?」

「そんなの、見れば判る……、って、おまえは見たことないか」

(見たことがない?)

 ふたりのやり取り、ディーが言語を理解し間違えてないのであれば、撫子は男性というものを見たことがないということになる。ディーを除けばたった二十七人しか人間が存在しないというこの集落、その全員が互いに顔見知りであるということは間違いないだろう。この極寒の地で生活しているのだ、互いが協力し合わなければ生きてはいけない。

 ということは、撫子を除いた集落の全員が女性だということになる。確かにディーがオングルに来てから出会った人物は女性ばかりだったが。

 綿菅という女性が先導になって、辿り付いた場所は小山の麓であった。

 山の端は殆ど垂直で、壁のようになっていた。高さ十メートル近い高さの空洞がぽっかり空いている。奥行きはそう深くはなさそうだ。空洞には特に何があるわけでもなく、単なる凹みだ。風雪が入りにくい形状だからか、赤茶けた岩が露出している。それ自体はおかしくない。

 だがその洞穴の周囲も、遠くから見えていたように、やはり雪が融けている。まるでこの山が、いや、この空洞の周囲だけが何らかの理由で温められているかのようだ。

「あ、戻ってきましたね」

 と一華が指差した方向からやって来たものが何なのか、ディーには最初まったくわからなかった。ただ小さな黒い点がひとつあるように見える。

 その点が近づいてくるにつれ、徐々にその正体が明らかになる。


(巨人………)


 身の丈は十メートル、否、もう少し低いか。身体を支える、恐ろしく太い二本の脚部。ひび割れた赤いレンズを右胸に据えた胴体。いかり肩から伸びる、体高のほぼ三分の二ほどある、長く逞しい二本の腕。

 頭はないが、それはおおよそ人型に分類される形状をしていた。武装らしきものは一切装備していない。ということは、素手で殴りかかるのか。

(人型の……、二足歩行戦車)

 人型というにはやや歪か。類人猿か、でなければ熊のようにも見える。全身はどぎつい橙色と黒の警戒色。割れたレンズの反対側、右胸には人が入れる程度の窪みが空いていて、そこに腰掛ける人の姿が見えた。

「おねえちゃんだ」

 撫子は目を輝かせる。

 人が集まってきていた。壁の穴の前までやって来た二足歩行戦車は一度立ち止まると、くるりと半回転して背面を穴に向け、穴の中に入り込むように片膝を折って跪いた。完全に静止する。

 巨人の左胸に空いた窪みから、人が出てきた。編まれた黒い髪にしなやかな体つきの女性。彼女は器用に戦車の身体を伝って地に降り立つ。石竹だ。彼女が兵器に乗っているという推測は間違いではなかったらしい。だがこの兵器は、ディーの予想を超えていた。

 やがて彼女はディーの存在に気付いたのか、慌てた様子でこちらに駆け寄ってきた。

「ディーさん、外に出ちゃ駄目って言ったのに、出てきちゃったんですね……」

 ディーは曖昧に頷いた。頷くことしかできなかった。


(これが、オングルを守ってきた兵器)

 確かに兵器は存在していた。だがその兵器はあまりにも不安定そうな見た目をしていた。外見も、武装も、搭乗者も。

 石竹の顔には、目立ちはしないものの、顔には僅かに擦過傷のようなものができている。ヘルメットも被らずに、胴体に穴の開いた機体で戦っていたのだから、当然だろう。格好は驚くほど軽装で、肩が露出している。外に出て行ったときより薄着だ。柔肌からは汗の香と湯気が漂っている。

「あれは………」ディーは唾を飲み込み、質問を投げかける。「なんですか?」 

 石竹は少し考えるような仕草を見せた後、踵を返すと、ゆっくりとした歩調で二足歩行戦車のほうへと戻っていく。

 彼女は鎮座する巨人の脚部に触れて、振り返った。

 「オングルを古くから守り続ける、最終兵器。あらゆる攻撃を退け、あらゆる装甲を破壊する、わたしたちの最後の矛にして盾………、この子の名は」


 無敵号むてきごうです。彼女はそう言って微笑んだ。

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