第4話 ディー

 白は雪。青は氷。黒は空で、白は星。赤も紫も星の色。紫も星。そして赤は炎と血で、黒は折れた槍。

 冷たく凍った多種多様な色の中で、白い雪原の中に置かれた、くすんだ緑色の薄い直方体の物体は、どれとも違っていた。既に凍りつつあるそれは、ディーが捨てた聖書。


「行かなければ」

 言葉とともに吐き出した吐息が凍りつく。


 もともと、ここまで寒い場所に降りるつもりではなかったとはいえ、相応に冷える冬の南緯四〇度帯へ救助へと向かうつもりだったため、寒冷地に適したサバイバルウェアを着ており、おかげで雪の上に座り込んでも、身体が濡れるということはない。そう簡単に冷気も通さない。

 だが防寒も完全ではない。温度差のある物体に触れていれば、熱は移動するのが物理法則で支配された冷たい世界の常識だ。

 膝も、指も、頭も心も腹の下も、身体のあらゆる場所が冷え切っている。熱いのは無くなった腕だけだ。傷口ではない。切れた右腕の、その先が熱く傷むのだ。

 ディーの右腕、肘から先は、もはや無い。雪と鉄の中に置いて来た。酷い傷であったが、予めきつく脇の辺りや肘を結んでおいたのと、サバイバルキットの中に入っていた止血テープのおかげで、出血自体は既に止まっていた。痛み止めも効いている。

 それでも、腕が無くなって、身体は軽くなったはずなのに、むしろ酷く重く、辛かった。痛み止めが効いているはずなのに、あるはずのない場所から痛みを感じた。泣きそうになった。抑えきれずに、泣いた。胸がむかむかしてきて、もう既に二度吐いたというのに、もう一度嘔吐した。さらにもう一度。その頃には、もう嗚咽以外に出るのは凍った涙のみ。


「ここでじっとしていれば、誰かが助けてくれるかもしれない」


 そんな甘い考えもないではなかった。暗いうちはじっとしていて、明るくなるのを待つべきだという考えを肯定するのは容易いことである。ああ、容易い。仰げば闇、天に月。今は夜なのだ。明かり少なく、空も冷たい時間帯に夜歩く理由が、どこにあろう。そんなふうに自分を誤魔化すのは簡単なことなのだ。

 だがそれは楽して死ぬための偽りでしかない。


「ここに居たら、死ぬ」


 確かにいまは夜だ。確かに待てば朝は来る。確かに明けない夜は無い。

 だがここはオングルなのだ。オングルの夜なのだ。

 そして落着時の衝撃で時計が壊れていなければ、今はオングルの夜が始まったばかりなのだ。

 オングルの自転周期は約一六○時間。いま生き残っている人間がどうしているのかは知らないが、過去の記録ではその長い自転周期を、二十五時間ごとに六つに区切り、それを一日としていたらしい。一日の単位が違うのだ。本土ふうにいうと、昼が三日続き、夜が三日続く。

 そしてディーがいるこの『耐え忍ぶ槍』号落着地点付近は、まだ夜が始まったばかり。朝を待つには、三日は待たなくてはいけないのだ。

 食料や燃料は、サバイバルキットに入っているぶんを節約すれば、三日くらいなら耐えられるだろう。この場所は、砕けた降下艇や『耐え忍ぶ槍』号の破片のために、風や雪を避けるには事欠かない。だが朝を待ったとしても、生き残る道は無い。この無くなった腕が有るからだ。

 今は痛み止めが効いているが、薬が切れれば、無くなった腕の痛みが暴れまわるだろう。薬の残量は、もって三日。朝日がやって来た頃には、薬も切れている。そうなったら、移動どころではない。これから先、痛みが増し、投薬量が増える可能性も有るのだから、悠長なことは言っていられない。


 だから、前へ進まなければならない。


 ディーは雑嚢を降ろして中の荷物を整理した。ここから先は、持っていく物を取捨選択していく必要がある。少しでも、荷は軽くしなければならない。たいした量ではないため、手早く物資を選り分ける。。

