第2話 ディー
数十時間前、ディーン・ブラックボロは開拓惑星オングルに近づく軍艦、『耐え忍ぶ槍』号の休憩室の隅のテーブルで、同僚と向き合っていた。
同僚とはいっても、相手は齢五〇に近い、髭の豊かな男性である。二〇歳になったばかりのディーン・ブラックボロと比べると、倍以上の年齢の開きがある。その同僚、ワースリー伍長が言った。ディー、おい、ディー、ディーン・ブラックボロ一等兵、それで、と。
「軍を辞めるってのは、本当なのか?」
同僚、ワースリーの口調は咎めるようなそれではなかった。むしろ、面白いことを聞いたと、わくわくしているような物言いだった。休憩室は長期間の航海の暇を潰すために、映画シアターだのチェスボードだの麻雀牌だの編み棒だのが置かれているが、ワースリーはそれらに見向きもしないで、ディーの話に興味を向けている。
ディーもワースリーも、挺身部隊に所属する軍人だ。ディーは一等兵、ワースリーは伍長。階級の高い士官ではなく、兵卒で、つまりは下っ端だ。
挺身部隊というのは、昔は空挺部隊だとか呼ばれていた、パラシュートでヘリコプターや飛行機から飛び出し、地上での任務に当たる部隊に近い。違うのは、飛び出す場所が空ではなく、もっと高い位置にある大気圏外の衛星軌道上であるということと、そんなに高いところから飛び降りるので、パラシュートではなく、宇宙船と同じ素材の降下艇で降下するということ。それと、主たる任務が戦闘や制圧などではなく、物資の補給や救助活動などであるということだ。地上で行う泥臭い任務が主であるということは昔と変わらない。
そういうわけで、士官は部隊長のハドソン少尉だけだ。他はみな、兵卒。ゆえに隊員同士は気安く、繋がりも強い。ディーも先輩であるワースリーに、随分と世話を焼いてもらった覚えがある。
「青臭いおまえのことだから、外来種どもを最後の一体まで殲滅するまで、軍人としての使命を全うする、だとかなんだとか、そういうことを考えているもんだと思ったんだがな」
外来種。
ワースリーの言うとおり、過去数百年、数千年前とは違って、現在の人類の敵は同じ惑星の上で生活する野生動物や敵国民ではなく、地球外生命体であった。外来種、というのは通称だが、おまえなど宇宙人などと呼んでやるものか、そういう害獣ということで十分だ、という想いが篭められた呼称だ。
百年……いや、それ以上前のことである。空間歪曲航法を身につけ、光速の壁を擬似的に突破したことで、本土から他の惑星へ、他の恒星系へと進出し、着実に領土を開拓していった人類は、地球外生命体からの攻撃を受けた。それが外来種で、以来、その過激なファーストコンタクトから休まることなく、星間戦争が続いている。
百年もの時間があったというのに、外来種の正体は未だ判明していない。その形状も。その目的も。
その最大の原因は、人類が戦争に負け続けているからだ。敵機を鹵獲したり捕虜を捕まえたりして、外来種の正体を突き止めるだけの余裕はなく、人類は一度広げた開拓地から撤退し続けた。
人類は弱かった。負け続け、出来ることはといえば占有されそうになった惑星を放棄し、破壊して逃げることだけであった。人類の勢力圏は一瞬にして縮退した。
しかしあるとき、状況が一変した。外来種が一方的に人類を蹂躙する展開ではなくなったのだ。かといって、人類が外来種に対して優位に立ったわけでもなかった。
状況が一変することになったその場所こそ、ディーたち挺身部隊が降下する予定の惑星、オングルである。
ディーはワースリー伍長から視線を逸らし、休憩室のテーブルの上に乗っている掌大の球体に視線を移した。惑星オングルの模型である。
海面積六に対し、陸面積四。本土の七対三という比率に対して、やや海が少なく、陸が多い、しかし人間が居住するには十分といってよいほどに水が存在している惑星。潤った惑星。瑞々しい惑星。本土よりも自転が遅く、より小さく、しかし地表面での重力は同程度にあり、大気の組成も似ている、極端な惑星開発を行わなくても人間が住める、そんな都合の良い惑星。それがオングルだ。
オングルは数百年前に発見されていた惑星ではあるが、その開拓は遅々として進んでいなかった。その理由は、オングルが立地の良いとは言い難い惑星だったからだ。近くに人類の居住可能な惑星は存在しておらず、また他の恒星系とも離れていた。如何に歪曲空間航行法や亜光速航宙技術により惑星間通行技術が進んだからといって、他の恒星系まで移動するには、やはり時間が掛かる。資源が多いというわけでもなく、ただ水だけは海や湖、あるいは氷という形で豊富に存在していたが、まさしく星の数だけ存在している惑星の中ではそれほど珍しい特徴というわけでもなかった。だから一部の物好きな自然回帰主義者や開拓者、植民者以外には見向きもされない、価値のない場所だったのだ。
しかしそれも戦争が始まる前のこと。戦争が始まってから、オングルの立場は一変したのだ。
多くの惑星が戦争によって破壊され、砕かれ、消滅していった。戦争が活発な場所とはすなわち、人が集まる場所、人類にとっては開拓が進んでいる星系だった場所だ。それらは押し合い、へし合い、人類と外来種、どちらのものにもならなかった。戦いは外来種に優勢だったのに?
