2.『シングルマザー』を選んだ友達の話。


 ざっと離婚のリスクについて考えたところで、私の友達の話をしたいと思う。のちに『シングルマザー』になることを選んだ友達の話だ。

 その子とは中学校で友達になった。

 きっかけはよく憶えていないが、とてもマイペースな子で、絵を描くのが好きだった。授業も在席はしているがほとんどの時間絵を描いていたように思う。そういうマイペースな子だったので、一年生当時いじめにあい孤立しがちだった私と、クラスで浮いている、という状況は同じだったかもしれない。

 本当に絵ばかり描いていたので、数学の授業で配られたプリントを授業時間内に解いて提出しなくてはならない、というときにはよく彼女に声をかけては提出を促した憶えがある。

 学校だけでなく、私達はお互いの家に行って遊ぶ仲でもあった。

 そんな彼女との縁は、中学校を卒業して以降、ほそぼそと続いた。

 私は行きたくはないが高校へ進学することになり、勉強をしなければならず忙しかった。

 彼女がどうしたのかは、どうしていたのかは、よく憶えていない。けれど、やはりマイペースさを崩すことなく、彼女は彼女のままで中学校を卒業していたように思う。

 一年以上連絡を取っていなかったのに急に連絡が来て遊ぶことになったり、毎年年賀状だけはお手製の絵のものをくれたり…。時折久しぶりに遊ぼうとなったときには、お互い近状を話したものだ。



 そんなほそぼそとした交流で、いつものように彼女から急に連絡が来た。そのときの私はバイトをしており、それなりに忙しかったが、久しぶりの連絡だ。日程を調整して会おうということになった。

 私達が会うときはたいていどちらかの家ということが多いのだが、今回は『駅の飲み屋でご飯でも食べながら話そう』と言われた。私は驚いたが、そういうのもたまにはいいかもしれないと思い、承諾した。

 名古屋駅の裏側、表通りではない方の、夜に賑わう店が色々と並ぶ通り道。駅からすぐの場所にカラオケや居酒屋、マッサージその他のお店がたくさん入っているビルがあり、そこに彼女おすすめの居酒屋があるらしい。

 私は、バイトをし始めたけれど、趣味もある。お金はゲームや漫画に毎月のように消えていく。そのことを考えれば居酒屋で飲み食いするようなお金がなくて、このとき、初めてまともに居酒屋という空間に足を踏み入れた。

 久しぶりに会った彼女は変わっていなかった。ちょっとふくよかな身体からだつきのままだ。

 彼女は店の予約もしてくれていたようで、小さいながらも隣の席と仕切りのある個室に案内された。

 大きめの広間でもあるのか、宴会、のような社会人の集まりの声が響いていたのを憶えている。

 私と彼女は何を注文しようかとメニューをめくって……そのとき、私は気付いた。彼女の左手の薬指。そこに控えめながら指輪がある、ということに。

 だから、今回居酒屋で飲みながら話そうと言ってきたのは、きっとこの話のためなんだろうな、と思ったことを憶えている。


 注文し、飲みながら、まずは軽く近状の話をする。

 前にいつ会っただとか、それからこうしてたとかああしてたとか、今はどこどこでバイトをしているだとか…。そして、話題は彼女の薬指の、指輪のことになる。

 祝いの席。そんな気はしていた。そして彼女からは、その言葉を聞けた。『結婚するかもしれない』、と。

 私は素直に『おめでとう』を伝えた。

 彼女も私と同じで紆余曲折した人生を歩んでいる。少々マイペースすぎて自分勝手なところはあるものの、そんな彼女でも相手を見つけることができたのだ。ならきっと私にだってそのうちに、なんて思いながら、彼女のことを祝福した。

 その相手とはオンラインゲームのオフ会で知り合ったらしい。

 彼女は私と同じでオンゲも嗜む人間だ。というか、彼女の方が私よりいいパソコンで、先に色々なものをしていた。だから私は彼女の家に行くとそのゲームを見せてもらい、いいなぁやりたいなぁ、とよく思ったものだ。