 最後まで迷ったのが、これからの行程で最も不必要であり、おそらく最も頼りになる物の一つであろう物、聖書であった。

 ディーは孤児院でもあった教会で育った。敬虔といえるほどではないが、基督教徒だ。聖書を携えているというのは、心強く感じもするが、同時に根拠の無い安心感を抱いてしまいそうで、恐ろしくもある。ディーが居るのは、極寒の大地なのだ。心を穏やかに保っては、きっと何処へも行けない。死にたくないと、ひたすらにそう念じなければいけないのだ。そのためには、心の安寧は邪魔でしかない。

 そしてディーは、聖書を捨てた。耐久性を考慮して紙に印刷された聖書だったが、ディーはその数頁だけを破りとってポケットに入れると、後は不要な物資と同じように地面に置き、隻腕で十字を切る。

 われながら鼻につくほどに、なんと芝居がかった仕草だろう。

 だがどんなに芝居がかっていても、この場では死ねない、死なない、と己に言い聞かせるためには必要な動作であった。

 幸い、澄んだ空気と高い反射率アルベドの雪原、そして二つの月によって、太陽が見えなくとも辺りは明るい。今が冬の終わりの季節であり、一週一六〇時間のすべてが闇夜に包まれる極夜の時期ではないのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。

(目指すは、デポだ)

 幾ら空が明るくても、凍える闇夜を歩き回るのは得策とは言えない。だがデポまで、デポまで何とか辿り着ければ、生き残る道が開ける。

 デポとは物資の集積場のことだ。食料や燃料のみならず、薬や車両、燃料が残っている可能性もある。デポを残したのは、過去にこの惑星を探索した探検家たちである。彼らは自分が探検に失敗したときや後世の探検家のために、探検隊が帰還するときに物資を残していったのだという。

 探検家たちがこの惑星を探索したのは、外来種との戦争が始まる以前のことで、既に朽ちてしまっているかもしれないし、惑星に取り残された住民や野生動物に荒らされてしまった可能性もある。だが、この凍えるほどに冷たい世界ならば、あるいはデポの物資が未だ保存状態も良く残されているのではないかと思わずにはいられない。

 時刻と月の位置から現在の正確な緯度と経度を計算し、記録にある最も近いデポまでの距離を見積もる。およそ十キロメートル。たった十キロメートルだ。地形が良ければ、一時間とかからずに走りきることも可能な距離だ。


 だが冷たい空気と雪道の行程は、片腕を失ったディーにとっては余りにも酷なものであった。歩いているうちに手先が、指先が、痺れるほどに冷えてくる。この場に倒れ伏して、そのまま動きたくなくなる。でなくても、雪道は足元が覚束ないのだ。先行きが危ういのだ。通常なら一時間程度の距離でさえ、二倍、三倍どころか十倍以上の時間さえかかりそうなのだ。

 小高い雪の丘から平原を見下ろし、ディーはそれでも歩き出す。足が縺れて、転ぶ。受身を取ることも、手をつくこともできずに真正面から斜面に転げたディーは、そのままごろごろと斜面の下まで転がった。

 ようやく回転の止まった身体は、しかしすぐには起こすことはできなかった。疲労と極寒も理由の一つだったが、それ以上に夜空と景色の美しさが心を打った。

 もしここが焼け付く太陽に照らされた灼熱の大地であれば、もっと心は沸き立っていたに違いない。死んで堪るかとばかりに奮闘できたに違いない。だがある種の優しささえ感じさせるこの闇夜は、冷気は、凍りついた大地は、ただ一人で歩き続けなければならないディーにとっては、あまりに寛大過ぎた。

 それでもディーは歩ききった。苦痛に耐え、誘惑に耐え、歩ききった。

 だというのに、その仕打ちがこれか。


「ない」


 デポにはディーが求める物は、何も存在していなかった。

 物がないのに、何故そこがデポだと判ったか、場所を間違えたと思わなかったかといえば、デポの痕跡たる赤々とした旗が立っていたからだ。吹き付ける風の中でも凍ることのない旗と積み重なった集積コンテナが有ったからだ。必要な物は何一つとして無いのに、不要な物だけがあったからだ。

 凹んだコンテナの中身は、風に攫われてか、あるいは野生動物に荒らされてか、でなければ現地住民に回収されたのであろう、何も残されていなかった。デポには幾つものコンテナが有ったが、全て同じだった。