その理由は、人類が外来種によって占有された惑星を破壊していったためだ。敵と同程度のスケールの兵器で外来種の兵器を破壊することは難しかったが、より規模の大きな兵器、強大な武器を使えば話は別になる。地面を陥没させたり、自然環境をまるきり変えてしまったり、それこそ惑星ひとつを吹き飛ばすような兵器を使えば、外来種の兵器といえども破壊することができる。そうした兵器を大量に使えば、外来種を一掃することもできた。惑星も壊れてしまうという条件付きで。
外来種に支配された惑星を破壊するというのは、外来種の侵攻を遅らせるためにも有効であった。というのは、外来種がさらに人類側の領土である惑星に踏み込むための中継地点をも破壊することになるからだ。外来種の航宙技術は高いものではなく、中継地点を潰せば侵攻ルートを潰すことができた。
そうして、人類の焦土作戦じみた撤退方法によって、多くの惑星が消えた。人類の勢力圏と外来種の勢力圏の中間地点に位置している惑星は、辺鄙な星系の惑星のみになった。その辺鄙な惑星の中で、オングルは唯一豊富な水資源を持つ惑星となっていた。惑星も人類も、その惑星を奪い合った。いや、正確にいえば、奪い合おうとした、か。
それまでの戦争で明らかだったように、人類の兵器では外来種には歯が立たなかったのだ。住民を逃がすのが精一杯で、それさえも完璧ではなかった。戦争が表面化する前に、全ての現地住民を避難させることができず、一部の住民はオングルに取り残された。
オングルが只の水を湛えただけの惑星であったのなら、外来種の勢力に塗り替えられるか、外来種が根付くことを厭った人類によって惑星ごと破壊されるか、でなければ戦争の過激化に伴って増大された火力によってやはり破壊されるか、どれかの運命を辿っていただろう。しかしオングルはいずれの結末をも迎えなかった。
不可思議なことに、オングルを占領しようとした外来種の兵器は、何ものかによって破壊されたのだ。
何ものか、というのがいったい何なのか、人類にはわからなかった。電磁波による惑星探査はもちろん導入されたが、他の惑星系からでは、遠く離れたオングルの地表面の細かい動きまではわからない。かといって、未だ周囲を外来種の勢力が固めているオングルに降りたり、観測衛星を飛ばして惑星表面で何が起きているのかを確かめるのも容易なことではなかった。
人類が知りえたのは、オングルに落着した外来種の兵器が破壊され続けているということだけであった。
オングルを中心に睨み合ったまま、長い時が過ぎた。主な戦場となる惑星が減っていったため、戦争は小競り合い程度のものになり、惑星の破壊ペースも遅くなった。人類はオングルを盾に、安寧の時を享受できるようになった。いつしか人は、特に戦線から遠く離れた本土の人々は、外来種との戦争を忘れた。
しかしそのままで良いはずもない。オングルで外来種の侵略を退けているものが何なのかはわからないが、いつかは無尽蔵とも思える外来種の兵器に破られるだろう。その前に、オングルで外来種と戦えている何ものかの存在を突き止めなければならない。
なにより。
(まだあの惑星には人がいる)
定期的に、オングルからは人工電波が送信されていた。時折乱れ、途切れるその電波は、生きている人間がそこにいることの証左だ。
彼らを助けるために組織された隊こそがディーたち挺身部隊、そして彼らを助けるために作られた船こそがこの『耐え忍ぶ槍』号である。
「だせぇ名前だよな」
ワースリー伍長がそう言ったことがあった。それは、否定はできない。少し、ださいかもしれない。かっこつけすぎかもしれない。だが、守る志を体現したその名は、とてもかっこいいものだとディーは思うのだ。
そして『耐え忍ぶ槍』号は、オングルに住まう人々を守る力を確かに持っている。
敵を蹂躙し、侵略する技術においては劣っていると云わざるを得ない人類の兵器技術であるが、航宙技術に関しては人類が遥かに進んでいる。というより、外来種の技術が劣っているというべきか。