 オンゲ事情で私よりも先を行っている彼女は、積極的にオフ会にも参加していた。そして、そこで彼と出会い、意気投合したのだそうだ。

 オフ会というのは未経験だった私にはその場面というのはよく想像できなかったが、ともあれ、いいニュースだ。すでにお腹に赤ちゃんがいるというのはちょっと、微妙な気持ちになったものの、ずっと子供が欲しかったんだ、と笑って話す彼女を見ていると、このまま結婚して子供を産んで、お母さんになるんだろうな、と微笑ましくもなったものだ。

 人並みとは言いがたかった彼女が得る人並みの幸せ。その幸福をひっそりと願った。

 祝いの席だ。酒を飲んで、おいしいものを食べて、祝う。初めてともいえる居酒屋で、いい時間を過ごせた。まぁ、会計のときに値段を聞いてびっくりしたこともまだ記憶しているくらい衝撃を受けたものだが。

 そんないい時間を過ごし、その夜はそこで彼女と別れた。帰る方面がまた別だったので、帰り道は一緒に帰れなかったが、家に帰るまで、なんだか私まで気分が良かったことを憶えている。



 居酒屋での夜から一ヶ月か、二ヶ月かたったある日、であったと思う。また彼女と会うことになった。今度の待ち合わせは彼女の家だ。

 築三十年にもなってくると、ガタの出てくる家が多くなる。彼女の家は狭くて物が溢れている家だったが、そういうところはうちも変わらないので、別に嫌ではなかった。

 そのつもりで家を訪れて、私は驚いた。久しぶりに訪れた彼女の家は真新しく立派な家に建て替えられていたのだ。きれいで、新しい家に。

 彼女の両親と祖父母は健在だ。家族が住み続けるには、そろそろ限界だと判断したのかもしれない。

 家を建て替える。それはとても羨ましい話だった。お金のないうちには逆立ちしたって無理だし、夢、と言っても過言ではないほどに、遠い話だったから。

 新しい家。そして、家には珍しい海外の大きな猫がいた。人懐こい性格ではなかったので抱っこなどはできなかったが、中型犬より少し小さいくらいの、本当に大きな猫だった。

 お邪魔させてもらって上がった家は、新しいもので溢れていた。

 新しいソファ。新しい台所。新しい大きなテレビ。新しいカーテン。そのとき初めて見た、床を掃除するルンバ。

 以前の家では彼女の部屋というのがなかったので居間でゲームしながら遊んでいたものだが、新しくなった家には彼女の部屋もあった。そこでお菓子を食べジュースを飲みながら話をした。彼女の部屋にはやはり新しい大きなパソコンがあり、今やっているオンゲなどを見せてもらったり、これをやるにはこれくらいのスペックのパソコンがいる~、的な話をしたり…。

 そこで、私は気になって、彼の話をしてみた。

 結婚するかもと言っていた。その後、何か話の進展はあったのだろうか、と。

 彼女は言った。『結婚しないと思う』と。

 私は一瞬耳を疑った。そして、喧嘩か何かがあったのかもしれないと思い、尋ねてみた。『何かあったの?』と。しかし、彼女は何もないのだと言う。喧嘩をしたとか、大きな価値観の違いを感じたとか、結婚するお金がないとか、そういう理由で結婚しないと決めたんじゃないのだと。

 彼女は詳しくは話してくれなかったが、耳に残っているのは、『鬱陶しいんだよね』という言葉だ。彼のことを鬱陶しいと言って顔を顰める彼女のこと。そして、そんな理由で、彼女は彼と結婚しないことにしたという。

 別に、当人達だけの話なら、好きにやってくれればいい、となるのだが。今回は違う。そうじゃない。彼女のお腹の中にはすでに『子供』がいるのだ。その事実は取り消しようがない。


 私は尋ねた。じゃあ子供はどうするの、と。

 彼女は言った。子供は欲しいから産むよ、と。

 でも、結婚はしない。相手の男は、父親は、いらない。

 誰の子でもいい。『子供』がいればいい。私にはそう言っているように感じられた。


 正直、予想もしていなかった展開に、目眩を覚えた。

 心根の話をしてくれていたかは分からないが、『結婚しない』と彼女は決めた。

 相手方、父親となる彼は、子供ができたことも知っている。結婚するつもりでいたという。でも、彼女は結婚しないと相手を突き飛ばした。何度か相手と話し合ったらしいのだが、その意思は変わらなかった。

