第3話 ディー
周囲に広がるのは銀世界。遠くに見える雪衣装を纏った山脈を除けば、広い広い雪原がただただ続いている。
だが首を反対側に向けてみればどうだろう。明るく美しく、それでいて冷たい雪景色が一変する。
砕けた降下艇が積み重なり、真っ二つに折れた槍が雪原に突き刺さる。槍は炎を吐き出している。やはり明るく、ある種の美しさがある、しかし燃え盛る炎が熱い世界。肉の焼ける臭いがする世界。仲間が死んだ世界。
槍の中で、死体が焼けていた。
落着と爆発の衝撃やその後の火災によって、死体の形は判然としない。しかしそれらの死体がかつての仲間であろうことは、歯形や遺伝子情報、認識票の情報に頼らずともわかった。
ワースリー伍長。
マッキルロイ一等兵。
ハドソン少尉。
みんな、みんな、死んでしまった。焼けて、燃えて、砕けてしまった。折れぬはずの槍は、折れてしまった。
だがディーは生きている。
手紙を書くため、ひとりきりになるために多様な環境の大気圏に突入可能なようになっている降下艇に乗っていたディーだけが、生き残った。
涙が、汗が、顔を唇を濡らした。
このまま寝ているわけにはいかない。仲間はみな、死した。しかしディーは生きている。最新鋭の航宙艦、『耐え忍ぶ槍』号、挺身部隊たるディーが。開拓惑星オングルの人々を救出し、外来種を退け続ける謎の兵器を持ち帰るという任務を負ったディーが。愛しの恋人、リリヤを故郷に待たせたままのディーが。
外来種の攻撃に警戒していたはずの『耐え忍ぶ槍』号がなぜ敵の攻撃を感知できなかったのか。幾重にも重ねられた強固な外装を纏い、外来種の砲撃にも耐えられるはずの『槍』号を一瞬にして叩き折った兵器とはいったい如何なるものなのか。解らないことだらけではあったが、明らかなことが一つだけある。
このまま死ぬわけにはいかない。
(『叫ぶ四〇度』、『狂う五〇度』、『絶叫する六〇度』………)
ディーは周囲の銀世界から、吹き抜ける強い風から、空浮かぶ数多の星から、おおよその見当をつける。オングルの地理については、『槍』号の中で何度も叩き込まれたため、おおよそ頭に入っている。
オングルは本土に比べれば遥かに小さな惑星だ。だが基本的な気候は、本土と殆ど変わらない。小さな大気相応の小さな質量は、地表面に対して本土相応の重力を作り出しており、おかげで呼吸に困らない程度の大気がある。
二つの月が、地表面から空を観察してまず判るオングルの特徴だ。自転速度は本土の僅か六分の一。公転速度は本土の約二倍。自転軸が公転面に対して約三〇度傾いており、そのため本土と同じく季節がある。
傾いた惑星が恒星の周囲を公転している以上、赤道付近が最も暖かく、南北の極に向かうに従って冷たくなるというのはどこでも変わらない。
『叫ぶ四〇度』、『狂う五〇度』、そして『絶叫する六〇度』というのは、オングルの地名ではない。本土の広い海洋の、それぞれ南緯四〇度から五〇度、五〇度から六〇度、六〇度から七〇度の強風波浪海域の通称である。駄洒落のような表現だが、荒れ果てる海洋は船に乗っている人間がまさしく叫び、狂い、そして絶叫するほどの激しさだったという。
ここはオングルだ。本土ではない。
でなくとも海洋上ではなく陸地で、ディーのいるこの場所は、雪原を吹き抜ける風は強く、風速でいえば秒速十メートルは越えているだろうが、叫ぶほどでも、狂うほどでもない。生活空間ならともかく、この場所では穏やかといえるだろう。今のところは、まだ。
ディーがいま居る場所は、正確な地点は不明だが、南緯六〇度付近だろう。おそらくは南方高原といわれる、海抜二千メートルを越えるなだらかに傾斜した高原だ。遠くに見える山々は小さく見えるが、高度三千、四千メートルの高峰のはずだ。