軽やかに重力の束縛から逃れ、星から星へと渡り歩く人類に対し、外来種の航宇宙技術といえば、まるで宇宙開発当初を思わせるような、爆発を起こして無理矢理に地表から飛び立ってのっそりと真空空間を進み、目的地の惑星には種子を打ち込むかの如く突き刺さるというだけだ。空間歪曲技術も亜光速航行技術もない力技で、よくもまぁこの程度の航法で星々を越えて侵略戦争を仕掛けてきたものだ。いや、その頑丈さゆえに、大砲のような遣り方で十分だったのかもしれない。
外来種の技術の根元についてはともかく、人類は航法技術のみに関してならば外来種に勝っていることは明らかなのだ。だが如何な高速機動艇でも、オングル周辺の外来種の猛攻を避けきることは難しい。ゆえに『耐え忍ぶ槍』号のような、機動性と頑強さを兼ね備えた、外来種の同程度の兵器に対抗できる、挺身部隊の乗る降下艇を運べるような規模の戦艦が必要なのだ。
それが『槍』号。『耐え忍ぶ槍』号。その名の冠する通りの投げ槍のような衝角を携えた、最新鋭の剛殻構造弩級航宙艦である。
「誰もがおまえみたいに単純だったら楽なんだけどな」とディーの言葉を聞いて、ワースリーが笑う。
馬鹿にされたようで、むっとしたディーに助け舟を出してくれたのは休憩室に入ってきたマッキルロイ一等兵だった。
「今回の任務は人助けなんですから、ディーさんの言ってることは立派でしょう」
と言った彼女は、ディーとそう年齢は変わらない若い女性であるが、しっかりとした意見を持った芯の強い人物だ。
立派ね、とワースリーはまた笑う。「立派で飯は食えんし、女にモテるわけじゃない。じゃなけりゃ、みんな立派になってるさ」それよりかは、おれにとって大事なのは惑星での歓迎だな、と彼は言った。
「歓迎?」
考えてもみろ、とワースリーはもったいぶって言う。「なぁ、おれたちは英雄だ。そうだろう? なんせ、百年も孤立したまんまだったオングルの住人を救い出すんだ。え、これが英雄じゃなくって、なんだっていうんだ。そりゃあもう」うへへ、女にはもてるってもんだろう、え、惑星にいる若い女なんか、え、興奮してキスしてくるかもしれないし、抱いてとせがんでもくるかもしれないぜ、と。
呆れた、とマッキルロイ一等兵は肩を竦める。「ねぇ、ディーさん?」
なに言ってやがる、とワースリー伍長。「おまえも楽しみだろう、ディー?」
いや、自分は、とディーは答える。「故郷に恋人がいますから………」
は、とワースリー伍長とマッキルロイ一等兵が同時に息の抜ける声を発した。
「おまえ、恋人いるのか?」
ようやくそう言ったのはワースリーだった。
「ええ、はい」ディーは正直に頷いた。「付き合って三年になります。この任務の間は、勿論会えてませんけど」
「おまえの脳内の恋人とかじゃないよな?」
「えっと……、写真、見ますか?」
ワースリーもマッキルロイも、あまりにも疑いの眼差しで見てくるため、ディーはいつも首にかけているロケットに入っている写真を見せることにした。
美人じゃねぇか、おい、という単刀直入な言葉が、写真を見てのワースリーの感想だった。
「なんだこりゃ、おい、色も白いし、髪も綺麗だし、なんだ、おい、このプラチナブロンドは、くそう、どっからどうみても、良いとこのお嬢さんじゃねぇか、ちくしょう。ありえねぇぞ」本当におまえの恋人なのか、とワースリーは鼻息荒く尋ねてくる。
「いちおう、まぁ。幼馴染なんですけど、最近になって再会して……。今は彼女、大学生です」
「隠し撮りとかじゃあ……」
「おれも一緒に写っている写真もありますけど………」
「ええい、くそう、信じられん。この気の抜けたような男が、くそう」おおい、ちょっと、みんな来てくれ、とワースリーが大声で言う。
すぐに挺身部隊の全員が休憩室に集められた。兵卒だけではなく、士官のハドソン少尉までいる。
ワースリーの口からディーの恋人の話を聞くと、彼らは口々に驚嘆の言葉を述べた。そして、ディーの肩を叩き、頭を小突き、その後は金銭の授受を始めた。何をやっているのかと思ったら、なんといつの間にか賭けをやっている者たちがいたらしい。ワースリーは賭けの元締めで、彼自身は賭けに参加していなかったらしいが、心の中ではディーに女がいないものと思っていたらしい。いったいいつ始まっていた賭けなのだろう。