 だから、彼は折れた。

 子供の養育費は支払わないよ、と言ったのだそうだ。この話の流れを見れば当然だと思う。簡単に言えば、男の彼は彼女に捨てられたのだから。そしてそのことを彼女も承諾し、彼との関係は途切れた。

 彼女は言った。一人で育てていくつもりだと。家にいながら働けばなんとかなるだろう、と。

 そして、こう訊かれた。『父親がいないと大変かな?』と、母子家庭で父親のいなかった私に、参考までに、という感じで。

 ……このときの私の気持ちを、胸のうちを、どう表せば適切だろうかと今も思う。

 まずは、怒り。身勝手に彼を捨て、欲しいから子供は産む、という彼女のその身勝手さへの憤り。そして、その楽観的で自分勝手な考え方への、哀しみ。

 彼女は知らない。母子家庭というのがどれだけお金がなく、切羽詰まった毎日を送るのかを。何せ、彼女は両親祖父母が健在する家で育ち、その家は建て替えができるほどにはお金がある。趣味であるパソコンやその周辺機器、漫画やアニメにしか興味のない彼女のことだ。そういった生活にかかってくるお金のことなどきっと何も知らない。

 そして彼女は子供を産んで自分が働きに出たとして、その間家にいる者が子供の世話をしてくれることを前提として考えている、その甘え。身勝手さ。

 何よりも、彼女の身勝手な理由で『父親のいない家庭に産まれてくる子供』のことを思うと、私は悲しくて仕方がなかった。

 この家に生まれて、一体どんな目で彼女の以外の家族に見つめられ、どんなふうに育つのか。心配でならなかった。

 マイペースを通り越して身勝手な彼女が、相手の彼をいらないと言ったように、『子供なんていらない』と、育児放棄しないかどうか。ありえそうなその未来が一番心配で、こわかった。



 その日以来、私は彼女と連絡を取っていない。

 一度か二度、年賀状が届いたと思う。『子供が産まれたから顔を見に来てよ』というようなことが手書きの字で書かれていたように思うが、一言あけましておめでとうのメールを返したくらいで、会いには行っていない。

 …一体どんな顔をすればいいのか分からない。最悪、子供を見たら泣き出してしまいそうで、とても行く気にはなれなかった。

 かわいそうに。

 心からそう思う。

 親の身勝手で、父親のいない家庭に産まれてくることになった子供。性別は女の子だと聞いた。逆境を跳ね除ける力のある男の子だったらよかったのに、と思ったことを憶えている。

 今、名前も知らないあの子はいくつになったのだろう。

 私はあのとき怒るべきだったろうか、と時折考える。彼女と友達でなくなるくらいに壮絶な喧嘩を、喧嘩というよりは彼女のしてきたことをちゃんと怒って、そうして別れるべきだったろうか、と。

 人の言うことなど聞かない彼女だ。私が怒ったところで何かが変わったとは思えない。

 それでも、自分がしてきたことがどれだけ人に迷惑をかけているかということを知るべきじゃなかったろうか。私はそれを教えるべきではなかったろうか。

 私は他人のことを考える人間に育ったあまり、他人のことを怒れない。怒られたらどういう気持ちになるかということまで想像してしまうからだ。そして、その現実を思い、そっと口を閉ざすのだ。

 ………産まれてくる、子供のために。彼女の友達である私にできたことが、あったろうか。

 母親の身勝手で父親のいない生を受けた子供。女の子。その境遇を、これからの未来を思うと、私は泣けて仕方がない。

 かわいそうに。かわいそうに。かわいそうに。

 産まれてくる場所を選べたら。自分の親を選べたら。きっと子供はここにはこない。


 今も、私は彼女と連絡を取っていない。SkypeのIDくらいは知っているが、話しかけたこともない。

 今でも、彼女には憤りを、怒りを感じている。

 その甘えと身勝手さ。その余波を一番に受けたかわいそうな子供。

 自分の勝手から『シングルマザー』となることを選んだ、彼女の道を、私はきっと、ずっと許すことはできない。



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