 こうなる可能性があろうことは解っていた。何せ、数百年以上昔の物資だ。その中身が無くなっていてもおかしくはない。予め己にそう言い聞かせていたため、デポの跡が見えたときも、喜んで駆け出したりはしなかった。肩を落としてしゃがみこむことはなかった。まだ前を向いて歩けた。

 ディーはまた歩き出したのだ。このデポは駄目でも、次のデポがある。次が駄目でも、次の次が。そう信じて。

 だが二つ目のデポにも、三つ目のデポにも、何も残されていなければ、膝から力が抜ける。出血は止まっても、血が流れ出たという事実には変わりなく、零下の中を歩き回ったこととで、既に足先の感覚は無かった。崩れ落ちて雪に頬を押し付けてから、己が身体がもはや動かなくなっており、前へも後ろへも立ち行かなくなっていることに気付いた。

 汗をかけば、水分が蒸発して熱を奪う。この極寒の地で、体温を下げることほど愚かなことはない。だから、急がず、焦らず、ゆっくり、しかし着実に進んできた。無駄な動きもしないように心がけてきた。だが、もう限界だ。


 もう厭だ。


 こんな、こんな………。


 ディーは伏したまま、何度も何度も残った手で地面を叩いた。柔らかくも硬くも無い雪面は、拳を受けて僅かに凹む。それだけだ。吹雪いてくれば、この痕跡とてすぐに消えてしまうだろう。ディーが生きてきた証、もがいた軌跡。

「リリヤ」

 リリヤ、リリヤ。

 助けてくれ、リリヤ。ディーは呟きながら、デポに残された凹んだコンテナの中へと這いずった。中にも雪は入り込んでいたが、それでも風が当たらないだけ、まだましだと感じた。


 絶望の中、コンテナの影で何やら白いものが蠢いているのを見た。大型犬ほどの大きさで、しかし毛がとても短い、見た目はやはり犬に似た愛嬌のある顔立ちの生物。耳は見えず、魚のような尾と鰭を持っている、その円らな瞳を向けてくる生き物が、オングルへの航海の間に、暇を持て余してその星となりを調べていたときに見た生き物、蟹喰海豹カニクイアザラシであるとは、すぐには気づかなかった。

 蟹喰海豹は昼間は氷上で過ごし、夜になると食料を探しに海へ行く、という説明を『耐え忍ぶ槍』号の動物好きの隊員から聞いたような覚えがある。もっともそれは本土での観察例だ。惑星半径から自転速度まで、何から何まで本土とは違うオングルでは、その説明は当て嵌まらないだろう。蟹喰い海豹は、元々は本土の生物であった。生物の生存可能な環境が整っていながら、ほとんど生物らしい生物がいないオングルに放たれたのだ。オングルには、他にも数多くの本土を由来とする生物がいる。

 黒く大きな瞳と対峙したまま、ディーはその傍へと這って進んだ。野生動物の警戒心は何処へやら、呆気無く、海豹の傍まで近寄ることができた。警戒心が強いと聞いているが、雪塗れのディーを仲間だとでも思ったのだろうか。それとも珍しい生き物がいると思って、逞しい好奇心を発揮しているのだろうか。


 ただ一つきりとなった腕を高く掲げて握り拳を作り、丸い頭にそれを打ち降ろす。


 その一瞬、海豹は避けようとする動作をしたかもしれないが、しかし陸地での動きはあまりに鈍重であった。頭蓋骨が砕けて眼球が飛び出る。小さな口からは微量の血が吐き出される。吐き出された血は、むわんと湯気を放つ。

 死んだ海豹の尻の穴に腕を突っ込む。温かい。腹の中の臓器、おそらく腸の内壁であろう柔らかな部分を掴んで、デポのコンテナ内壁に叩きつける。何度も何度も叩きつければ、脂肪で包まれた腹が破け、中から血と臓器が飛び出した。

 熱気を放つその腹の中に、ディーは顔を突っ込む。血で真っ赤に染まる。生臭い。が、温かい。生命の熱さだ。


 その日、ディーはコンテナの陰に隠れて風雪を凌ぎ、殺した海豹を食った。雑嚢に入れておいた燃料と海豹の脂肪とで、暖をとることもできた。

 寒かった。辛かった。しかしそれ以上に、こんなに情けない姿を晒して、あんなに可愛らしい生き物を殺してまで生きたいと思う。己のその浅ましさが心に痛かった。

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