マッキルロイ一等兵だけが唯一気落ちした様子で、それを上機嫌のワースリー伍長が慰めていた。あの気の落としようは、いったいなんなのだろう。まさか、真面目な彼女に限って、ディーに恋人がいる、いないという賭けに参加していたとでもいうのか。しかも気落ちしているということは、恋人がいない、というほうに賭けていたのか。
自分で言い出したこととはいえ、プライベートが一気に白日の下へと晒されてしまったので、恥ずかしさがあった。
だが悪い気はしなかった。みながディーのことを祝ってくれた。
なにより、みながディーの恋人、リリヤのことを可愛らしいと、美人だと、おまえには勿体無いと、そう褒めてくれたから。
「なに、にやにやしているんだ、おい、祝いの主役が、こんな隅っこで」
歌い踊る騒ぎを少し離れたソファで見ていたディーのところにやって来たのは、ワースリー伍長だった。
「いや……、じぶんは幸せだな、とそんなことを思いまして」
なに馬鹿なこと言ってやがる、とワースリーはディーの隣に座る。「幸せなのはおまえの頭だ。それで、だ。軍を辞めるのは、もしかして、その恋人のことが関係しているのか? 危険な仕事なんて辞めて、なんて泣かせることを言われただとか」
「そういうわけではないです」
とディーは首を振った。確かにリリヤは、ディーが危険な仕事に就くことを快く思ってはいない。だが彼女の養父は軍の高級将校であるため、リリヤも昨今の兵士については知っている。即ち、現在の軍人という職業が旧世紀と比べれば遥かに安全になっているということを。
兵卒といえど、昔と違い、現代では兵士が戦場に出る機会は少ない。遠隔操作によって兵器を操縦できるようになったからだ。自律機動する兵器が増えたからだ。姿を見せぬ外来種と白兵戦を行うことなどありえないからだ。
だがディーにとっては、それは一つの障害となっていた。危険が減ったということは、勇気を認められる機会も少なくなったということである。
ディーは勲章が欲しかった。恋人と結婚をするために。
『親愛なるリリヤへ』
ディーの祝いのパーティーも終わった作戦前夜、ディーはひとり、挺身部隊が惑星着陸に使う降下艇の中で、恋人への手紙を書いていた。
降下艇は通常状態で十二名まで乗員可能な、卵形の大気圏内飛行装置だ。これはかなり小型のほうで、大型のものになると数百人規模を一度に降下させることができ、また大気圏外まで自力で脱出する機構も備える。
長期の任務による心労を和らげるため、『耐え忍ぶ槍』号はディーのような末端の乗員に対しても、小さいながら個人の部屋を設けていた。だがディーはなぜだか手紙を書くとき、いつもこの降下艇に足が向いた。
ペンで紙に書く、昔ながらの手紙だ。ディーもリリヤも、この古い形式の手紙が好きだった。作戦終了まで手紙を渡すことはできないが、それでも思ったことをすべて彼女に伝えたくて、ディーは毎日手紙を書き溜めた。ほとんど日記に近い。
『今日は部隊の仲間たちに、きみのことを初めて話した。こんなことを書くと予想できるだろうけど、実を言うと、いままできみのことを話していなかったんだ。なんというか、言う機会がなくって。それでたまたまその機会があって言ってみたら、なぜか胴上げまでされてしまった』
なぜそうなったのかはわからないが、あれよあれよという間にディーは胴上げされた。仏陀のハドソン少尉も参加した。しぶしぶといった様子で、マッキルロイ一等兵も。
『前にも書いたと思うけれど、部隊の仲間はみんな気の良い人たちばかりだ。ワースリー伍長も、マッキルロイ一等兵も……、いつもは口をへの字にしてる神経質そうなハドソン少尉も、珍しく笑顔で、ちょっと怖かった。彼の影での渾名は仏陀なんだけれど、一生に三度しか見せない仏の顔が出てきたとみんな言っていた』
みんなが口々に祝いの言葉を投げかけてくれた。特にワースリー伍長は、軍を辞める理由をなかなか言い出さないディーに対しても、すぐに話を変えてくれ、親身になって話をしてくれた。