オングルの二つの巨大な月に因る潮汐によって遅くなった自転のために、摩擦によって引き起こされる水平風はそう強くはない。しかし小さな惑星ゆえの強い寒暖差はしばしば激しい対流活動を引き起こし、嵐や竜巻の原因となる。
そうした嵐と寒さを厭って、もともとオングルに殖民した人々が住んでいたのは、北緯二〇度から南緯二〇度の、惑星の中では温暖かつ穏やかな気候の地域に住んでいた。
(でも人工的な電磁波の発生源と考えられているのは、南緯四〇度帯の冬の面だったはずだ………)
人工電波のより詳細な推定射出地点は、南緯四十三度地点。何かしらの理由、おそらくは外来種から逃れるために、オングルの住人は南へ移動したのだろう。ならばその南緯四十三度付近が目標地点だ。
南緯六〇度付近から南緯四十三度まで、南北方向に、十五度から二〇度程度移動する。それだけ聞けば、酷い重労働だ。しかしここは本土ではない。一周四万キロメートル、一度が百キロメートル超の本土とは違い、惑星半径が約十五分の一のオングルでは、一度は七キロと少し。つまり南北方向に十五度動くことは、およそ一〇〇キロ動くということになる。
「一〇〇キロ」
本土の十五度、約千六百キロメートルに比べれば、遥かに小さなその距離は、しかし途方もなく長い距離に感じられた。
だが、進むしかない。たったの百キロだ。四十キロを越える道程を数時間で駆け抜ける競技もあるのだ。人の身で、二本の足で進むには不可能な距離ではない。降下艇に積んでいた移動用車両は壊れてしまっただろうが、まだディーには己の身体がある。この雲ひとつ無い星空の下ならば、星の位置から北を推定できる。無線機を上手く使えば、人工電波の正確な発生方向を知ることもできるだろう。幸い、経度はほとんどずれていないため、東西方向にはあまり動かなくて済む。
問題はひとつ。
降下艇に挟まれた、この右腕だ。いくら引っ張っても、外そうと足掻いてみても、抜けない。取れない。外れない。あがいているうちに、だんだんと身体が冷えていく。夏でも永久凍土が存在する場所もある南緯六〇度の冬は人の身には厳しすぎる世界だ。
ディーは何度も仲間の名を呼んだ。せめて、誰かが生きていてくれれば、と、そう願って。助けてくれと。ハドソン少尉。ワースリー伍長。マッキルロイ一等兵。当然のことながら、誰一人として返事はなかった。わかっていた。誰も、誰も助けてくれはしないということは。死んでしまったということは。
「リリヤ………」
ディーが最後に呼んだのは、恋人の名だった。リリヤ、リリヤ、どうか、ぼくを助けてくれ。きみに会いたい。きみのことを抱きしめたい。死にたくない。リリヤ。
必死に自分の装備を左手だけで確認する。作戦前夜だったため、降下艇には作戦準備の荷物が積んでおり、幸い、ディーの雑嚢は左肩に引っ掛かっていた。苦労して肩から外し、中身を引っ繰り返す。携帯食料、水、サバイバルキット、拳銃、翻訳装置、無線機、聖書、など、など。いくつか壊れているものもあったが、壊れていなかったとしてもこの状況には役には立たなかっただろう。いちばん威力がありそうなのは拳銃だろうが、銃くらいで大気圏航行可能な降下艇の破片を破壊できるはずがない。
しかし最後に雑嚢から引きずり出したものを見たとき、これはとディーは閃いた。と同時にもう一度、嘔吐感が込み上げてきた。
斧。
刃渡りは十センチメートルほど、薄い刃とそれを支えるフレームだけで構成された折り畳み式の手斧で、展開すれば柄も含めておよそ三十センチメートルとなる。刃の背や柄を両手で握って障害となる小さな木々を伐採したり、現地にて獣を解体したりするのに役立つ。柄を握って一振りするだけで、刃が展開される。壊れてはいない。
黒塗りのその手斧を持ってしても、降下艇の破片は破壊できない。
しかし肉や骨ならば、簡単に切断するだろう。
腕を、断ち切る。降下艇に挟まれた右腕を、肘から切り落とす。そうすれば、脱出できる。この場から離れられる。