「ま、軍を辞める理由なんて、なんだって良いさ。挺身部隊は、なにせ命懸けだ。未亡人になっちゃあ、リリヤちゃんも可哀想だろう」
彼はそんなふうに、既にディーの恋人をちゃん付けで呼んでいるという有様だった。親身というか、気安いだけかもしれない。とはいえそんなことは書かない。
『彼らは、とても素晴らしい人たちだ。ぼくは、彼らと共にこの任務に携われることをとても嬉しく思っている。半年間続いた旅も、もうすぐ折り返し地点だ。これからが作戦の本番になる。いま、オングルの大地がどういう状態なのかは、まだ判っていない。簡単な任務にはならないと思う。それでもぼくは、みんな揃って帰還したいと思う。オングルの人々を全員助け、そして外来種を退けてきた正体不明の兵器を手にして』
それでディーよ、と宴会のとき、さらにワースリーは言っていた。
「今回の任務で、一年間以上もリリヤちゃんのことをほったらかしにするんだろう? その間、大丈夫なのか? あんなに可愛いんじゃ、悪い虫も寄ってくるだろうに」
その点については心配ない。というのは、リリヤの父親は厳格な軍人であり、彼女はその庇護下にあるからだ。彼はディーに対しても、その厳しさを大いに発現したわけだが、自分が任務に出ることになり、長時間彼女と会えないとなると、その厳格さがありがたい。
「向こうから寄って来なくても、リリヤちゃんのほうから浮気するかも、とかは思わないのか」とワースリーはにやにやしながら、からかう口調で言う。
「リリヤは大丈夫ですよ」
「騙される男は、みんなそういうふうに言うんだよ」
とワースリーは言うが、ディーは、リリヤが浮気をしない、と思っているわけではない。なにせ、短くて丸一年かかる任務中は会えないうえに、本土にはディーより良い男など、佃煮にするほどいる。だからリリヤがディー以外の男性に心惹かれても、それは仕方がないことだと思う。
だが彼女は任務に向かうディーに対して言ったのだ。
「わたし、待ってるから。ずっと、ずっと待ってるから、だから無事に帰ってきてね」
彼女はそう言った。言ったのだ。そう言ったからには、きっとディーのことを待っている。
それは重力の存在と同じく、ディーの世界を構成する物理法則のようなものだ。
昔から、華奢な見た目に反して芯が強く、一度自分から言い出したことは決して曲げないのだ。だからもし、本土でディーより素敵な男性と巡り合ったとしても、まずディーの帰還を待ち、別れを告げ、それからその男と付き合おうとするだろう。だからディーは、リリヤが己を想う心を信じているのではない。リリヤそのものを信じているのだ。
「それはそれは。大層なこった。で、おまえ、リリヤちゃんとはどこまでいったんだ?」
三年も付き合ってるんだ、え、もしかしてもう子どもでも腹ん中にいるんじゃないか、と。
そんなはずもなかった。
婚前交渉など、教会で育ったディーにはもっての外の行為だった。それに、ディーはリリヤとの交際を彼女の父母に認められているわけではない。
ディーもリリヤも孤児だった。子どもの頃ににリリヤは引き取られたが、ディーは引き取られることなく、教会で厳格に躾けられた。
三年前、街で久しぶりに会ったリリヤは見違えていた。何処から見ても間違いなく、れっきとした令嬢となっていた。ディーは一目で恋をし、またリリヤのほうもディーのことを覚えてくれていて、好意を持ってくれた。好き合った。しかし彼女との隔たりはあまりにも大きかった。片や、軍の高級将校の令嬢。片や、軍の一兵卒。
「大丈夫」とリリヤは言ってくれた。「わたしがお父さんのこと、説得するから」だから、ね、ディー、結婚しましょう、と。
彼女の養父がディーに課した条件は厳しいものだった。軍で一定以上の功績を挙げ、勲章を得ること。
勲章にもいろいろある。軍規に背かずに長く勤めるだけで得られる勲章もあれば、軍の中で数人しか得られないような勲章もある。リリヤの養父は、少なくとも歴とした軍績によって得られる勲章でなければ、ディーとリリヤの結婚は認めない、と言った。
一兵卒のディーが、この宇宙戦争の時代に勲章を挙げる機会は多くはない。理由は簡単で、その機会が無いからだ。危険が無いからだ。降り注ぐ矢を槍で薙ぎ払う必要が無いからだ。危険を前にして、それ見よわが勇気とばかりに力を誇示することができないからだ。
遠隔操作と自律機動の兵器がほとんどという現在、戦場に立つリスクを冒す兵はほとんどいない。リスクが無ければ、誰しも大胆でいられる。そうした勇気の要らぬ環境で力を発揮するのは、力を振るう権限を持っている人間だ。それはつまり将校であり、兵卒ではない。兵卒のディーが手柄を立てるためには、それこそこの挺身部隊のような、直接戦うわけではないものの、自ら戦地に向かうような部隊に配属されていなければならない。
そして此度のオングルにおける救助作戦は、勲章を受ける絶好の機会であった。
(そうだ、この作戦で手柄を立てて………)
リリヤの義父に認めてもらい、結婚をするのだ。
そして勲章を受け取ったら、もう軍隊は辞める。
「辞めて、それでどうするんだ?」
というのは、ワースリー伍長に尋ねられた言葉だ。
「それはまだ、わかりませんが………」
いまは、リリヤと幸せな家庭を築きたい。仕事は、何でも良い。
「自分は孤児で、軍隊しかないと思っていましたが……、改めて他に、何か自分に合った、出来ることがあるのではないか、と思って………」
孤児であり、何の後ろ盾も無かったディーにとって、軍隊へ進むのは当然の決断だったと思う。孤児院を出たのは四年前、十六歳のときのことだ。自分を育ててくれた教会に恩返しをしたかった。兎に角、余裕が無かった。ただ人並み以上の体力しか取り得の無いディーにとっては、軍隊しかない。そう思っていたのだ。だが、そうではないのかもしれない、と思った。
「それは、苦労するぞ」ワースリーが即座に言った。「能力を正しく評価されて、その能力に合った仕事に就く、というのはな」
てっきり励ましの言葉をかけてくれるものだと予想していたディーは驚いた。ワースリーの表情は、いつもの朗らかな態度とは大きく異なる、まるで作戦中のような真面目な様子である。彼の言葉は、ディーの倍以上の年齢を生き、現在は同じ軍隊に所属し、オングルなどという危険な場所を目指そうとする男としての助言なのかもしれない。
「なぁ、軍隊なんて楽なもんだ。なにせ、戦っているって大義名分がある。おれたちゃ、挺身部隊だ。下っ端だが、命賭けてる。それだけで良いんだからな。だが、仕事に就くとなれば、どうだ。命を賭けているわけじゃあないから、危険はない。やっているのは、戦争じゃない。代わりにあるのは、競争だ。戦争なら、将校どもはともかく、兵卒の間じゃあ助け合える。じゃなければ、生き残れないからな。だが競争をしている社会や会社ってところじゃあ、そうはいかん。潰し合いだ。学校だのとは全然違う。社会じゃあ、他の奴らを全部倒せば、勝ちなんだ。産まれたときから、ずっと上へ上へ、そうして生きていかなきゃあならないんだ。でなければ、競争に負けて終わっちまうんだ。負けても死ぬわけじゃない。それなのに相手を蹴落とせるやつらが、のし上がっていくんだ」
おまえはそういうのは、向いてないよ。
ワースリー伍長の真摯な言葉を受けて、ディーに返す言葉はなかった。
こんなときにこんなことを言って、悪かったな。黙り込んでしまったディーに対し、ワースリーはそう言って休憩室を去っていったのを覚えている。
確かに、彼の言うことは正しいかもしれない。他人を押し退けなければ、生きていけないのかもしれない。良い人ばかりで、給料も良くて、本土の恋人に会える機会が少ないのは辛いけれど、軍隊のほうが、まだしも居心地が良い場所なのかもしれない。
だがディーの、軍を辞めるという決意は揺らがなかった。
本土の恋人へ向けた恋文を締め括る。
『この任務を終えれば、きっと勲章も貰えると思う。そうすれば、きっときみのお父さんも認めてくれるはずだ。そうしたら、結婚しよう。待っていてくれ、リリヤ。きみのディーより』
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