生き延びられる。
その言葉は希望だ。生きられる。生き延びられるのだ。数百年前とは違うのだ。現代の義手は過去のものとは比べ物にならない。どころか、元の肉体より有用かもしれない。軍に申請すれば、保険が利くだろう。金は心配ない。その上で作戦を成功させれば、勲章を貰える。リリヤと結婚できる。彼女を、ようやく愛せる。
彼女を抱ける。抱くための腕は無くなるが。
他に手はない。手がなくなるが、それでもこの手しかない。
右腕を、断ち切る。この場から、抜け出す。止血する。歩く。百キロメートル。歩けるのか。右腕を断ち切り、出血した状態で、そんな長い距離を。自分は正気を保っていられるのか。いま既に正気を失っているのではないのか。深呼吸をする。正気じゃない。それは知っている。ああ、正気でいられるものか。半年かけて救助対象の惑星までやってきたのに、自分のほうが救助対象になってしまった。仲間はみんな死んでしまった。自分で腕を切り落とさなければ、このまま凍るか焼け死ぬかしてしまう。くそ、正気なわけがない。
サバイバルキットがあったのは幸いだ。本格的なものに比べれば劣るが、医療品もある。止血剤や包帯なども入っている。これだけ気温が低いのだから、感染症を心配する必要もあるまい。問題ない。大丈夫だ。リリヤ、だから心配しないで。
肘を縛って、予め血の流れる量を減らしておく。肘にペンでマーキングする。自分の断ち切るべき場所を。何度も反芻する。斧を振り下ろす。血止めをする。包帯を巻く。歩く。救助対象を助ける。兵器を持ち帰る。リリヤに会う。会って、会って、彼女の身体をこの腕で抱きしめる。口付けを交わす。リリヤ。
「リリヤ」
斧を振り下ろすことができない。痛みが想像できる。間違いなく、恐ろしい痛みが襲ってくる。『絶叫する六〇度』を吹き抜ける風の絶叫など比べるまでもないほどの叫びがディーの口から放たれるだろう。だがそれでも、やらなくてはいけない。やらなくては、死ぬ。氷に包まれた大地は冷たく、燃え盛る槍は熱い。このままここにいれば、凍り付いて死ぬか、『槍』号か降下艇のエンジンが爆発して死ぬか、どちらかだ。どちらにせよ、死ぬ。腕を犠牲にして生き延びるしかない。
ディーは再度嘔吐した。最初にあらかた吐き出してしまったせいか、吐瀉物は殆ど出てこず、唾液と胃液だけが雪を汚した。その上に涙が落ちた。雪は僅かに融けたが、それだけだった。なんだ、この状況は。なんなのだ。なぜ、こんなことになってしまったのだ。仲間は死んだ。リリヤには会えない。自分の腕を切り落とさなくてはならない。ぼくは、リリヤと結婚したかっただけなのに。こんな、こんな。
「リリヤ………」
ディーは斧を振り下ろした。
「ぼくに、勇気を………」
激しい痛みが襲う。血が溢れる。叫ぶ。ああ、ああ、リリヤ、痛い。リリヤ、助けてくれ。
しかしその痛みを伴う一撃を以ってしても、ディーの右腕は断ち切れていなかった。右腕、肘、その骨の半ばで、振り下ろした斧は止まっていた。振り抜きが足りなかったのだ。躊躇してしまったのだ。怖いと思ってしまったのだ。
リリヤ。
リリヤ。なぜ、どうして。
もう一度、こんな痛みを受けなければいけないというのか。斧を引き抜き、もう一度この手に刃を振り下ろさなければならないというのか。こんな、こんな。
もはや立ち止まってはいられなかった。血はどんどんと溢れている。この半端な傷口を、止血できるわけがない。早く、断ち切らなければ。痛い。リリヤ。
引き抜く、それさえも痛い。リリヤ。
(生きて帰る)
斧を振り下ろす。リリヤ。
(ぼくは、生きて帰るよ)
だからリリヤ。
結婚しよう。
愛している。
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